全中奮戦の記録
  (2003年第40回全国中学スキー大会 山形・米沢


全国中学..            
4年前、家族で応援に行ったと
き、まさか現実の話になるなんて、カケラも思っていなかった。    
それが、現実のものとなったとき、期待よりも戸惑いがあったと思う。ここまで来たら、どこまでやれるかやってみようじゃないか!前例がないって事は、まったくの白紙なんだから..こんな開き直りで臨んだ親子の奮戦記である。       

 中体連とは、スキー連盟とは異なる中学校競技界の全国組織である。またこの大会は唯一の、正式な全国大会でもある。       
地元の中学校がつくってくれた幟
  1本目を終えゲートへ向かう
秘めたるは、満足感か安心感か
○英才教育化が進む競技の中で
 長野五輪で活躍し、再び復活の兆しを見せるスキージャンプの世界だが、競技の特殊性ゆえに競技を行う子ども達は減っている。世界に取り残されないために、中学生ともなれば練習量が格段に増えるのはもちろん、成人選手の大会に出場したりヨーロッパに強化のための派遣も行うようになる。

 そのような中で、和大は時間がかかっても北海道や長野の選手を追っていこう、と決意していた。2月には全国中学スキー選手権大会が山形、米沢で開かれるが、出場するにはスキー部に在籍していることが条件である。しかし、東京の学校ではスキー部があってもジャンプ競技には対応できない。しかも、この大会は予選を勝ち抜いた代表のみが集まるので、本人も「実力的にも、まだ勝負にならない」と感じていた。結局、和大は陸上部に入り、ジャンプのトレーニングを兼ねることにした。そして、当面の間、個人として技術を磨くこととなった。

 予想通り、技術の向上はゆっくりであったものの、ミディアムへの移行もうまくこなした。
 11月になり、秋田で念願のノーマルヒル(国体や五輪で使う大きさ)に挑戦した。スタートで、その高さに体がこわばったものの、思いきって踏みきることができた。本人はもちろん、両親にとってもジャンプを始めた頃には想像もできない光景だった。

 この時、偶然にも親も本人も気づかぬ出会いがあった。全中の事務局である尾形先生の目にとまったのだ。
 すぐに山形の事務局より、東京都の中体連に照会があった。
「東京にもジャンプの選手がいる。出場させてやれないものか?」
 しかし、東京都からのジャンプ競技の出場の前例はない。まして、スキー部に在籍していないので学校からの要請もない。このような状況では、東京都の中体連では協議することも難しかった。たとえ協議されたとしても、監督、コーチの人選、要請、予選会の実施の有無..と現実には遠い道のりだったのだ。

 今年度の出場は殆どあきらめていた頃、冬休みに北海道の大会に出場した際、和大は長南広基氏に言葉をかけられる。
「最下位でもいいんだ。東京から選手が出ることに意義がある。あきらめずに頑張りなさい。」
この言葉に、和大は「いつの日か、東京の子どもでもこれだけできるんだ、と見てもらいたい」と思った。
○全中出場決定
 「東京都代表として出場を認める」という知らせは、あまりにも突然に届けられた。本人はもちろん周囲の誰もが驚いた。各県代表がエントリー期限、1週間前のことだった。年末になって、和大の通う桐朋中学・高校のスキー部の顧問の先生、そして校長先生までもが出場に向けて動き出してくれたのだ。
 和大は「自分の力を100%以上出したい」と燃えたが、父は正直言ってどこまで通じるか、また、早すぎるチャンスがプレッシャーにならないか、と不安も感じていた。

 フリートレーニングが始まる大会3日前に、父子2人で米沢に向け出発した。見送る者は家族だけだったが、それで十分だった。
 だが、現地での雰囲気は今までの大会とは違った。
 誰もがこの大会に目標を定め、県の代表なのだ。そこでは、「東京の選手」という生い立ちは関係ない。
 ただでさえ選手とコーチ2人きりの参加で心細かったが、出場するからには雰囲気に流されることなく力を出せるようにしなければならない。そんな緊張感の中、最初に笑顔で声をかけてくれたのが、かの秋元正博氏であった。また、国体の鉄人・清水久之氏も和大にさりげなくアドバイスしてくれた。そして、強力にプッシュしてくれた長南広基氏が技術代表であることを知って驚かされた。
 なかなか40mに届かなかった和大が、前日練習で45mをマークしたときには、「うまく良いジャンプができれば、あるいは..」といくぶん心に余裕もできたが、あとは当人のモチベーションに期待するしかない。

 2月4日の開会式、東京都選手団が入場すると「東京都では本大会で初めてジャンプ選手が誕生しました。その記録が新たな歴史の1ページとして開かれます。」というアナウンスが流れた。この言葉に両親は胸にこみあげるものがあった。初めて下川に飛び込んだ日、初めての大会の時の緊張感や蘇った。
○大会には魔物が棲む?
 この言葉を生まれて初めて実感した。
 我が子ではなく、大会に臨んだトップクラスの選手達である。大会の条件としてはまずまずだったのだが、和大が普段足下にも及ばない技術を持った選手が、信じられないほど動きが固くなっていた。練習とは別人のように飛距離が伸びない。
 和大は、この大会をめざして練習してきたわけではなく、他の選手のようなプレッシャーはないはずなのだが、緊張感は公平だ。トライアルで40mを越すことはできなかった。

 「この大会でうまくなろう!」親子で決めた目標だ。シーズン初めの北海道の大会では最下位に近い成績であったが、ほんの少し開眼するものがあればよい。だが、頭ではわかっていても、体が動くかどうか、まさに一発勝負。 
 「かずひろ〜!!」怒号のような渋谷先生の檄が飛ぶ中、1本目、44mを飛び、30位台後半につけることができた。練習の時、1本だけ見せたビックリジャンプ!さすがに2本続ける力はなかったが、この1本で、どれほど気持ちが楽になったか..。
 「大きなジャンプをすると、今まで話したことのない選手が話しかけてくるんです。今まで思ったことのない、僕も負けないぞ、という気持ちが膨らんできました。」
 結果は73名出場中、47位。まだ1年生、ましてや東京の子であることを考えれば上々の成績であった。30位以内に入ればジュニアオリンピックの出場権を得るが、決して届かない夢ではなくなってきた。
 会場全体が、選手が飛ぶごとに何とも言えない緊迫感に包まれる。こんな中、北海道の代表はさすがである。

 和大とはジャンプ同期生、下川の1年・吉田功選手が堂々としたジャンプで1本目トップに躍り出た(右写真)。
 余市の3年生・全日本Jr.の澤谷悠造選手がピタリとマークし、地元、米沢の期待の星・佐々木悠兵選手が3位に食い下がる。1年の逃げ切りか、3年の意地で逆転か?

 大歓声の中、3位の佐々木選手がK点に持ってきた。しかし、次の瞬間、転倒。歓声は悲鳴に変わった。
 そのざわめきが収まらないうちに澤谷選手の、貫禄のK点越えがでた。ランディングも申し分ない。
 これ以上ないプレッシャーをかけられた吉田選手は、それでもK点に持ってきた。しかし、栄冠は3年生の意地に渡った。

 澤谷と松野尾(下川)の3年生選手が抱き合って勝利を喜ぶ。その姿を、吉田選手がじっと見つめる..。
○初出場が新たなスタート

 試合は終わった。
 正直言って、我が子が飛び終わった後は勝敗の行く末に釘づけとなってしまった。凄まじいほどの勝利への執念と集中力のぶつかり合いだ。ある意味で、大人である自分自身がスタンスをどこに置くか戸惑いを感じるほどだった。
 物陰で悔し泣きする選手もいたが、声はかけられなかった。

 和大は、大会で1ランク上のジャンプができたことに満足している。練習環境を考えると依然、先の見通しは厳しいが、まずは五輪のあった「宮ノ森」(札幌・ノーマルヒル)、そして「白馬」(長野・ラージヒル)を飛ぶ日を夢見ている。

 憧れの対象でしかなかった鳥人達と同じジャンプ台で、大会に出場することを目標にしている。
「勝つために功(吉田選手)に思いっきりプレッシャーをかけました。僕が1年の時、やっぱり侑也(千田侑也選手)さんにかけらえましたから」   優勝候補の一角であった山本健太選手(余市3年)と長南 翼選手(朝日2年)は、世界Jr.出場のため、本大会は欠場

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