ジャンパーへの憧れ(4) Wadai’Diary
   
 by内藤和大(1999年3月)
            
子どもの作文でも、著作権は尊重していただくようお願いします


はじめての遠征  -ぼくは選手になれるだろうか?-
 【海に向かって飛ぶシャンツェ】

 「小樽の台はな..。海に向かって飛び出すんだ。アプローチもずっと長くなる。でも、だいじょうぶだ。大きな台だってちゃんと飛ぶことができる。選手として出場するからには、ちゃんとしたジャンプ板をはかなくちゃな。」
 北海道の下川町で出会ってから、ずっと指導をしてくれた渋谷先生が、ぼくにこう言ってくれたとき「海に向かって飛ぶ台、ってどんなだろう?」とワクワクしました。
 そして、いよいよワンピースを着て、ジャンプ板をはけるのかと思うと、その時が待ち遠しくてしかたありませんでした。
 
エラン200cmの板にDECENTのワンピ
生地は薄いが、各選手の少年時代と
同じものであることを知り、本人はとて
も気に入っている。           
この後、フィッシャーに代えて臨むが...
 【初めてのワンピ、初めてのジャンプ板】

 3月21日、ぼくの3年生の終業式が終わるとすぐに、秋田県の鹿角市に出発しました。今回、鹿角へ来たのは、26日から始まる北海道余市、小樽で行われる全国ジャンプ少年団交流大会にむけての秋田県少年団と、いっしょに練習させてもらうためです。
 3連戦の第2戦、第3戦は、小樽の潮見台シャンツェという、K点が35mもあるジャンプ台です。こんなに大きな台を飛ぶのは初めてだし、今まで練習したジャンプ台の倍ぐらいの大きさがあります。
 秋田県の合宿は、湯瀬温泉というところにとまっておこなうのですが、15人ぐらいの小学生、中学生のお兄さんたちが集まっていました。
 練習1日目、渋谷先生から、ワンピースとジャンプ板をかしてもらいました。
 初めて着るワンピ。ほかのお兄さんたちとは少しちがうけれど、うでにはデサントの矢印マークがあり、金メダリストの船木選手のとおなじです。ぼくは選手になった気分で、とても満足しました。ジャンプ板をはいてみると、今までより足が軽くて高くジャンプできるのです。(これできょりがのびるぞ。)と思いました。
 練習では台すべりからはじめましたが、今まであたりまえにできた直下降でも板がまっすぐにすべらず、足首がガクガクしてしまいます。ぼくは(みんなうまく飛んでいるのに、どうしてぼくだけうまくいかないんだろう。)と、がっかりしてしまいました。すると、昔、鉱山で働いていたというおじいさんの団長さんが、
「はじめは、みんな同じなんだ。きっと、うまくなる。」
団長さんのしわ深い優しい目で、ぼくは元気が出てきました。
 台すべりにも、だんだんとなれてきました。自分でも自信がついてきて、小さい方の台を飛ぶことにしました。
 (だいじょうぶ。今までと同じだ。)と思い、思い切ってスタートしました。なんだか、いつふみきったのかわからなかったけれども、バラバラでも何とかおりてこられました。こんなに小さな台でも、ジャンプ板で降りてこられたのは、とてもうれしかったです。
 練習が終わり、ぼくは(明日は大きい台を飛ぶぞ!北海道の大会では、ぼくのジャンプでみんなをおどろかすんだ)と思いました。
 この日、弟のともちゃんも、渋谷先生にお願いして、はじめてK=20mのスモールヒルを飛ばしてもらいました。
                 こちらへ続く)
  次の日、ぼくは台すべりもしないでスタートゲートへあがっていきました。それは、前の日より板の長さが20cmも短くなって自信があったからです。
 はりきってスタートをして、ふみきって立ったところまではおぼえています。でも、そのあとは音だけが耳に残り、体がどなったかはわかりません。ころんでからバーンを1回転したそうです。
 そのしゅんかん、足首がいたくて泣いてしまいました。すぐに、みんなが集まってきて、車で病院につれていってもらいました。
 病院について、だんだん痛みがなくなって心が落ち着いてきました。(早く治って練習したいなぁ。)とか、(ちゃんと立てたのに、なぜころんだのだろう)と思いました。渋谷先生は「ジャンプ板で飛ぶのは早すぎた。」と、きびしい顔でつぶやきました。ぼくは、それを聞いて残念でしたが、(アルペン板なら、ちゃんと飛べるかなぁ)とも思いました。
 結局、足首は軽いねんざですみました。痛みは、次の日にはなくなってきたので、1日休んでから、アルペン板で大会に出場することになりました。
 ところが、ぼくがケガをした日の夜、思ってもいなかったことが起こりました。渋谷先生が、入院してしまったのです。ぼくはショックでした。そして、心配で足のねんざどころではありませんでした。
 北海道へ出発する日の朝、少年団のお兄さん達と、渋谷先生がいる病院へお見舞いに行きました。先生は、別の人のような顔色をしていました。
「先生はなぁ...、みんなが国体で活躍するまでは、死なない。だから、心配せずに思いっきり飛んでくるんだぞ。」
と、いつもとはちがう静かな声でいいました。ぼくは、(先生がいなくても、小樽の台は飛べる。だって、自分のジャンプなんだから...)と自分に言い聞かせました。

【いよいよ海を越えて】

 青森を出たフェリーは、ぼくたちをのせて、朝早く北海道に着きました。
 まずはじめに向かったのは、余市のジャンプ台です。足の痛みはほとんどなくなっていたので、緊張はしていたけれどやる気まんまんでした。ジャンプを体験するために初めて北海道へ来たときと違って、「やるぞ!」という気持ちがおなかの底からわいてくるようでした。⇒

               (左下へつづく)

 

⇒シャンツェに着き、ジャンプ台を見上げると(この台は飛べそうだ)と思いました。K点は30mあるけれど、アプローチが短く感じました。
 スタートゲートに登って下を見ると、着地するところが見えなくて、少しこわくなってきました。しかし、(ここは、船木選手や斉藤選手が練習していたところだ)と思うと、飛べる、という自信もわいてきました。だれだって、初めて飛ぶときは、ちょっとこわかったにちがいありません。
 自分の番が回ってきました。
 思い切ってスタートすると、みるみるうちにスピードが出て、アッという間に体がカンテからはなれました。
 メーター板の手前に落ちてしまいましたが、すごいスピードで風を受けました。とても気持ちよかったです。でも、あたたかかったせいか、バーンの雪はけっこうグシャグシャしていて、また転ぶのではないかと、ちょっと不安にもなりました。特にバーンからブレーキングトラックにうつるときは角度があって、そこで転ぶ人も多かったです。

 午後になって、今度は小樽の潮見台シャンツェにいきました。
 ぼくは台を見ておどろきました。どれも大きいミディアムヒルのようなジャンプ台が三つ、ドーンと立っています。K点が35mで5m大きくなっただけで、こんなに大きくなるとは思いませんでした。さすがに、降りてこられるかどうか不安になりました。
  【余市・笠谷杯】

 大会の初日、ぼくは起床時間より早く目がさめました。みんなより早く起きてゼンソクの薬を吸入しなければならないからです。
 気持ちはとてもはりきっていたけど、体の調子はイマイチでした。
 泊まったのは秋田チームといっしょで、小樽のてんぐ山スキー場の入口にある宿舎です。
 朝トレのために玄関に集合すると、きのうの夜、東京から飛行機でかけつけたお父さんが待っていました。
「どうですか?なんとか飛べそうですか?」
と聞かれたので、
「はい、だいじょうぶです!飛べます!」
とむねをはって答えました。
 朝トレは宿舎の前の坂道を下って、そこをランニングで登っていきます。冷たい空気を吸って、せきがでてきてしまいました。弟のともちゃんもちょっとつらそうです。体操では、みんなが丸くなりひとりひとりが号令をかけてお手本をやります。ぼくはもちろん、幼稚園のともちゃんも選手の一人なので、こまった顔をしながら体操のお手本をやりました。
 中学生のお兄さん達に体を支えてもらって、空サッツをやりました。どんよりとした雲の下には海が広がっています。海に向かって飛び出す、というのはこんな感じなのでしょうか?
 朝ごはんを食べて、急いで板や荷物をチームのワゴン車につみこみました。選手として参加
 台すべりでも60キロ以上のスピードが出たそうで、下川町のスモールヒルを飛んだときのようなこわさが出てきてしまいました。しかし、練習で1本も飛ばなければ、大会には出場できません。ぼくは、(どんな形でもいいから飛んでおこう!)と心に言い聞かせました。お父さんも渋谷先生もいないので、自分で決めるしかありません。
 上へ登って、深呼吸をしながら遠くを見ました。町の向こうには港が見え、その先に海が広がっています。とてもいいながめでした。ふと、渋谷先生の言葉を思い出しました。「海に向かって飛び出す」というのは、こういうことだったんだ。潮見台シャンツェの潮とは海のことだったのです。
 海からふく風がゴーグルをなぜていきました。そのとき、大きな声で「ハーイ」といい、スタートしました。ふみきったことはおぼえていません。自分がジェット機になったようにおりていました。
 こんなに大きい台を1番上から降りてこられるなんて、それだけでとてもうれしいです。
 この日はもっと練習しておきたかったけれど、時間がなくて、この1本だけしか飛ぶことができませんでした。
                  こちらへ続く)
  したからには、すべて自分でやらなくてはいけません。
 渋谷先生が来られなかったかわりに、幸一郎君のお父さん、千葉さん、そして飯島君のお父さんがコーチです。ぼくのお父さんも、今回はコーチのような感じでワゴン車にのりこみました。
 会場の笠谷シャンツェに着くと、北海道だけではなく、長野や石川、富山の選手もいて、すごい人数でした。下川のお兄さん達が声をかけてくれました。伊東選手と田上選手です。
「おぉ、ひさしぶり!がんばれよ!」
 下川町へ行ってから2ヶ月しかたっていないのに、中学生のお兄さん達は、なんだか大人になっていました。白馬の中村選手もいましたが、やっぱり大人みたいになっています。1月の荒井山の大会とは、ずいぶん、ふんい気がちがいます。
 さらに、テレビ局の人が来ていて、ぼくが前に書いた『われたゴーグル』という作文の取材をするそうです。大会が始まる前からきんちょうしてしまいました。⇒  

                 (左下へつづく)

 

 ⇒小学生の競技が始まりました。ぼくは、荒井山の大会の時と同じ、12番スタートです。でも、今回はワンピの上にゼッケンをつけているので気持ちがひきしまちます。
 まず最初に、トライアルジャンパーとしてミニカンテを飛ぶともちゃんが、大きな声で「いきまーす」とスタートするのが見えました。
 「12番、内藤和大君。東京都」
自分の名前が呼ばれました。もう、こわいなんていう気持ちはどこにもありません。スタートの合図の人を見て、遠くへ飛ぶことだけを考えました。しかし、体が思うように動かず、あまり距離がのびません。飛んだあと、お父さんに、
「どうした!試技の方が思いっきりがよかったぞ。」
と言われてしまいました。
 2本目は思いきって飛び出し、1本目よりは2メートル距離がのびましたが、着地で転んでしまいました。ぼくはその時、(2本目は転んだけど、なっとくのいくジャンプだったから、明日はこのジャンプを2本ともそろえるぞ。そして、立って見せるぞ)と思いました。
  ミーティングが終わると、すぐにワックスぬりが始まります。もちろん、大人の人にぬってもらうのではなく、ひとりでなんでもやります。ぼくはアルペン板だから、みんなのよりはかんたんです。みんなは、1回全てワックスをはがしてから、アイロンで少しずつていねいにぬっていました。そのあと、ブラシやストーンをかけたりもします。「おっ、『スウィックス』か。明日はよくすべるぞ。」とか、「腰がのびれば、もっと飛べる」とか話ができるので楽しみになりました。
 試合の緊張感でつかれて帰ってきても、次の日にむけて準備をしなくてはいけません。それが、選手なんだとわかってきました。

【潮風を受けて】

 余市大会の次の日、今度は小樽の大会です。小樽の潮見台シャンツェは、練習で1本しか飛んでいないのでちょっと不安がありました。しかし、ぼくはこの台が好きです。ゲートに上がると港が見えて、潮風を切って飛ぶのがとても気持ちいいからです。(よし、余市より遠くへ飛ぶぞ)と、ぼくは思いました。
【選手としての仕事】

 試合が終わったあと、宿舎に帰って夕食を食べ終わるとミーティングが始まります。
 ミーティングは、食堂に集まってジャンプを反省したり、ビデオを見せてもらったりします。もちろん、ぼくもともちゃんも選手なので、日記帳を出してきて、お話を聞きます。ともちゃんは字を覚えたばかりなので、「きょうは、でした。」という言葉ばかり日記帳に書いていました。おかしくてわらってしまいました。
 毎日、お父さん達が交代で返事を書いてくれます。遠征の最後の日、返事にこんなことが書いてありました。
ぼくは、これを読んで、「ヤッター」と声をあげてしまいました。
 お父さんは、ハッハッハ、と笑っていました。

⇒    こちらへ続く)

今日、かずひろ君のお父さんとお酒を飲んで、とても大切な約束をしました。次の冬までに、かずひろ君にジャンプ板を買ってくれるそうです。

保証人
飯島のおじちゃん

   会場では、十日前に右手を骨折したばかりの千田選手がギブスをつけたままウエアを着ていました。そして、きのうの大会で肩に大きなけがをした渡瀬あゆみ選手も、その肩を固定して飛ぶようです。(すごい。いたくないのかなぁ。)と思いました。ぼくの足のねんざは、けがのうちに入りません。
 試技が始まりました。今日は1本目から思い切っていきます!1本飛ぶごとに、前に飛んだ距離を越すことを目標に決めました。
 スピーカーで、ぼくの名前が呼ばれました。冷たい潮風が、ぼくのほっぺたをなぜていきます。
 50cmでも遠くへ、と思い切って飛び出しました。体がスゥーっとのびて、バーンの上を板のテールがひきずっていく感じが体に伝わりました。記録は、今までの最長距離で16mです。表彰される選手の半分の距離だけど、ぼくにはとてもうれしかったです。次は20mに近づくかもしれません。そして、いつかジャンプ板をはけば、30mにとどくかもしれません。こわさはちっともありませんでした。
 しかし、結局、本番ではそれ以上のびませんでした。飛びすぎをおさえるために、カンテの高さを30cmもけずったそうです。それに、心のどこかに「転びたくない」という気持ちがあって、けるのが弱かったのかもしれません。
 余市では優勝した幸一郎君も、この日はのびませんでした。でも、札幌の十川選手は、カンテを下げられてもK点を超えて優勝しました。大人のジャンプのように、ブォーンと風を切ってのびていきました。すごいです!(明日はどんな天気でも、どんな条件でも20mいきたい)と心の中で言いました。       (左下へつづく)

 

試合のあと、ハウスのストーブであったまっていると、白髪頭のおじさんが、
「どっから来た?」
と声をかけてくれました。「東京」とこたえると、まるで前からぼくのことを知っているように、「そうか、そうか、ほう、ほう。」と喜んでくれました。それからストーブにあたりながら、いろんな話をしてくれました。その中で、
「オリンピックの選手だって、最初から『なれる。』と思ってなった人は、あんまりいないんだよ。練習に練習を積み重ねて、その結果が一流選手なんだよ。」
という言葉が、とても印象にのこりました。(そうか、選手って、そういうものなんだ。東京でできるトレーニングをどんどんやって、うまくなりたい。)と、ぼくは思いました。そのおじさんは、むねに「鶴まき」という名札をつけていましたが、もしかすると選手のお父さんなのかもしれません。 次の日、鶴まきさんは、ぼくたちにトウモロコシをたくさんくださいました。「選手」に対する差し入れなんだそうです。

【屋外競技のきびしさ】

 大会最終日、今までとは全くちがった天気になりました。雪は降っていませんが、風がものすごく強くて気温は-5度までひえこんでいます。試技なしで競技が始まりました。
 アプローチやランディングバーンがガチガチにこおっています。台すべりで勢いよくスタートしたともちゃんは、K点のあたりで尻もちをついてしまいました。きのうまでとは、くらべものにならないほどのスピードが出てしまったのです。
 ぼくは、(こんな条件じゃ、転ぶかもしれない)と心配になってしまいました。でも、最後の大会なので、思いっきりふみきらなくては...という気持ちが心の中でぶつかります。
 1本目にスタートしたしゅん間、アプローチの足が横へ大きく流れました。体が後ろに引かれて、元にもどりません。(こわい。ケガするかもしれない)という気持ちが頭の中をよぎりました。知らず知らずのうちに気持ちに負けて、ひざをまげたままの中と半ぱなジャンプになってしまいました。
 立つには立ったけれど、ブレーキをかけても板が止まりません。わけのわからないうちに、そのままブレーキングトラックのフェンスにげきとつしてしまいました。
 ぼくは、立ち上がると泣いてしまいました。自分でもわけがわからないうちに泣きました。こわかったことよりも、気持ちに負けてふみきれなかったからです。ぼくの所に来たお父さんが、何をいったかおぼえていません。ただ、
「今日の条件では、こわがって飛ぶとケガをする。こわかったら、2本目はやめておこう。」
といわれたから、ぼくは「ヤダ!こわくない!」と
 
 【選手として、むねをはりたい

 大会が終わって、フェリーで青森にむかう途中、ぼくは、こんなことを考えていました。
「オリンピックの応援に行って、ぼくはとっても感動した。お父さんもお母さんも、会場にいた何万人という人やテレビで見ていた人も同じだ。ぼくは、その中の一人だった。その時は、自分が選手になるなんて考えもしなかった。
 そして、団体戦の原田選手を見て疑問もわいてきた。日本を代表する一流選手でも、ぜんぜん飛べないときもある。
 それが、夏に千田選手にあって、下川へ来ることをさそわれた。下川では、鹿角の渋谷先生に会った。たった3ヶ月のでき事なのに、いろんな人にいろんなことを教えてもらって、どんどん元気が出てくる。そして夢がふくらんでいくように感じる。」
 
 最初は、ただ「飛んでみたい」という夢だったのが、いつの間にか「大きな台で立ちたい」とか「遠くへ飛びたい」という目標に変わってきたように思います。自分では気がつかないうちに、「やればできるかもしれない」という気持ちがどんどんわいてきます。
 原田選手も船木選手も、みんな、こんなふうに強くなっていったのかなぁ、とも思います。
 そういえば、夏の応援や正月の荒井山の大会では、あんなにやさしくニコニコ話しかけてくれたお兄さん達が、今回は声はかけてくれるけど、ちょっときびしい顔をしているように思いました。それは、きっと「選手」としての顔だったんだと思います。
 選手の集中力とは、まるで大人の人が会議をやっているような目になります。その集中力からK点越えのジャンプが生まれるんだと思います。 
 ぼくもジャンプ台の階だんをあがる時、「次は、転ばないように、もっと遠くへ飛ぶぞ」とか、「ぼくも、あんなふうにうまく飛びたいなぁ。」ということで頭の中がいっぱいでした。
 少しずつですが、「選手になる」というのは、こういうことかもしれない、と思うようになりました。
 選手とは、ただ飛ぶことだけを考えるのではなく、板を運ぶのも、ワックスをぬるのも自分でやらなくてはいけません。渋谷先生がいった「自分のジャンプなんだから...」というのは、この事だったんだと思いました。
 次の目標は、うまく使えなかったジャンプ板で、もっと遠くへ納得のいくジャンプをしたいです。そして、「どれだけ遠くへ飛んだか」をきそい合いたいと思います。見ている人をびっくりさせる風になってみたいです。
いって「待ちなさい」といわれてもスタートゲットの階段を登るのをやめませんでした。
 選手だったら、今やめたら後悔するからです。 でも結局、2本目もおなじぐらいしか飛べなかったです。お父さんは、
「立っただけでも、たいしたもんだ。2本目は棄権した選手もいるんだ。」
とボソリといいました。転倒して表示板にぶつかり、肩を骨折した選手もいました。 でも、小樽の台を飛んで立てたことには満足しています。来年は、気持ちに負けないようにしないと、納得のいくジャンプはできない、と思いました。
                   こちらへ続く)
 
       
  この大会では、葛西や宮平といった一流選手
 が観戦に来た。しかし、ギブスをはめ、肩を固定
 して出場した中学生を見て、その気迫に、とても
 サインなど求める雰囲気ではなかった。
   (写真は、渡瀬あゆみ選手と)

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