声 

[「強制退去」を命じる司法判決(日本政府報告に対して、カウンターレポートを国連社会権規約委員会へ提出)(2001.06.01)(ウトロを守る会)[English/Japanese]
[日本のウトロに差し迫る、強制立ち退きについて(2001.05.02)(ウトロを守る会)[English/Japanese]
[朴炯圭さん、ウトロへ(1998.11.24)]
[「ウトロの人たち」韓国版イウサラム(1998.3 金瓏教(キムヨンギョ))]
◆ 哀悼 金壬生アボジ(1998.3.10)
[写真集『置き去りにされた街 ウトロ』(かもがわ出版)(1997.11)]
[『メッセージフロムウトロ』(1990.08.12)]


■哀悼 金壬生アボジ(1998.3.10)

金壬生アボジ
哀悼 金壬生アボジ

ウトロの長老・金壬生(キムイムセン)アボジが3月7日亡くなりました。
謹んで哀悼の意を表します。
金壬生アボジは1912年、朝鮮慶尚南道に生まれました。渡日したのは満15歳の時。1943年からは京都飛行場建設工事で働き、ウトロ飯場に来たのは31歳の時でした。以来半世紀以上、人生の大半をウトロで過ごしました。

89年に始まった「立ち退き裁判」では、被告の一人となりました。

アボジはウトロを訪ねる多くの人々に、ウトロの歴史を『体験者』として語りました。独特の語り口で怒りをこめて熱心に。時には聞き手にメモを取るように催促しながら、まるで若い人に説教しているようでした。

フィールドワークの後、「ウトロを訪ねてくる若い人にいつも言うんだがともかく戦争をしてはいかん、平和でなければいかん。ワシらは骨身にしみてる」と。「バカヤロウ、コノヤロウと言われながら仕事をした先輩や仲間らはもう皆んな死んでしまったけど、ここウトロにはその子どもや孫が家を建てて、働いて、学校に行ったりしている。住み慣れた所を今さら退けと言われても、よそに行く訳にはいかん」と。いつもこう繰り返しました。

韓国からの調査団には、「この土地の問題についてのワシの考えは ・・・・・、韓国政府からの何がしかの助けが欲しい。助けが欲しいがそれだけでない。『くに』からの援助があれば、日本政府はかっこ悪くてこれ以上放っておけんやろ。もともと京都府はわしらのこと、よう知ってるはずや。京都府が飛行場を作ったのだから。その京都府が何んともせなんだらどうにもならん」と語りました。

また、参加者からの質問に答えて、連れ合いとの出会いをはにかみながら、滔々と述べられたこともありました。「何で一緒になったのか」と聞かれたと誤解したのでしょう。人にこびることのない、朴とつな一世そのままの人生でした。

ウトロには、子どもたちの遊ぶ公園がありません。金壬生アボジはそのことを嘆いて働きかけ、近所の勤労者福祉会館の横に小さな公園ができました。ウトロの子どもと近隣の子どもが一緒にこの公園で遊ぶ姿を夢見て、ひとり公園の草むしりをしておられました。

ウトロの人たちから尊敬され親しまれていた金壬生アボジのお弔いは、ウトロの人びとの手で営まれ、ウトロらしく心のこもった暖かいものでした。朝鮮の風習にそって、お連れ合いの用意された白い絹の装束で旅立って逝かれました。

アボジは植民地朝鮮で生まれ、在日の居住権を奪う「立ち退き裁判」の被告となって86歳の生涯を終えられました。そのことを考えると、日本人として本当につらく胸の塞がる思いです。

1988年3月10日  ウトロを守る会事務局 

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