声 

[「強制退去」を命じる司法判決(日本政府報告に対して、カウンターレポートを国連社会権規約委員会へ提出)(2001.06.01)(ウトロを守る会)[English/Japanese]
[日本のウトロに差し迫る、強制立ち退きについて(2001.05.02)(ウトロを守る会)[English/Japanese]
[朴炯圭さん、ウトロへ(1998.11.24)]
[「ウトロの人たち」韓国版イウサラム(1998.3 金瓏教(キムヨンギョ))]
[哀悼 金壬生アボジ(1998.3.10)]
[写真集『置き去りにされた街 ウトロ』(かもがわ出版)(1997.11)]
◆ 『メッセージフロムウトロ』(1990.08.12)


■『メッセージ フロム ウトロ』(1990.8.12)

〜ウトロの闘いの原点〜

ほぼ全世帯が裁判の被告とされ、立ち退き攻撃と闘うウトロ。1990年・夏のウトロの風景のなかから、原点を見つめてみました。

■裁判 ■ウトロ ■地上げ ■ふるさと
■飛行場建設 ■戦後のウトロの生活



■裁判
 1990年7月2日、今日は公判の日である。ウトロ住民は、「建物収去、土地明渡し」訴訟の被告とされている。収去とは撤去のこと。不法占有だから自分の家を自分で壊してこの土地から出て行けというのが原告、西日本殖産側の主張である。年寄りたちはマイクロバスで、女たちは電車で、男たちは仕事の都合をつけて、各々京都地裁15号法廷の傍聴席に集まってきた。約40人。この日の公判は5分間。書面のやりとりだけで終わった。しかし、裁判長はこう発言した。「この問題は法律論では割り切れない感じだ。政治問題でもあるのでないか」弁護士さんに今後の裁判の見通しを聞いた。「原告に対し処分禁止の仮処分の申請が通った。この秋から証拠調べに入る。土地を売った日産車体株式会社の関係者も証人に呼ぶつもりだ」そこで、単刀直入に「この裁判は勝てるのか」と聞いてみた。「ウーン、もちろんそのつもりです。でも、裁判ですからね、がんばらないと…」
 帰りの電車の中、ウトロの被告たちはなごやかだ。裁判所通いにもすっかり慣れてきたようだ。あるオモニは、「昔はもっと闘ったもんさ。裁判のおかげで、以前よりみんな仲良くなったョ」と語る。一昨年1月、ウトロでようやく水道管の敷設工事が始まった。ところがこれより半年以上も前に、日産車体はウトロの土地を住民のほとんどが知らない間に売っ払っていたのである。ウトロの人々はいま運命共同体。一つの糸で結ばれている。


[このページの頭へ]



■ウトロ
 近鉄京都線の各駅停車に乗って京都駅から20分。伊勢田駅という小さな駅に着く。商店街を抜け、西に10分ほど歩くと三叉路にぶつかる。左へ折れるとウトロだ。 (ウトロ近郊地図へ) 陸上自衛隊大久保駐屯地との間、幅100m、長さ300mの帯状の土地(約6400坪)。およそ小学校敷地一つ入るこの土地に、在日韓国・朝鮮人80世帯、380人が住んでいる。50年前の飯場が残っている。腐ち果てそうなバラック長屋は、今も物置として利用されている。幅は4mほど。そまつなタル木に内側からセメント袋や新聞紙が貼られ、部屋の壁になっている。中には数年前に流行したゲーム機が山積みされていた。
金君子さんは語る。「私がここに嫁に来たのは、終戦の次の年です。あのころは見合いなんて、親の許可一つで、『ほなよろしい、やりまひょ』や。夫になる人の顔も見たことあらへん。嫁に来たはええねんけど、夫の父、母と同居でしょ。四畳半ぐらいの部屋もろて、行李置いて布団たたんで置いたら二人で座るところもあらへん。隣との壁をネ、ちょっときれいにするいうて、セメント袋の口糸をはずして、広げてこう貼るの。こっち押したら向こうに行くし、向こう押さえたらこっちにくる。フワフワですわ。わたしら若い夫婦でね、壁の一つも満足にあらへん辛かったですよ。
 炊事場いうても、土間に板をいくつか並べただけで、茶わんやら洗うたら伏せとくだけ。ハシは竹の筒を切ってその中にさしていた。そんな生活ですわ。 ほいで、主人が日雇いして食い代をかせいだけど、両親がおるもんで私の手にはお金が直接はいらんわな。晩になると靴下洗う。電灯のところに掛けておいて、朝にそれをまたはいて出ていく。今はぜいたくすぎんの。こんなつくろった靴下なんか誰もはかんでしょう、ほんまに…」


[このページの頭へ]



■地上げ
 昨年の2月、建物解体業者が突然ウトロにトラック3台で乗りつけてきて、空家を解体しようとした。住民ら40人が取り巻き抗議すると、「西日本殖産」より依頼を受けたという業者は「血の雨が降ったらエエんか」などと威嚇した。しかし、工事にはかかれず退散した。また、昨年11月にも解体工事の強行を通告してきたが、住民の団結の前に姿を見せなかった。「ウトロ、ここに思い出で残っていますやん。ここに根はって一つの歴史ができてますやん。地上げ屋のトラックが来たかて、怖いことありません。いやっていうほど苦労してきたわけやから、そんな簡単にいきません。人間、命はって何が怖いもんありますか」ウトロのオモニは意気盛んである。
 ウトロに水道管が布設されたのは2年前。それまでは井戸だった。周辺が住宅地化されるにつれ井戸の水質は悪化し、赤茶けた水はすでに飲料用には適さなくなっていた。ウトロの住民は何度か水道管布設を求め宇治市と交渉したが、日産車体の同意がないと断られてきた。5年前には火事があり3戸が全・半焼した。ウトロには消火栓すらなかった。「夫の母、姑の歳も若かったから、私と一緒にお腹が大きくなって、弟2人と私の子3人が次々と生まれた。その子が小学1年の時、姑が死んで、その3年後には夫が死んだ。私、数えの29、満でいうたら27才で5人の子持ちや。ほいで義父はちょっと学歴のあるいうて、明日の食べ物がなくても、もう働いてくれはらへん。1年365日のうち300日は泣いた。明日の食べ物どうしょう、どないしょういう、これ一本や。他に何にも考えることあらへん。こんなんして、苦労して、苦労してな、子供5人みんな片付けた。もうヤレヤレ、ヤレヤレの時でな。もう何にも心配することない、水道も入れてくれたあ、良かったと思ったところが、こんななってしもうたんや、土地の問題で。日産と西日本が一つなのか二つなのか、どこでどういうふうになっているのか知らんけど、私をまた苦しめにかかっているわけよ。日雇いで月10日ほど働いて、4万円。ちょっと楽になれるわと思った矢先ですわ。そやさかい、もう何ともいえん…」金君子さんは下を向いた。


[このページの頭へ]



■ふるさと
 ウトロは静かな町である。道路が整備されていないせいか、家々は路地によって結ばれている。一瞬、子供だったころ、このへんでかくれんぼして遊んだような感覚に引き込まれる。どこか、なつかしい。
 夕方、韓国の流行歌をボリューム一杯に流した移動販売車がウトロに入ってきて、いつもの位置に止まった。しばらくすると、どこからともなくオモニたちが出てきて、車の回りに人の輪ができる。「キムチ」「トウガラシ」「豚足」「ムー(そば)」「トック(もち)」。祭に使うのだろうか豚の頭も売っている。小豆の入ったムシパンを一つ買ってみた。「ウトロいうたら、評判悪いで。でもな、本当にウトロを知っている人はそんなこといわへん。うちら家に鍵かけたことあらへん。うちの子やよその子やの区別もあらへん。みんなそこらで怒られているわ」と、あるオモニ。
 ウトロ住民が近くの日産車体京都工場に話し合いを求め、初めてデモしたのは一昨年4月29日。色とりどりの民族衣装を着て、チャングなどの民族楽器を持った農楽隊がパレードの先頭に立ち、同胞の志気を鼓舞する役割を果たした。昨年の11月には、神奈川県平塚市にある日産車体本社と東京銀座の日産自動車本社にも出向いた。しかし、日産側が用意したのは鉄柵とガードマン。「小さな子供を残して、宇治のウトロからました。日産のみなさん、心があれば、たとえ5分でも10分でも出てきて話し合ってください」ハンドマイクの声は巨大企業によって拒絶された。しかし、オモニたちが自分たちの歴史を、身を切る痛さを伴って語り始めたとき、ウトロの人々の声が全国に伝わりはじめた。
 蒸し署いこの日の夜、ウトロ町内会とウトロを守る会の定例会議と『ニュース』の発送作業が遅くまで続けられた。『ニュース』の発送は、会員が増えるにつれ作業時間が長くなってきている。隣の自衛隊基地の消灯ラッパが鳴った。「嫁ハンは子供と寝ているだろうな。明日の朝、こんな時間までアンタどこへ行ってたのかと聞かれて、事務所で袋詰めしてたといっても信用してもらえるだろうか」一人がいった。周囲から笑い声がもれる。「土地問題が起こるまで、ボーッとしていた自分たちが悪い」と、彼は続けた。地価の異常な高騰は、朝鮮人集落まで及んできている。全国に散在する、それぞれに歴史的経過をもつ集落は、日本政府や企業の戦争責任をキチンと補償しない態度とあいまって、いま地上げの対象とされているのだろうか。
 ウトロは戦後45年間、朝鮮人社会の中で確固たる位置を占めてきた。ウトロに行けば同胞がいる。多くの朝鮮人がきて、育っていった。ウトロの各家庭で行われる法事。祖先をうやまい、年寄りを大切にする儀式である。結婚して外に出た娘が子供を連れて帰ってくる。近くで世帯を持つ息子たちも…。ウトロは、朝鮮人のふるさとである。たくましく生きてきた在日のささえであり、物的精神的拠点なのだ。ウトロをもっとよく知りたいという声が、周辺の日本人の中からも聞こえてくるようになった。「地上げに負けるな」という声援も遠くから寄せられる。ウトロの人々が自分を一歩前に押し出していく番である。闘いはこれからだ。



[このページの頭へ]



「地上げ反対!ウトロを守る会」が進めている”聞き取り”活動。そこで得たアボジやオモニの言葉でウトロの戦中・戦後を振り返ってみました。



■飛行場建設
 「私が宇治にきましたのは、1940年(昭和15年)です。京都府建設事務所へきました。京都府庁の臨時雇いで、朝鮮人は本雇いされなかった。1940年にここへ回されてきた。飛行場はご存じと思いますが逓信省と日本国際航空工業株式会社とタイアップして、そのときはむろん戦争が激しかったわけだから、すべての企業は合同させたり、翼賛政治の下でね、一つになるときだったのです。「航空」と逓信省とそれから京都府とタイアップして飛行場を建設した。それで私らが住んでいるウトロは、山でもあまり高い山でなく、低い山で、竹藪、小さい松の木が生えていて、その土を淀や久御山の御牧まで持ってきて、滑走路をこしらえて、滑定路以外も平地にしたのです。そのとき、私の同胞は、終戦まで1300人住んでいました。それは佐山で、飯場といってもみじめなもので、家といってもひどいもので、本当に骨組みでね、合掌を立てて、古いトタン、木の皮を屋根にして、そこで寝泊まりして、仕事をやったわけです。それからその工場でね、飛行場の工場で、日本国際航空工業株式会社で「まなづる」という飛行機をこしらえてね。とにかく戦車2台積んで、兵隊を30人くらい載せる。それを試験運転するのにね、現場仕事の朝鮮人も全部飯場に入れてしまって、それに、百姓たちが畑仕事をしているのを警官が来て追い返してしまった。それで試運転をやった。試運転は結局失敗に終わった。墜落をして失敗した。そういうことをやったのが自分の頭に残ってます」
 −故鄭相被(チョン・サンソク。男性。1904年、朝鮮慶尚南道生まれ。1939年、日本へ渡り、各地を転々と回る。1985年死去)


[このページの頭へ]



■戦後のウトロの生活
 「父が土木の仕事を転々としていて、ちょうどこの飛行場の仕事でここへ呼ばれた。私ら家族は大阪にいたけど、戦争でどんどん燃えて逃げる感じでこっちに連れられてきた。私が子供の時分です。当時は、飯場みたいに、ざぁ一と長屋が一列に建っていた。私ら住んでいたが、それもたんだん雨風でつぶされてきたので、自分たちでバラックみたいな家を建てて住んた。貧しい貧しい生活してきた。戦後は百姓してね、百姓といってもとれたお米を自分らが腹一杯食べられた訳ではない。お米を売ってお金に替えた。麦半分以上入ったパラパラ飛ぶようなご飯を食べていた。母親はお米をお腹に巻いてね、買い山しに行って物々交換みたいにしてね、生きてきたんです。そんな苦労をして私らを育てて〈れたんやけど、無理がたたって親は年若くして死にました」

 「親たちに仕事なかったからね、土方行って、日雇でもあまりありませんてした。だから、みな生活保護を受けていたと思いますよ。どこの家ももらってない家はないぐらいに。ものすごく心狭い思いをしました。まだ義務教育の教科書を買っていた時代でしょ、そしたら、お下がりもらうんですけど、それも予約ですよ。衣類もボロボロになるまで着てね、サラなんか着たことない。中学時代は、親が毛糸で色違いのつなざつなぎしたのを編んでもらった服でね、一冬越したり。着られたらええ方どせないかんかったです。子供はどんどん成長するから、親は大変だったろうと思います。」

「子供は天真爛漫やからね。親の悩みの真底はわからへんでしょう。自分が親になって、子供を育ててわかったのは、親が食べられないのはガマンできても、子供がお腹すいている姿はどんなに辛かったやろと思いますわ。最近、私らの子供にそんな話をしても、昔の話やという感じでしょ」

 「私らが学校行くので一番かなわんのは雨降り。番傘でしょ、すぐ穴があく。学校行きたくない。いや、朝鮮、傘さしとらへん、雨降っているのにアホが濡れとるいうでしょう。そいで傘でバァーとやりあうでしょ、傘がもっと痛む。明日、雨降らんように、紙集めてテルテル坊主を作ってみたりしても雨降りますわ」

「子供の頃、一番楽しかったのは、雪が降ったら寝るのを忘れて大人も子供も一緒に雪合戦して遊んだことや。ここは飛行場やったしグランドやったし、広いでしょ。夏になったら、上の兄ちゃんから下の子まで一緒にかくれんぼするの。みんなカギなんか閉めることないから、どこの家に夜中に入ったかて何ともないんですわ。盗まれるもんなかったし。ラジオのある家が何軒かあった。続きドラマの時間帯になるとそこの家の窓の外から必死になって聞いていました。正月に下駄を一足買ってもらう。もう枕元に置いてはけへん。ほんとうに食べるものもあの時分ありませんけど。親は正月には何か一つは買ってくれるわけや。盆と正月にする法事のとき、お供えのパナナをほんの1cmほどもらっで食べる。それがおいしくて食べられへんのですやん。森永キャラメル、16コ入っているんですが、3つ食べたらあといくつ残っているか、そういうふうにして育ちました。学校に行けたらいいほうです。行けない人もざらにいました」

 「ウトロの人は、みんな仲良くて、手をつないでね、ごはんの一杯でも近所で分け合っていた。外から見たらこわい部落やといわれていたと思うけど、ほんまにきれいな心を特つた人ばかりやしね。そら、なかには何かと手のつけられへんような人もいたやろけど、そうすると外から恐ろしい部落やとかいわれる。中にいるものにはわからんけど。 お昼ご飯食べるとき、表にゴザひいて、ラシャの葉っぱを畑からむしっておいていうてね。みんなおかずどかあるもんを持ち寄って、ほんとうの一つの家族みたいにして、輪になって、ごちそうがなくても楽しい、安心してました。子供も、自分の親だけにかわいがられたり、叱られたりするんではなくて、この中にいる人はみな兄弟みたいに、夜でも近所の家で勉強してそのまま寝て、朝帰ったりとかしていた。学校から帰って、冬はオンドルのある家に行く。昔は誰でも入れてくれる、そういうふうでした」

「当時、ウトロの中は家の前や庭など今みたいに詰まってないし、広いもんでした。表にゴザひいて寝ころんだら、久世中学校からみんなが修学旅行に出て行くのが、わかるんです。もう、ワーッと泣いたの覚えてますわ。先生が旅費は出さんでもいいから来なさいといってくれたんやけど、やっぱり行けませんでした」

 「朝鮮戦争の始まる頃、鉄くず拾って売ってたけど、あれ結局みんな朝鮮に流れて、戦争で使ったんだと今、思うんです。でも食べていくためにね、自転車もよう乗らず歩いて背中背負ってね、鉄を。自分の国、減ぼしてくれ、くれ、いうて鉄運んでいるようなものです。当持、そんなん、わからヘん。ただ、食うだけのことや。電灯の下で、ブリキとか鉄とか分けるんです。子供ながらわかるんです。色物の中に何か見つけると、これまちがっていると親にいうたり。少しでもお金に代えられると思って。うちの子が画用紙に絵書いて、これ何やいうたら、アボジの鉄やいうて、道に鉄が落ちてたら拾ってくるでしょう。アボジの鉄が落ちてたいうて。その子が今25オですよ。電柱の下で工事しているでしょう。赤線が落ちてたりするんです。オモニ、これ赤やいうてね。道歩いていても釘一本でも拾ってくるんです。親のこと見ているからね。かわいそうでね、もう親にしたらたまらん。でも、親も「拾ってきたで」「そうか、えらいね」いうて、拾ったらあかんとはいいません。子供も親が働いているところがしみこんでいるわけや。そやから子供もみな今まじめですよ」

 「いま、孫にお菓子おいとくでしょ、ダイエットしなあかんのにいうてばかにされますけどね、もったいない、こんなん食べられへんかったのに、いうて拾ったりするんです。糖分取ったらあかんといつもいわれますけど、ふん、抜け切れへんね。ほんまに昭和の1ケタは、お弁当のフタあけたら、フタから先に食べるいうてね」

 「私は今から考えるとアホやと思うけど、当時何で朝鮮人に生まれてきたんやろ、日本人やったらええなと思ってたことあります。でも、学校行ったら、日本人に腹が立つし、私いつもやっつけますよ、だまってへん。何悪いことしたんや、何迷惑かけたんや、何泥棒したんかいうたりね。私の目の前では誰もいいません。いいにくいからね。人間対人間やのに。何でバカにするんやいうて。私はこんな気性だから負けませんでした。でも、子供時分の生活は最低、下の下でした」

 「ばあさんたちが山に行って松の葉をかき集めて、くくっておくんです。私ら学枚から帰ったら大きな運搬車を持ってそれを取りに行くんです。親の手助けが遊びであり仕事でした。秋になったら、台風で青い柿が落ちるでしょ。学校の帰り、友達やらに隠れて拾いに行くんです。青いから腐らないでしょう。それを置いといて毎日オヤツにむいて食べたりしました」

「国に行ってきたんです。88オの母親がいるから。ほんとうにどんな思いで今まで生きてきたんやろうと思ったら…。ほんとうに親に何ともいえませんわ。兄弟7人集まって泣いたり笑ったり、懐かしい話やら苦労した話をしたら、ほんとうに夜も寝ません。でも、親は小さくなってしまって、もう小さく小さくなってもう赤ちやんみたいな感じですやん。年いったらね、生き抜いてきたからね」



[このページの頭へ] 
[目次頭へ]