日常を更新する視線 例えば「読書の悦び」
高野文子『黄色い本―ジャック・チボーという名の友人―』



『黄色い本―ジャック・チボーという名の友人―』(※1)は、マンガ家・高野文子の最新作品集。 4編の作品が収録されているけど、ここで紹介するのは、その中の表題作「黄色い本―ジャック・チボーという名の友人―」。
このマンガの主人公・田家実地子は、卒業・就職を控えた女子高校生。 70年代くらい(たぶん)の田舎町での彼女の日常が、丁寧に描かれている。 春から夏秋冬を経てまた春へ、彼女が卒業するまでの物語。といっても大きなドラマがあるわけじゃない。 一年を通して、彼女が『チボー家の人々』(※2)っていう小説を読み続けてる様子が軸になっている。
そう、テーマは「読書」。でも、読書ってあまりにも日常的で、動きの少ないものでしょ。マンガにはしにくいよね。 そもそも、マンガになりにくいものを、わざわざやろうって思う人もいなさそうだし…。

高野文子ってマンガ家は、かなり独創的な才能を持った人だ。 この人にかかると、当たり前の日常が、まったく違った角度で見えてくる。うん、文字通り「見える」んだ。 オリジナリティあふれる、コマの運びや絵のアングルで(※3)、日常がその都度発見されている。 そう、新たなビジュアルとして再発見されているんだ。 例えば、この「黄色い本」にも、実地子の姪っ子のこんなセリフが出てくる。
 姪「実ッコちゃん、電気つけると暗いねえ」
 実地子「ええ?」
 姪「電気つけると夜んなったねえ」
 実地子「ああ、夜んなったねえ、外は」
つまり、「電気をつけるから外が暗くなる」って姪っ子は言っているわけ。 因果関係が逆転してるんだけど、感覚としてはよくわかる。 しかも、高野文子がすごいのは、これをちゃんと絵で見せていること。 窓ガラスを通して部屋の内と外を同時に描くっていう意外な構図で、さりげなくビジュアル化してる。
こーゆーシーンを見ると、天才じゃないかって思う。 まるで、初めて地球にやってきた宇宙人のように新鮮な目で日常を眺める。 そう言えば『棒がいっぽん』っていう作品集に収録されている「奥村さんのお茄子」(※4)っていうマンガは、 宇宙人が日常のディテールに異常な関心を示す話だった。

また、「黄色い本」には、小説に夢中になるあまり、実地子が小説のワンシーンに入り込んだり、 小説の主人公と会話をするシーンが何度も出てくる。 一言で言っちゃえば空想シーンってやつだけど、その描き方も見事だ。
例えば、実地子が雪道を歩くシーンがある。道に残る足跡。 それを見ているうちに、小説に登場する多くの仲間たちと歩いているような気分になるんだ。 実地子は心の中で語りかける。
 「ジャック、雪が止みましたね。寒くありませんか」
このシーンでは、たくさんの足跡→たくさんの足→たくさんの人影と、ビジュアル化され、 歩きながら彼女のまわりをたくさんの人物の影が取り巻いているコマに到る。 空想の中で仲間の存在がどんどんはっきりしていくんだ。
つまり、彼女は日常にいても、簡単に小説の中に入っていくことができるわけ。小説世界と日常が地続き。 このマンガは、小説にそこまでのめり込むことのできる10代っていう時間も、同時に描いているんだ。

ページの上に落ちる栞紐の影や、活字がぐっとせり出す感じを覚えているか?
すっかり忘れていたよ。10代の頃は、こんな風に読書に夢中になったこともあったけ。
本に夢中になってバスを乗り過ごしそうになったことがあるだろうか?
家族が寝静まったあとも、スタンドの電気を点けて本を読み続けたことあるだろうか?
ふとしたはずみに本の中ののセリフを心で唱えたことがあるだろうか?
そう、それは、至福の時間だったじゃないか。こうした読書にまつわる諸々が描かれることで、 僕も、あの至福の時間を再発見させられた。 最後の3ページの余韻が素晴らしい。この3ページで彼女の過去と未来が、ぐるーっと見えるんだ。すごいよ。

※1他の収録作品は、冬野さほのマンガの再作品化「CLOUDY WEDNESDAY」、オフィスを舞台にした「マヨネーズ」、 ボランティアの派遣社員の話「ニのニの六」。
※2ロジェ・マルタン・デュ・ガール著のフランスの古典的名作。ハードカバーで全5巻という大長編。 僕は、読んだことありません。
※3「映画的」なんて言われることがある。長編『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』は、まさにハリウッド映画。 ズームアップ、スローモーション、パンなどなど自由自在。
※4この作品は、まさに日常の再発見。食事をするシーンを信じられないアングルで描いている。


2002.3

戻る?  もっと戻る?