例えば、何とものどかな「ピクニック」って曲に、「♪お墓でランチを食べながら/灰色の空を 迎え撃つ」
なんてフレーズが出てくると、ハッとする。ピクニックの野原の下に、骨が埋まってる。
「渚の国」って曲では、タイトルの明るさに反して「♪いつでも僕らは とても深い 穴の側」って始まる。
夏休みの明るさのそばに、黒い穴が口を開けている。
キセルの魅力が「ほのぼのとしててのどかでどこか懐かしい」みたいなところにあるのは間違いないんだけど、
それだけじゃないって、僕は思ってるんだ。どこかに、ぽっかり黒い穴が開いてる気がするんだよね(※1)。
暗く不気味な世界、不思議な世界へ通じるような穴。
だから、キセルの歌には何か怖いところがある。
それは、歌詞だったり、アレンジだったり、メロディーラインだったりするんだけど、微妙に不穏な感じがあるんだ。
この世界観は、アルバムを通してどの曲にも流れている。明るい曲も作れば暗い曲も作るっていうんじゃないんだよ。
1曲の中に、両方がある(※2)。
「ギンヤンマ」って曲では、ギンヤンマに「♪僕も 連れてってよ」って歌っている。
ここじゃないどこかへの通路が、ギンヤンマなんだよね。
「さあ、どこへ連れていかれるんだろう?」って思っていると、最後のほうにはこんなフレーズが出てくる。
♪ギンヤンマはばたく
悪魔のようだよ
悩める僕らが
力尽きても
薄笑い浮かべて
ここにはないと 何処までも 飛べ
ここで僕は、またしても不安になる。連れていかれるのは、ひょとしたら恐ろしいところかもしれない。
「ピクニック」の電車みたいなガチャコンガチャコンいうリズムに乗ってると、いつの間にかお墓に連れていかれる。
「渚の国」のねじれたリズムにつんのめってるうちに、穴の前に来ている。
そんな風に、暗い世界がすぐそばにある(※3)。
♪それでも 始めようよ 僕らの物語だ
夜明けに続く 未来の音を 鳴らしましょう
「ハワイアン」
『近未来』っていう、アルバムタイトルは、キセルっぽくないところがキセルらしい。
のどかな兄弟デュオに不似合いな、SFチックなタイトル。
穏やかな歌声に、ひんやりと機械の感触が混じる。この微妙な違和感が、キセルらしいなって思うんだ。
未来は、明るいのか、暗いのか? そんな問いは、あまり意味がない。
だって、この人たちには、両方見えちゃってるから。
何度も言うように、のんびりとした風景のそばにある、大きな穴を見ている。
だから、未来の音は、心地よさと居心地の悪さが混じったものになる。
アコースティックとエレクトロニクスが混ざり合う、どちらともつかない奇妙な音。
そう、「遠い昔は 未来に よく似てる」(※4)。
「ハワイアン」では、このあと、こんな風に続く。
♪真っ赤な 夕暮れの街を
進め 僕は 迷える者だ
未来は明るくもないし暗くもない。両方見えちゃうから、迷うわけ。
そこには何があるんだろう? キセルは答を出そうとはしない。
でも、現在から地続きの近未来は、迷いながら進む先にある。
黒い穴から目をそらさずに進む先に、きっとある。
※1 笑顔の裏に皮肉を含ませる、京都人らしさなのかな? ってあんまり関係ないか。
※2 この感触は、フィッシュマンズにも、くるりにも感じる。簡単に感情を色分けできないような、微妙な感触。
※3 ここで、穂村弘『短歌という爆弾』より、短歌に関する引用。
「たとえばこの歌は、愛情や善意や暖かさを肯定的に描いていて確かにいいものなんだけれども、でもそれはやはり世界の半分に過ぎないわけです。
(中略)世界には明らかにもう半分があって、そこには不吉な暗いものが満ちているんだっていうことを同時に感じさせる詩がやはり本物だと思います」
※4 このフレーズは「近未来」って曲から。ここにも昔と未来をつなぐ通路が開いている。
過去はいつでも新しく、未来はいつでも懐かしい。
2002.12