霧の深さにひそむもの
ユーリ・ノルシュテイン「霧につつまれたハリネズミ」「話の話」



夕闇がせまる頃だろうか、ちいさなハリネズミが野を歩いている。すると、坂の下から霧が立ち込めてくる。 霧に魅せられたように、恐る恐るその中に足を踏み入れるハリネズミ。やがて霧はどんどん濃くなって、あたりは真っ白になってしまう。 そして思わずつぶやくんだ。「おや、自分の足すら見えない…」。
ロシアのアニメ作家、ユーリ・ノルシュテインの「霧につつまれたハリネズミ」は、そんな風にして始まる。 わずか10分の作品でありながら、世界アニメ史に残る傑作であり、もちろん僕も愛してやまない超名作だ(※1)。
「ハリネズミが霧に迷い込んでしまい、様々な体験をして、友達のコグマくんのもとへたどり着く」
言っちゃえばそれだけの話なんだけど、この霧の描写がすごい。なんせ、足元が見えないんだから。 周りに何があるのかも、自分がどこにいるのかも、まったくわからない。 しかもこの霧、のぺーっとただ白いんじゃなくて、細かな粒子でできていて、濃淡があり、流れもあるんだよ。 それは、アニメはおろか実写でだって見たことないような「霧っぽさ」だ。
そのせいか、この作品を観た人は誰もが、「まるで、自分が霧の中にいるみたいな気がする」って口にする。 そう、スクリーンの外にいる僕らも、ハリネズミと一緒に霧の中をさまよってしまう。 ドキドキするような、心細いような、そんな小さな冒険をすることになる。
しっとりとした空気、ぼやけた視界。霧の中は、不思議に満ちている。 巨大な象の影と深い息づかい、ふいに目の前に現れる枯葉やコウモリ、そびえ立つ樹の幹の感触、ちらちら揺れる蛍の光、遠くから聞こえる声…。
霧の中では、見えないぶん、気配に心が研ぎ澄まされる。僕らもハリネズミとともに、様々な気配に感覚をそばだてる。 すると、この霧の中に、いろんなものがひそんでいることがわかるだろう。そしてときに驚き、ときに不安になり、ときに好奇心に目を輝かせるだろう。
これは単なる鑑賞じゃないね。うん、体験だ。「霧につつまれたハリネズミ」体験。
ああ、まったく、どうしてこんなことが可能なんだろう?

ノルシュテインのアニメーションは、僕らがテレビで慣れ親しんだアニメとは大分雰囲気が違う。
彼の手法は、「切り紙アニメ」って呼ばれるもの。 セルに描かれた絵を細かなパーツに切り分け、ガラス台の上で少しずつ動かし、コマ撮りするっていう手法だ。そのパーツの細かさが、繊細な動きを生む。 ハリネズミが手をチョコマカ動かしたり、目を丸くするのも、そのパーツを動かしたり、取り換えたりしながら、コマ撮りしたものなんだ。
さらに、その撮影台はマルチプレーンと呼ばれ、間隔を空けた何層ものガラスでできている。 要するに、前景・中景・後景とレイヤーが分かれているってことね。 そうすると、画面の手前から奥へそれぞれにピンを合わせたり、背景を別のタイミングで動かすことが可能になる。こうして、遠近感が生まれる。
つまり、重ねられた数枚のガラスそれぞれに無数の切り紙のパーツを乗せ、それを同時に動かしながら撮影するわけ。 って、簡単に言っちゃってるけど、これ、気が遠くなるような作業だよ。途方もない手間と時間がかかる(※2)。
繊細な感情表現、詩的な映像のリズム、寓意や暗喩に満ちた物語、モノやキャラクターのリアルさ…。 ノルシュテインの作品を観た人は、皆、その表現の奥深さに驚く。
奥深さ? そう、ノルシュテインの最大の特徴は、画面の神秘的な「奥行き」にあると思う。 そこに、空気や様々な粒子が充満しているような、不思議な奥行き。そして霧はこの奥行きに立ち込める。 霧の深さは、そのまま画面の深さでもあるってわけ。
これを可能にしているのが、遠近感を生むマルチプレーンだ。さらに、コマ撮りによって、セルアニメにはないライブ感覚が入り込む。 こうして、2次元の作品が立体的に立ち上がってくる。ガラスとガラスの隙間、コマと次のコマの隙間に、アトモスフィアが宿るんだ。
例えば、「〜ハリネズミ」の前年に制作された「あおさぎと鶴」っていう作品にも、マルチプレーンは効果的に使われている(※3)。 恋心を抱きながらすれ違い続ける二羽の鳥の物語。廃虚のような荒れ地が舞台なんだけど、ノルシュテインはその遠景に森や草むらを置く。 そして、遠くから聞こえてくる楽隊の音、夜空に上がる花火。あおさぎや鶴のいる世界とは離れたところに、別の世界があることがわかる。 そこから、世界から切り離されたような、「ふたりぼっち感」が迫ってくる。
「奥行きがある」「深さがある」ってのは、つまり、自分の知らないところにも世界があるってことだよね。遠くに、物陰に、あるいは霧の中に。 深い深い、あの夢幻的な霧の中に、いくつもの世界が息づいていたように。

そしてそれは、「〜ハリネズミ」の次の作品「話の話」で、更なる深化を見せることになる。
「話の話」というタイトルとは裏腹に、そのストーリーを要約するのは難しい。直線的なストーリーがないんだよ。 捨てられたアパートに出没する狼の子供、海辺での穏やかに暮らす家族、雪の公園で樹になる林檎を見つめている子供、 戦争に征った男たちと取り残された女たちのタンゴ。いくつかのシークエンスが、詩のように綴られる。 うん、「映像詩」って言葉がこれほど似合う作品はないんじゃないかな。
詩なんだから、論理的な解釈はひとまず置いといて、作品の中に入ってみよう(※4)。んで、感覚をそばだてよう。 そう、あの霧の中をさまよったように、この「話の話」の中をさまよってみよう。
そうすると、イメージの圧倒的なリアリティが立ち上がってくる。そこに立ち込める様々なアトモスフィアが、染み込んでくる。 安らぎや懐かしさ、そしてそれを失った孤独感とか喪失感みたいなものがひたひたと押し寄せてくる。
林檎についた雫の輝き、狼の子の見開いた目、扉からあふれる光、風に煽られるテーブルクロス、レコードの針飛び、立ちつくす女たち、 雪の公園を横切る人影、焼いたじゃがいもの熱さ、手を振る旅人、夕闇に包まれる雄牛、くるまれた布からにょきっと出た赤ん坊の足…。 いくつものイメージが重なり合い、響き合い、反射し合い、様々に形を変えていく。
この重層的な語り口こそが、ノルシュテインの更なる「奥行き」だ。 ひとつの平面にひとつの物語を配するんじゃなく、前景にあったものがいつの間にか背景に退き、ときに映り込み、ときに透けて見え、また前景に現れるような語り口。 話の中にいくつもの話があり、「話の話」となる。
ノルシュテインの「深さ」ってのは、ひとつのイメージの後ろに無数のイメージを感じるということだ。それはそのまま世界の豊かさのことでもある。 そしてそれに触れたとき、ノルシュテイン作品は「体験」になるんだと思う(※5)。
世界は一つじゃない。世界は重なり合い、響き合い、反射し合い、形を変える。まるで、あのマルチプレーンの台のようじゃないか。 きっと、そこにはすべてがあるに違いない。

※1 ユーリ・ノルシュテインの作品は、ほぼすべてがDVD『ユーリ・ノルシュテイン作品集』で観られる。 ちなみに、「霧につつまれたハリネズミ」は、このDVDでのタイトル。先日映画館で上映された際には、「霧の中のハリネズミ」となっていた。 この作品は、『世界と日本のアニメーションベスト150』(ふゅーじょんぷろだくと)というムックでも、堂々の第1位に選ばれている。
※2 現在取り組んでいる作品がゴーゴリの「外套」。もうすぐ約30分の第一部が完成するそうだが、それを撮るのにおよそ20年かかっている。 すべて完成する日はくるんだろうか?
※3 ノルシュテインの作品には、奥行きとともに、横移動がよく登場する。 「あおさぎと鶴」では、二羽の往ったり来たりのすれ違いを、この横移動で巧みに表現している。 また、初の単独監督作品「狐と兎」も、この横移動がユニークな効果を生んでいる。
※4 実は、ジブリの高畑勲による詳細な解説本がある。『話の話』(アニメージュ文庫)というタイトルで、この作品を多面的に読み込んでいる。 「なんだかわからん」と思った人は、読んでみるといいかも。ただし、解説本より作品から受けるもののほうが、ずっとでかいはず。
※5 こんな風に感じさせてくれる作品は、めったにない。音楽でいうと、フィッシュマンズの「LONG SEASON」かな。

2004.8

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