大学3〜4年の頃の話。ぼんやり過ぎていく毎日が、どこか現実感がない気がしていた。
昼前に外を歩いていると、妙に白々した光が嘘っぽく思えたりね。
まるで、テレビの中にいるみたいだ。別に、テレビみたいに面白いってことじゃないよ。テレビ程度の面白さしかないってこと。
どっかで見たことあるような、書き割りのセットの中で繰り広げられる、お約束の世界。
まあ、20代前半の俺は、そんな感じだったわけ。
しりあがり寿のマンガ『真夜中の弥次さん喜多さん』には、こんなシーンがある。
連載15回目に登場する、すべてが紙でできた「吉原の宿」。
喜多さんがうっかり転んで空を掴むと、雄大な富士山を含む風景が書き割りのように引っ張られ、びりびりに破れてしまう。
これを読んだときは、シビれたね。俺がテレビの中にいるみたいって思ってた気分が、このマンガで見事に表現されてるように思えた。
実は俺、連載が始まった頃は、こんなことになるとは思ってなかった。
ホモでヤク中の喜多さんが、薬を止めるために恋人の弥次さんと一緒にお伊勢さんへ向かう。
てことは、『東海道中膝栗毛』に映画『真夜中のカーボーイ』を合わせた、しりあがり寿お得意のパロディだと思ってたわけ(※1)。
ところが、連載8回目の「小田原の宿」あたりから、徐々に弥次喜多脳内観光の趣を呈してくる。
夢と現実が入り混じり、あの世とこの世が渾然一体となっていく。
そして丁度真ん中当たりの「興津の宿」で、このマンガの核とも言えるこのセリフが登場。
「おらあ もお ホントだかウソだか 夢だか なんだか わからねえ……」
このマンガ、初出は「COMIC アレ!」っていう月刊誌に、94年5月〜97年3月にかけて連載されたもの。
その頃はどんな時代だったか思い出してみよう。
バブルがはじけて不況になり、95年には地下鉄サリン事件が起きて、ハルマゲドンなんてバーチャルな言葉にみんなが踊らされた頃だ。
つまり、「リアルって何よ?」っていう問題に、世の中が足を踏み入れちゃった時期なわけ。
そんな時代に、「これがリアルだよ!」って声高に叫ぶものほど、嘘臭いものはない。
「ホントだかウソだかわからねえ」って言う弥次喜多には、「リアルがわかんない」っていうリアリティがあったんだよ。
ホントだかウソだかわからねえのは、マンガの上では一応ドラッグのせいだってことになっている。でも、それだけじゃないよね、きっと。
それは、拠って立つべきものがないってことだ。確固たるものを信じられず、薄ぼんやりとした気分で、ふらふら日々を過ごしてるってことだ。
この先どうなるのか、どうしたらいいのか、よくわからないってことだ。
さあ、どうすりゃいいんだ? っつうことで、二人は旅に出る(※2)。この不安定さを解消するためには、そうだ、お伊勢さんへ行こう。
目指すものがありゃあ、ちったあリアルな足がかりが掴めるだろうよ。
ところが、その旅は脱線に次ぐ脱線、寄り道、回り道、迷い道で、何がなんだかわかんなくなっていく。
目的を持った一本道のはずが、気づけばどことも知れない場所をさまようばかり。
実は、このマンガ自体が、そういう風に描かれている。
一本筋の通ったストーリーと言うよりは、思いつきをどんどん放り込んで、それに突き動かされているように思えるんだよ。
だから、つじつまが合わない部分もあるし、思わせぶりに張られた伏線はいつの間にか忘れ去られるし、
何より、お伊勢さんには最後までたどり着かない(※3)。
結局、「これがリアルだ」って言っちゃったら、途端にそれは書き割りの世界になっちゃうからなんだと思う。
それをやっちまったら元の木阿弥じゃねえか、つうこった(※4)。
だから、弥次喜多は冗談を言っては道中をふざけのめす。そもそも、旅の始まりの第1回目から、このマンガはダジャレで始まってるし。
もちろん、頼りになるものが何にもないのは怖いよ。真っ暗闇を歩いているようなもんだよ。
怖いからこそ笑うんだ。怖いからこそ、前へ進むんだ。
真夜中で何がなんだかわからねえけど、今、今、今の連続で旅をする。
何も作らず、何も頼らず、どこにもたどり着けないけど、
その場その場でいろんなものを見て、いろんなことを思って、それを大事にしてりゃあいいじゃねえか。
あ、でも一人は心細いな。道中を共にする相手が欲しい。手をつなぐ相手が欲しい。
てなわけで、二人旅。もちろん、「愛」だって、不確かで確かな、よくわかんないものだけど。
※1 しりあがり寿は、80年代、パロディマンガを山のように描いていた。萩尾望都や楳図かずおのパロディが印象深い。
※2 ホモの二人は、子供とか家庭っていうリアルにも頼れない。
つまり生産しない性ってことだけど、「非生産的」ってのはしりあがり寿のマンガでは重要なテーマだと思う。
※3 このあと、「弥次喜多シリーズ」は、『弥次喜多 in DEEP』、『小説 真夜中の弥次さん喜多さん』、『真夜中の水戸黄門』、『真夜中のヒゲの弥次さん喜多さん』と、
書き継がれていく。単発ものの短篇にもときたま登場。でも、いつまで経ってもお伊勢さんには着きゃあしない。
※4 例えば、オウム真理教。ちなみに、『弥次喜多 in DEEP』ではもっとはっきり「オウム」をイメージさせる宗教が出てくる。
2005.12