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 きのう読んだ本

  ★[287]冊目からは、面白かった本だけを採り上げ ています。(2010.8)

281‐290-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
 

2011.5.12
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290 桜井章一『修羅場が人を磨く』『手離す技術』

を、5月7日18時10分、自宅で読了しました(『修羅場が人を磨く』2011年2月24日宝島社新書・680円、『手離す技術』2010年6月20日講談社プラスアルファ新書・880円)。

「雀鬼」の次のような言葉には、いつも勇気づけられる。拳々服膺していきたい。

・トラブルやアクシデントをマイナスと捉え、嫌悪したり敬遠するのではなく、「自分を成長させてくれるもの」と思ってそれに備えておく。(『修羅場が人を磨く』34ページ)

・マラソンも人生も、苦しいその先に勝負どころが待っている。そしてその勝負どころで戦ってこそ、人としての可能性が広がっていく。(同50ページ)

・人が「大変だ」ということほど、「なんてことはない」「当たり前だ」と捉える感覚が重要だ。その感覚があれば、トラブルや修羅場の火を最小限に食い留めることができるのである。(同94ページ)

・不調の時でも力を発揮できる人は、修羅場にも当然強い。(同128ページ)

・素の状態で弱い人がどんなに武器や鎧を身につけたとしても、自分自身は弱いままである。権力や名誉を求める人ほど、自分のそんな弱さを認めたくない、隠したいという思いが強い。(同166ページ)

・負の部分を感じたら、それをみんなの前で公表してしまえばいい。出すものを出さなければ、収まるものも収まらない。(『手離す技術』31ページ)

・「すべてを失った」と思うようなことがあったとしても、ほんのわずかなものが、小さなものが残っている。その残ったものを次にどう活かすか。そういう感覚を持っていれば、きっとまたなにかを見つけられる。(同152ページ)。

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2011.4.24
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289 北野武『超思考』『全思考』

を、4月14日23時10分、自宅で読了しました(『超思考』2011年2月10日幻冬舎刊・1470円、『全思考』2009年4月10日幻冬舎文庫・480円)。

北野武はこの二冊の本で、自分の考え方が、「母親のモノの考え方」に由来していることを強調している。北野武の魅力は、自分と対象を突き放して見ていることにあるような気がする。「母親のモノの考え方」がそうだったからに違いない。「北野武のモノの考え方」の一部を、抜き出してみる。

・いつも人生で今が最高の時期だと思っている。老いるのがちっとも苦にならないのだ。(『超思考』50ページ)

・職業なんてものは、あんまり自分の気の進まないものを選んだ方が上手くいくものだ。幸せになりたいなら、いちばんやりたいことは趣味にしておいた方がいい。野球選手になって野球をやるより、草野球の方が楽しいに決まっている。(同65ページ)

・子供のためを思うなら、バラ色の未来を吹き込むなんてバカなことはさっさとやめて、人の世で生きるための礼儀を躾けるべきだ。(同157ページ)

・コツコツと真面目に働いて、家族を守り、子供を育てる。それだけでも、十分に人生を生きたという満足感は得られる。有名になろうが、いい映画を作ろうが、その満足感には大差がないだろうことは、この歳になってみればよくわかる。(『全思考』26ページ)

・どんなにワインに詳しくても、ソムリエにワインのことを語ってはいけない。そんなことをしたら、ソムリエは何も大切なことを教えてくれなくなる。(同138ページ)

・メールが世の中に広まってから、若者の思考回路も、メールのレベルに引きずり降ろされてしまった。今の若い連中は、考えてメールを書くんじゃなくて、メールで書けるくらいのことしか考えなくなってしまっているんじゃないか。(同166ページ)

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2011.1.26
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288 大野晋『日本語の文法を考える』

を、1月22日18時40分、つくばエクスプレスの車中で読了しました(1978年7月20日岩波新書・798円)。

著者はこの本で、日本語の基本的な仕組みは「過去」にできたものだが、その仕組みが「現在」でも、日本人の考え方を固くしばっていると述べている。社会の仕組みが、「過去」と「現在」とでは大きく変容しているにもかかわらず、考え方が「過去」にしばられているということが問題なのだと思う。

言葉を使うことの中心的な役割は、相手の知らないことを相手に伝えることで、日本語では、相手が分かっていることは省略されることが多いという。たとえば、「あの本、どうした?」と聞かれて、「読んじゃった」と答えた場合、「あの本」が話題になっていることはお互いに分かっているので、「あの本」を省略して、「(あの本は)読んじゃった」と答えるのだという。

「不要なものは省略する」(15ページ)という、日本語の仕組みを支えているのは日本社会の成り立ちにあるとして、著者はそれを、「省略しても理解が可能な人間関係の近さにおいて日本語は使われてきた」(15ページ)からだと書いている。この場合、なぜ「不要」と意識するのかが、問われなければならないことになる。

日本の社会では、「人間関係の近さ」において言葉が使われ、親密な間柄でしか言葉が交わされないできた。その結果、お互いを知りつくしている間柄であれば、「省略しても理解が可能」な話題を共有しているため、「不要なものは省略する」ということになったという。

さらに、著者は、「人間関係の近さ」が生じた原因を、日本社会のあり方に求めている。日本人は弥生時代以来、全体として農民(明治の初めでも、人口の8割が農民)であり、村というひとつの輪の中で、お互いを知りつくした人間同士の関係として生活してきた。そのため、相手が分かっていることは省略し、「わずかに分らないところを言葉で補っていく」(16ページ)ことになった、と。

日本語は主語を省略することが多いが、ドイツ語や英語では主語を示さなければ動詞の形が決められないから、主語は省略できない。そして、ヨーロッパでは、知らない人同士が集まって人間関係をつくっていて、誰が何をしたのかを言葉で明確にする必要性があるから、主語は省略できないらしい。

私たちは日本語によって考え方を成り立たせており、その日本語の仕組みが農村社会の「人間関係の近さ」によって支えられてきたものだとすれば、「過去」の考え方によって、「現在」の社会を生きていることになる。そのことはいまでも、「省略」することのできない事実であるような気がする。

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2010.11.3
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287 吉本隆明『15歳の寺子屋 ひとり』

を、10月31日09時30分、自宅で読了しました(2010年10月18日講談社刊・1050円)。

15歳の男女4人を相手に、吉本隆明が恋愛、才能、文学などについて語っている本。著者は自分が年寄りになってみて、分かったことがあるとして、「沈黙も、言葉」ということについて、次のように述べている(22〜23ページ)。年寄りは、若いときには思いもよらなかったことを考えていて、ちゃんと知っているけれど、口に出すのが億劫なので言わないだけである。15歳の少年少女も、大抵のことはみんな分かっているけれど、それを言う言葉を知らないから言わないだけである、と。著者が語っているように、「沈黙に対する想像力」を身につけて、「言葉の根っこ」に思いをめぐらせることができれば、この本のように、言葉のやりとりが可能になるのかもしれないと感じさせる。

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2010.7.27
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286 松本侑子『恋の蛍・山崎富栄と太宰治』

を、7月26日23時10分、自宅で読了しました(2009年10月25日光文社刊・1890円)。

太宰治と死をともにした、山崎富栄の人生をたどる小説ということだが、動きや表情のない静止画像を見ているようで、山崎富栄も太宰も、肉体をもった人間として生きているようには感じられなかった。

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2010.7.24
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285 鈴木孝夫『ことばと文化』

を、7月21日00時10分、自宅で読了しました(1973年5月21日岩波新書・735円)。

すごく面白かった。言葉は人間が世界を認識する窓口で、言葉が違えば、見える世界の範囲、性質が違ってくると、著者は述べている。たとえば人を表す言葉の場合、日本語ではその使い方に目上と目下という分極による規則性があり、また、家族内の使い方の原則がそのまま、家族外の社会にも拡張されるという。 例えば、家族内で話し手は、目上の者に人称代名詞を使えない(父に向かって「あなた」と呼びかけることはできない)が、目下の者には人称代名詞を使える。このことは家族外にも拡張され、先生や上司を「あなた」と呼ぶことはできない(「先生の奥様」とは言うが、「あなたの奥様」とは言えない)が、部下には「きみ」と呼ぶこと(「きみの奥さん」)ができる。これが英語の人称代名詞だと、話し手や聞き手の地位、年齢、性別などと無関係に、抽象的な対話者としての役割だけを表明することで、対話を進めていくことができるという。そのほかにも、日本語の「唇」と英語の「lip」では、その指す範囲が違っていて、「lip」は赤いところだけでなく、口の周囲のかなりの部分をも指すことができるということなど、興味深い話に満ちている。

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2010.6.28
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284 倉持弘『愛と嫉妬』

を、6月26日21時30分、つくばエクスプレスの車中で読了しました(1979年6月20日創元社刊)。

サブタイトルに「感覚の精神医学」とあるように、愛や性における感覚の異常について述べた本。著者は触覚(乳児期の授乳)を、人間が外界を知覚するときの原型であるとして、それが聴覚や視覚を統合していると言う。そして、折口信夫、萩原朔太郎、三島由紀夫の同性愛的な傾向は、幼児期の生活に潜在していたとして、幼児期の触覚や嗅覚の問題として明らかにしている。また、同じ対象でも、見るときの感情の違いによって、至福感(恋愛)では「アバタもエクボ」になるが、 疑惑感(嫉妬)では「エクボもアバタ」になるなどと指摘していることを、面白く読んだ。

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2010.6.10
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283 杉山登志郎『発達障害の子どもたち』

を、6月8日23時20分、自宅で読了しました(2007年12月20日講談社現代新書・756円)。

著者は発達障害を、子どもの発達の途上において、特定の領域に社会的な適応上の問題を引き起こす可能性がある凹凸を生じたものと、定義している。そして、自閉症を発達障害の代表として、その中心に位置する障害を、言葉による概念化が働かないために、対象との心理的な距離がとれず、たとえばコップに注意を向けると自分自身の一部がコップになってしまうというようなことに、また、ものごとの見通しを立てることができないというようなことにみている。その上で、すべての子どもに必要なことは、「愛着者から与えられる肯定感と、自己自身が育む自尊感情の二つ」(212ページ)だと指摘している。この二つのことは、同じことの表と裏だろうが、自己肯定感が対象との心理的な距離をとらせることは確かだと思える。

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2010.5.31
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282 菊池寛『真珠夫人』

を、5月30日22時40分、自宅で読了しました(2002年8月10日文春文庫・600円)。

大正9年の作品。主人公の瑠璃子は家の借金のために恋人と別れ、とりまきの男たちを翻弄するようになるが、かつての恋人の写真を肌身離さず持ち歩いている。最後は一人の青年に殺されることになるが、死の直前に、かつての恋人と再会する。「女王のような威厳と娼婦のような媚」(455ページ)といった、瑠璃子の二面性は現在でも、人物像のパターンとして生きている。だから、意外性はないが安心して読める話だ、とはいえる。

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2010.5.10
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281 原田曜平『近頃の若者はなぜダメなのか』

を、5月8日11時50分、山手線の車中で読了しました(2010年1月20日光文社新書・861円)。

47都道府県の若者1000人以上に会って聞いた話をもとに、「今の若者のリアルな姿」を描いたという本。ここで言う「若者」とは、ケータイを中学高校のときから持ち始めた、現在10代半ば〜20代後半の世代を指している。そして、著者はこの世代の特徴として、ケータイメールなどを媒介に、継続性のある巨大ネットワークを構築しているが、その結果、お互いの顔色をうかがい、過剰に気遣い(空気を読む)をしなければならなくなっていると述べている。それはかつて日本にあった、村社会のような状況の復活だという。面白く読んだが、著者が「新村社会」と呼ぶこの若者のネットワークは、村社会の「復活」というより、潜在化していた村社会の「顕在化」のような気がする。かつての村社会が持っていた、村の外の者は入れない、違反者は追放する、相手に気兼ねするというような掟が、現在の若者のネットワークでも生きているのだろうか。

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