きのう読んだ本★[287]冊目からは、面白かった本だけを採り上げ ています。(2010.8)
▼
291‐298-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
2012.4.26 を、4月23日12時30分、山手線の車中で読了しました(『ま・く・ら』1998年6月15日講談社文庫・730円、『もひとつ ま・く・ら』2001年5月15日講談社文庫・770円)。 落語の枕を集めたもの。電車の中で何度か、声を出して笑いそうになった。話の筋道というのはどんな場合でも、だいたい予想がつくものだが、小三治の枕は聞いている者を予想外のところへ連れていく。そのため聴衆は期待を裏切られるが、その代わりに、感心したり、納得したり、情緒的になったりする話を、笑いに転じることができるのではないか。 『ま・く・ら』に収録されている、「バリ句会」という枕では、こんなふうに語られている。
「エー、俳句の話はこのくらいで。そろそろ落語に入ると思うでしょう? 落語に入ると思わせて入らない。さらに、落語はどこでもやっているから、ほかでやらないような話をするのが楽しみだと語る。そして、悪いところへひっかかったと思ってあきらめてくれと言う。客席はこの笑いによって、この後に語り出される小三治落語の世界に、既に入り込んでいるような気がする。
→『ま・く・ら』 amazonはこちら
2012.2.26 を、2月22日11時00分、自宅で読了しました(1982年3月31日角川文庫)。 難解な書物である。この本は著者が構想する「心的現象論」の総論の部分にあたっており、著者の方法上の立場と、その立場から感情、言語、夢、心像(イメージ)について論じたものである。 わたしの理解の及ぶ範囲で、わたしの関心に引きつけて読むと、難解ではあるが、心の動きをつかまえる原理を手にしつつあるという実感をえることができる。そのことを、以下に書いてみたい。
・方法上の立場について 身体との関係としてみた心の領域は、時間化の度合いとみなすことができる。それは本能、衝動、情緒、感情、心情、理性、悟性などと呼んでいるものに該当し、後者ほど時間化の度合いは高度になる。 外界の現実との関係としてみた心の領域は、空間化の度合いとみなすことができる。それは嗅覚、味覚、触覚、視覚、聴覚などに該当し、後者ほど空間化の度合いは高度になる。 そこで、心の異常(病的)とは、一つには時間化の度合いの異常(病的)としてあらわれ、「衝動」が「理性」として出現したり、「理性」が「衝動」として出現したりすることである。もう一つは空間化の度合いの異常(病的)としてあらわれ、「視覚」が「聴覚」として出現したり、「聴覚」が「視覚」として出現したりする。 私たちの心の動きは、時間化の度合い(身体との関係)と、空間化の度合い(外界の現実との関係)で成り立つ領域の、どこかに位置していると考えることによって、私たちは心の動きを理解する手掛かりを手に入れたといえる。 たとえば、ある対象を知覚しようとするとき、触覚を主に働かせるか、視覚を主に働かせるか、聴覚を主に働かせるかなどにより、心の動きは人によって異なるものとなる。それは「空間化の度合い」(触覚、視覚、聴覚)の差違としてあらわれたものである。 また、ある対象を了解しようとするとき、衝動を主に働かせるか、感情を主に働かせるか、理性を主に働かせるかなどにより、心の動きは人によって異なるものとなる。それは「時間化の度合い」(衝動、感情、理性)の差違としてあらわれたものである。
・感情について 私たちがある対象に対して、感情的に振る舞うとき、私たちは対象を間近で触ったり、味わったり、嗅いだりしているというような心の動かし方をしていることになる。それは「対象について」の、私たちの内部の生理的な反応のようにあらわれるためで、私たちの外部の「対象そのもの」を、見聞きしようとしていることではないからに違いない。了解の時間性が空間化されているから、である。 たとえば、わたしがある人に対して、悪意の感情を差し向けて振る舞ったとすれば、「対象(相手)そのもの」にではなく、「対象(相手)について」の自分の気持ちに意識を向けていることになるのではないか。それは、美味しいコーヒーを飲んでいるとき、「コーヒーそのもの」にではなく、「コーヒーについて」の味覚(美味しいということ)に意識を向けていることに、たとえることができるように思える。
・心像(イメージ)について 心像(イメージ)は、眼の前に存在しない対象を、眼の前に存在するかのように考えることで喚びおこされるが、それはイメージの対象となったものの時間性と空間性をみているということではない。「わたし」の心の世界の、時間性と空間性をみていることになる。 だから、喚起されたイメージとは、イメージとなってあらわれた対象のことではなく、イメージとなってあらわれた「わたし」の心の世界そのものを指している。 たとえば、わたしが友人A、友人Bと、友人Cのことを話題にしていたとする。わたしと友人A、友人Bが、それぞれ思い浮かべている友人Cのイメージは、友人Cそのものではなく、わたしと友人A、友人Bそれぞれの「心の世界そのもの」をあらわしている。 眼の前にない対象を語ること(イメージすること)は、「わたし」の心の世界そのものを語っていること(イメージしていること)になるのだと考えられる。 わたしの関心に引きつけて、しかも、わたしの乏しい理解力の範囲で読んでも、この本には、見えないものが見えてきたと感じさせる迫力がある。 ※各論(未完)は雑誌『試行』29号から終刊74号(1970〜1997)に連載されたものが、猫々堂から資料集として、『眼の知覚論・身体論(資料集56)』『関係論(資料集59)』『了解論1(資料集65)』『了解論2(資料集68)』『了解論3(資料集72)』の表題で出版されています。この資料集は京都の三月書房で入手できます。
→『心的現象論序説(改訂新版)』 amazonはこちら
2012.1.6 を、12月22日23時40分、自宅で読了しました(望月哲男訳、2006年10月20日光文社古典新訳文庫・660円)。
・「イワン・イリイチの死」 「死」に直面したイワン・イリイチの内面描写は、日常的な生活の場面にも通用すると感じさせる。それは作者が、日常的に体験する生活上の挫折を、「小さな死」として捉え、それを個人の「死」にまで敷衍することによって、「自分の死」を体験したかのように描いているからではないか。 イリイチは死の一時間前、「自分の人生は間違っていたが、まだ取り返しはつくという認識を得た瞬間」(136ページ)に、「光」を見出す。そして、「妻や子がかわいそうだ。彼らがつらい目にあわないようにしてやらなくては。彼らをこの苦しみから救えば、自分も苦しみをまぬかれる。」(137ページ)という感懐を持つようになる。 その結果、「痛みはどこへいった?」「死はどこにある?」とみずからに問い、痛みや死の恐怖の代わりに「光」を発見するに到る。 この「光」はイリイチを支えるもので、妻や子がイリイチをどう見ているかということとは関係なく、イリイチ自身のためにだけあるように見える。死の一時間前でさえ、「まだ取り返しはつく」と考えていることによっても、そのことは明らかである。 また、死に直面したイリイチの内面描写は作品の最後に置かれているが、作品はイリイチの死という事実から書き出されていて、そこにはイリイチの「死」に対する妻や友人の無関心さが描かれている。 彼ら(妻や子)を救うというためではなく、彼ら(妻や子)を救うという気持ちを持つことそれ自体が、自分を救うことになるということ、それがイリイチの発見した「光」であり、「妻や子がかわいそうだ。彼らがつらい目にあわないようにしてやらなくては。彼らをこの苦しみから救えば、自分も苦しみをまぬかれる。」という、イリイチの言葉の意味であるように思える。 イリイチが死の一時間前に見出した、この「光」は、日常的な生活の場面をも照らす普遍性を持っているといえる。「他者のため」という自分の考えを守ることが、他者とは関係なく「自分のため」になる、というように。
・「クロイツェル・ソナタ」 主人公の男が、「九十九パーセントの夫婦は私が暮らしたのと同じような地獄に暮らしている」(243ページ)と語っているように、作者も夫婦の間で日常的に「小さな殺人」を繰り返していたのではないか。そのことが作者に、「妻の殺人」を体験したかのように描写することを可能にしているのではないかと思える。
→『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ』 amazonはこちら
2011.11.13 を、11月9日13時00分、自宅で読了しました(1986年10月10日講談社学術文庫)。 三十数年の間、外国人に日本語を教えてきた著者による、日本語に関する本。 言葉には「ものの見方」が内在していて、それが思想や文化の基底に流れていると、著者は述べている。そして、日本語を母国語としている日本人の「ものの見方」は、「客観的事実がどうかよりも、言い出した本人の視点を重視する」ことにあるとして、「たがいに第三者の位置から客観的に見ていこうとする言語とは、発想法が異なっている」ことを、日本語の仕組みから明らかにしている。 例えば、「行く」と「来る」という言葉について、こう語っている。 外国人の家をたずねて玄関のベルを押すと、その人は二階の窓から首を出して、「チョット待って。スグ来ます」と言う。また、帰りがけに、今度はわたくしの家へもおいでくださいと言うと、「アトガトございます。ぜひ来ます」と言う。 日本人なら、「スグ行きます」「ぜひ行きます」と言うところだが、このことについて、著者はこう説明している。英語などの場合は「相手を中心にしたものの見方」をするため、相手の方へ向かうことを「come(来る)」と言う。日本語の場合は「話し手を中心にしたものの見方」をするため、「行く」とは「話し手の位置」から離れ去ること、「来る」とは「話し手の位置」へ向かい到着することである、と。 日本語は「言い出した本人の視点を重視する」という指摘、普段は意識していないことだけに新鮮だった。日本語を喋るということは、「話し手を中心にしたものの見方」を喋っていることになるのだと気づかされる。
→『日本のことばとこころ』 amazonはこちら
2011.10.2 を、9月26日17時10分、東武野田線の車中で読了しました(望月哲男訳、2008年7月20日(1、2巻)光文社古典新訳文庫、2008年9月20日(3巻)、2008年11月20日(4巻)・各800〜1020円)。 作品の冒頭一行目で、作品の語り手は、「幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」(1巻、9ページ)と語っている。 この作品には、「不幸な家族」の「それぞれの不幸の形」が描かれているが、「幸せな家族」の「同じようにみえる幸せな形」は描かれていない。それは、同じようにみえるという理由からか、それとも、どんな家族も「それぞれの不幸の形」を抱え込んでいると作者が考えているからだろうか。 そして、この作品に登場するどの人物も、感情が揺れ動いていて定まることがないため、「不幸な家族」の物語も一定の方向に展開していかない。だから、アンナの不倫も自殺も、物語の進行の必然的な帰着と感じることができないのではないか。 さらに、作品の語り手は、「夫婦の間がはっきりせず、反目とも和合ともつかない状態のときには、何事も始められない」(4巻、178ページ)と語っている。 物語が結末を目指して展開していかないのは、「反目とも和合ともつかない状態」の夫婦は「何事も始められない」といわれているのと同じように、作品に描かれている家族や個人が「はっきりしない状態」にあるために、物語が「何事も始められない」状態におかれているからではないだろうか。 作者はそうした、「はっきりしない状態」におかれている家族や個人の姿こそ、自然の姿だと主張しているようにみえる。 作者の迷いが、登場人物の迷いとなって、作品を読むものを迷路に入り込んだような気持ちにさせるのかもしれない。「迷い」をそのまま、現実と葛藤する能力とすることはできないことだろうか?
→『アンナ・カレーニナ(1巻)』 amazonはこちら
2011.8.11 を、8月8日21時00分、自宅で読了しました(2009年5月30日(1、2巻)新潮社刊・各1890円、2010年4月16日(3巻)1995円)。 第3巻を読んでいなかったので、今回、もう一度第1巻まで戻って、全体を通読した。この作品の深いところから聞こえてくる声は、主人公の「青豆」を1984年から1Q84年に導き入れることになるタクシー運転手の、「見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです」(1巻、23ページ)という言葉にあるような気がする。 「空気さなぎ」「リトル・ピープル」「マザ」「ドウタ」といった複雑な仕掛けも、また、月が空に二個浮かんでいることも、「見かけ」にすぎない。そうした「見かけ」を削ぎ落としてしまえば、「ひとつきりの現実」が見えてくるはずである。 主人公の「青豆」も「天吾」も、精神の異常(心の孤独)を抱え込んでいる。あるいは、精神に異常をきたすような過去を抱え込んでいる。そんな過去を書き換えようとする、「青豆」と「天吾」の行為にこそ、「ひとつきりの現実」があるといっていいかもしれない。 「青豆」と「天吾」は過去のある時期(小学校の四年生のとき)、たった一回だけ、心が豊かに膨らむ時間を共有していた。そして、「青豆」と「天吾」はその「秘密の時間」を、いつでも帰ることのできる場所として大切に保存している。 いつでも帰ることのできる豊かな場所があること、その場所にくりかえし帰ることによって、この現在がいつでも新鮮な場所でありつづけること。そうした行為自体に、この作品が描こうとしている「ひとつきりの現実」があるように思える。
→『1Q84(1巻)』 amazonはこちら
2011.6.2 を、5月28日18時30分、つくばエクスプレスの車中で読了しました(2011年4月15日青春新書・840円)。 「人生の目的は何か」というようなことは、若いときに「長い周期」で考えることで、年をとってからは人間の幸・不幸を「短い周期」で考えればいいと、著者は語っている。 そのことは、日々の思いを細かく刻んで、その日がいい気分だったらそれを幸福と考え、その日がいい気分でなかったらそれを不幸と考える。たとえば、自分の命があと二年くらいしかもたないと思っていたら、幸・不幸を一時間ごとに細かく刻んで考えればいい。そして、時間の刻み方を細かくするということでしか、人は「生死の不安の重圧」から逃れることができないと述べている。 若いときは「長い周期」で考え、年をとったら「短い周期」で考えるという方法を知っただけでも、ずいぶんと肩の荷がおりたような気がする。 ※この本は『幸福論』(2001年3月青春出版社刊)を新書化したもので、新たに「新書化にあたってのあとがき」が書き加えられています。
→『老いの幸福論』 amazonはこちら
2011.5.12 を、5月7日18時10分、自宅で読了しました(『修羅場が人を磨く』2011年2月24日宝島社新書・680円、『手離す技術』2010年6月20日講談社プラスアルファ新書・880円)。 「雀鬼」の次のような言葉には、いつも勇気づけられる。拳々服膺していきたい。 ・トラブルやアクシデントをマイナスと捉え、嫌悪したり敬遠するのではなく、「自分を成長させてくれるもの」と思ってそれに備えておく。(『修羅場が人を磨く』34ページ) ・マラソンも人生も、苦しいその先に勝負どころが待っている。そしてその勝負どころで戦ってこそ、人としての可能性が広がっていく。(同50ページ) ・人が「大変だ」ということほど、「なんてことはない」「当たり前だ」と捉える感覚が重要だ。その感覚があれば、トラブルや修羅場の火を最小限に食い留めることができるのである。(同94ページ) ・不調の時でも力を発揮できる人は、修羅場にも当然強い。(同128ページ) ・素の状態で弱い人がどんなに武器や鎧を身につけたとしても、自分自身は弱いままである。権力や名誉を求める人ほど、自分のそんな弱さを認めたくない、隠したいという思いが強い。(同166ページ) ・負の部分を感じたら、それをみんなの前で公表してしまえばいい。出すものを出さなければ、収まるものも収まらない。(『手離す技術』31ページ) ・「すべてを失った」と思うようなことがあったとしても、ほんのわずかなものが、小さなものが残っている。その残ったものを次にどう活かすか。そういう感覚を持っていれば、きっとまたなにかを見つけられる。(同152ページ)。 |