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 きのう読んだ本

  ★[287]冊目からは、面白かった本だけを採り上げ ています。(2010.8)

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2017.7.21
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316 見城徹『たった一人の熱狂』

を、7月20日21時10分、自宅で読了しました(2016年4月12日幻冬舎文庫・702円)。

人が永遠に死なないとしたら、たぶん人は行動をすべて停止してしまうだろう。不死であるなら、いま行動する必要性を感じないからである。自分の死が不可避であり、従って自分の生が限定されていると意識していることが現在の行動につながっている。

著者の見城徹は、なぜそこまで仕事に熱狂できるのかと聞かれることがあるという。著者はその理由を、死の虚しさを紛らわせるためと答えている。死の意識が現在の行動につながっているのである。

死の虚しさは生の虚しさと表裏の関係だが、その虚しさを紛らわせるものとして、著者は仕事、恋愛、友情、家族、金の五つをあげている。この五つはどれが欠けてもダメで、特に仕事、恋愛、友情の三つが上位にくるという。

仕事、恋愛、友情に熱狂するためには「圧倒的努力」しかない。それがこの本からずっと聞こえてくる声だ。著者の「圧倒的努力」とは、例えば、石原慎太郎と一緒に仕事をしたいと思ったとき、石原の目の前で石原の作品『太陽の季節』と『処刑の部屋』の全文を暗誦しようとしたということなどである。

著者はその一方で、一日の終りは毎日が後悔だという。寝る前にその日の自分の言動、行動を振り返り、余計な一言を言って人に不愉快な思いをさせてしまったと悶々とする、と。

死の意識を中心に努力と後悔の間を往復する。振幅の大小はあっても、努力と後悔の間を動き続けるしかない。そして努力も後悔も、誰からも見えないところで一人でやるしかないと思わせてくれる、そんな本だ。

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2017.2.5
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315 大野晋・金関恕編『日本語はどこから来たのか』、小泉保『縄文語の発見』

を、2月2日16時30分、自宅で読了しました(『日本語はどこから来たのか』2006年12月21日岩波書店・2160円、『縄文語の発見』1998年6月15日青土社・2013年新装版2808円)。

○『日本語はどこから来たのか』
大野晋(国語学)と金関恕(弥生考古学)が、大野の日本語タミル語起源説をめぐって、馬場悠男(形質人類学)、小林達雄(縄文考古学)、中川裕(アイヌ語学)、西谷正(朝鮮考古学)と白熱した対話を繰り広げた書。

大野晋は日本語の起源を南インドのタミル語とみており、弥生時代に日本に到来したタミル語が、それ以前にあった言語に取って代わったとする。この本に収録された対話を読むかぎりでは、大野晋のタミル語起源説はだいぶ分が悪いという印象を受ける。

日本語の起源以外の話で、大野晋の発言から、以下のような興味をそそられる話題がいくつかあった。

《・形容詞のク活用(広く、高く、長く、短く)は客観的な状態をあらわす言葉で、シク活用(嬉しく、悲しく、淋しく、侘しく)は感情・情緒をあらわす言葉である。シク活用の形容詞は細かい意味の言葉がたくさんあるが、ク活用の形容詞は奈良時代から数も増えず、細かい表現の言葉がない。客観的なことを見分けて認識しようという心が働かなかったからである。その結果、日本文化は感情、人情を重んじるが、客観的な状態を詳しく調べて追跡しない。

・日本人は奈良時代から漢語を習うことで、日本語の大まかさを補ってきた。ものを考えるときに、漢字の力で語彙の足りないところを補ってきた。明治以降、日本がヨーロッパ文明を取り入れられたのは、漢字を持っていて、英語、ドイツ語、フランス語などの複雑な観念を、漢字二字に置き換えて日本に持ち込むことができたからである。

・中国からは書物を通して、単語だけはたくさん学習した。単語は現在でも、日本語の半分くらいは漢語だが、文法は中国語から何の影響もこうむらなかった。漢語と日本語とは起源的に関係がない。

・日本語は全部母音で終わっている。母音終りの言語は、マレー・ポリネシア語系統の言語しかない。縄文時代にはポリネシア系統の言語、母音終りの簡単な子音組織を持った言語が使われていただろう。》

人の気持ちを表現するシク活用の形容詞はたくさん思い浮かぶし、普段からよく使っている。「嬉しい」「悲しい」「寂しい」などという言葉を、数えきれないほど使い、聴き、読み、心の中で思ってきた。こうした言葉を使い、聴き、読み、思っただけで、情緒的な気持ちが刺激されるのを感じる。

シク活用の形容詞を、漢字二字に置き換えて表現するとしたらどうなるのだろう。たとえば秋の夜空の月を見て、「寂しい」(シク活用)と心の中でつぶやいたとする。このとき漢字二字を使って心の中でつぶやこうとすると、「私は寂寥という感情を所有している」とでも表現するしかないのかもしれない。それでも、自分の気持ちと距離がとれたような気分にはなれる。

シク活用の形容詞では身体的には胸のあたりに何かを感じるが、漢字二字では頭部に何かを感じる。流れの方向が定まらない「和語(感情・情緒)」を整理して筋道をつけてくれるのは、「漢語(複雑な観念)」であるように思える。

○『縄文語の発見』
日本語は縄文時代の一万年の間に、日本列島の中で形成されたもので、この縄文人の言語が二千年以上前に渡来した大陸文化によって、突如一変させられたとは考えられないと著者は述べている。

日本語と同系の言語は日本周辺の言語にはなく、琉球語だけが日本語と同系の関係にある。しかし、日本列島には南の沖縄から北の東北まで、同系の方言が分布しているので、列島各地の方言を比較して原形を復元すれば、縄文語の姿を取り戻すことができるという。そうした「地域言語学」の手法で得た結論を次のように述べている。

縄文時代に使われていた言語は、弥生時代に伝来した大陸文化によって変形されて弥生語を生み出した。北九州に発した弥生語は東へと拡張したが、東北の地へ直接入り込むことはできなかった。そのため現在でも、東北弁は縄文語を保存しており、関西弁は弥生語の直系となっている。沖縄の方言が東北方言と音声対応を示すのは、共通の基語から派生しているためである。

そして著者は最後に、縄文基語そのものがどのように形づくられたかは霧の中に包まれている(タミル語などを起源としていても不思議ではないとする)が、「弥生語も縄文語の一変種にすぎない。」と書いている。

日本語は縄文時代の一万年の間に日本列島の中で形成されたもので、弥生語も縄文語の一変種にすぎないという著者の説はタミル語起源説より説得力がある。東北弁・沖縄方言に縄文語を感じ、関西弁に弥生語を感じることができるかどうか。耳を傾けていたい。

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2016.8.12
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314 糸井重里『ボールのようなことば。』『ふたつめのボールのようなことば。』

を、8月11日23時30分、自宅で読了しました(『ボールのようなことば。』2012年4月17日、『ふたつめのボールのようなことば。』2015年8月8日、同・ほぼ日文庫・799円)。

一度読み終わっても、手元においてときどき取り出し、適当にめくって開いたページを読む。そんなふうに使いたくなる、明日につながる言葉が収められている実用書だ。いくつか抜き出してみる。

「自分たちはいいことしてる」と思っていると、
絶対にろくなことはありません。
「いいことをしてない人」に、強く働きかけようとしたり、
いいことをしているのだから、と、
図々しく声高になったりしやすくなります。(『ボールのようなことば。』)

あわてて何かして、よかったことなんて、
一度でもあったのか……ないですよ、ほんとにない!
あわてて考えたことを実行しなくて助かったなんてこと、
ありましたとも、あったあった、そんなことばかりです。(同上)

「ねばれ!」しかないんですよね、たいていのことは。
天からの啓示も、ありがたい偶然も、
ねばっている人のところにやってくるわけで、
おそらくそれは「考えつづけている」というのと、
同じことなんじゃないかなぁ。(同上)

きれいな女性と言われる人は、まずは姿勢がきれいです。
どんな美容法より効果的で、しかも無料です。
      (『ふたつめのボールのようなことば。』)

「少年」という店は、いつか閉店せざるを得なくなるものだ。
だけど、裏口はずっと開けっぱなしでさ。(同上)

おそらく「集中して死ぬほど考える」ということよりも、
「しっかり感じる、そして毎日やすみなく考える」ことのほうが、
難しい問題を解決に近づけてくれる。(同上)

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2016.6.13
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313 村上春樹『職業としての小説家』

を、6月13日13時00分、自宅で読了しました(2015年9月10日スイッチパブリッシング・1944円)。

デビュー作の『風の歌を聴け』について、著者ははじめ、万年筆を使って原稿用紙に書いてみたが、書き上げたものを読んでみると面白くないし、心に訴えかけてくるものがないと感じた。そこで英文タイプライターを持ち出し、英語で書き進めているうちに、だんだんそこに自分なりの文章のリズムが生まれてきた。

そして、英文タイプライターを押し入れに戻し、もう一度原稿用紙と万年筆を出して、英語で書いた文章を日本語に「翻訳」していった。すると、そこには自分の手で見つけた、「新しい日本語の文体」が浮かび上がってきたという。

「新しい日本語の文体」を見つけることができれば、新しい考え方、新しいイメージ、新しい世界をつくりだせることになると思う。むしろ新しい世界をつくりだすために、「新しい日本語の文体」を見つけることが必要なのかもしれない。その方法はさまざまだと思えるが、私などはそんな「新しい日本語の文体」と出会えるのではないか、新しい世界を体験できるのではないかと期待して、読書(だけではないが)をつづけているような気がする。

また、著者は夏目漱石について、つぎのように書いている。

「日本の小説でいえば、夏目漱石の小説に出てくる人々も実に多彩で、魅力的です。ほんのちょっとしか顔を出さないキャラクターでも、生き生きとして、独特の存在感があります。そういう人たちの発する一言や、表情や動作が不思議に心に残ってしまったりします。漱石の小説を読んでいていつも感心するのは「ここでこういう人物が出てくることが必要だから、いちおう出しておきます」みたいな間に合わせの登場人物がほとんど一人も出てこないことです。頭で考えて作った小説じゃない。しっかりと体感のある小説です。言うなれば、文章のひとつひとつに身銭が切られて(原文傍点)います。そういう小説って、読んでいていちいち信用できてしまうところがあります。安心して読めます。」

漱石の作品には、「新しい日本語の文体」が息づいているということだと思う。漱石の『三四郎』の冒頭に出てくる、主人公の三四郎が汽車で乗り合わせた女性はその後作品に登場することはないが、魅力的で独特の存在感がある。私などその女性の「発する一言や、表情や動作」に、心をわしづかみにされてしまう。

「新しい日本語の文体」と出会うことによって、新しい世界を体験すること。そのことはこの現実世界を、いつでも新鮮な新しい世界として再体験させてくれる。

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2016.6.5
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312 中沢新一『芸術人類学』

を、6月4日14時30分、自宅で読了しました(2006年3月22日みすず書房・3024円)。

この本に収録されている「芸術人類学とは何か」の中で、著者は、世界中の言語の基本構造は同じように合理的にできていて、そのため合理的な思考を人間に約束してくれている。その言語の基本構造によって、人類は「狂いやすい心」を制御し、合理的な心の運用を可能にしていると述べている。

こうした言語の構造を使うことによって、自分の心に立ち起こるイメージを整理し、順序立て、自分の外の現実世界をつくっている構造とだいたい同じ型で動く構造を心の中につくりだし、日常生活に適応している。そうでなければ、自分の心の内部に抱え込んだ爆発的な活動力に方向づけや秩序を与えて、妄想や個人的な幻想に陥らないようにすることはできないとされる。

著者がいうような、社会性や言葉の合理性を吹き飛ばしてしまうほど強烈な裸の状態にある「流動的な心」を私たちが抱え込んでいるとすれば、それにどんな言葉を与えるかによって「流動的な心」はどんな方向にでも動くことになる。「流動的な心」に言葉の合理性を与えるだけではなく、「流動的な心」に新しい言葉を与えない限り、「流動的な心」は妄想や個人的な幻想の方向に爆発的な活動力を見つけ出すかもしれない。 とても切実な現在的な問題であるような気がする。

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2015.12.16
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311 島田裕巳『日本宗教美術史』

を、12月15日14時10分、自宅で読了しました(2009年10月17日芸術新聞社・3564円)。

宗教の歴史は従来、信仰対象として表現された宗教美術(仏像など)を無視して、文書に残された思想だけから論じられてきたと、著者は述べている。しかし、その時代の宗教の全体像を把握するためには、それだけではなく宗教美術の歴史をたどっていく必要性があるという。本書はその試みとされる。

宗教美術は「必然的に信仰や宗教のあり方に影響を与えていった」(375ページ)と、著者は書いている。著者は宗教美術(仏像など)を宗教や信仰の結果としてだけ見るのではなく、宗教美術を原因とした宗教や信仰のあり方をも宗教史として考えようとしているようにみえる。

「宗教から見た宗教美術史」ではなく、「宗教美術から見た宗教史」は可能なのだろうか? 著者がいうように、宗教美術を「言語化していくという厄介な問題」(19ページ)を解くことは可能なのだろうか? この本を読んで、採り上げられている宗教美術品が、宗教的な何かを語り出しているとまではどうしても感じられなかった。それは困難なことなのかもしれない。

それでもこの本では、日本の宗教美術が、思想史としての日本宗教史との関連で描かれているため、宗教史として立体的に感じられて面白く読むことができた。

宗教美術(仏像など)から宗教性を読み取ることは困難だとしても、宗教美術から美や宗教性を感じ取ることはできそうである。著者はこの『日本宗教美術史』を書くための取材旅行をもとに、『仏像鑑賞入門』(2014年1月17日新潮新書・778円)を書いている。そこには和辻哲郎の『古寺巡礼』の仏像をほぼ網羅した三泊四日のモデルコースや、見るべき全国十の仏像などが紹介されている。いつか行ってみたいと思う。

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