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 きのう読んだ本

  ★[287]冊目からは、面白かった本だけを採り上げ ています。(2010.8)

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2019.12.8 
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326 大野晋『日本語の年輪』

を、12月6日に読了しました(1966年5月新潮文庫・539円)。

単語の意味の歴史をたどることは、その民族の心情や文化の歴史をたどることだ、と著者は述べている。たとえば日本語(ヤマト言葉)には、英語の「nature」に該当する言葉がない。現在では「nature」に「自然」という中国語をあてているが、日本人はもともと、「nature(自然)」を人間に対立する一つの物として意識していなかった。そのため「nature(自然)」は一つの名前を持つことがなかった。ヨーロッパ人にとって、「nature(自然)」は、働きかけ、変革し、破壊し、人間に役立つものを作り出す素材である、と。

日本人はこうした「nature(自然)」観によって、現在でも、「nature(自然)」は人間に対立するものではなく、人間が溶け込むところ、いつかは帰っていくところと思っている。「nature(自然)」と溶け合い、「nature(自然)」に対して自と他という区別を持たない。そのため日本語(ヤマト言葉)には「nature(自然)」という単語がない、と。

そして、「nature(自然)」を意味する日本語(ヤマト言葉)がないということが、日本人の「nature(自然)」に対する考え方の「観念のワク」を作り上げている。言葉は人間の考え方、感じ方、やり方を決定する、と。

思考が言葉でなされる以上、著者の言うように、言葉は「観念のワク」を作り上げていると考えられる。たとえば、私たちは「懐かしい」という言葉をよく口にするが、私たちは「懐かしい」という言葉が喚起するイメージをもとに、私たちの考え方、感じ方を作り上げているはずである。

しかし著者は、言葉は人間の考え方、感じ方、やり方を決定するばかりではないという。人間は新しい言葉を作り、言葉を変形し、言葉の意味をずらすことで、「観念のワク」を変えていくこともできる、と。著者は「言葉が人間を作る」ということと、「人間が言葉を作る」ということを、「言葉の実際の場で働く、重要な二つの力」と書いている。

文学に感動があるとすれば、そこには「人間が言葉を作る」という、「言葉の実際の場」があるからに違いない。「人間が言葉を作る」ことによって生まれた、新たな表現が私たちの「観念のワク」にショックを与え、感動をもたらすのではないだろうか。

私たちが文学的なものを求めるのは、「言葉が人間を作る」という日常生活の場から離れて、「人間が言葉を作る」という場に立ち会うことによって、自分の内部に新たな「観念のワク」を作り出したいという欲求のためであるような気がする。

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2019.9.29 
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325 柳田国男『日本の民俗学』

を、9月28日に読了しました(2019年6月中公文庫・1296円)。

柳田国男は「郷土研究ということ」(大正14年)の中で、次のように述べている。自民族と他民族との間には顕著な差異があるにもかかわらず、多くの共通性が発見できることに気がつく。偶然の一致などとはいえない類似である。慣習、言語、宗教、政治関係も別であったもの同士が、近づけば自然に理解しあうことのできる法則を持っていたということは驚嘆すべきことだ。それは人種がもとは一つだったためかもしれない、と。

そしてこのことは「希望」であるとも言う。ヒトの起源はDNAの分析によって、アフリカ単一起源説が有力になっている。柳田国男のいうように、人種がもとは一つだったことが証明されつつあるといえる。

ヒトが考えること・感じることは、いつでもどこでもあまり変わらないと、柳田国男は考えていたような気がする。だから差異より、共通性に重きを置いたのではないだろうか。

個々人の内部に共通の地層が分厚く堆積していなければ、人と人とのつながりも成立しない。「希望」があるとすればこの共通性だと思える。

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 2019.9.14 
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324 高橋源一郎『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』

を、9月13日読了しました(2018年8月講談社・2160円)。

何度か吹き出しそうになった。ところがそうなるのも、「六十代以上の人たちだけ」かもしれない。というのも、作者は、「いまでも「文学」を必要としているのは、(おそらく)六十代以上の人たちだけだ。そして、彼らは、ほどなく、いなくなるのだ。」と書いているからである。

「文学」を必要としていないとはどういうことだろうか。「武田泰淳という人」の文章と、「誰でも知っているホリエモン」の文章との違いを、作者は、「抵抗」というものが感じられるか感じられないかにあるという。武田泰淳の文章には「抵抗」があるが、ホリエモンの文章には「抵抗」がない。ホリエモンの文章には、わかりにくいもの、無駄なもの、不必要な「抵抗」を生じさせるものがない。武田泰淳の文章にはそれがある、と。ホリエモンに「文学」はないが、武田泰淳には「文学」があるということだと思う。

さらに、武田泰淳は「文学」を「公的」なものだと考えていた。そして「公的」なことばの広がりは、「戦後」という空間そのものの広がりにほぼ等しい、と。

「文学」=「公的」なことばの広がり=「戦後」という空間そのものの広がり、とすれば、「文学」を必要としていないとは、「戦後」という空間が「公的」なことばの広がりを必要としていないところまで縮小してしまった、ということになるのかもしれない。

「六十代以上の人たちだけ」が、「文学」を必要としているのだろうか。作者は書いている。「どのような条件の下でも、そこに複数の人間がいて、繋がろうとする意志があるなら、小説は生きられる。小説とは、共同体のひな型、もっとも小さな共同体であり、やがてやって来る共同体の内実を予見する能力を持っている、とぼくは考えている。」、と。

小説を読み続けるということは、「やがてやって来る共同体」を感じ取りたいという、無意識の行為のような気がする。

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2019.8.24 
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323 東浩紀『ゆるく考える』、川島蓉子・糸井重里『すいません、ほぼ日の経営。』

を、8月23日読了しました(『ゆるく考える』2019年2月河出書房・1944円、『すいません、ほぼ日の経営。』2018年10月日経BP・1620円)。

『ゆるく考える』に収録されているエッセイ「困難と面倒」(2018.6)の中で、著者は、情報技術によるコミュニケーションの進歩や社会変革の可能性を長いあいだ信じてきた。けれどもいまは情報技術に大きな期待を寄せていないとして、次のように述べている。

期待すべきは、家族や友人など、面倒な小さな人間関係しかないのではないか。本当の困難を抱えたとき、SNSの知人は助けにならない。一生をかけて変えることができるのはごく少数の身の回りの人々だけで、自分を変えることができるのも彼らだけだ。面倒な小さな人間関係をどれだけ濃密に作れるかで、人生の広がりが決まる。面倒のないところに変化はない。情報技術は面倒のない人間関係を可能にしたが、人間から変化の可能性を奪うものでもあった、と。

実感的にとても共感できる考え方だと思う。家族や友人などの小さな人間関係を濃密に作ることは、著者の言うように面倒なことかもしれない。生い立ちや成育歴などによっては、濃密で小さな人間関係を作ることが難しいかもしれない。濃密さを求めすぎて、愛憎の感情にとらわれることがあるかもしれない。それでも情報技術ではえられない、「変化の可能性」を手に入れることができるような気がする。

同時に読んでいた『すいません、ほぼ日の経営。』(聞き手・川島蓉子、語り手・糸井重里)の中で糸井重里は、チームの仕事がフリーの仕事と違うのは「投げ出せない」ことだと語っている。

「投げ出せない」ということは家族や友人との人間関係でも同様で、そうした意味では家族や友人との関係は「面倒」といえるかもしれない。しかし家族や友人やチームという「面倒」の中でしか、「変化の可能性」を見出すことができないことも確かなような気がする。情報技術は避けられないとしても、その限界についてはいつも自覚的でありたいと思う。

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2019.6.10 
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322 新井紀子『AIvs.教科書が読めない子どもたち』

を、6月7日、読了しました(2018年2月15日東洋経済新報社・1620円)。

面白くて一気に読んだ。著者は、日本の中高校生とAI(人工知能)の能力は似ているとして、次のように指摘している。日本の中高校生の多くは、詰め込み教育のため英語の単語や世界史の年表などの知識はあるが、教科書の文章を正確に理解することができない。AIも同様に、英単語や世界史年表を憶えることは簡単にできるが、教科書に書いてあることの「意味」を理解することはできない。

人間がAIに似ているということは、人間がAIに代替されやすいということでもあり、AIが対処できない仕事は多くの人にとっても対処できない可能性が高いということでもある。人間の仕事の多くがAIに代替される社会は迫っている(20年以内にホワイトカラーの50%が減少)が、AIに仕事が代替された社会では、AIが対処できない仕事に多くの人が就くことはできない。

AIは統計と確率の手法で言語を学習しているだけだから、文章の「意味」を理解することはできない。そのため自動翻訳は事実上不可能であり、AIが優れた小説を書いたり、楽曲を作曲したり、絵を描いたりすることはムリである。

AIで肩代わりできる仕事は事務系の仕事だが、AIにできない仕事はコミュニケーション能力を求められる仕事、介護のような柔軟な判断力が求められる仕事などで、高度な読解力や人間らしい柔軟な判断が求められる分野である。AIが代替できない仕事の多くは、女性が担っている仕事である。

AIは言葉の「意味」を理解できないから、AIに代替されない能力は言葉の「意味」を理解する能力である。しかし中高校生の読解力を調べてみると、高校生の半数以上が教科書の「意味」を正確に理解することができない。多くの日本人の読解力も同じ状況にある。だからAIにできない仕事は、多くの人にとっても簡単にできる仕事ではない。

読解力を育て、逆に損なう原因を調査してみても、読書の好き嫌い、学習時間、スマートフォンの利用時間などと読解力との相関は見つからない。著者の体験から、読解力はいくつになっても向上すると考えられる。また著者の、デカルトの『方法序説』を20回は読んでいるがまだ分からない部分があるという体験から、多読ではなく、精読・深読に読解力向上のヒントがあるのではないかという予感がする。

AIを導入する過程で、高度で知的な仕事ができない人は職を失い、単純労働は賃金の安い国に移動してしまう。ホワイトカラーは大半が職を失う危険がある。それらの人々を吸収する新しい仕事は、人間にしかできない仕事である。ところが文章の「意味」を理解するという、人間にしかできない能力を多くの人が身につけていない。そのため、AIのできない仕事をすることができる人は20%に満たない可能性がある。

AIに代替されることなく残っていく仕事は、たとえば糸井重里の「ほぼ日」に見られるような「人間らしい仕事」である。そこで売られている商品は、少量生産でつくられた類似品のない魅力的なもので、需要がいつも供給を上回っている。似たような仕事はこの10年間にたくさん生まれている。AIが得意な暗記や計算に逃げずに「意味」を考えること、重要なのは読解力である、と。


言葉の「意味」を正確に理解しているかという疑問は、自分を含めて思い当たることが多い。私自身、この本を正確に理解することができただろうか。著者のいう、多読ではなく、精読・深読ということの大切さも実感的によく分かるような気がする。

この本を読んで感じたのは、「AI」のイメージが遠くに小さくしか見えなくなったこと。同時に、AIに似ている「言葉の意味が理解できない人間」のイメージが近くに大きく見えるようになったことである。

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2019.5.26 
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321 ニコラス・G・カー『ネット・バカ−インターネットがわたしたちの脳にしていること』

を、5月24日、読了しました(篠儀直子訳、2010年7月30日青土社・2376円)。

人はインターネットによって、集中力と思索力を弱体化させているとして、著者は次のように述べている。ネットほど広範・執拗に注意力を散漫にするメディアはなく、ネットに接続することによって、通りいっぺんの読み、注意力の散漫なあわただしい思考、表面的な学習を行うようになる。ネッによって思考様式にもたらされる最大の長期的影響は、点滅する画面には強く集中させられるが、切れ目なく発信される情報や刺激のために注意はかえって散らされてしまうことである。

いっぽう読書はネットにくらべ刺激が少ないため、注意力の散漫を避けることができ、深い読みは深い思考の一つの形となる。読書家の脳は落ち着いた頭脳であって、ネットを使っているときのような騒々しい頭脳ではない。

しかし、ネットの刺激は都市の刺激と同様、放棄したい気持ちになれそうにないが、ネットは同時に、疲労させるもの、注意力を散漫にさせるものにもなる。そしてそれは穏やかで注意力のある精神を必要とする、深い思考や共感・同情という人間性をゆっくりと侵食していく。心理的な共感・同情というものは、脳内で緩慢に展開されて時間がかかることだから、注意力が散漫になればなるほど、人間独特の共感・同情などは経験できなくなる。ネットは思考だけでなく、感情の深さも変化させつつある。

問題は、効率的なデータ収集と、非効率的な思索という、これら二つの異なる精神のバランスを人がとれなくなりつつあることである。人は自然の中の静かな場所でしばらく過ごすと、注意力と記憶力は増し、認知能力も向上する。脳はネットによる外からの刺激に攻めたてられなくなると、自然にリラックスできるようになり、脳は静まり、鋭くなる。

著者の指摘していること一つひとつが、思いあたることばかりである。ネットを使用しているとき、画面を見ることに集中はできても、そのことが思考に集中することには少しもつながらないことは実感的にとてもよく分かる。著者は、グーグル検索、メール、フェイスブック、ツイッター、ブログなどの、ネットの双方向性が人を「メディアに食い尽くされている精神」の状態にすると書いている。そのことも実感的によく分かるような気がする。

著者はネットを使うことが止められことではないことも、ネットのない時代に戻れることではないことも示唆している。ネットのマイナス面だけを強調しているのではなく、ネットによる効率的なデータ収集と、ネットから離れた非効率的な思索という、二つの異なる精神のバランスをいかにとるかという問題を投げかけている。ネットのマイナス面と限界にいつも自覚的でありたいと思わせるような、そんな本だ。

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