表紙きのう読んだ本[一覧]サイトマップ

 きのう読んだ本

  ★[287]冊目からは、面白かった本だけを採り上げ ています。(2010.8)

321‐322-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
 

2019.6.10 
―――――――――――――――――――――――――――
322 新井紀子『AIvs.教科書が読めない子どもたち』

を、6月7日、読了しました(2018年2月15日東洋経済新報社・1620円)。

面白くて一気に読んだ。著者は、日本の中高校生とAI(人工知能)の能力は似ているとして、次のように指摘している。日本の中高校生の多くは、詰め込み教育のため英語の単語や世界史の年表などの知識はあるが、教科書の文章を正確に理解することができない。AIも同様に、英単語や世界史年表を憶えることは簡単にできるが、教科書に書いてあることの「意味」を理解することはできない。

人間がAIに似ているということは、人間がAIに代替されやすいということでもあり、AIが対処できない仕事は多くの人にとっても対処できない可能性が高いということでもある。人間の仕事の多くがAIに代替される社会は迫っている(20年以内にホワイトカラーの50%が減少)が、AIに仕事が代替された社会では、AIが対処できない仕事に多くの人が就くことはできない。

AIは統計と確率の手法で言語を学習しているだけだから、文章の「意味」を理解することはできない。そのため自動翻訳は事実上不可能であり、AIが優れた小説を書いたり、楽曲を作曲したり、絵を描いたりすることはムリである。

AIで肩代わりできる仕事は事務系の仕事だが、AIにできない仕事はコミュニケーション能力を求められる仕事、介護のような柔軟な判断力が求められる仕事などで、高度な読解力や人間らしい柔軟な判断が求められる分野である。AIが代替できない仕事の多くは、女性が担っている仕事である。

AIは言葉の「意味」を理解できないから、AIに代替されない能力は言葉の「意味」を理解する能力である。しかし中高校生の読解力を調べてみると、高校生の半数以上が教科書の「意味」を正確に理解することができない。多くの日本人の読解力も同じ状況にある。だからAIにできない仕事は、多くの人にとっても簡単にできる仕事ではない。

読解力を育て、逆に損なう原因を調査してみても、読書の好き嫌い、学習時間、スマートフォンの利用時間などと読解力との相関は見つからない。著者の体験から、読解力はいくつになっても向上すると考えられる。また著者の、デカルトの『方法序説』を20回は読んでいるがまだ分からない部分があるという体験から、多読ではなく、精読・深読に読解力向上のヒントがあるのではないかという予感がする。

AIを導入する過程で、高度で知的な仕事ができない人は職を失い、単純労働は賃金の安い国に移動してしまう。ホワイトカラーは大半が職を失う危険がある。それらの人々を吸収する新しい仕事は、人間にしかできない仕事である。ところが文章の「意味」を理解するという、人間にしかできない能力を多くの人が身につけていない。そのため、AIのできない仕事をすることができる人は20%に満たない可能性がある。

AIに代替されることなく残っていく仕事は、たとえば糸井重里の「ほぼ日」に見られるような「人間らしい仕事」である。そこで売られている商品は、少量生産でつくられた類似品のない魅力的なもので、需要がいつも供給を上回っている。似たような仕事はこの10年間にたくさん生まれている。AIが得意な暗記や計算に逃げずに「意味」を考えること、重要なのは読解力である、と。


言葉の「意味」を正確に理解しているかという疑問は、自分を含めて思い当たることが多い。私自身、この本を正確に理解することができただろうか。著者のいう、多読ではなく、精読・深読ということの大切さも実感的によく分かるような気がする。

この本を読んで感じたのは、「AI」のイメージが遠くに小さくしか見えなくなったこと。同時に、AIに似ている「言葉の意味が理解できない人間」のイメージが近くに大きく見えるようになったことである。

『AIvs.教科書が読めない子どもたち』 amazonはこちら
-------------------------------------------------------------

2019.5.26 
―――――――――――――――――――――――――――
321 ニコラス・G・カー『ネット・バカ−インターネットがわたしたちの脳にしていること』

を、5月24日、読了しました(篠儀直子訳、2010年7月30日青土社・2376円)。

人はインターネットによって、集中力と思索力を弱体化させているとして、著者は次のように述べている。ネットほど広範・執拗に注意力を散漫にするメディアはなく、ネットに接続することによって、通りいっぺんの読み、注意力の散漫なあわただしい思考、表面的な学習を行うようになる。ネッによって思考様式にもたらされる最大の長期的影響は、点滅する画面には強く集中させられるが、切れ目なく発信される情報や刺激のために注意はかえって散らされてしまうことである。

いっぽう読書はネットにくらべ刺激が少ないため、注意力の散漫を避けることができ、深い読みは深い思考の一つの形となる。読書家の脳は落ち着いた頭脳であって、ネットを使っているときのような騒々しい頭脳ではない。

しかし、ネットの刺激は都市の刺激と同様、放棄したい気持ちになれそうにないが、ネットは同時に、疲労させるもの、注意力を散漫にさせるものにもなる。そしてそれは穏やかで注意力のある精神を必要とする、深い思考や共感・同情という人間性をゆっくりと侵食していく。心理的な共感・同情というものは、脳内で緩慢に展開されて時間がかかることだから、注意力が散漫になればなるほど、人間独特の共感・同情などは経験できなくなる。ネットは思考だけでなく、感情の深さも変化させつつある。

問題は、効率的なデータ収集と、非効率的な思索という、これら二つの異なる精神のバランスを人がとれなくなりつつあることである。人は自然の中の静かな場所でしばらく過ごすと、注意力と記憶力は増し、認知能力も向上する。脳はネットによる外からの刺激に攻めたてられなくなると、自然にリラックスできるようになり、脳は静まり、鋭くなる。

著者の指摘していること一つひとつが、思いあたることばかりである。ネットを使用しているとき、画面を見ることに集中はできても、そのことが思考に集中することには少しもつながらないことは実感的にとてもよく分かる。著者は、グーグル検索、メール、フェイスブック、ツイッター、ブログなどの、ネットの双方向性が人を「メディアに食い尽くされている精神」の状態にすると書いている。そのことも実感的によく分かるような気がする。

著者はネットを使うことが止められことではないことも、ネットのない時代に戻れることではないことも示唆している。ネットのマイナス面だけを強調しているのではなく、ネットによる効率的なデータ収集と、ネットから離れた非効率的な思索という、二つの異なる精神のバランスをいかにとるかという問題を投げかけている。ネットのマイナス面と限界にいつも自覚的でありたいと思わせるような、そんな本だ。

『ネット・バカ』 amazonはこちら
-------------------------------------------------------------

表紙きのう読んだ本[一覧]サイトマップ