太宰治が散歩していた船橋の神社を探して

2001.4.16UP
折り畳み自転車をった。
パナソニックのトレンクルという軽い自転車である。
軽いといっても7.5キロあるので、
持ち運ぶのにはかなり重い。
さっそく練習をかねて、千葉の船橋に出掛けた。
船橋は太宰治が、
昭和10年7月から11年10月まで住んでいた町である。
薬物中毒に苦しんでいた時代。
最初の著作『晩年』も、
船橋にいた昭和11年6月に出版している。
そしてその本の口絵には、
船橋で撮ったという下の写真が掲げられている。
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| 『新潮日本文学アルバム/太宰治』より |
一年ほど前、この写真に関する長部日出雄氏の、
こんな文章に出会った。
「傍らに小さな狐の石像が
写っているところからすると、
船橋の家に近い稲荷神社の境内でも
あったのだろうか。」
(「桜桃とキリスト/もう一つの太宰治伝」
『別冊文芸春秋』1999年夏号)
この写真の神社(かどうか分からないが、
とりあえず神社としておく)は、
場所が定まっていないらしい。
いろんな本をひっくり返してみたが、
やはりこの神社を特定しているものはないようだ。
探してみよう。
今度、折り畳み自転車を買って、
最初に船橋を走ってみようと思ったのは、
こんな事情があったからである。
自転車を走らせたいのか、
神社を探し当てたいのか、
どちらが目的なのかはだいぶあいまいになってしまった。
こういうことって、結構よくあるものですね。
同じ神社で撮った写真は、ほかに二枚ある。
一枚は口絵と同じころのものだが、
もう一枚は下のように、
服装から見ても違う季節のものだ。
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| 同上 |
それにしても、写真の右側に写っている狐は、
ずいぶん変な顔をしていますね。
狐というと、とんがった顔をイメージするものだが、
この狐はずいぶんと丸っこい。
でも、それだからこそ、
この狐がある神社を探し出せばいいということになる。
もうすこし拡大してしてみると。
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| 同上 |
ほんとうに変な顔ですね。
下にいるのは子狐だろうか。
親狐似で、こちらもまた丸っこい。
親子とも、狐にしては、「人のよさそうな顔」をしている。
決して、「狐のよさそうな顔」ではない。
これが狐だとすれば、
長部日出雄氏の推測どおり、
太宰治旧居跡近くにある稲荷神社が
その場所かもしれない。
でも、そんな簡単に見つけてしまってもオモシロクないので、
船橋駅から旧居跡に向かって、
順番に神社を見ていくことにした。
2001年4月1日(日)
出発の日だ。
自転車を折り畳んで電車に持ち込むので、
できるだけすいていそうな、
日曜の朝早くを選んで家を出た。
きのうは桜の花びらに雪が積もるような天気だったが、
今日は朝から快晴である。
電車はガラガラ。
船橋駅に着いたのは8時半。
駅前の、人のいなそうなところを見つけて、
自転車を組み立てる。
昨夜練習しておいたので、すんなりいった。
ほっ。
いざ出発、チリ・リリーン。
最初に訪れたのは八坂神社
(太宰治旧居跡から直線で西に750m)。
周辺には飲み屋が集まっているようだ。
どよーんとした空気が、あたりにただよっている。
あの狐はない。
よかったー。
最初のところで見つけてしまったら、
盛り上がりを欠いてしまう。
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| 八坂神社 |
つぎは猿田彦神社。
丸顔の狐なし。
つづいて、三峰神社とその隣にある
道祖神社(旧居跡から西に400m)。
ここにもない。
お参りにきていた、
おじいさんと呼ぶにはちょっと若いおじいさん
(最近本当のおじいさんてあまりいませんね)に、
写真を見てもらう。
「さー、見たことないねー」と、
狐の話はそれだけで終わったのだが、
それから地元の歴史を話しはじめてなかなか終わらない。
最初のうちは、
「はあ」とか、「そうですか」とか聞いていたのだが、
このままだと地球が半回転しても終わりそうもないので、
お礼を言って次に向かう。
ゴメンナサイ。
そういえば、
「私も狐は嫌いではないが」
とおじいさんは言っていたが、どういう意味だろうか。
私もそうとう好きそうに思われたのかもしれない、
よく分からないけれど。
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| 三峰神社(9時) |
おじいさんが日本一小さいと言っていた
東照宮(旧居跡から西に250m)へ。
やはり見当たらない。
狐を探していると、
社務所を開けにきたおばあさん
(と呼ぶにはやはりちょっと若いのだが)に、
カギを開けてもらえないかと頼まれる。
社務所のドアには、カギが縦に二つ付いている。
上をガチャ、開かない。
下をガチャ、開かない。
このガチャは、
カギがかかる音なのかはずれる音なのかが不明なのだ。
それでも、なんとか開けることができた。
もっと分かりやすくしてもらいたいものです、本当に。
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| 東照宮 |
そして、長部日出雄氏がここではないかと推測していた、
御蔵稲荷神社(旧居跡から南西に250m)に到着する。
やや! 新しくなっているではないか。
平成7年に再建されたらしい。
裏の社務所のおじさんに、
再建前の狐のことを聞いてみると、
しまってあると言う。
写真を見せて確かめてもらうと、
それはなくなってしまったとアッサリ言われた。
残念。
ここかもしれないが証拠がない。
もう一度表に回ってみるが、丸顔の狐君はむろんいない。
心残りがして、
「御蔵稲荷の由来と謝恩の碑」と題した、
長ったらしい碑文(平成7年7月9日)を見ていたら、
太宰治という文字が目に飛び込んできた。
「昭和初期文人太宰治氏は鄙びた御蔵稲荷を好み、
その作品にも書き残し、いくつかの口絵でも、
御蔵稲荷を背景に使っている。」と、
碑文の一部にある。
やっぱりここだったのか。
口絵のことは分かるが、
「その作品にも書き残し」とあるからには、
この神社のことを書いた作品でもあるのだろうか。
思い出せない。
でもあの狐がいなければ、
場所が分かっても仕様がないとがっかりする。
新しい狐の顔、
普通の狐のようにとんがっているのも面白くない。
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| 御蔵稲荷神社(9時30分) |
あの丸顔の狐、まだどこかにあるかもしれないと、
気を取り直して次へ向かう。
自慢するわけではないけれど、
私もけっこうシツコイ性格のようですね。
すぐそばの厳島神社に。
ここもなし。
ここからは太宰治旧居跡が近いので、
立ち寄ることにする。
途中、海老川にかかっている九重橋の
「走れメロス」のレリーフを見る。
その後旧居跡の東側にある、
船橋大神宮、熊野神社、日枝神社、道祖神社、
茂侶神社を見て回るが、
もちろんあの狐は見当たらない。
やはり御蔵稲荷神社だと思うが、
もうあの丸顔の狐君がいないと思うと、
探し回る張り合いがなくなってしまう。
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| 茂侶神社とトレンクル(11時30分) |
茂侶神社から東船橋駅に直行。
新設の駅のようで、駅前には人も車もまばらだ。
自転車を折り畳むのには都合がいい。
店もほとんどない。
駅前に一軒だけあったレストランで、
お昼ご飯にハンバーグを食べる。
結構おいしい。
若いご夫婦がはじめた店のようで、
応援したい気分になる。
奥さんがすごい美人です(ほんとーです)。
東船橋駅から電車に乗って帰る。
はじめて自転車を電車に持ち込んで、
知らない町を走ってみた。
異次元の世界に迷い込んだような、
不思議な感覚を味わった。
ヤミつきになりそうである。
最後になりましたが、
『自転車は小さな翼』
というホームページを主宰されている山永さんには、
折り畳み自転車の選定から乗り方まで、
たいへんお世話になりました。
また、山永さん作成の、
トレンクルの素敵なイラストを、
ご好意によりこのページの天辺に使わせていただきました。
ありがとうございました。
※
後日、船橋が舞台となっている太宰の作品、
「めくら草紙」と「黄金風景」を読んでみましたが、
神社のことには触れられていませんでした。
【補記】 丸顔のキツネではなかった
2004.12.20UP
20年以上も前にやっぱり、
船橋のキツネの石像を探した人がいました。
船橋太宰文学研究会発行の『夾竹桃』に、
そのときの記録が載っています。
次の通りです。
「太宰の創作集「晩年」の発売されたのは昭和十一年の六月でしたが、
その口絵に使用された太宰の写真は、船橋での散歩中のものとされています。植込みのある稲荷神社の境内で、口の欠けたキツネの石像(アンダーラインは引用者、以下同)が背景ですが、私は、この口の欠けたキツネのある稲荷神社の所在を求めて船橋中の稲荷神社を尋ねて歩きました。
太宰ゆかりの最高の記念物と考えられたからですが、残念ながら、そのキツネの現場は突き止められませんでした。ですが、これこそそのキツネの痕跡と思われる場所が発見されました。太宰宅から五分とかからぬ通称「おくら稲荷」。その社前の台石がそれで、古びて表面のボロボロになった台石ですが、その高さ大きさが写真のキツネの台石としては格好のものと見られたからでした。」
「口の欠けたキツネの現物は発見出来ませんでしたが、状況証拠は十分で、「晩年」口絵の写真の背景は明らかに、この「おくら稲荷」に相違なしと断定しないわけにはいきませんでした。
なお、このキツネ像の行方について二〜三の町会役員にあたってみましたが、誰一人として知る人がなく、何時姿を消したかについても皆目判らずじまいでした。」 松山真砂「船橋は太宰文学のふるさと」 (1980年5月発行『夾竹桃』創刊号に収録)
「キツネ像が何時の間にか取除かれて今はその台石が遺るだけになっています。一説によると二十年ほど前には社前のまわりにキツネの頭の部分がゴロゴロしていたとの話がありますが、何時のころからか本体までも取除かれて台石だけとなり、しかも、その本体の取除きが誰によって、どんな理由で、どこへ処分されたのか、さっぱり経緯がわかりません。」 松山真砂「太宰治とお稲荷さん」 (1981年7月発行『夾竹桃』2号に収録)
口の欠けたキツネの石像?
あっ、そうかぁ。
変な顔をしたキツネだと思っていましたが、
口の部分が欠けてなくなっていたんですね。
写真を拡大鏡で、じっと見てみました。
確かに、口のあたりが黒くなっていて、
欠けた跡が見えます。
キツネにしては変な顔だなんて、大変失礼しました。
なお、檀一雄は『小説太宰治』でこの石像のことを、
高麗犬と書いています(岩波現代文庫版、84ページ)が、
「口の欠けたキツネの石像」というのがやはり、
正解のような気がします。
この記録を書いた著者は、
船橋中の稲荷神社を尋ねて歩いたといいますから、
口の欠けたキツネの石像は、
もうどこにもないのかもしれません。
そして、「おくら稲荷」(上の写真の御蔵稲荷神社のこと)が、そのキツネのあった神社ではないかと推定しています。
『夾竹桃』2号にはまた、
「おくら稲荷」の台石の写真が掲載されていますが、
これだけでは写真のキツネの台石と、
同じものだとは断定できないような気がします。
私が訪れたとき、
「おくら稲荷」は平成7年に再建された後で、
境内に台石は見当たりませんでした。
● 『夾竹桃』は船橋市立図書館で閲覧できます。
【補記2】 キツネの石像を壊したのは太宰?
2008.11.10UP
船橋の神社に触れた、
太宰の作品が一つだけありました。
船橋時代(昭10年7月〜11年10月)の
終わりころに書かれた、
全集で2ページにも満たない
エッセイ「走ラヌ名馬」(昭11年7月)の冒頭には、
次のような記述があります。
「何ヲ書カウトイフ、アテ無クシテ、イハバオ稲荷(イナリ)サンノ境内ニポカント立ツテヰテ、面白クモナイ絵馬眺メナガラ、ドウシヨウカナア、ト心定マラズ、定マラヌママニ、フラフラ歩キ出シテ、腐リカケタル杉ノ大木、根株ニマツハリ、ヘバリツイテヰル枯レタ蔦(ツタ)一スヂヲ、ステツキデパリパリ剥ギトリ、ベツダン深キ意味ナク、ツギニハ、エイツト大声、狐ノ石像ニ打ツテカカツテ、コレマタ、ベツダン高イ思念ノ故デナイ。ユライ芸術トハ、コンナモノサ、譬噺(タトヘバナシ)デモナシ、修養ノ糧デモナシ、キザナ、メメシイ、売名ノ徒ノ仕事ニチガヒナイノダ、ト言ハレテ、カヘス言葉ナシ、素直ニ首肯、ソツト爪サキ立チ、夕焼ノ雲ヲ見ツメル。」
「ステツキデ……エイツト大声、
狐ノ石像ニ打ツテカカツテ」という記述に、
思わずドキリとさせられました。
「オ稲荷(イナリ)サンノ境内」というのが、
御蔵稲荷神社のことだとすれば、
写真に写っている「口の欠けたキツネの石像」は、
太宰がステッキで打ち砕いたものではないかという、
大胆な仮説(?)を立ててみたくなります。
このページの上から二番目の写真を、
もう一度ここに掲げてみますが、
太宰は確かにステッキを持っています。
太宰はこのステッキで、エイッ! と大声を出しながら、
キツネの石像を叩いたのかもしれません。
その行為に対して、太宰は、
「コレマタ、ベツダン高イ思念ノ故デナイ」と書いていますが、
そのときキツネのとんがった口が、
打ち砕かれてしまったのではないかとは
考えられないでしょうか?
「高イ思念」があってもなくても、
壊れるものは壊れちゃいますよね。
でも、である。
かりにこのとき、キツネの口が落ちてしまったとしたら、
「ステツキデ……エイツト大声、
狐ノ石像ニ打ツテカカツテ」などとは、
書かないのではないかという疑念が湧いてきます。
私だったら、キツネの口が落ちた瞬間に、
あっ! と驚いて、
その口を元通りにしようとするか、
隠そうとするか、
逃げようとするかの、
どれかをするような気がします。
露見するようなことを、
わざわざ書くなんて考えられないんですね。
太宰だったら、そんな場合どうするのでしょうか。
「高イ思念」のあまりない仮説と疑念でしたが、
船橋の神社の狐の石像に触れた、
太宰の作品を発見できたことは収穫でした。
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相馬 正一 水上 勉

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【太宰治・散歩】
・太宰治が散歩していた船橋の神社を探して ・太宰治とつげ義春の御嶽へ行ってきました ・太宰治のいた碧雲荘は荻窪に残ってました ・太宰治は船橋の玉川旅館で遊んでいたか? ・太宰治が恐がった不動明王を見に湯河原に
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