太宰治は船橋の玉川旅館で遊んでいたか?

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太宰治は船橋の玉川旅館で
             遊んでいたか?

                                                        2005.1.24UP

1 『ぱれっと』で知る

『ぱれっと』という小冊子が、私の手元にある。
千葉銀行広報部発行の、1993年冬号である。
発行当時、銀行の窓口からもらってきたものだ。
そこには下の写真のように、
太宰が船橋の玉川旅館に来ていたという記事がある。

『ぱれっと』
『ぱれっと』10〜11ページ、右上の写真が「桔梗」の間

船橋の玉川旅館のことは、
太宰の年譜や伝記、文学アルバムなどに記載がない。
不思議だ。

『ぱれっと』を見てみよう。
「船橋・玉川旅館/ふさぎがちな気分を、晴らしていた部屋」というタイトルで、
次のような解説文が掲載されている(全文)。

「27歳のころ、盲腸炎がもとで薬の中毒症に苦しんでいた太宰治(1)。海が近い船橋には、静養をかねて妻の初代と昭和10年7月から1年あまり住んでいた。現在の宮本1丁目辺りで、借家だったという(2)。そこで「ダス・ゲマイネ」などの作品が書かれた(3)
 その太宰が、どちらかというと息抜きに自宅から歩いて15分ほどの場所にある「割烹玉川旅館」にやってきている(4)
 太宰が気に入っていた部屋は「桔梗」という4畳半に3畳の部屋がつながった小ぢんまりとした空間だ。ここに芸者を呼び、おいしい料理に酒で、晴れぬ気分を紛らわせていたのかもしれない(5)
 当時は、部屋から池があった庭にも出られ、まだ埋め立てられていない海へサンダルばきで行けたという。敷地内には舟着き場跡の石段が残っていて、その昔、海が近かったことをほうふつとさせる。当時この周辺は、東京からの1泊2日コースの海水浴客でにぎわっていたらしい。
 建物は今ではめずらしい高床式の木造2階建てで、創業は大正10年。その後、数回増築をしているので、中はまるで迷路のようだ。」

この解説について、事実関係を確認してみると。
(1)事実である。
(2)船橋では妻の初代と借家(現在の船橋市宮本1丁目12-
 9)に、昭和10年7月1日から11年10月12日まで住んで
 いた。
(3)「ダス・ゲマイネ」は船橋時代の、昭和10年8月末に脱稿
 されている。
(4)太宰が住んでいた場所から玉川旅館(船橋市湊町2-6-
 25)まで、およそ1.5キロの道のりである。従って、歩いて
 15分ほどというのも不自然ではない。
(5)玉川旅館には現在も、「桔梗」の間がある。ただし、太宰
 がおいしい料理と酒で、気分を紛らわせていたというのは
 推測でしかない。
 ※(1)(2)(3)はおもに山内祥史氏作成の年譜(1999年筑摩版『太宰治全
 集13』所収)により確認

玉川旅館は太宰の住居から、
歩いて行けるところに存在していたことは確かなようだ。

 

2 『川端康成・太宰治』で謎深まる

『ぱれっと』には太宰が、
玉川旅館に来ていたように書かれているが、
そのことを記した文章は他にほとんど見当たらない。
そんな中で、一昨年刊行された大木勲著
『船橋で結ばれた奇縁の二大作家/川端康成・太宰治』
(京葉新報社2003年6月12日)が、
太宰と玉川旅館についてやや詳しく触れている。
それを見てみよう。

船橋時代の太宰の書簡は、140通余を数えるとして、
著者は次のように書いている。

「書簡中には見られないのが不思議であるが、太宰は玉川旅館「桔梗の間」に二十日間も居続けて小説を書いたそうである。当然、賄料、遊興費その他一切は借金。結局踏み倒しになったが、その際、借金の形(かた)として本や万年筆など置いていったという。大女将(おおおかみ)の話であり、その遺品が近年の火災で散佚するまで確かに母屋にあったとは若女将も語っておられるところであるから、間違いなく太宰と玉川旅館とは何らかの縁をもったにちがいない。(略)/ここで女を呼び酒を飲み、果たして太宰はどんな小説を書いたであろう。不明である。」(8〜9ページ)

文中の「大女将」は昭和15年11月、20歳のとき、
後の玉川旅館の三代目(平成2年死去)と
結婚しているので、
太宰の船橋時代のことは実際には知らないはずである。
ただ、創業者は昭和12年7月に死去しているが、
二代目は昭和16年12月まで存命していたので、
結婚当時、太宰が船橋にいた4、5年前のことは、
二代目か夫に聞くことはできたことになる。

玉川旅館
現在の玉川旅館(2005年1月11日撮影)

さらに、借金の形として置いていったという
本や万年筆などは、
昭和51年(1976年)10月13日、
母屋が全焼したときに失われたという。
本や万年筆が太宰のものであれば、
玉川旅館との関係も明らかになっただろうし、
それ自体が貴重なものに違いない。

この火事について、
当時の新聞は「旅館で昼火事/船橋」として、
次のように報じている(全文)。
しかし記事からは、
太宰の遺品が焼失したことは確認できない。

「十三日午前十一時五十分ごろ、船橋市湊町二ノ六ノ二五、玉川旅館=小川巌代表(六〇)=の一階調理室から出火、同木造二階建て一棟延べ千四百六十九平方メートルのうち百四十五平方メートルを焼失した=写真。/船橋署で出火原因を調べている。/火災のあった玉川旅館は繁華街にあり、出火と同時にヤジ馬がかけつけたため、車が上下一キロにわたって渋滞した。また、出火当時、泊まり客がいなかったため、ケガ人はなかった。」(昭和51年10月14日千葉日報・11面)

そして『川端康成・太宰治』の著者は、
借家に夾竹桃を植えたか、
玉川旅館に長逗留して作品を書いたか、
それが太宰の船橋時代の二大ミステリーだとして、
玉川旅館のことはこう結論している。

「太宰治が果たして料亭「玉川」に二十日間逗留、執筆か遊興だったかは知らないが、そういう事実があったのだろうか。が、現亭主の伝聞を一応信じておこう。」(47ページ)

事実は少しも明らかになっていない。
むしろ、謎は深まったと言ったほうがいいかもしれない。

 

3 現地で関心薄れる

太宰の旧居跡から玉川旅館まで、
とにかく実際に歩いてみることにする。
2005年1月11日昼過ぎ、
旧居跡を左に見てスタート。
100メートルほど進むと、丁字路に突き当たる。

太宰治旧居跡
左が太宰旧居跡の石碑

突き当たりを右に曲がると、
100メートルほどで海老川にぶつかる。
左岸を下流方向に500メートルほど歩くと、
千葉街道(国道14号)に出るので、
そこを右折する。
千葉街道沿いには、
採り立てのアサリを売っている店がある。
いまでも海は近いのだ。

船橋のアサリ売り
船橋は海に近い

千葉街道を500メートルほど進むと、
左にNTTの建物が見えてくるので、
その手前の道を左に曲がる。
NTTの建物を右に見ながら、
そこを通り過ぎると同じ並びに、
玉川旅館が古めかしい姿で見えてくる。
予想していたのより、ずっと大きい。
ただし、「太宰ゆかりの旅館」というような表示はない。

玉川旅館
当時の海に立って撮りました

旅館を目の前にしていると、
ここに太宰が来たかどうかなんて、
どうでもいいことのように思えてくる。
事実を調べようという気力は、
もう完全になくなっていた。

謎は解けたわけではないけれど、
まぁ今回はこれでいいや、という気分です。
気が向いたら、また来ます。

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