HUMAN LOST体験【太宰治作品論 6】 Tweet─────────────────────────────── 2014.1.28UP
1 「HUMAN LOST」 太宰は退院直後に「HUMAN LOST」(昭和11年11月)を書いている。しかし、その後、翌年の「灯籠」(昭和12年8月)まで、約九ヶ月の間、三編の短い随想しか書いて(発表して)いない。さらに、「灯籠」以降、一年近くの間、小説を書くこと(発表すること)はなかった。そして、「灯籠」から一年後の小説「満願」(昭和13年7月)で大きな変貌を遂げ、本格的な中期安定期に入ることになる。「HUMAN LOST」から「満願」までの期間(一年八ヶ月)は、太宰の前期と中期を結ぶ過渡期であるといえる。 東京武蔵野病院(以下「精神病院」と略す)入院の経緯は、その後の、妻初代との心中未遂・離別などを含めて〈HUMAN LOST体験〉とでも呼ぶべき出来事で、太宰に大きな衝撃を与えたと考えられる。太宰は〈HUMAN LOST体験〉のことを、その後も多くの作品でくり返し触れており、最後の『人間失格』でも主要なテーマの一つになっている。 精神病院入院の経緯は、事実としてどうであろうと、太宰には、半ば強制的に入院させられたという思いが残る出来事だった。太宰にショックだったのは、それが妻の初代や井伏鱒二などの、身近にいた者の関与した出来事だったことにあるに違いない。 太宰は、自分と他者は一心同体であるべきだと考えていたから、自分が感じていることは、他者も同じように感じているはずだと考えていた。身近にいる妻や井伏鱒二であれば、自分の気持ちを自分と同じように分かっているはずだと、太宰が考えたとしても不思議ではなかった。他者(特に身近にいる者)は太宰のことを、太宰が期待しているように心配し、慰め、安堵感を与えてくれるに違いないと、太宰は考えていたように思える。 ところが、太宰は精神病院入院をめぐる経緯の中で、妻や井伏鱒二などが、突然、見たこともない他人のように振る舞い、太宰を半ば強制的に入院させたと感じたのではないか。身内の親和感で接していた相手が、他人のように冷たく接してきたと、太宰には感じられたのではないか。そのことによる孤立感が、太宰にはいちばんショックだったのかもしれない。 太宰が、身近にいる者は自分の気持ちを、無条件に受け容れてくれるはずだと考えていたとすれば、それは太宰の思い込みでしかなかった。太宰には、身近にいる者は自分と一体化していてほしいという願望があって、そのことがこうした思い込みを支えていた。 しかし、他者に対して、自分と一体であってほしいと願えば願うほど、他者と自分の違いは鮮明にならざるをえない。その結果、他者と自分との間には、距離があることを意識しないではいられなくなる。他者との一体感を求めることは、孤立感を呼び寄せることに通じていた。 精神病院入院の経緯は、たとえ身近な家族や知人であっても、彼らは自分とは別の人間で、気持ちや感情を自分と共有しているものではないこと。また、彼らは無条件に、自分を受け容れてくれる存在ではないこと、さらに、彼らは自分に安堵感を与えるために存在しているのではないことを、太宰に気づかせる体験だった。 他者を自分とは別の独立した存在と考えて、他者と接する方法を身につけることによってしか、孤立を避けることはできない。太宰が精神病院入院体験から得たのは、こうした自覚だったのではないか。 太宰は〈HUMAN LOST体験〉を契機に再生し、作品を劇的に変化させて、中期安定期を迎える。そのことは太宰の強靭さを物語るものである。再生・変化への萌芽はすでに、退院直後に書かれた作品「HUMAN LOST」に表れていた。この作品は、精神病院の入院生活(昭和11年10月13日〜昭和11年11月12日)を、実際に入院した日付け通りに、日記形式で書いたものである。 太宰はこの作品の記述の大半(10月13日〜11月8日)で、精神病院入院を人間世界からの追放と感じていたことを示している。 《人を、いのちも心も君に一任したひとりの人間を、あざむき、脳病院にぶちこみ、しかも完全に十日間、一葉の消息だに無く、一輪の花、一個の梨の投入をさへ試みない。君は、いつたい、誰の嫁さんなんだい。》(10月23日)
《ここの患者すべて、人の資格はがれ落されてゐる。》(10月26日) 《誰も来ない。たより寄こせよ。》(11月2日) 《不言実行とは、暴力のことだ。手綱(たづな)のことだ。鞭のことだ。》(11月3日) 太宰には、自分の意思に反して、身近な家族や知人に「脳病院」に入れられたという思いがあったに違いない。太宰は自分だけが、「人の資格」のない者として、人間の世界から孤立していると感じていたはずである。 ところが、最後の数日の記述(11月9日〜11月12日)で、太宰は再生への思いを語るようになる。というよりも、退院直後に、入院中の日々をふりかえって言葉で書いたことが、再生への思いにつながったといった方がいいかもしれない。太宰は「HUMAN LOST」を書きながら、再生への感触をつかんだのではないだろうか。そのことは次のように書かれている。 《窓外、庭の黒土をばさばさ這ひずりまはつてゐる醜き秋の蝶を見る。並はづれて、たくましきが故に、死なず在りぬる。はかなき態には非ず。》(11月9日)
《「うちへかへりたいのです。」》(11月10日) 《無才、醜貌の確然たる自覚こそ、むつと図太い男を創る。たまもの也。》(11月11日) 太宰はここで、醜い秋の蝶にたくましさを感じ(11月9日)、無才・醜貌の自覚に図太さを意識し(11月11日)、そしてそのことを肯定しているようにみえる。醜い秋の蝶はたくましいために、死なずに生きている。無才・醜貌であることを自覚することで、力強い男になることができる。以前の太宰であれば、このように考えることはなかった。 太宰はこれまで、「私は散りかけてゐる花弁であつた。すこしの風にもふるへをののいた。人からどんな些細なさげすみを受けても死なん哉と悶えた。」(「思ひ出」)と書いているように、自分自身にいつも、不安な眼差しを向けていた。太宰は自分が、醜い秋の蝶や無才・醜貌に見られないように、「恣意的な自己のイメージ」を他者に向けて差し出そうとしていたのである。 ところが、太宰は精神病院入院体験によって、自分が周囲から、醜い秋の蝶や無才・醜貌の男としか見られていなかったことを自覚する。それでも、醜い秋の蝶はたくましく生きているし、無才・醜貌の男は図太く生きている。太宰はそう考えようとしている。 退院直後に書かれた「HUMAN LOST」は、太宰が、震えおののく男(「思ひ出」)から、「むつと図太い男」へと変貌しつつあることを予感させる作品である。「震えおののく男」が他者に依存してしか(他者の眼差しを意識してしか)存在し得ないとすれば、「むつと図太い男」は他者に依存すること(他者の眼差しを意識すること)をやめた姿だといえる。 また、「『うちへかへりたいのです。』」(11月10日)と記述しているように、身近にいた「うち」の者は自分を、「人の資格」(10月26日)がない者として、「うち」の外(精神病院)に追放した。太宰はそう感じていたに違いない。「うち」へ帰ることは、太宰にとって、「人の資格」を回復することを意味していた。 さらに、「笑はれて、笑はれて、つよくなる。」(11月10日)という発想も、以前の太宰にはないものだった。「人からどんな些細なさげすみを受けても死なん哉と悶えた。」(「思ひ出」)と語っているように、他人から笑われたら、死んでしまいたいと考えるほどだったのである。 精神病院入院体験は、太宰に、孤立感と人間不信を植えつけたかもしれない。しかし、そのことは同時に、他者に依存しないで生きていくことの必要性を、太宰に気づかせる体験でもあった。
2 「灯籠」など 昭和十二年三月上旬、太宰は知友から、妻初代との過失を打ち明けられる。それは前年の、太宰の精神病院入院中の出来事だった。そして、三月二十日ごろ、太宰は初代と水上村谷川温泉で、心中を図ったとされる(未遂)。六月には太宰と初代との離別が決定している。この間七ヶ月(「音に就いて」(昭12.1)〜「檀君の近業について」(昭12.8))、太宰は作品を発表していない。 昭和十二年八月、太宰は作品の執筆(発表)を再開し、〈HUMAN LOST体験〉を転機とした再生について、「「晩年」に就いて」(昭和13年1月)、「一日の労苦」(同)、「答案落第」(昭和13年5月)などの随想で触れている。
《死ぬと思つてゐたのは、私だけではなかつた。医者も、さう思つてゐた。家人も、さう思つてゐた。友人も、さう思つてゐた。 太宰は精神病院退院直後の作品「HUMAN LOST」で、「無才、醜貌の確然たる自覚こそ、むつと図太い男を創る。」と書いていた。この「答案落第」には、太宰が、精神病院入院、妻初代との心中未遂・離別などの〈HUMAN LOST体験〉を経て、「むつと図太い男」の延長線上に再生しつつある姿が述べられている。 太宰は〈HUMAN LOST体験〉を経てきた自分の姿を、「ただずんぐり大きい醜貌の三十男」「へんに、まじめ」「いも虫のやう」「牛の如き風貌」と描いている。そして、こうした自己のイメージの変貌が、「ふたたび出発点に立つた」「太宰治とやらいふ若い作家の、これが再生の姿」であるとして、積極的に肯定していこうとしているように見える。 「灯籠」(昭和12年8月)は、太宰が作品執筆(発表)再開後にはじめて書いた小説である。この作品は女性独白体で書かれており、太宰は戦後まで、この形式の小説を数多く書くことになる。 「灯籠」の主人公の「私」は、二十四歳の下駄屋の一人娘である。五歳年下の、商業学校の生徒の「水野さん」と交際している。「私」は、「水野さん」が金に不自由していると思い込み、ある日、大丸の店から男の水着を一枚盗んでしまう。 「私」は交番に連れて行かれ、そこで巡査から色々なことを問いただされる。今度で何回目だと巡査に問われても、「私」は答える言葉が思い浮かばない。ところが、必死になって言葉を探し、「私を牢へいれては、いけません。私は悪くないのです。」としゃべり出すと、「私」の「おしやべり」は止まらなくなる。後の「駈込み訴へ」(昭和14年)を思わせる、この「おしやべり」について、「私」は次のように語っている。 《叫ぶやうにして、やつと言ひ出した言葉は、自分ながら、ぶざまな唐突なもので、けれども一こと言ひだしたら、まるで狐につかれたやうにとめどもなく、おしやべりがはじまつて、なんだか狂つてゐたやうにも思はれます。》 この作品全体が、女主人公が一人でしゃべり続けるという、女性独白体によって成り立っており、この独白体という形式が、主人公の気持ちの微妙な揺れを表現することを可能にしている。作者が他者(女主人公)になりきって、「おしやべり」をすることができるのは、他者を独立した存在として意識していることによる。そのことは、太宰が他者に依存すること(他者の眼差しを意識すること)をやめ、「むつと図太い男」になって、他者に眼差しを向けることで可能となったといえる。 他者を独立した存在と認めることによって、作者は自分の気持ちを対象化することができ、さらに、他者に感情移入することが可能になったのではないだろうか。作者は精神病院入院を契機に、大切なのは他者の気持ちだと考えるようになったのではないだろうか。 「灯籠」はそのような作品として、主人公の気持ちの微妙な揺れを次のように描いている。 《今夜は、父が、どうもこんなに電燈が暗くては、気が滅入つていけない、と申して、六畳間の電球を、五十燭のあかるい電球と取りかへました。さうして、親子三人、あかるい電燈の下で、夕食をいただきました。母は、ああ、まぶしい、まぶしいといつては、箸持つ手を額にかざして、たいへん浮き浮きはしやいで、私も、父にお酌をしてあげました。私たちのしあはせは、所詮こんな、お部屋の電球を変へることくらゐのものなのだ、とこつそり自分に言ひ聞かせてみましたが、そんなにわびしい気も起らず、かへつてこのつつましい電燈をともした私たちの一家が、ずゐぶん綺麗な走馬燈のやうな気がして来て、ああ、覗くなら覗け、私たち親子は、美しいのだ、と庭に鳴く虫にまでも知らせてあげたい静かなよろこびが、胸にこみあげて来たのでございます。》 ここには、部屋の電球を明るいものと変えるという、日常の些細な出来事によって、主人公の気持ちが微妙に変化する様子が描かれている。そして、その気持ちの変化が主人公に、外の世界の色合いをも変化したように感じさせていく様子が描出されている。 「太宰治とやらいふ若い作家の、これが再生の姿」(「答案落第」)と書いた二ヶ月後、太宰は短編小説「満願」で、「再生の姿」を作品として示すことになる。(了) (2014.1.27) 【太宰治・作品論】
1 『人間失格』論1/2 2/2 |