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2 後期家庭小説論

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                           2000.6.10UP
                                  2013.10.3更新(改訂版)

1 出ていく人
戦後、太宰治は東京に戻ってくると、家庭を題材とした作品を数多く書くようになる。しかし、それらの作品ではまだ、最後の作品『人間失格』のように、「人間」を問うてはいない。「父」であること、「夫」であることが問題にされている。そして、父や夫は、家庭から〈出ていく人〉として描かれている。「ヴィヨンの妻」(昭和22年)「父」(同)「おさん」(同)「桜桃」(同)「家庭の幸福」(昭和23年)などの父や夫は、家庭から〈出ていく人〉である。

《さうしてこの子は、しよつちゆう、おなかをこはしたり、熱を出したり、夫は殆ど家に落ちついてゐる事は無く、子供の事など何と思つてゐるのやら、坊やが熱を出しまして、と私が言つても、あ、さう、お医者に連れて行つたらいいでせう、と言つて、いそがしげに二重廻しを羽織つてどこかへ出掛けてしまひます。》(「ヴィヨンの妻」傍線・引用者)

《午後三時か四時頃、私は仕事に一区切りをつけて立ち上る。机の引出しから財布を取り出し、内容をちらと調べて懐にいれ、黙つて二重廻しを羽織つて、外に出る。外では、子供たちが遊んでゐる。その子供たちの中に、私の子もゐる。私の子は遊びをやめて、私のはうに真正面向いて、私の顔を仰ぎ見る。私も、子の顔を見下す。共に無言である。たまに私は、袂からハンケチを出して、きゆつと子の洟(はな)を拭いてやる事もある。さうして、さつさと私は歩く。子供のおやつ、子供のおもちや、子供の着物、子供の靴、いろいろ買はなければならぬお金を、一夜のうちに紙屑の如く浪費すべき場所に向つて、さつさと歩く。これがすなはち、私の子わかれの場なのである。出掛けたらさいご、二日も三日も帰らない事がある。》(「父」傍線・引用者)

「おさん」「桜桃」「家庭の幸福」の父や夫も同様である。しかし、父や夫は家庭から出ていくことによって、よけい強く家庭を意識せずにはいられなかった。「私の視線は、いつも人間の『家』のはうに向いてゐる。」(「家庭の幸福」)と語るときの「視線」とは、家庭から出ていった父や夫の、家庭の外からの視線にほかならなかった。それはまた、作者の視線でもあった。

帰京直後の、坂口安吾、織田作之助、平野謙との座談会で、太宰は次のように語っている。

《太宰 それは駄目だなあ。ホームといふのは、あれはいぢらしいものですよ。
坂口 それは、若いときはホームがいぢらしいのぢやなくて、若さ自体がいぢらしいのだよ。なにも若さのホームがいぢらしいわけぢやないと思ふね。
太宰 いや、ホームといふのも僕はいぢらしいものがあると思ふのですよ。たとへば、僕たち旅行をして歩いてをつて、ポーッと窓に明りがともつてゐるのを見て、なにか郷愁をそそられることがありはしないかしら。ああいふのはやはりホームのいぢらしさだと思ふけれども……。》(「現代小説を語る」昭和21年)

ホームというのはいじらしいと、太宰はしきりに語っている。ホームを外から見ている場所にいるためだ。それは戦後、家庭小説を書きはじめた作者の場所でもあった。

家庭から〈出ていく人〉である父や夫は、出ていく理由を次のように述べている。

《炉辺の幸福。どうして私には、それが出来ないのだらう。とても、ゐたたまらない気がするのである。炉辺が、こはくてならぬのである。》
《父はどこかで、義のために遊んでゐる。地獄の思ひで遊んでゐる。いのちを賭けて遊んでゐる。》(「父」)

《自分の家庭は大事だと思つてゐる。子供が夜中に、へんな咳一つしても、きつと眼がさめて、たまらない気持になる。もう少し、ましな家に引越して、お前や子供たちをよろこばせてあげたくてならぬが、しかし、おれには、どうしてもそこまで手が廻らないのだ。これでもう、精一ぱいなのだ。おれだつて、凶暴な魔物ではない。妻子を見殺しにして平然、といふやうな「度胸」を持つてはゐないのだ。配給や登録の事だつて、知らないのではない、知るひま(原文は傍点)が無いのだ。》(「桜桃」)

《家庭の幸福は諸悪の本(もと)。》(「家庭の幸福」)

父や夫が家庭から出ていくのは、炉辺が恐くてならないためであり、義のために遊んでいるためであり、家のことを知るひまがないほど小説を書くのに精一ぱいなためであり、そこが諸悪のもととなるためであるとされる。しかし、ほんとうはこうした理由で、父や夫が家庭から出ていくわけではなかった。父や夫は、父や夫であるということにいたたまれず、〈出ていく人〉としてしか存在することができなかったのである。そこには、父や夫のイメージを作り出せないために、父である自分、夫である自分と和解することができない、作者の姿が投影されている。


2 外の人
戦後の家庭小説の父や夫には、家庭の〈内〉と〈外〉という観念が消失してしまっている。家庭の〈内〉を、家庭の〈外〉と区別された濃密な空間として意識すべき、母と子の根源的な関係を欠いた、作者の幼児期の体験が反映しているに違いない。

年譜(1999年筑摩書房版『太宰治全集第13巻』所収・山内祥史氏作成)から、太宰治 (津島修治)の幼児期の出来事を抜き出してみる。

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【1909年/明治42年】1歳(数え年、以下同じ)
・青森県北津軽郡金木村で、父源右衛門(39歳)、母タ子(たね、37歳)の第十子六男(長男、次男は夭逝)として生まれる(6月19日)。戸籍名・津島修治。母が病弱だったため、生まれて間もなく、乳母に預けられた。
※17人の親族に帳場、乳母などを加えると、30数名の大家族だった。父源右衛門は明治34年の補欠選挙で県会議員に当選、明治36年に再選されている。明治37年には県内多額納税者番付の四位に進出、当時、津島家の小作人は300人近くいたという。源右衛門は明治40年に、254坪の邸宅(現在の斜陽館)を新築した。
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【1910年/明治43年】2歳
・乳母が一年たらずで去ったのち、同居していた叔母(母の妹)キヱに育てられた。叔母の一家と、生活のすべてをともにして成長した。
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【1912年/明治45年・大正元年】4歳
・津島家の小作人の娘近村タケ(15歳)が、女中として住み込んだ(5月3日)。主な仕事は太宰治の子守だったという。夜は叔母と寝所をともにしたが、昼はいつもタケと一緒に過ごすようになった。
・父源右衛門が衆議院議員に当選(5月15日)。父が家に帰るのは、一カ月か二カ月に一回で、一週間ほど滞在すると東京などに出かけた。
・父母は東京に一家を構え(秋頃)、そこで過ごすことが多くなった。
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【1916年/大正5年】8歳
・叔母キヱの一家が五所川原に分家(1月18日)。小学校入学直前までの二カ月余を、叔母の家で過ごした。
・金木第一尋常小学校に入学(4月)。
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【1917年/大正6年】9歳
・タケが叔母の家の女中となって、金木を去って行った。タケは翌大正7年7月、北津軽郡最北端の小泊村に嫁いで行った。
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太宰は自分の家庭を、家庭の外と区別された濃密な関係空間として感じとることができなかったに違いない。同じように、家庭小説の父や夫も、家庭のイメージを手に入れることができない。そのことを、作品「父」の主人公は、生まれつきの痼疾と考えようとしている。

《結局、私は私の全収入を浪費して、ひとりの人間をも楽しませる事が出来ず、しかも女房が七輪一つ買つても、これはいくらだ、ぜいたくだ、とこごとを言ふ自分勝手の亭主なのである。よろしくないのは、百も承知である。しかし私は、その癖を直す事が出来なかつた。戦争前もさうであつた。戦争中もさうであつた。戦争の後も、さうである。私は生れた時から今まで、実にやくかいな大病にかかつてゐるのかも知れない。生れてすぐにサナトリアムみたいなところに入院して、さうして今日まで充分の療養の生活をして来たとしても、その費用は、私のこれまでの酒煙草の費用の十分の一くらゐのものかも知れない。実に、べらぼうにお金のかかる大病人である。》(傍線・引用者)

作者の意識の奥底に刻み込まれていた「やくかいな大病」は、戦後のこの時期に顕在化する。作者は自分の家庭を濃密な空間として、家庭の〈外〉と峻別することができないような、「大病人」であるといってもよかった。

作者は、青森中学在学中の十八歳の時に、こんなことを書いていた。

《◎自分は嘗てこんなものを読んだことがある。
外はヒドイ吹雪、外の人は寒がつてブルブル震つて居る。内には暖炉があつて、その傍に一家のもの共は皆顔をホテラして幸福そうに笑ひ興じて居る。
外……内。そのひどい変りやうは……しかも、その境を成して居るものはたつた一枚のガラス戸一枚だ……といふのだ。》(「侏儒楽」大正15年、傍線・引用者)

戦後の家庭小説と、深いところで共鳴している。作者は最後まで、「外の人」としてしか存在することができなかったのである。


3 「男には、不幸だけがある」
家庭小説の父や夫は、家庭を出てどこへ行こうとしていたのか。作品では、酒場に出掛けていくことになっている。しかし、父や夫は、家庭の内と外の差異が消失した世界を浮遊しながら、死に向かって歩き始めていたのである。父や夫は、「魂の抜けた人みたいにぼんやりして、そのうちにふつとゐなくな」(「ヴィヨンの妻」)ってしまうし、「物体でないみたいに、ふはりと外に出」(「桜桃」)ていってしまう。父や夫の意識には、死の影が侵入してきていたのである。作者の深層にしまいこまれていた喪失感が、父や夫の死の意識となって噴出してきているといえる。

《「僕はね、キザのやうですけど、死にたくて、仕様が無いんです。生れた時から、死ぬ事ばかり考へてゐたんだ。皆のためにも、死んだはうがいいんです。それはもう、たしかなんだ。それでゐて、なかなか死ねない。へんな、こはい神様みたいなものが、僕の死ぬのを引きとめるのです。」》(「ヴィヨンの妻」)  

《女房の身内のひとの事に少しでも、ふれると、ひどく二人の気持がややこしくなる。
 生きるといふ事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまつてゐて、少しでも動くと、血が噴き出す。
 私は黙つて立つて、六畳間の机の引出しから稿料のはひつてゐる封筒を取り出し、袂につつ込んで、それから原稿用紙と辞典を黒い風呂敷に包み、物体でないみたいに、ふはりと外に出る。
 もう、仕事どころではない。自殺の事ばかり考へてゐる。さうして、酒を飲む場所へまつすぐに行く。》(「桜桃」)

作品の自然な流れをせき止めるかのように、死がいきなり出現する。作者の現在の意識が、作品の中に突出しているのである。「生れた時から、死ぬ事ばかり考へてゐたんだ。」という言葉も、「自殺の事ばかり考へてゐる。」という言葉も、作者自身の意識であるかのように投げ出されている。そして、『斜陽』(昭和22年)の直治の自殺、『人間失格』の葉蔵の心中未遂や自殺未遂に見られるように、作品はしだいに死の意識に支配されていく。

『斜陽』の主人公かず子の弟直治は、遺書にこう書いている。

《僕は、僕といふ草は、この世の空気と陽(ひ)の中に、生きにくいんです。生きて行くのに、どこか一つ欠けてゐるんです。足りないんです。いままで、生きて来たのも、これでも、精一ぱいだつたのです。》

家庭小説の父や夫が感じていたのも、こういうことだったに違いない。けれども、父や夫には、「ヴィヨンの妻」の妻のような人間が存在していた。「ヴィヨンの妻」の妻と夫は、「一緒にたのしく家路をたどる事も、しばしば」だったし、妻は夫に、「人非人でもいいぢやないの。私たちは、生きてゐさへすればいいのよ。」と言い切ることさえできた。夫は家庭から出ていくこと(死)を志向していた。それに対して妻は、家庭に帰ること(生)を志向している。「ヴィヨンの妻」のように、妻が語り手になっている作品では、妻の存在が夫を相対化している。

そして作者は、〈出ていく人〉と〈帰る人〉とに、男と女の本質的な差異を見ていた。

《「とつても私は幸福よ。」
「女には、幸福も不幸も無いものです。」
「さうなの? さう言はれると、そんな気もして来るけど、それぢや、男のひとは、どうなの?」
「男には、不幸だけがあるんです。いつも恐怖と、戦つてばかりゐるのです。」
「わからないわ、私には。でも、いつまでも私、こんな生活をつづけて行きたうございますわ。」》(「ヴィヨンの妻」傍線・引用者)

《どうやら、あなたも、私をお捨てになつたやうでございます。いいえ、だんだんお忘れになるらしうございます。
 けれども、私は、幸福なんですの。私の望みどほりに、赤ちやんが出来たやうでございますの。私は、いま、いつさいを失つたやうな気がしてゐますけど、でも、おなかの小さい生命が、私の孤独の微笑のたねになつてゐます。
 けがらはしい失策などとは、どうしても私には思はれません。この世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかつて来ました。あなたは、ご存じないでせう。だから、いつまでも不幸なのですわ。それはね、教へてあげますわ、女がよい子を生むためです。》(『斜陽』傍線・引用者)

「ヴィヨンの妻」の夫は妻に、女には幸福も不幸もない、男には不幸だけがあると言う。ここでは、男と女の本質的な差異が問われている。男は家庭の〈外〉に出ていこうとする存在である。女は家庭の〈内〉にとどまろうとする存在である。このことはもちろん倫理的な問題ではない。志向性の差異としてあるのだ。だから、「私たちは、生きてゐさへすればいいのよ。」(「ヴィヨンの妻」)と言えるのは女だけである。なぜなら女は、「生きてゐさへすればいい」といった、家庭の〈内〉でだけ成り立つ生の論理を主張できる存在だからである。男は反対に、家庭の〈外〉の社会的な関係の中で、「いつも恐怖と、戦つてばかりゐる」というような、「不幸」を抱え込まざるを得ない存在である。「生きてゐさへすればいい」と言う女も、「死にたくて、仕様が無い」と言う男も、女と男の差異を極限までひっぱっていったときの姿にほかならなかった。

男と女の差異については、『斜陽』のかず子が愛人に宛てた手紙の中で、より具体的に記述されている。「戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だの」という家庭の〈外〉の社会的な事象は、「女がよい子を生むため」にあるので、そのことを知らない男は「いつまでも不幸」なのだとされる。女の視点から、価値観の転倒が示されているのではない。男と女の本質的な差異が捉えられているのだ。女は子供と強固に結びつくことによって、家庭を濃密な空間として形成することができる。それで、「よい子を生む」というようなことに、すべてを収斂することができるのである。「ヴィヨンの妻」の妻が、「とつても私は幸福よ。」と言えるのも、『斜陽』のかず子が「私は、幸福なんですの。」と言えるのも、女にはこうした世界を形成するちからが潜在しているからである。

男は子供との結びつきを、女ほど強く持つことができない。だから、「よい子を生む」というふうなことに、すべてを収斂することができないのである。別の言い方もできる。子供(特に胎児・乳児期の)を育てるという目的のために、子供(特に胎児・乳児期の)と強く結びつくようにできているのが女であって、男との差異もそこにあるというように。

男の「不幸」は、家庭の〈外〉の社会的な関係に対する「恐怖」と、家庭の〈内〉の親密な関係に対する疎隔感の、二重性としてあったのである。


4 帰る人
太宰治は『人間失格』で、「どんどん不幸になるばかり」な男の姿を描いたあと、最後の作品「グッド・バイ」(昭和23年)を未完のまま遺して死に赴くことになる。「グッド・バイ」には、〈出ていく人〉が〈帰る人〉に変貌する様子が描かれている。

《終戦になり、細君と女児を、細君のその実家にあづけ、かれは単身、東京に乗り込み、郊外のアパートの一部屋を借り、そこはもうただ、寝るだけのところ、抜け目なく四方八方を飛び歩いて、しこたま、まうけた。
 けれども、それから三年経ち、何だか気持が変つて来た。世の中が、何かしら微妙に変つて来たせゐか、または、彼のからだが、日頃の不節制のために最近めつきり痩せ細つて来たせゐか、いや、いや、単に「とし」のせゐか、色即是空、酒もつまらぬ、小さい家を一軒買ひ、田舎から女房子供を呼び寄せて、……といふ里心に似たものが、ふいと胸をかすめて通る事が多くなつた。》(「グッド・バイ/変心(一)」傍線・引用者)

作者は東京に戻ってきてはじめて、〈帰る人〉を主人公に据えようとしている。『人間失格』で遠ざけてしまった、「この世」への帰り道を見つけ出そうとしていたのだろうか。「何だか気持が変つて来た。」というのは、過去の自分とグッド・バイしようとしている、主人公の現在の心境である。この主人公の「変心」は、作者の「変心」を意味していたのだろうか。

家庭小説の父や夫は、家庭を出て、「酒を飲む場所」(「桜桃」)に直行する。そこは、家庭の〈外〉に対する「恐怖」を緩和してくれ、渇望していた家庭の〈内〉の親密さを可能にしてくれる場所だった。しかし、この作品の主人公は、「酒もつまらぬ」と考えており、また、「小さい家を一軒買ひ、田舎から女房子供を呼び寄せて、……といふ里心に似たもの」を感じるほど、家庭に対しても求心的になっていた。主人公は、父としての自分、夫としての自分に帰ろうとしていたのである。

だが、作者の死によって、主人公は、「女房子供を呼び寄せて、……といふ里心に似たもの」の実現を、永遠に禁じられてしまう。〈帰る人〉を現実に着地させるためには、作者の意識はすでに、現実から遊離し過ぎていたのである。(了)
                          (2000.6.4)  (2013.9.30改訂)

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