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 『津軽』『お伽草紙』『人間失格』

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2010.10.25UP

(N市H公民館で、2009年8月に行った話の草稿を整理したものです)

1 テーマ
はじめに、全体の概要です(★下の写真参考)。戦争が終わる1年ほど前の、昭和19年7月に書き上げられた『津軽』、それと、終戦直前の昭和20年6月に書かれた『お伽草紙』、それから、戦後、死の直前の昭和23年5月に書かれた『人間失格』の三つの作品について、共通するところと、四年間で変ったところがあれば何か、といったことをお話したいと思います。

太宰治が作品の中で、生涯にわたってこだわり続けたのは、「人が分からない。他人はもちろん、親も分からない」ということです。このことにはやはり、「太宰の生い立ち」が関係しているのではないかと思います。太宰は叔母や子守に育てられていますので、「母の鮮明なイメージ」というものが、「頭の中の記憶」から消えてしまっているのではないか。そういう問題があると思います。

「分からない」ということは最大の「不安」ですので、「人が分からない。親も他人も分からない」ということになると、人と接することに「不安」を抱くということになります。それがエスカレートすると、人と接すると「緊張」しか感じないようになります。さらに、人と接することに「恐怖」を感じて、逃げ出したいと思うようになると思います。

その場合、人と接するということに対して、どういうふうに振舞おうとするか、二つ考えられると思います。

一つは、人と接することに、「不安」や「緊張」を感じていても、そのことを恐れないで、どうしたら人と接することができるようになれるかを、一生懸命考えて、抵抗力をつけて人と接することができるようになろうとすることです。「言葉」「態度」「表情」「行動」などを工夫して、相手と分かり合えるといった関係を、作っていこうとすることだと思います。(★上の写真3行目、左)

二つ目は、人と接することを、避けようとすることです。

人と接することを避けて、「不安」や「緊張」や「恐怖」を感じないですむような、そんな関係を求めます。「言葉」によって分かり合うといった関係ではなく、例えば、母親に一方的に守られて、母親と気持ちが一つになって、安心していられるような、そんな関係を求めることです。(★上の写真3行目、右 )

『お伽草紙』という作品では、そのような「不安」や「緊張」や「恐怖」を感じないで、相手と一体となって安心していられるような、そんな世界に一度はどっぷりと浸かります。しかし、そこで休息した後再び、「不安」や「緊張」を感じる、この現実の世界に戻ってきます。

『津軽』という作品では、「不安」や「緊張」や「恐怖」を感じない、母親と子どもが一つに溶け合っているような、そんな世界のありかたが、理想のように描かれています。『津軽』には、「母的なイメージ」があふれかえっています。

いつまでもこのような、母親と一体化して、安心していられるような感覚を求め続けていたら、どうなるか。それはいつまでも、「子ども」のままでいるということですから、「家の外」の人に対しては、いつまでも「不安」や「緊張」を感じ続けるほかないということになります。

「子ども」のまま社会に出て行った場合、社会から「孤立」してしまって、「家の外」の社会で生きていくことは難しくなるということになります。

『人間失格』という作品では、そのような「子ども」のままでいられるような世界を、いつでも、どこでも、どこまでも求め続けるために、社会から「孤立」してしまって、どんどん不幸になるばかりな、男の姿が描かれています。この作品では、「母的なイメージ」は消滅してしまっています。

『お伽草紙』を真ん中に置きますと、『津軽』がすごく「明るい世界」を描いているとすれば、それと対照的に、『人間失格』はすごく「暗い世界」を描いていることになります。『津軽』と『人間失格』は「明」と「暗」として対照的で、その中間に『お伽草紙』があるという関係になっていると思います。


2 『お伽草紙』
『お伽草紙』という小説は、「言葉」がなくても、相手と心が通じあって一つになれるような関係を求める、主人公のことを描いた作品です。しかし、必ずしも『津軽』のように、「母なるもののイメージ」があふれかえった、「明るさだけ」の世界を描いているわけではありません。また、『人間失格』のように、「暗さだけ」を描いている作品でもありません。現実のリアルな世界を「御伽噺(おとぎばなし)」に託して、分かりやすく、そして面白く描いている作品です。

(1)「瘤取り」
『お伽草紙』には、「瘤取り」「浦島さん」「カチカチ山」「舌切雀」という、四つの話が入っています。一つ目の「瘤取り」という作品では、右の頬に瘤を持っているお爺さんが主人公で、そのお爺さんは家の中ではいつも、「浮かない顔」をしているというふうに描かれています。

お爺さんはもともと、言葉で話さなくても、気持ちが一つになって分かり合えるような関係を求めるタイプだったわけです。だからお酒を飲んで、「もう、春だねえ。桜が咲いた。」とはしゃいだりするのですが、お婆さんや息子はつまらなそうな返事をするだけです。

お婆さんは、「厳粛なるお婆さん」と呼ばれていて、若い時から無口で、ただ、まじめに家事にいそしんでいるような人物とされています。また、息子は、「品行方正の聖人」と呼ばれていて、「酒も飲まず、煙草も吸はず、それどころか、笑はず怒らず、よろこばず、ただ黙々と野良仕事、妻をめとらず、鬚を剃らず」と、その様子が語られています。「実に立派な家庭」と言われているわけですが、お爺さんは家の中で、いつも「浮かない気持」でいます。家の中ではいつも、「孤独」を感じています。

お爺さんは、「人が分からない」という状態になっているのだと思います。自分の妻とも息子とも、何を話したらいいのか分からない。どのようにコミュニケーションをとったらいいのか分からない、という状態に陥っていることになります。

家の中で、「孤独」を感じているお爺さんは、「不安」や「緊張」を感じていたはずですが、この作品では後の『人間失格』のようにはそんな深刻なこととして描かれていません。あくまでも、お爺さんは困惑しているというように、村上春樹作品の主人公が、よく口癖で、「やれやれ」と言いますが、そんなふうに、お爺さんは「やれやれ」と言っているような調子で描かれています。

「人が分からない」ということに対して、お爺さんはどういう行動をとるのかというと、人との関係を、この場合、お婆さんや息子との関係ですが、そうした関係を避けようとします。それは具体的には、山へ柴刈りに行くということなのですが、それは人との関係を避けようとする行動というふうになっています。

お爺さんが山へ柴刈りに行くのは、「たきぎ拾い」のためというよりも、そこにいることが楽しくてしょうがないからです。お爺さんはお酒の入ったヒョウタンをさげて山へ行きますが、山でお酒を飲んで、実に楽しそうな顔をしています。家にいる時とは別人のようだと、書かれています。

お爺さんは、お婆さんや息子から逃れるために、山に登ってきているわけです。そんなお爺さんはある日、山でお酒を飲んでいて、突然、春の夕立ちに襲われます。そして、雨宿りに逃げ込んだ林の中で、いつの間にか眠ってしまいます。

気がつくと夜になっていて、お爺さんは驚いて、林の中から這い出てきます。そしてそこで、鬼が酒盛りをしているという、この世のものとも思えない、不可思議な光景に出くわすことになります。

ここからが、このお爺さんの面白いところです。お爺さんは、鬼が気持ち良さそうに酔っているのを見て、胸の奥から、よろこばしさが湧いて出てくるのを感じ、鬼に親愛の気持ちを抱くようになります。

そして、自分から、鬼が酒盛りをしている円陣のまんなかに飛び込んで、得意な阿波踊りを軽妙に踊り抜くということになります。お爺さんは家の中で、「浮かない気持」をかかえているときとは違って、晴れ晴れとしています。鬼もすごく、喜びます。

「緊張」を感じていた「人との関係」を避ける、といった行動の先にはたぶん、「緊張」を溶かしてしまうような、何かこういうものがあるということだと思います。

この作品のすごいところは、「瘤取り」の話はここで終わりにならないことです。「人は分からない」という不安、緊張から、人との関係を避けて、その「緊張」が溶けてしまうようなところに、どっぷりと浸かるというところで終わっていたら、『津軽』という作品になると思います。

緊張が溶けてしまうようなところから、お爺さんはもう一度、自分を緊張させる、お婆さんや息子のいる現実に帰ってくることになります。

お爺さんは鬼に、また来るように預かっておくと言われて、瘤を取られます。ところが、お爺さんは瘤をとられても、あまり嬉しそうな様子を見せません。翌日の朝、お爺さんは山を降りてくる途中で、息子とばったり出逢います。

息子の聖人は、瘤のなくなったお爺さんの顔を見て、少し驚きます。しかし、気がつかない振りをして、「おはようござります」と「荘重に朝の挨拶」をして、野良仕事にいってしまいます。お爺さんはそれをみて、ただ、まごついてしまいます。

また、家に帰ってきても、お婆さんのおごそかな態度に圧倒されて、お爺さんは、昨夜の鬼との出来事について何も言うことができません。お婆さんは、お爺さんの瘤がなくなっているのをみて、「瘤から水が出て、しなびたようですね。また水がたまって、はれるんでしょうね」と言って、すましています。

そして、二〇年ほど前に瘤ができたときと同じように、お婆さんも息子も、瘤がなくなったことに対して、ほとんど関心を示しません。

この一家の物語は、「結局、このお爺さんの一家に於いて、瘤の事などは何の問題にもならなかつたわけである」と書かれて、終わっています。お爺さんが帰ってきた現実は、山に登る前と少しも変わっていなかったわけです。

それでも、お爺さん自身は変わったのだと思います。以前と少しも変わらない現実に、帰ってくるという行為にこそ、お爺さんの変化を認めるべきではないだろうかと思います。

お爺さんは、現実のお婆さんや息子との関係から逃げ出して、山へ柴刈りに行くとか、鬼と酒盛りをするとかいう、夢の中のような出来事を一時的には体験します。それでもやはり、この現実の世界で生きていくしかない、それで戻ってくるのだと思わせる力が、この作品にはあるような気がします。

山で緊張の溶けたお爺さんを、あえてまた、お婆さんや息子のいる場所に帰るように描いているのは、太宰のそうした強い意志が働いているからではないか、と感じさせます。

『お伽草紙』という作品は、軽妙な描かれ方をしていますので、笑わせる場面に満ちています。しかし、背後には作者のそうした強い意志が、ちゃんとあるのではないかと思わせます。

(2)「浦島さん」
二つ目の作品「浦島さん」も、構図的には「瘤取り」と同じです。浦島太郎は、「人はどうして、お互いを批評しあわなければ、生きて行けないのだろうか。ハギの花も小蟹も鳥のガンも、私を批評しないのに、人間だけが何のかのと言う、うるさいものだ」と、独りごとを言っては、溜息をついたりしています。

そんなとき、以前、助けてやった亀に、「竜宮には人を、うるさく批評するということはありませんよ、みんなのんびり暮らしていますよ」と言われます。浦島はその一言に心をひかれ、竜宮に行く決心をします。そして竜宮ではじめて、「無限に許されている」という体験をします。竜宮では、人が人を「批評」するとか、悪口を言うというようなことが、まったくありません。

竜宮の乙姫さまは、かすかに笑っているだけで、人を警戒するということなどちっとも知らない方とされています。また、ものを言ったのを聞いたことのないような、おっとりとした方とされています。

「瘤取り」のお爺さんと同じように、浦島太郎も、「人は分からない」ということに、不安や緊張を感じています。それで、そこから逃れるために竜宮に行って、そういう不安や緊張をまったく感じない、すべてが無限に許されているような体験をします。

ところが、浦島太郎は、この世で「孤独」を感じていたように、人と人の関係がなくなってしまった竜宮でも、「孤独」を感じます。

そこで、浦島太郎は、陸上に帰ってくる決心をします。「瘤取り」のお爺さんが、山から下りてくるのと同じように、海から上がって、陸上に戻ってこようとします。そのときの気持ちは、次のように書かれています。

《さうして、浦島は、やがて飽きた。許される事に飽きたのかも知れない。陸上の貧しい生活が恋しくなつた。お互ひ他人の批評を気にして、泣いたり怒つたり、ケチにこそこそ暮してゐる陸上の人たちが、たまらなく可憐で、さうして、何だか美しいもののやうにさへ思はれて来た。》

浦島太郎は帰ってきた陸上で、竜宮でもらった玉手箱を開けたために、三百歳のお爺さんになってしまいます。しかし、作者とおぼしき「私」という人物は、浦島が三百歳になったのは、浦島にとつて、決して不幸ではなかったのだと語ります。そして、この物語は、作品の最後のつぎの言葉で終わっています。

《浦島は、それから十年、幸福な老人として生きたといふ。》

これが、この作品の結びです。作者は竜宮にいた浦島太郎に、「幸福」を与えませんでした。ところが、戻ってきたこの陸上で、「幸福」を与えています。陸上に戻ってきた浦島を、作者ははじめて、「生きる」ことを目指す人物として描いています。

三つ目の「カチカチ山」では、人と人との関係に、いつでもどこでも一体感を求めてしまうような人が、どんな悲惨な目にあうかということが描かれています。最後の「舌切雀」でも、スズメと気持ちが一つになって、安心できる「すずめのお宿」から、現実の世界に戻ってきたお爺さんが、一国の首相になるまでの話が描かれています。

四つの作品に共通しているのは、次のようなことです。「人が分からない」と感じている人物が、一度はその「不安」や「緊張」から逃れて、言葉のいらない母と子のような、一体感を感じられる世界を求めます。しかし、そこから再び、不安や緊張を感じさせる現実の人間世界にもどってくるということ、そのことが太宰の強い意志として描かれていることが共通しています。


3 『津軽』
太宰は『津軽』を書くために、実際に、昭和19年の5月から6月にかけて、故郷の津軽に出かけます。

主人公は太宰と等身大なのですが、生まれ故郷を訪ねることになった理由について、「都会人としての私」に不安を感じているので、「津軽人としての私」をつかまえたくて津軽に行こうとしたと、作品の中で語っています。

自分の性格とか、考え方とか、生き方とか、人との接し方とか、そういうものがどのようにして出来上がったのかを知りたくて、故郷に行ってみようと思ったということだと思います。そして、実際に、自分の根元にあるものを捜し当てたというふうに、作品の中に書かれています。

作品の中で、「Sさん」という人が主人公を、熱狂的に接待する様子を、作者は「疾風怒涛の如き接待」と呼んでいます。そして、そのことは自分も同様で、「愛情が過度に露出してしまうためだ」として、次のように語っています。

《Sさんのお家へ行つて、その津軽人の本性を暴露した熱狂的な接待振りには、同じ津軽人の私でさへ少しめんくらつた。Sさんは、お家へはひるなり、たてつづけに奥さんに用事を言ひつけるのである。「おい、東京のお客さんを連れて来たぞ。たうとう連れて来たぞ。これが、そのれいの太宰つて人なんだ。挨拶をせんかい。早く出て来て拝んだらよからう。ついでに、酒だ。いや、酒はもう飲んぢやつたんだ。リンゴ酒を持つて来い。なんだ、一升しか無いのか。少い! もう二升買つて来い。待て。その縁側にかけてある干鱈(ひだら)をむしつて、待て、それは金槌(かなづち)でたたいてやはらかくしてから、むしらなくちや駄目なものなんだ。待て、そんな手つきぢやいけない、僕がやる。干鱈をたたくには、こんな工合ひに、こんな工合ひに、あ、痛え、まあ、こんな工合ひだ。おい、醤油を持つて来い。干鱈には醤油をつけなくちや駄目だ。コツプが一つ、いや二つ足りない。早く持つて来い、待て、この茶飲茶碗でもいいか。さあ、乾盃、乾盃。おうい、もう二升買つて来い、待て、坊やを連れて来い。」》

このあとにも、「Sさん」の言葉は続くのですが、その時の感想を、主人公(作者)はこう書いています。

《私は決して誇張法を用いて描写してゐるのではない。この疾風怒濤の如き接待は、津軽人の愛情の表現なのである。》

そして主人公(作者)は、自分もこのSさんと、全く同様な事がしばしばあって、友達が訪ねて来たりすると、胸がわくわくして、どうしたらいいか分からなくなってしまう、と書いています。

そのことを主人公(作者)は、「愛情の過度の露出」と呼んで、「東京の人」とは違う、「生粋の津軽人」の特徴であると言っています。それは、心と心を無限に通い合わせたいという強い願望によって、あふれ出す感情を抑え切れないような、そんな気持ちを指しているように思えます。

『お伽草紙』には、分からない他人のいる現実社会と、心から分かり合える関係が実現する「竜宮」や「すずめのお宿」のような世界との、対比が描かれていました。『津軽』では、相手と気持ちが一つになって、安心して溶けてしまいそうな、そんな関係だけが拡大され、主題となって肯定的に描かれています。

『津軽』という作品で、主人公が「津軽」に行くことは、「瘤取り」のお爺さんが山に行くことや、浦島太郎が「竜宮」に行くこと、「舌切雀」のお爺さんが「すずめのお宿」に行くことと、同じ意味合いをもっていました。

作品『津軽』の中で、「竜宮」や「すずめのお宿」に該当するのは、4歳から9歳まで主人公(作者)を育てた子守の「たけ」と、主人公が30年ぶりに出会う場面です。

作品の後半で、主人公は「たけ」に会うために、津軽半島の小泊にやってきます。「たけ」の家は金物屋をしていましたが、あいにく、留守で誰もいません。近くの煙草屋で聞くと、運動会に行ったと教えてくれます。

そこで、主人公は運動会に行って、運動場を二度も回ってみるのですが、「たけ」をどうしても見つけることができません。諦めて、帰ろうと思って、バスの発着所まで戻ってきますが、もう一度、「たけ」の家に、お別れを告げてこようと行ってみると、戸が開いています。「たけ」の娘が、運動会で腹痛を起こし、薬を取りに、家に戻ってきたところでした。主人公はその娘といっしょに、運動会が行われている小学校まで行くことになります。

その小学校にたどり着くまでの道のりは、「瘤取り」のお爺さんが山に行くときのように、浦島太郎が「竜宮」に行くときのように、「舌切雀」のお爺さんが「すずめのお宿」に行くときのように、どこか現実離れした場所に行くように描かれています。

主人公は、「田圃の畦道」を通って、「砂丘」を越えて、「砂丘の上の国民学校」を通過して、「学校の裏の運動場」へと辿り着きます。運動会はちょうど、「瘤取り」のお爺さんが山に行って、鬼が酒盛りをしているのに出くわしたときの光景を、思わせるように描かれています。主人公はその光景を見て、呆然とし、夢見るような気持になってしまいます。

運動場には、万国旗があり、着飾った娘たちがいて、あちこちに白昼の酔っ払いがいる。その周囲には、掛小屋がぎっしりと立ち並んでいて、その中ではいま、それぞれの家族が重箱をひろげ、大人は酒を飲み、子供と女はお昼ごはんを食べながら、大陽気で語り笑っている。昔と少しも変らない、賑やかな祭礼のようだと、主人公は感じます。

「瘤取り」のお爺さんが山で見た、「鬼の酒盛り」の場面とそっくりだと言ってもいいかもしれません。「瘤取り」の場合、お爺さんは、鬼に親愛の気持ちを感じて、鬼が酒盛りをしているまんなかに飛び込んで、阿波踊りを軽妙に踊り抜くということになります。

作品『津軽』の主人公も、このお爺さんと同じような状態になります。作品は太宰と等身大の主人公の、「夢」の中の出来事のように語られます。それは、この作品のクライマックスとなっている、主人公が「たけ」と出会う場面です。次のように、描かれています。

《たけが出て来た。たけは、うつろな眼をして私を見た。
「修治だ。」私は笑つて帽子をとつた
(※太宰の本名は津島修治といいます)
「あらあ。」それだけだつた。笑ひもしない。まじめな表情である。でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないやうな、へんに、あきらめたやうな弱い口調で、「さ、はひつて運動会を。」と言つて、たけの小屋に連れて行き、「ここさお坐りになりせえ。」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言はず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちやんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見てゐる。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまつてゐる。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に一つも思ふ事が無かつた。もう、何がどうなつてもいいんだ、といふやうな全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持の事を言ふのであらうか。もし、さうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を体験したと言つてもよい。先年なくなつた私の生みの母は、気品高くおだやかな立派な母であつたが、このやうな不思議な安堵感を私に与へてはくれなかつた。世の中の母といふものは、皆、その子にこのやうな甘い放心の憩ひを与へてやつてゐるものなのだらうか。さうだつたら、これは、何を置いても親孝行をしたくなるにきまっている。そんな有難い母といふものがありながら、病気になつたり、なまけたりしてゐるやつの気が知れない。親孝行は自然の情だ。倫理ではなかつた。》

主人公(作者)は「生みの母」のことを、「たけ」のようには「安堵感を私に与へてはくれなかつた」と書いています。太宰が母を、そう感じていたことは確かかもしれません。

太宰が考えていた、人と人との理想的な関係とは、この場面のように、何も話さなくても分かりあえるような関係です。それは「言葉」によって、お互いが分かり合うといった関係ではなく、母親が子供の気持ちを一方的に分かって、安心をあたえてくれるような関係であるといえると思います。この作品のクライマックスの、主人公が「たけ」と30年ぶりに出会う場面は、そのことをよく示しています。

実はこの作品も最後の数行に、現実の世界に戻る言葉が、ちゃんと次のように書かれています。

《まだまだ書きたい事が、あれこれとあつたのだが、津軽の生きてゐる雰囲気は、以上でだいたい語り尽したやうにも思はれる。私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。》

主人公は「たけ」と出会う場面を、「夢見るやうだ」と語っていました。しかし、最後の数行には、その「夢」から覚めて、現実の世界に戻ってきたときの、作者の感想が書かれているような気がします。


4 太宰の生い立ち(「人が分からない」ということの起源)
「人が分からない」というようなことを、太宰がどうして強く思うようになったのか。人を不安に感じるとか、人といると緊張するとかいうことの、起源になったと思われる、太宰の生い立ちについて少し触れてみたいと思います。

太宰は明治42年に、大地主津島家の六男(長男、次男は夭逝)として生まれました。実の母親が病弱だったため、生まれて間もなく乳母をつけられています。それは津軽の資産家の、格式であったともいいます。

その乳母は再婚するために、1年たらずで去ってしまいます。その後は、同居していた叔母(母の妹)に育てられます。父母に馴染みが薄く、叔母を生みの母と思い込んでいたようです。そして、叔母の一家と、生活のすべてをともにして成長したといいます。

4歳のとき、15歳の「近村タケ」が、太宰治の子守として住み込むことになります。作品『津軽』の、「たけ」です。夜は叔母と同じ部屋で寝て、昼はいつも「タケ」と一緒に過ごすようになります。

父は太宰が4歳のときに、衆議院議員になります。そのために留守がちで、家に帰るのは1ヶ月か2ヶ月に1回で、それも1週間ほど滞在すると東京などに出かけて行き、太宰の相手になるようなことはほとんどなかったといいます。

母もこの頃から胸を患い、神田で治療を受けたり、湘南で療養したりしています。父と母は秋ごろに、東京に一家を構え、そこで過ごすことが多くなっています。

このように、母や父に接する機会が少なかったため、5、6歳の時から毎晩、「タケ」に字を教わり、「タケ」に連れられて、金木第一尋常小学校に通っています。その後も、夜は「タケ」に小学校の勉強を教わり、学校で祝祭日の式などがあると、「タケ」に連れられて参列したといいます。

その「タケ」も、太宰が9歳のとき、太宰の家から去っていってしまいます。

その「タケ」と、30年ぶりに会ったときのことが、作品『津軽』に描かれています。この作品の中で、主人公は実の母親について、「たけ」と比較して、「先年なくなつた私の生みの母は、気品高くおだやかな立派な母であつたが、このやうな不思議な安堵感を私に与へてはくれなかつた。」と、たったこれだけですが、触れています。

太宰の母親が、どんな人だったかということとは別に、太宰の頭の中から、「母親の鮮明なイメージ」が、消えてしまっていることは確かだと思います。『津軽』という作品でもそうですが、太宰が作品の中で、実の母親について触れることは、叔母(母の妹)や「たけ」に比べ、ずっと少ないと思います。

それではどうして、太宰の中から、「母親の鮮明なイメージ」が消えてしまっているのか、ということです。

生まれて間もなく乳母をつけられるということは、津軽の資産家の格式でもあったようです。「家の中」に父や母がいることが少ないとか、いつも家の中に家族以外の人がいるとかいう状態になると、「家の中」の空気の密度が薄くなると考えられます。家族だけでいるときに感じる、一体感みたいなものが薄くなって、「家の外」の社会と似てくるような雰囲気になると思います。

太宰の場合、乳母をつけられ、叔母や子守の「タケ」に育てられ、しかも、家の中には親族が17人、使用人を入れると全部で30数人の人がいました。

「家の中」が「家の外」の社会と、同じような状態になっています。そうすると、母親がいつも自分の方を見て、ニコニコしていてくれるとかいう状態がなくなります。母親の姿は遠くに感じられ、母親の声は遠くにしか聞こえなくなってくると思います。

母親の姿や声が自分から遠ざかってしまうと、母親の顔や姿が「鮮明なイメージ」として、ハッキリとは見えなくなってしまいます。「母が分からない」ということになると思います。そして、「母が分からない」ということは、「人は分からない、他人は分からない」ということに、つながっていくと考えられます。

つまり、太宰のように、「家の中」が「家の外」の社会と、同じような状態になってしまうと、母は遠くに行って、見えなくなったように感じられます。そうすると、母親の表情を見て、どうしたら喜ぶかとか、どうしたら嫌がるかとか、そういうことが分からなくなってしまうように思います。

「家の外」で出会う人というのは、よその人ですから、もともと、「相手のことはよく分からない」わけです。自分の母親との距離を縮める方法が分からなければ、よその人に対してはもっと、どうしたら相手に喜んでもらって、相手との距離を縮めて、関係を結ぶことができるのかということが、「分からない」ということになると思います。

「分からない」ということは最大の「不安」ですので、よその人に対して、「不安」や「緊張」や「恐怖」を感じるようになるのは、自然の成り行きだといってもいいかもしれません。

よその人との距離を縮めて、よその人と関わりをもつために、どういう「言葉」を使い、どういう「態度」や「表情」をして振舞ったらいいのかが、分からないということだと思います。

つまり、太宰の場合もそうだと思いますが、どうしたら母親に喜んでもらって、母親との距離を縮めて「安心感」を感じればいいのか、ということが分からない。そうすると、子どもは母親から、「安心」をもらえないことになります。その結果、「家の外」のよその人に対しても、「不安」や「緊張」を感じるようになって、今度は、その「不安」を打ち消そうとする。つまり、何かから、「安心」をもらおうとすると思います。

「安心がほしい」と思うのですが、「母親やよその人の鮮明なイメージ」は、遠くの方に行ってしまっていて、つかまえることができません。そうすると後は、真っ暗な部屋で手探りで物があることを確かめるように、皮膚と皮膚がぴったりくっついているような、皮膚感覚による情緒的な関係だけを求めるようになります。

つまり、母親のヒザに抱かれて、一体化して溶けてしまえるような、「言葉」のいらない、手触りだけの感覚を、どこでも、いつでも、求めるようになると考えられます。

太宰の場合も、母親の姿は遠くに感じられ、「母親の鮮明なイメージ」が記憶の中から、消えてしまっていると考えていいと思います。


5 『人間失格』
『人間失格』という作品は、この作品の中の言葉で言えば、「どんどん不幸になるばかり」な男の姿を描いた小説ということになります。相手と一体となって、溶けてしまいたいというような、そんな世界ばかりを求め続けていると、現実の社会の中では「孤立」してしまいます。そのことが、太宰自身の自伝的な作品として、黒一色の自画像として描かれています。

『人間失格』は葉蔵という、主人公の手記で構成されています。その手記は、「恥の多い生涯を送つて来ました。自分には、人間の生活といふものが、見当つかないのです」と、書き出されています。つまり、手記の一行目から、「人間が分からない」と書き出されているわけです。

さらにその後にも、「空腹というのはどんなことか分からない」「人間の営みというのはどんなことか分からない」といったことが、たくさん書かれています。主人公は、自分の両親についても、「分からない」と言っています。

主人公は、「人間のことが分からない」と、何度も何度も語っています。そして、「人間のことが分からない」と、「不安」や「恐怖」に襲われるとも書いています。

主人公はその結果として、「人に、何をどう言ったらいいのか分からないので、人と会話ができない」と語っています。そのことは、「言葉」を用いて人と関わりをもつことができないと、言っていることになります。そうすると、「言葉」を必要としないような関係、つまり、相手と一体化して溶けてしまえる、そんな皮膚感覚による関わりのようなものを求めることになります。

『お伽草紙』でも『津軽』でも、主人公は、そのような関係の世界に一度はやって来ます。しかし、『お伽草紙』では明らかに、「不安」や「緊張」を与えるかもしれない現実の世界に、もう一度、帰ってきます。『津軽』も最後に、現実からの呼び声が、作品の中から聞こえてきます。

ところが、『人間失格』の主人公は、人と人が一体感をもてるような、そんな世界ばかりを求めてしまうため、現実の社会の中で「孤立」してしまうことになります。そして、そんな主人公の姿を、「どんどん不幸になるばかり」な男の姿として描いています。

その「不幸」とは、具体的には次のようなことです。
・主人公は東北から東京に出てきて、高等学校へ入ります。入学して二年目の20歳のとき、ツネ子という人妻と心中未遂事件を起こし、自分だけが生き残ってしまいます。その結果、生家からは勘当され、また、自殺幇助罪に問われ、高等学校からも追放されてしまいます。
・21歳、22歳のとき、年上の女性二人に、生活の面倒を見てもらうような暮らしを続けます。
・23歳のとき、ヨシ子という17、8歳の女性と結婚します。ところが、ヨシ子があやまちを犯したことをキッカケに、結婚生活はあっという間に破綻してしまいます。
・その後、ヨシ子が隠し持っていた催眠剤を飲んで、自殺を図りますが、未遂に終わります。
・喀血をキッカケにはじめたモルヒネの中毒になってしまいます。
・そのため、精神病院へ強制的に入院させられます。
・3ヶ月後に退院しますが、故郷の温泉地にある古い「あばら家」で、療養生活を送ることになります。そこにおける、3年後の現在の暮らしぶりを書いて、主人公の手記は終わっています。

太宰にも、実際に心中未遂事件を起こし、自分だけが生き残ったという体験があります。また、薬物の中毒になって、精神病院へ入れられたという体験もあります。そういった体験が、元になっていると考えられます。

それにしても、主人公自身、「どんどん不幸になるばかり」と語っているように、こんなふうに、「不幸」ばかりが続くということは、主人公自身がそんな「不幸」を呼び寄せているからではないかと、考えていいと思います。

主人公はどんな出来事に対しても、「子ども」のような、人と人との情緒的な関係の中で解決しようとします。

例えば、主人公は東京に出てきて、左翼的な政治運動に足を突っ込みます。その動機は、その政治運動のグループの雰囲気が、安心で、居心地がよく、楽しかったためで、政治運動の目的よりも、その雰囲気が自分の肌にあったからだと語っています。どこでも、いつでも、自分の気持ちの「安心」だけを求めている、ということがよく分かります。

そうすると、社会の現実とうまくなじめず、そこから「孤立」してしまうということは、自然の成り行きだといっていいと思います。

どこへ行っても、「安心がほしい」といつも考えているわけで、それほど、人に対する「不安」や「緊張」が強かったともいえると思います。安心をもらえるような関係だけを求めているため、「言葉」を用いて、人と関係を結んでいくということができなくなっています。主人公の「不幸」と言われていることは、そういうところから、生じていると考えていいと思います。

『人間失格』の主人公の、そうした性格については、ツネ子という人妻と心中未遂事件を起こす前日の夜の出来事に、よく描かれています。

ツネ子は主人公の葉蔵に、「身の上噺」を語ります。主人公より二つ年上であること、広島で床屋をしていたが、昨年夫と東京へ出てきたこと、夫が詐欺罪に問われ刑務所に入っていて、だからカフェで働いているということなどを語ります。それを聞いて、主人公は、「女の身の上噺」よりも、「侘びしい」という一言の呟きのほうに、ずっと共感をそそられると感じます。

しかし、「侘びしい」「哀しい」「つらい」「寂しい」というような、「自分の気持ち」を表現する「言葉」だけでは、子が母に依存するような関係しか、結べないことになります。そして、人と会話ができなくなって、社会から「孤立」してしまうのではないかと思います。

「侘びしい」というような「言葉」を求めるということは、実際には、「言葉」を必要としないような関係を求めていることと、同じだと考えていいと思います。

こんなふうに、主人公は「侘びしい」というような、自分の気持ちだけをあらわす「言葉」を求めるタイプです。いつまでも、母親と一体になれることを求めている、いつまでも「子ども」のままのような人物、ということになると思います。

そうすると、「子ども」のままで、「家の外」の社会に出て行っても、社会の中で生きて行くのはすごく難しい。それで、「家の外」の人に対しては、いつまでも不安、緊張を感じることになって、社会から「孤立」してしまうということになります。

社会から「孤立」してしまうと、さらに、「侘びしい」というような言葉を求める精神状態になります。そのため主人公は、「どんどん不幸になるばかり」と言われているようなことになってしまいます。

年上の女性に生活の面倒を見てもらうような暮らしにしても、ヨシ子という17、8歳の女性との結婚とその破綻にしても、自殺未遂にしても、薬物中毒にしても、精神病院入院にしても、そうした社会からの「孤立」が、自然に招き寄せたものだといっていいと思います。

『津軽』という作品では、母親と一体となれるような世界を求める主人公と、そうした世界が実現することを描き切って見せました。だから、『津軽』には、「母的なイメージ」があふれかえっています。

『人間失格』でも、主人公は同じような世界を、いつでも、どこでも、いつまでも、求め続けます。ところが、家の外の社会では、そのような一体感を求めることができない。そのため、主人公は社会から「孤立」してしまう。そんな男の姿が描かれています。この作品では、「母的なイメージ」は消滅してしまっています。

そうした主人公の男が、最後にたどり着いたところは、故郷の温泉地にある、ぼろぼろの「あばら家」でした。ここでは、社会から完全に「孤立」してしまいます。現在でいえば、「引きこもり」のような生活を、老女中と送ることになります。

そこで3年たった、現在の暮らしぶりを書いて、主人公の手記は終わっています。主人公は手記の最後に、「自分はことし、二十七になります。白髪がめつきりふえたので、たいていの人から、四十以上に見られます」と書いています。

しかし、この作品にも、現実から呼びかける声が、最後にちゃんと用意されています。

『人間失格』は主人公の葉蔵の手記で、大部分が占められていますが、その手記の後に、最後の「あとがき」があって、主人公と一緒に暮らしたことのある京橋のスタンド・バアのマダムが登場します。そのマダムの次のような言葉で、この作品は終わっています。

《「あのひと(注・主人公の葉蔵)のお父さんが悪いのですよ。」
 何気なささうに、さう言つた。
「私たちの知つてゐる葉ちやんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さへ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした。」》

これが、『人間失格』という作品の、最後の言葉です。

マダムは主人公のお父さんが悪いと言い、そして主人公のことを、「神様みたいないい子でした」という、印象的な言葉で語っています。

「神様みたいないい子」という言葉で、太宰は何を言おうとしているのか。相手と一つになって、溶けてしまいたいということを求める、そんな主人公が「神様みたいないい子」であればあるほど、「お父さん」が象徴する現実の社会では、「孤立」せざると得ないということ。そのことは自然なことだったと、冷静に見つめられて語られているように思います。

作者は『人間失格』という作品でも、この最後の言葉でちゃんと、現実から呼びかける声を響かせているような気がします。(了)

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