太宰治論を読む - 安藤宏著2003年1月17日 この本を読んでいると、なんとなく窮屈な感じになってくる。それは著者が、太宰の作品は太宰の自覚的な戦略や方法でできていると、考えているためではないかと思う。 たとえば、「太宰の小説の語り手や主人公がとっているのは、努めて自分はダメな人間だ、ということを強調する手段である。それによってダメな自分とそうでない周囲とのへだたりが生まれ、それによって初めてそのあいだに漂う不安や気まずさを対象化していくこともまた可能になる。」(17〜18ページ)と書かれているが、ここに言われているような戦略や方法が自覚的なものとして、太宰にあったのだろうか。かりに、そのような戦略があったとしても、そういうものからはみ出してしまうのが、文学ではないだろうか。そしてそんな戦略的なところにではなく、自覚しない、無意識に作られたところにこそ、私たちは無意識のうちに感応しているのではないか。 作者の無意識と、読者の無意識が出会ったところに、感動や驚きや共感があるので、一つとして同じ本の読み方がないのも、そんなところに根拠があるからではないかと思う。作者自身が気づかないことに、読者も気づかないうちに感動しているに違いない。太宰を語ることはだから、語る者自身を語ることでもある。
|