太宰治論を読む - 長部日出雄著2003年5月9日 二冊とも、「もう一つの太宰治伝」というサブタイトルがついているが、太宰治の伝記的な事実はもう、出つくしているのではないか。だから、太宰の伝記を読むことが、その作品を読むこと以上に、太宰のイメージを鮮明にするということはないのではないか。 昔読んだ埴谷雄高ふうにカッコつけて言えば、「太宰治は太宰治全集の中にしかいない」と言ってもいいのかもしれない。そのことは作品の中に、伝記的な事実を発見するということではない。作品が差し出す太宰のイメージ、読者の数ほど存在し、ひとつとして同じものがない太宰のイメージを、読む者がそれぞれに感じ取ること。そのことを通じてしか、太宰に近づくことはできないのではないか。 伝記的な事実など忘れて、作品が発する声にじっと耳を傾けることも必要なのではないかと思う。太宰の作品に関心を持っているから、太宰という人間にも関心を持つのであって、その逆ではないはずだからである。 以上、自戒をこめて。 ●「レーニンとは、何か。新しい歴史の一頁を開いたレーニンとは、何か。私は、レーニンはただ一揃いのレーニン全集のなかにいて、そのほかの何処にも見出せないと、断言する。」(埴谷雄高「永久革命者の悲哀」) ●長部日出雄氏の記述を借りれば、「太宰治は午前九時から午後三時までの間にしかいない」と言っていいのかもしれない。晩年の太宰について、長部日出雄氏は書いている。「本物の作家太宰治は、一日のうち執筆に没頭している午前九時から午後三時までのあいだ、さらにいえばその時間内に生み出された作品(テキスト)のなかにしか存在しないのに、多くの人はもっぱら仕事から解放された午後三時以降の太宰に、より興味を抱いて話題の種にする。」(『桜桃とキリスト』433ページ)
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