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 太宰治論を読む - 清水昶著

2004年8月2日
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20 清水昶『太宰治論』                思潮社1979年6月1日
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太宰の作品「故郷」の、主人公と兄たちが和解するラストシーンについて、著者は、「どこか性的な陶酔感をともなって、お互が融合しあっているような観がある」として、次のように書いている。

「性愛にしろ家族の人間関係にしろ、太宰の場合、それは自分と他者が互に溶けあい自他の区別が完全になくなるような一世界をひらいているのである。」(87ページ)

また、「決して人間が人間を傷つけることもない、あの『浦島さん』の竜宮のようなもうろうとした無葛藤の世界」(91ページ)とも書いている。そして、そんな世界を所有していることによって、「太宰も人(他者)の心がわからない人間の典型であった。」(43ページ)と述べている。この箇所を読んで、謎が一つ解けたような気がした。自他の区別が完全になくなるような「無葛藤の世界」とは実は、自己の世界だけが拡大し、人の心を見えなくしてしまうものなのだ、と。

生れたばかりの子と母のように一体となった、自他の区別が完全にない関係には、人を理解しようとする意識が欠けている。だから、人はそんな「無葛藤の世界」から脱出し、他人を理解しようとすることで、社会生活を営んでいくに違いない。この本を読んで、そんなことを考えた。

人の心が理解できないから、自他が溶けあっているような関係を目指すのか、自他が溶けあっているような世界に住んでいるから、人の心が理解できないのか。どちらにしても、人の心が理解できないということは、社会生活に支障をきたすに違いない。太宰もつねに、自他が溶けあっているような世界を求めていたが、そのことをこんなふうに書いている。

「路を歩けば、曰く、「惚れざるはなし。」みんなのやさしさ、みんなの苦しさ、みんなのわびしさ、ことごとく感取できて、私の辞書には、「他人」の文字がない有様。誰でも、よい。あなたとならば、いつでも死にます。ああ、この、だらしない恋情の氾濫。いつたい、私は、何者だ。「センチメンタリスト。」をかしくもない。」 (「思案の敗北」昭和12年)

過度にセンチメンタリズムであることは、「だらしない恋情の氾濫」によって、自分の世界だけが膨張し、他人のことなど眼中になくなることである。「いつたい、私は、何者だ。」と書いている太宰に、そのことは認識されていたと思えるし、そのことで社会生活に支障をきたすことも経験的に分かっていたと思える。

だが、分かっていても、やめられない。『人間失格』は、そんなセンチメンタリストの主人公が、社会生活の不能を強いられる物語として読むことができる。作者の太宰自身はそんな主人公の姿を、冷静に見ていたに違いないが、やっぱり、分かっていてもやめられない一人であったような気がする。


▲清水昶『太宰治論』は絶版ですが、サイト「日本の古本屋」で見つけることができるかもしれません(2005年2月13日現在:あり)。
「日本の古本屋」はこちら


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