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 太宰治論を読む - 斉藤孝著

2004年9月6日
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21 斉藤孝「太宰治『饗応夫人』『眉山』」

         『生き方のスタイルを磨く』NHKブックス2004年6月20日所収
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合う人と合わない人がいる。でも、何が合うのか、何が合わないのかを、説明するのはすごく難しい。この本を読んで、それはその人の「生き方のスタイル」と合う・合わない、ということではないのかと思った。

たとえば、「話す内容以上に、話し方(スタイル)が影響を与えることが多い。何よりスタイルこそがコミュニケートしているのだ。」(102ページ)という記述から、そんなことを考えた。「話し方(スタイル)」の方が、「話す内容」以上に、その人と合う・合わないということを左右するのだ、と。

「話し方(スタイル)」は一人一人違うのに、「話す内容」は何らかのパターンとしてしか存在しない。「話し方(スタイル)」は個人に属しているが、「話す内容」は制度に属しているといっていいのかもしれない。だから、個人に属する「話し方(スタイル)」によって、その人と合う・合わないが左右されるのだ、と。

そして、著者はこの本の中で、「癖」が「技(わざ)」となったものを、「生き方のスタイル」と呼んでいる。「饗応夫人」の主人公「奥さま」は「逆上の饗応癖」を、「眉山」の主人公トシちゃんは「出しゃばり癖」を、それぞれ「生き方のスタイル」としていると言う。「逆上の饗応癖」とは客を歓待することから逃れられない癖、「出しゃばり癖」とは何にでも首を突っ込みたがる癖のことである。

そして、「饗応夫人」の主人公の「逆上の饗応癖」は、この作品の語り手であるお手伝いのウメちゃんが受け入れざるをえないほど、生き方のスタイルとして成熟している。また、「眉山」の主人公の「出しゃばり癖」は、その「存在感」がおのずから際立つほど、生き方のスタイルとして成熟している、と著者は見ている。

主人公たちは、著者が言うように、「スタイルこそがコミュニケートしている」人物の、典型といえるかもしれない。「饗応夫人」や「眉山」は確かに、主人公の振る舞いが、強い印象を与える作品である。

しかし、「逆上の饗応癖」や「出しゃばり癖」は、「癖の技化」したものというより、主人公の自然な生き方ではないのか。「癖の技化」としてのスタイルとは、社会的なものだと著者も書いている(87ページ)ように、個人的なものから社会的なあるパターンに転換したものだといえる。「饗応夫人」や「眉山」は、そうしたスタイルによるより、個人的な「逆上の饗応癖」や「出しゃばり癖」によって、読者を感動させるのではないか。

太宰の小説に登場する人物の、「生き方のスタイル」はどこまでも、登場人物や作者個人の内面の問題だと思える。そうであれば、「生き方のスタイル」と言う必要はなく、ただ「生き方」とだけ言えばいいのかもしれない。太宰の小説のスタイルこそが、読み解かれるべきスタイルとしてあるのだと思う。

斉藤孝著『座右のゲーテ』(2004年5月光文社新書)に刺激されて、エッカーマン著『ゲーテとの対話』(山下肇訳・岩波文庫)を読みました。ゲーテは息子の奥さんが、小説に登場する人物の性格の好き嫌いを語るのに対し、愛情を込めて次のように述べています。「お前たちはふだん本を読むと、きまってそこに心の糧を見つけようとするし、愛せそうな主人公を見つけようとする! しかし、それは、まちがった読書法だな。あの人物(原文は傍点)が好きだとかこの性格が気に入ったなどということが問題なのではなく、その書物(原文は傍点)が気に入ったかどうかが、大切なのさ。」(中21ページ)、と。作品に登場する人物とその性格ではなく、作品と作者が問題なのだということではないのだろうか。書物が気に入ったということは、作品と作者が気に入ったということだと思う。だから、登場人物のスタイルを問うことより、作品のスタイルを問うことのほうが重要だと思える。


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