太宰治論を読む村瀬学『『人間失格』の発見』2004年11月29日 Tweet 『人間失格』の主人公が人間不信を語るのに対し、著者はそれを、「家族との間に《同一性》を感じる体験よりか、家族との《差異》ばかりを感じる体験を重ねていった」結果だとして、次のように書いている。
「「大目に見られる」体験が積み重ねられる中で、子供たちは人間同士の関係の中でたとえ「認識の仕方」が違っても、それを厳密につきつめたりしないで、自分と同じ事を考えているのだろうというように「大目にみる」感性を養ってゆくことになる。そういう状態が《信頼》と呼ばれてゆくものになる。《信頼感》の形成である。ところが主人公は、家族の中であまり「大目に見られる」ことがなかったみたいである。つまり家族との間に《同一性》を感じる体験よりか、家族との《差異》ばかりを感じる体験を重ねていったみたいなのだ。」(42ページ) ここで論じられていることを、私なりに理解するとこうなる。子供は家族から「大目に見られる」ことで、許容・肯定されていると感じ、そのことによって相手を許容・肯定するという感性が育っていく。それが「信頼感」と呼ばれる。そして、自分が考えている(感じている)ように相手も考えている(感じている)だろうと、自分と相手との間に「同一性」を感じ取ることが、「信頼」という関係を成立させるためには必要なのだ、と。 そうすると、『人間失格』の主人公は、自分と相手との間に「同一性」を感じ取ることができなかったため、人間不信を語るのだといえる。主人公のこの姿勢は一編を貫いている。 そして家族という場が、「親和性の強い共同性」から「恐怖の共同性」に転化しうるとすれば、子供にとってはそこが生きていくための唯一の場だからだと思う。家族が「両刃の剣」となるのは、そこから逃げ出すことができない者にとってであるに違いない。 『人間失格』の主人公を含め、誰もが親子という関係からしか出発できないのだから、この著者の論理はいちばん深いところにまで、手が届いているような気がする。
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