1 『人間失格』論 (4/4)1/4、2/4、3/4、4/4 18 父
葉蔵は、自分を支配し続けてきた父に対してはじめて、告白の手紙という形で自分からかかわりあいを持とうとする。中学校に入るために他郷へ出てからの、父との関係を手記からひろい出してみる。
父は葉蔵にとって、疎隔感を覚えていた世間を象徴するようにしか存在していなかった。そのため、素直に「告白」できる薬屋の奥さんとは違って、「神の存在を賭けるほどの決意」をもって「告白」せざるを得ないような存在だった。葉蔵が、どんな救いを求めて父に手紙を書いたのかは不明だが、それは、服従と同時に依存してきた父(世間)に対して見せる、はじめての積極的な行為だった。父に、「肉身のやうで」あることを求める最後の訴えだったかもしれない。しかし、帰ってきた父の返事は、葉蔵の期待を裏切るものでしかなかった。 「ヒラメが、悪魔の勘で嗅ぎつけたみたいに、堀木を連れてあらはれ」、葉蔵を「脳病院」に入院させてしまう。これが父の返事だった。最終的な場面で、〈事前に現れる人〉堀木と〈事後処理をする人〉ヒラメは連れ立って現れ、葉蔵を「この世」から追放する。ヒラメはいつどこで堀木と知りあったのだろうか。心中未遂事件後に住んでいたヒラメの家から逃げ出し、堀木の家を訪れた葉蔵は、「親爺さんから、お許しが出たかね。まだかい。」と堀木から尋ねられる。堀木は、葉蔵の父が「激怒」していることを、ヒラメを通じて知ったに違いない。ヒラメはこの時点で、堀木と面識を得ていたと思われる。そして、シヅ子と同棲するときにも、父の意思は、ヒラメ→堀木→シヅ子へと伝わり、その結果、葉蔵は故郷から絶縁されることになる。同じように、葉蔵を「脳病院」に入院させようとする父の意思も、ヒラメ→堀木→ヨシ子という経路で伝達し、この三人が実行に移すことになる。 「この世」の規範を象徴する父の意思は、ヒラメや堀木を手足として動かし、葉蔵を「この世」の外にある「脳病院」に追放する。しかし葉蔵は、三カ月後に自分を引き取りにきた長兄から父の死を聞かされ、生きていく意欲をなくしてしまう。
父の死は、「この世」の死を意味していた。だからそれは、葉蔵の「この世」での死(人間失格)を駄目押しするものでしかなかった。「人間を極度に恐れてゐながら、それでゐて、人間を、どうしても思ひ切れなかつた」(第一の手記)葉蔵にとって、道化は、「人間」として生きていくために必要なことだった。しかしここには、「懐しくおそろしい存在」(「極度に恐れてゐながら」も、「思ひ切れなかつた」対象)である父(世間・人間)を「思ひ切」ってしまったために、道化とも無縁になった葉蔵がいるだけだ。 19 脳病院
葉蔵には、心中未遂事件後、自分をまともな人間として扱ってこなかったヒラメや堀木が、この日は自分をまともな人間として扱っていると映じていた。しかし、堀木の「優しい微笑」も、ヒラメの「慈悲深いとでも形容したいほど、もの静かな口調」も、実は葉蔵をすでに 「狂人」扱いしていることから出た態度にほかならなかった。父に宛てた手紙の内容が、父→ヒラメ→堀木へと伝わり、葉蔵を「狂人」とみなすようになっていたことは確かだ。そのことに気付かない葉蔵は、「ありがたくて、うれしくて」、涙さえ流す。葉蔵は、「男めかけ」に象徴されるような、面倒を見てもらう関係の中でしか生きていくことができない。そのことが、堀木やヒラメの見掛けの好意にも、唯々諾々と従わざるを得ないようにさせている。 堀木は、葉蔵の喀血をいたわるように「優しく微笑み」、ヒラメも、入院しなければならないと「しんみりした口調」で言うが、ふたりとも、モルヒネや手紙や父のことは一言も話題にしない。葉蔵は、「胸の病気」の治療のためにサナトリウムに行くと思い込んでいた。ところが、「森の中の大きい病院」に着いてみると、「或る病棟にいれられて、ガチヤンと鍵をおろされました。脳病院でした。」と記されているような、思いがけない事態がやってくる。葉蔵は、「人間」(世間)との通路を遮断されてしまうのである。 葉蔵には、堀木やヒラメにだまされたという思いだけが残ったに違いない。そして、父、堀木、ヒラメ、ヨシ子に対するどす黒い不信感を募らせたはずだ。この世で生きていけないという、葉蔵の「人間失格」意識は決定的なものとなる。作者は葉蔵を「脳病院」にぶち込むことで、最後の仕上げをする。
「この病院にいれられた者は気違ひ、いれられなかつた者は、ノーマルといふ事になる」わけでは、必ずしもない。なによりも、不本意な仕方で「脳病院」に入院させられたことが、「人間」を「失格」したという意識を葉蔵に植え付けることになったのである。「人間、失格。/もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。」と言うときの「人間」とは、「人間の生活」「人間の営み」「世間」のような、人間と人間の関係を意味していた。だから、人間と人間の関係(世間)の中で生きていくことに「失格」した葉蔵は、「完全に、人間で無くなりました。」という失墜感を味わうほかなかったのである。 堀木やヒラメの言いつけに素直に従ったことが、「罪」なわけではない。しかしその「無抵抗」は、必ずしも「無垢」から出たものではなかった。葉蔵の衰弱した心が、堀木の「優しい微笑」や、ヒラメの「慈悲深い口調」に「抵抗」できなかっただけだ。自身の精神病院入院体験(昭和十一年十月十三日〜十一月十二日)を退院直後に描いた作品、「HUMAN LOST」(昭和11年)からは怒りを感じとれるが、この作品からはそれを感じとることができない。「神に問ふ。無抵抗は罪なりや?」という言葉は、だまされたという思いがちからなく吐かせた呟きでしかなかった。 20 母 葉蔵は生まれ育った町から、汽車で四、五時間南下したところにある、温泉地の古い茅屋で療養生活を送ることになる。そしてそこでの、「六十に近いひどい赤毛の醜い女中」との現在の暮らしぶりを、手記の最後で次のように報告している。「それから三年と少し経ち、自分はその間にそのテツといふ老女中に数度へんな犯され方をして、時たま夫婦喧嘩みたいな事をはじめ、胸の病気のはうは一進一退、痩せたりふとつたり……」、と。葉蔵の手記は最後に、手記を記述している現在に到達する。手記の最後に登場する「テツ」は、『津軽』の最後に登場する「たけ」とあまりにも対照的な存在である。 『津軽』の「私」は、三〇年近く逢っていない育ての親「たけ」と再会して、「生れてはじめて心の平安を体験」する。だが葉蔵は、「テツ」と暮らしていて、どんな「心の平安を体験」することもなかった。「私」にとって、「たけ」は、「甘い放心の憩ひ」を与えてくれる母を感じさせる存在だった。だが葉蔵にとって、母は徹底した不在でしかなかった。母を問うことは、母の不在を問うことを意味していた。葉蔵の母は、「脳病院」にも茅屋にも尋ねてこない。前期の作品「思ひ出」の「私」は、叔母の中に母を発見し、中期の『津軽』の「私」は、「たけ」の中に母を発見するが、葉蔵はどこにも母を見つけ出せない。葉蔵を暖かく迎え入れてくれるような家族性は、最後まで失われたままだった。母の不在はまた、この作品をふくらみのない平板なものにしている。 幼児期における母性の存在は、母(他者)に対する信頼感と、自己に対する信頼感(自信)を生み出す。葉蔵が人間を不可解なものとして恐れるのは、このような母性の存在が欠如していたためである。そして、母性の欠如によって、記憶の核に喪失感を刻印された者は、そこに触れるような出来事を忌避し続ける。「脳病院」に葉蔵ひとりを残して帰ろうとするヨシ子は、強精剤だとばかり思っていたモルヒネを葉蔵に渡そうとする。それを断ったときの心境を、葉蔵は次のように書いている。
「拒否される」ことを恐れる心性が、「拒否する」ことを恐れているのだ。葉蔵が「拒否する」ことを忌避し続けてきたのは、母性に拒否されたときの喪失感が呼び起こされるのを、意識の奥底で恐れていたためである。 「人間」がわからないという思いは、「自分ひとり全く変つてゐるやうな」(第一の手記)意識を葉蔵に抱かせることになるが、それは、自己を肯定してくれる他者のまなざしが充分でなかったために、自己を肯定的に視ることができない出自の体験からきている。また自分を、「生れた時からの日陰者」(原文は傍点)と感じるのも、自己の生い立ちを振り返ったときに甦る喪失感によって、自己のイメージを否定的に捉えているためである。 太宰治も幼児期に、実母との希薄な関係や、後に「思ひ出」や『津軽』で発見することになる母性(叔母、たけ)とのつらい別れの体験があった。太宰治は、充たされなかった非言語的な親和の関係を、言語の構築(作品)で埋め合わせようとする。たとえば『津軽』の「私」は、「たけ」に母性の本質を感じ、「親孝行は自然の情だ。倫理ではなかつた。」と語っている。だが『人間失格』の葉蔵は、「父や母をも全部は理解する事が出来なかつた」(第一の手記)と書くことしかできない。「私」にとって「たけ」は、「倫理」(言語)ではなく、「自然」(非言語)を感じさせる存在だった。しかし葉蔵にとって母は、言語的に「理解」する対象でしかなかった。葉蔵は「自然の情」のような関係を望んでいながら、最後までそれを手にすることができなかった。作者の「現在」がそうさせているに違いない。 21 茅屋
「『人間』の世界」ははるかかなたに、微細な点として退いてしまっている。「ただ、一さいは過ぎて行きます。」という「真理」は、「年月は、人間の救ひである。/忘却は、人間の救ひである。」(『お伽草紙−浦島さん−』)というような、「人間の救ひ」を意味していたのか。それとも、「一時もとどまらず、毎日々々移り流れて、世間・人事の一切の常なく、すみやかに過ぎ去りゆくこと、これが目の前のはっきりした道理である。」(道元『正法眼蔵随聞記』山崎正一現代語訳)といった、宗教的な境地を意味していたのか。茅屋の生活が、ある平安と救いを感じさせるのも確かなことだ。 しかし茅屋には、過去にも未来にも接続していない、「現在」という空虚な時間があるだけである。それは、未来が閉ざされていることで、現在にじかに死が接続している空虚な時間である。葉蔵は老女中テツが睡眠薬と間違えて買ってきた、ヘノモチンという下剤を飲んで猛烈な下痢を起こし、「うふふふ」と空虚に笑ってしまう。この空虚な「現在」が、葉蔵を孤立意識の中に閉じ込め、過去を悔恨の中でしか回想せざるを得なくさせている。葉蔵の手記はこうして書かれたものだった。浦島老人の「現在」は、過去を忘却させることによって幸福を与えていた。だが葉蔵の「現在」は、過去の不幸を反芻させるだけである。孤立感を救うはずの制度(共同的な規範)は、葉蔵の前に開かれていなかった。 ヨシ子の事件の日からはじまった葉蔵の若白髪は、それから四年後の現在、二七であるのに四〇以上に見られるような、本格的な白髪に変貌していた。死の意識が、葉蔵を老いのほうにひっぱってきているといっていい。作者に照準をあわせれば、精神病院入院体験(28歳)を現在の作者(40歳)のほうに、つまり、「書かれている作者(自画像)」を「書いている作者」のほうに引きつけていることになる。成熟した成人という期間が空白であるのに老年に行き着いてしまったのは、「現在」が未来に接続していない、空白な時間として孤立しているためである。 太宰治は戦後、新約「マタイ伝」の言葉をしばしば引用してこのようなことを言っている。「汝等おのれを愛するが如く、汝の隣人を愛せよ。/これが私の最初のモツトーであり、最後のモツトーです。」(「返事」昭和21年)、「私の苦悩の殆ど全部は、あのイエスといふ人の、『己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ』といふ難題一つにかかつてゐると言つてもいいのである。」(「如是我聞」昭和23年)、と。この「マタイ伝」の言葉に、作者はどんな思いを込めていたのだろうか。そこには、過度に親和を求める葉蔵の心性と通じるものがあるかもしれない。「マタイ伝」の言葉や葉蔵の夢を実現するためには、世界はどのように構想されなければならなかったか。「冬の花火」(昭和21年)の主人公数枝の語る「桃源境」に、それを垣間見ることができる。
しかしこのような、「ラジオ」も「新聞」も「手紙」も「選挙」も「演説」もない、外部との交通が遮断された「部落」は、人間の持っている悪を発現させかねないものだった。外の現実に開かれていなければ、「気の合つた」とか、「過去の罪を自覚して気が弱く」とかいった情緒的な関係は、反対のものに転化せざるを得なかった。人は共同的な規範が許容する範囲内でしか、社会的な関係を持続していくことができない。「おのれを愛するが如く隣人を愛して、さうして疲れたら眠つて」、ということを可能にするために構想された「桃源境」は、隣人との関係を憎しみに変えてしまう可能性を持つものだった。 「己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ」。このことの実現が、「この世」でも「桃源境」でも「難題」であることを、作者は認めないわけにはいかなかった。そして、「あたしのあこがれの桃源境も、いぢらしいやうな決心も、みんなばかばかしい冬の花火だ。」、と数枝が最後には叫ばざるを得なかったように、葉蔵が最後に到達したところも、「桃源境」の成れの果てであるような茅屋での暮らしでしかなかった。 22 「神様みたいないい子」 「私」が、直接逢ったこともない葉蔵に関心を持つようになったのは、その写真に心をひかれたためである。「私」はまた手記の読者にも、「三葉の写真、その奇怪さ」(あとがき)を印象づけようとする。三枚の写真から受けとった「私」の印象を、「はしがき」から抽出してみる。 (1)一枚目の写真 「幼年時代」「十歳前後」「醜く笑つてゐる」「薄気味悪い」「猿の笑顔」「ひとをムカムカさせる表情」「私はこれまで、こんな不思議な表情の子供を見た事が、いちども無かつた」 「奇怪」なのは葉蔵の写真ではない。「私」の反応が「奇怪」なのだ。ここから、葉蔵の具体的なイメージを思い描くことは不可能である。なぜなら、「私」の記述からは、「私」自身の幻像を凝視しているような印象しか受けとることができないためである。それはまた、作者の心の中の作者の幻像をも象徴していた。葉蔵は中学の頃自画像を描いて、「自分でも、ぎよつとしたほど、陰惨な絵」ができあがってしまう。しかし葉蔵は、「これこそ胸底にひた隠しに隠してゐる自分の正体なのだ、おもては陽気に笑ひ、また人を笑せてゐるけれども、実は、こんな陰鬱な心を自分は持つてゐるのだ、仕方が無い」(第二の手記)と考える。「私」(作者)は葉蔵の写真から、みずからの「陰鬱な心」を感じとっているのである。 船橋の友人の家に泊めてもらうことになった「私」は、マダムからあずかったノートを朝まで一睡もせずに読みふける。そして、写真に心をひかれたときとは違った意味で、この手記にも心をひかれる。翌日、喫茶店に立ち寄った「私」は、ノートを貸してくれるようにマダムに頼み、こないだはじめて全部読んでみたと言うマダムと、次のような会話を交わす。
この作品の最後の場面だ。写真に悪感情を抱いていた「私」は、手記を読み、マダムの発言を聞いて、葉蔵のイメージの修正を強いられている。マダムの発言を印象深く聞いて、書きつけているのはそのためである。おなじようにこの作品の読者もまた、「はしがき」で与えられた葉蔵のイメージの修正を強いられる。作者の意図も、変貌していく葉蔵のイメージを定着させることにあったように思える。 マダムは、葉蔵の手記から「私」の住む現在に飛び出してきた、写真や手記の中にいる葉蔵でない、生身の葉蔵を知っているただ一人の人物である。だからこそ、「私たちの知つてゐる葉ちやん」を語ることができるのである。マダムが知っている葉蔵とは、ヨシ子の事件後、自殺を図るところまでで、後のモルヒネ中毒、精神病院入院、茅屋での暮らしは直接には知らなかったに違いない。だとすれば、手記をはじめて読んで、「人間も、ああなつては、もう駄目ね。」ともらす感想は、マダムの知らないモルヒネ中毒、精神病院入院、茅屋での暮らしに対してであったと考えていいだろう。 「私たちの知つてゐる葉ちやん」は、「神様みたいないい子」だったと、マダムは言う。この発言のすぐ前でマダムは、「お父さんが悪い」と言っており、「いい子」と「悪い父」が対立させられている。つまりマダムは、「神様みたいな」にではなく、「いい子」に力点をおいて発言していることになる。悪いのは父(世間)だ。葉蔵はいつも「いい子」だった。マダム(作者)が最後に言いたかったのはこのことだ。作者は葉蔵自身による自画像(手記)とも、「私」による葉蔵像(はしがき、あとがき)とも違う、無垢な葉蔵のイメー
ジを最終的にはすくい上げたかったに違いない。心と心を無限に通い合わせたいとする、「神様みたいな」幼児的な魂を。そのことはまた、「この世」から「あの世」に飛び立とうとしていた作者の魂のあり方を暗示してもいた。(了) |