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4 『斜陽』と周辺作品論

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1 終戦と「薄明」「パンドラの匣」
 昭和二〇年四月上旬、太宰治は三鷹の家が空襲で危険な状態になると、三月末から美知子夫人と二人の子が身を寄せていた、甲府の夫人の実家に疎開する。そこで『お伽草紙』を書き続けるが、完成直後の七月六日深更、夫人の実家が空襲で全焼すると、七月二八日、妻子を連れて津軽に出発、八月十五日の終戦を生家の金木で迎えることになる。

 戦後の第一作とされる「薄明」(山内祥史氏は『太宰治全集13』(筑摩書房1999年5月刊)に収録されている年譜の中で、昭和20年9月中旬頃の脱稿と推測している)には、甲府で遭遇した空襲の様子が描かれている。主人公は空襲から逃れるために、一家を連れて妻の実家から避難するが、眼病で目が見えない長女を連れているために難渋を強いられる。妻の実家は空襲で、丸焼けになってしまう。数日たって、やっと目が見えるようになった長女を連れて妻の実家を見に行くが、長女はその焼跡を見ても、次のように微笑しているだけで、少しもこだわる様子を見せない。

《注射がきいたのか、どうか、或ひは自然に治る時機になつてゐたのか、その病院にかよつて二日目の午後に眼があいた。
 私はただやたらに、よかつた、よかつたを連発し、さうして早速、家の焼跡を見せにつれて行つた。
「ね、お家が焼けちやつたらう?」
「ああ、焼けたね。」と子供は微笑してゐる。
「兎さんも、お靴も、小田桐さんのところも、茅野さんのところも、みんな焼けちやつたんだよ。」
「ああ、みんな焼けちやつたね。」と言つて、やはり微笑してゐる。》

 「みんな焼けてしまったこと」と「子供の微笑」には、「戦争」と「戦後」という対比が含意されており、そこに終戦による作者の意識の変化を読み取ることができる。富士山に月見草が対比されていた(「富嶽百景」)ように、ここでは「戦争」に「子供の微笑」が対比されている。富士山や戦争よりも、月見草や子供の微笑の方が大切なのだ、と。そしてそれは、戦争が終ったことによる、解放感から出た言葉であるように思える。終戦による作者の意識の変化と希望を、この対比に見ることができる。

 次に書かれた「パンドラの匣」(昭和20年11月)は、戦時中に印刷所が焼けてしまったために刊行できなかった、「雲雀の声」(昭和18年10月)の校正刷をもとに戦後書き直されたもので、純粋に戦後の作品とはいえないかもしれない。しかしこの作品でも、「こだわりのない」という言葉はキーワードとなっている。

 肺結核を病んでいる主人公は、終戦を契機に新しい男に生まれ変わったと感じ、健康道場という療養施設に入ることを決意する。この作品には主人公を中心とした、同室の同病者、看護婦との生活が描かれている。主人公は次のように、「こだわりのない」とか「かるみ」とかいうことを意識している人物とされる。

《いまでは何だか皆を高所から見下してゐるやうな涼しい余裕が出来てゐて、自由に冗談も言へるし、これもつまり、女に好かれたいなどといふ息ぐるしい欲望を、この半箇月ほどの間に全部あつさり捨て去つたせゐかも知れぬが、自分でも不思議なほど、心に少しのこだはりも無く楽しく遊んだのだ。好くも好かれるも、五月の風に騒ぐ木の葉みたいなものだ。なんの我執も無い。あたらしい男は、またひとつ飛躍をしました。》
 
《この「かるみ」は、断じて軽薄と違ふのである。欲と命を捨てなければ、この心境はわからない。くるしく努力して汗を出し切つた後に来る一陣のそよ風だ。世界の大混乱の末の窮迫の空気から生れ出た、翼のすきとほるほどの身軽な鳥だ。これがわからぬ人は、永遠に歴史の流れから除外され、取残されてしまふだらう。ああ、あれも、これも、どんどん古くなつて行く。君、理屈も何も無いのだ。すべてを失ひ、すべてを捨てた者の平安こそ、その「かるみ」だ。》

 主人公の感じている、「こだわりのない」とか「かるみ」とかいう意識は、戦争・終戦という過程の中から生まれた、作者の意識の変化が反映したものであることは確かだ。「すべてを失ひ、すべてを捨てた者の平安」という言葉は、「「ああ、みんな焼けちやつたね。」と言つて、やはり微笑してゐる。」(「薄明」)という言葉と明らかに共鳴している。そして作者の意識の変化は、主人公の言葉として次のように語られている。

《古い時代と、新しい時代と、その二つの時代の感情を共に明瞭に理解する事のできる人は、まれなのではあるまいか。》

 「古い時代(戦争期)」と「新しい時代(戦後)」の、「二つの時代の感情」とは、「へんに大袈裟な身振りのものや、深刻めかしたもの」(「パンドラの匣」)から、「こだわりのない」とか「かるみ」とかいう意識への変化を意味しており、それは戦争が終ったことによる解放感が招き寄せたものであるといえる。そして「パンドラの匣」で、「幽かな『希望』の風が、頬を撫でる。」と書いているように、作者は終戦直後に一瞬だけ、希望を感じていたことも確かである。


2 『津軽』から津軽へ
 生家の金木で終戦を迎えるまで、太宰治は『津軽』から『お伽草紙』へと、現実に対する信と不信との間を揺れ動きながら、それでも、現実に向かう階段を降りていくように作品を書き続けていた。しかし、終戦によってその階段は外され、宙ぶらりんな状態を強いられる。帰ろうとしていた現実が、『お伽草紙』の「浦島さん」のように、大きく変貌してしまうのである。『津軽』の津軽は仮構された津軽だったが、いまは現実の津軽で生活している。帰り着く先に現実があるのではなく、津軽の現実が眼前に存在していた。そして、終戦による解放感が、あっという間に通り過ぎてしまったことで、津軽の現実が重くのしかかってきたのである。

 終戦を津軽で迎えたことで、作者は一年前に書いた作品『津軽』の仮構性を、強く意識していたに違いない。三鷹に戻る昭和21年11月中旬までに、津軽を題材とした作品を、次のように8編書いている(津軽滞在中の作品18編中)が、『津軽』のような津軽は二度と書かれることはなかった。

1 庭 (昭和20年11月)
2 親といふ二字 (昭和20年11月)
3 嘘 (昭和20年12月)
4 やんぬる哉 (昭和21年 1月)
5 雀 (昭和21年 1月)
6 冬の花火 (昭和21年 3月)
7 春の枯葉 (昭和21年 8月)
8 親友交歓 (昭和21年10月)

 作者は終戦直後にはそれでも、希望や新しさを口にしていたが、津軽を題材とした作品でやがて、津軽(現実)は否定的に描かれるようになる。四作目の作品「やんぬる哉」を境に、「庭」「親といふ二字」「嘘」までにあった明るさは失われ、「冬の花火」「春の枯葉」「親友交歓」と書き継がれるに従って、津軽(現実)に対する失望は次第に深まっていく。

 「やんぬる哉」は、津軽に対して違和感を表明した最初の作品である。終戦直前に、津軽の生家に帰ってきた主人公の「私」は、戦後、中学校時代の同級生だという医師を訪問するが、そこで窮屈な思いをしながら、最後にこんなことを思う。

《私にはその時突然、東京の荻窪あたりのヤキトリ屋台が、胸の焼き焦げるほど懐しく思ひ出され、なんにも要らない、あんな屋台で一串二銭のヤキトリと一杯十銭のウヰスケといふものを前にして思ふさま、世の俗物どもを大声で罵倒したいと渇望した。》

 津軽は作者にとって、すでに「世の俗物ども」と同様にしか感じられていない。

 五作目の「雀」でも、津軽で出会った小学校の同級生に、「この東北の女みたいに意地悪く、男にへんに警戒するやうな様子もなく、伊豆の女はたいていさうらしいけれど、やつぱり、南国の女はいいね」と言わせて、津軽を間接的に批判している。

 そして、「好いところが一つもみぢんも無かつた。」という、「小学校時代の親友」のことを描いた、「親友交歓」を最後に、津軽を題材とした作品は書かれなくなる。「やんぬる哉」では、小学校時代の友人とは楽しいが、中学校時代の友人とは窮屈だと語っていたが、「親友交歓」では小学校時代の同級生をも否定的に描いている。「ああ、このひとたちに大事なウヰスキイを飲ませるのは、つまらん事だ!」と、作者の肉声が作品の中に響いており、「このひとたち」が「津軽のひとたち」を指しているとすれば、津軽に対する全的な否定の声のようにも聞こえる。

 終戦後の津軽滞在中に書かれた、津軽を題材とした作品は、『津軽』で描かれた津軽が、現実の津軽によって否定的に描かれていく過程でもあった。そしてそれは同時に、戦後そのものに対する否定につながっていくものだった。


3 「冬の花火」から『斜陽』へ
 戦争・終戦という激動を通過しても、津軽の現実は「二つの時代の感情」(「パンドラの匣」)を体験するどころか、「二つの時代」を「一つの感情」が支配しているように変らないものとしか、作者には感じられていない。津軽を否定的に描くようになるのは、そうした作者の意識によると思える。そして、そのことはやがて、「時代は少しも変らないと思ふ。一種の、あほらしい感じである。こんなのを、馬の背中に狐が乗つてるみたいと言ふのではなからうか。」(「苦悩の年鑑」昭和21年1月)と書いているように、戦後の日本の現実に対する否定となっていく。

 津軽を題材とした、六作目の作品「冬の花火」(昭和21年3月)には、津軽と日本に対する否定的な感情がより具体的に描かれている。夫の戦死が暗示されている主人公の数枝は、戦後、生家の津軽に帰ってきているが、日本はもう何もかもがだめだと言う。しかし、継母のあさを唯一の救いと感じ、その母と津軽で生活することによって、桃源郷・ユートピアを作ることはできないものかと夢想する。ところが、母の秘密(不倫)を知ることによって、その夢は崩壊する。眼前の津軽は作者にとって、否定の対象としかなっていない。

 「冬の花火」の母あさは、主人公数枝の継母であるが、「生みの親より育ての親」といわれているような存在である。そのことは『津軽』のたけが、主人公「私」の育ての母であるのと、同じ位置にいることになる。「冬の花火」の母あさは、「津軽的なもの」の象徴、あるいは津軽は「母的なもの」の象徴であるといえる。『津軽』の到達点が、「冬の花火」の出発点となっている。

 そして、「冬の花火」の主人公数枝は敗戦のことを、負けたのではなく滅亡したのだと言い、日本は何もかもだめなのだと言うが、「日本にはもう世界に誇るものがなんにも無くなつたけれど、でも、あたしのお母さんは、あたしのお母さんだけは。」と語っているように、継母の存在だけが生きていく拠り所になっている。「冬の花火」の育ての母あさは、『津軽』の育ての母たけが、戦後、変貌した姿だといえる。

 ただ、「冬の花火」のあさが、『津軽』のたけと決定的に異なるのは、あさが「秘密」を抱え込んだ存在であるということである。ここに戦後の刻印を見ることができる。そして、この「秘密」は、『斜陽』では「ひめごと」と呼ばれ、『斜陽』という作品の推進力となっている。

 ところで、「冬の花火」にはすでに、『斜陽』の骨格となるものが示されている。「冬の花火」の主人公数枝は母との関係を、「同性愛みたい」と言う。『斜陽』の主人公かず子にとっても、母との関係は同様なものだった。「冬の花火」の数枝が、日本で世界に誇れるものはお母さんだけと言うのに対し、『斜陽』のかず子は母を、「日本で最後の貴婦人」と呼んでいる。「冬の花火」の母あさと同じように、『斜陽』の母もまた弱りつつある存在である。「女には皆、秘密がある」と「冬の花火」で言われていることは、『斜陽』では「ひめごと」と言われる。「冬の花火」の数枝が、東京の好きな男のところへ行こうとするのと同様、『斜陽』のかず子も東京の上原のところへ行く。

 このように、「冬の花火」は『斜陽』に直結する作品である。「冬の花火」の数枝と『斜陽』のかず子、「冬の花火」の母あさと『斜陽』の母は、明らかに呼応している。『斜陽』の中心的テーマは、『斜陽』の底本と言われる太田静子の日記を、入手する(昭和22年2月)以前の「冬の花火」(昭和21年3月)で、すでに出つくしているといっていいかもしれない。

 ところで、唯一の救いとされる、「冬の花火」の継母あさや『斜陽』の母は、「秘密」や「ひめごと」を抱え込んでいることで、崩壊ははじめから約束されていたともいえる。『津軽』のたけと異なるのはそのことである。作者は戦争を通過した日本人に、「秘密」や「ひめごと」を隠し持っていない者などいないと考えていたのかもしれない。何よりもそのことで、戦時中の作者自身のことを指そうとしていたのかもしれない。

 そして、継母あさ(「冬の花火」)や母(『斜陽』)が、「秘密」や「ひめごと」を抱え込んでいるのに対し、数枝(「冬の花火」)やかず子(『斜陽』)は、「秘密」や「ひめごと」を隠そうとはしない。そこに作者は、戦後的な意味と希望を見出しているようにみえる。「数枝、女には皆、秘密がある。お前は、それを隠さなかつただけだよ。」と「冬の花火」の母は言うが、「それを隠さなかつた」数枝には戦後が刻印されている。作者はそのことを、別のところで「かくめい」と呼んでいる。

《じぶんで、さうしても(原文は傍点)、他のおこなひをしたく思つて、にんげんは、かうしなければならぬ、などとおつしやつてゐるうちは、にんげんの底からの革命が、いつまでも、できないのです。》「かくめい」(昭和22年12月)

 しかし、「冬の花火」の数枝も、崩壊から免れているわけではない。日本と自分はどんなにあがいてもだめになるだけと数枝が言うのは、戦後に対する作者の希望があっという間に、失望に変わってしまったからではないか。

 さらに、「冬の花火」の継母あさが、抱えている「秘密」によって衰弱し、もうだめなような気がする、早く死にたいと言うのは、戦後一瞬だけ抱いた希望を、作者が自らの手で扼殺してしまおうとすることではないのか。唯一の希望の象徴である母が、みずからを消滅させようとしている。『津軽』でたどり着き、「冬の花火」の出発に置かれた「津軽的なもの」「母的なもの」は、戦後の否定と一緒に葬り去られようとしているのである。


4 「ヴィヨンの妻」から『斜陽』へ
 津軽を題材とした、七作目の作品「春の枯葉」(昭和21年8月)でも、作者は津軽の変らなさに対して否定的だ。しかし、敗戦によって自信をなくしている、国民学校の教師野中の妻節子が作品の最後で、それまで軽んじていた夫の死体に武者振りついて、次のように泣き叫ぶところに、肯定的な意味あいを見出しているようにみえる。

《すみません、すみません。あなた、もういちど眼をあいて。わたくしは、心をいれかへたのよ。これからはお酒のお相手でも何でもしようと思つてゐましたのに、あなた!》

 「春の枯葉」は国民学校の教師野中の妻節子が、積極的に振舞うことを志向しているところで作品は終わるが、その後の「トカトントン」(昭和21年11月)「ヴィヨンの妻」(昭和22年1月)『斜陽』(昭和22年6月)では、積極的に振舞うことによって「幸福」を発見するというテーマが追求されている。

 津軽滞在最後の作品「トカトントン」では、作中の「某作家」は、終戦の日以降、何か物事に感激し奮い立とうとしても、遠くから幽かにトカトントンという金槌の音が聞こえてきて、何ともはかない気持になると訴える手紙に対し、それは「幻聴」だとして、次のような返答を与えている。

《いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けてゐるやうですね。真の思想は、叡知よりも勇気を必要とするものです。》

 トカトントンという金槌の音は、自分自身の内面を凝視してしまうために生じる、自分の内部から聞こえてくる「幻聴」である。「某作家」はこの返答によって、「醜態を避ける」という内向する傾向に対し、「叡知よりも勇気を必要とする」という、外に向かう積極性を説いているのだといえる。

 昭和21年11月14日、太宰治は妻子を連れて、青森の生家から東京三鷹の家に戻ってくる。帰京直後の作品「ヴィヨンの妻」(昭和22年1月)は、普段から家に落ち着いていることがない主人公の「夫」が、ある日の深夜、行きつけの飲み屋から金を盗んで帰ってくるところから話がはじまる。妻はあくる日から、人質のような形でその店で働くことになるが、そのことがきっかけとなって、妻は次のように、いつも夫と一緒にいられる場所を発見する。妻の、夫と一緒にいたいという気持ちが、痛いほど伝わってくる場面だ。

《その夜、十時すぎ、私は中野の店をおいとまして、坊やを背負ひ、小金井の私たちの家にかへりました。やはり夫は帰つて来てゐませんでしたが、しかし私は、平気でした。あすまた、あのお店へ行けば、夫に逢へるかも知れない。どうして私はいままで、こんないい事に気づかなかつたのかしら。きのふまでの私の苦労も、所詮は私が馬鹿で、こんな名案に思ひつかなかつたからなのだ。》
 
《その翌る日からの私の生活は、今までとはまるで違つて、浮々した楽しいものになりました。さつそく電髪屋に行つて、髪の手入れも致しましたし、お化粧品も取りそろへまして、着物を縫ひ直したり、また、おかみさんから新しい白足袋を二足もいただき、これまでの胸の中の重苦しい思ひが、きれいに拭ひ去られた感じでした。》

 そして、夜遅く迎えにきた夫と一緒に、楽しく家路をたどることもあり、妻は夫に、「なぜ、はじめからかうしなかつたのでせうね。とつても私は幸福よ。」と語る。

 夫が家に帰ってこなかった、ある日のあけがた、妻は店の客にけがされる。翌日、夫が飲み屋に泊まったと聞いて、妻は、「あたしも、こんどから、このお店にずつと泊めてもらふ事にしようかしら。」と言う。「ヴィヨンの妻」では主人公の妻が、夫に対し積極的に振舞うことで「幸福」を発見する。そして、どこまでも夫と一緒にいようとする妻は、最後に、「生きてゐさへすればいい」という、家族という関係の中でだけ成り立つ論理を発見する。

《「さつちやん、ごらん、ここに僕のことを、人非人なんて書いてゐますよ。違ふよねえ。僕は今だから言ふけれども、去年の暮にね、ここから五千円持つて出たのは、さつちやんと坊やに、あのお金で久し振りのいいお正月をさせたかつたからです。人非人でないから、あんな事も仕出かすのです。」
 私は格別うれしくもなく、
「人非人でもいいぢやないの。私たちは、生きてゐさへすればいいのよ。」
 と言ひました。》

 この作品には、夫が妻に、この世の中のどこかに神がいるんでしょうねと問いかけ、店の客にけがされた妻が、神がいるなら出てきてくださいと訴える場面があるが、妻の「私たちは、生きてゐさへすればいいのよ。」という言葉は、そんな夫と妻を包み込み肯定する言葉として、作品の中に響き渡っている。

 この作品では妻が、飲み屋から夫と一緒に帰ること、飲み屋に夫と一緒に泊まることを積極的に選ぶことで、「生きてゐさへすればいい」という妻の論理を発見する。この論理は妻が主張することで、いっそう強固なものとなる。

 「ヴィヨンの妻」はほかの戦後の家庭小説と同様、家庭が内と外の差異を消失させ、社会と接続する通路をもたなくなったことによる悲劇であるが、目的を持たない家庭という場を志向する妻だからこそ、「生きてゐさへすればいいのよ」と言えるのである。目的を持たない場でなければ、生きているだけでいいなんて言えない。人は社会的な関係の中では、何らかの役割を負わされているから、その役割に従って生きていくしかない。社会的な関係を志向する傾向が強い男に、「生きてゐさへすればいい」という論理は成り立たない。

 たとえば、『斜陽』の直治は、「とにかくね、生きてゐるのだからね、インチキをやつてゐるに違ひないのさ。」と言うが、「インチキをやっている」とは社会的な関係を意識した男の論理である。「インチキ(人非人)でも生きているだけでいい」と言えるのが、女の論理であるといえる。

 「ヴィヨンの妻」という作品は、妻のこの最後の言葉と同時に、とりあえずの「幸福」を発見する物語である。しかしこの「幸福」は後に、「家庭の幸福は諸悪の本(もと)。」(「家庭の幸福」)というように否定されることになる。


5 「冬の花火」と「ヴィヨンの妻」から『斜陽』へ
 作者は終戦直後から、戦後の現実に対する希望と失望を書き続けていたが、『斜陽』(昭和22年6月)は戦後のそれまでの作品を集大成したものである。

 『斜陽』は「冬の花火」と「ヴィヨンの妻」が、合流した地点に成立しているようにみえる。「冬の花火」の主人公数枝と継母は、『斜陽』では主人公かず子と母に、「ヴィヨンの妻」の妻は『斜陽』では主人公かず子に姿を変えている。『斜陽』の主人公かず子は、「冬の花火」の主人公数枝の積極性と、「ヴィヨンの妻」の妻が発見した、生きているだけでいいという妻の論理をあわせ持った存在である。

 『斜陽』の主人公かず子が、語り手「私」として語り出す現在は、東京西片町から伊豆の山荘に引越してきて四か月後の、昭和二一年四月のことで、それ以前のことは回想として語られる。山荘に引越してきたのは、「日本が無条件降伏をしたとしの、十二月のはじめ」とされているように、戦争・終戦を通過した後にしか、『斜陽』の世界は成立しなかった。

 主人公のかず子は結婚していた六年前、弟の直治と親交のあった小説家の上原と会い、そのとき酒場で上原にキスをされたことを、いまでも「ひめごと」として温めている。かず子はその後、離婚・死産を体験する。

 弟の直治は戦争で、南方の島へ行っていたが、昭和二一年の夏に帰還する。直治の帰還をきっかけに、かず子は上原に三通の手紙を書くことになるが、かず子が上原に近づく契機はいつも、弟の直治の存在に負っている。そして直治の自殺とともに、上原との関係も終わる。直治の存在を軸に、出来事が生起する。

 『人間失格』の主人公葉蔵が、友人の堀木を介してしか行動できないように、かず子も直治を介してしか行動を起こせない。かず子は内在する動機で動いているのではなく、外からの力(直治)で動いているようにみえる。直治の存在によって、かず子の上原に対する思いは触発され、かず子は上原と結びついていく。

 かず子が上原に宛てた三通の手紙の、「私は将来、そのお方の愛人として暮すつもりだ」(一通目)、「あなたの赤ちやんがほしい」(二通目)、「はばむ道徳を、押しのけられませんか?」(三通目)といった文面を見る限り、かず子は上原に対して積極的に振舞っているようにみえる。しかし、かず子自身が次に語るように、もともと消極的な性格と考えられる。

《ああ、人間の生活には、喜んだり怒つたり悲しんだり憎んだり、いろいろの感情があるけれども、けれどもそれは人間の生活のほんの一パーセントを占めてゐるだけの感情で、あとの九十九パーセントは、ただ待つて暮してゐるのではないでせうか。》

 そのことは直治が遺書で、「姉さんは、結婚なさつて、子供が出来て、夫にたよつて生き抜いて行くのではないかと僕は、思つてゐるんです。」と記していることからも推測される。かず子の積極性というのは、男に「頼る」ことを積極的に選ぶという積極性である。消極性(「頼る」)を積極的に選び取る、というような積極性であるといえる。

 この積極性は、「ヴィヨンの妻」の妻と夫のように、かず子と上原をとりあえずの「幸福」にさえ導かない。しかし、「ヴィヨンの妻」の妻が、「生きてゐさへすればいい」という妻の論理を発見したのと同様に、かず子も「よい子を生む」という母の論理を発見する。かず子はそのことを、上原に宛てた最後の手紙で、次のように書いている。

《けれども、私は、幸福なんですの。私の望みどほりに、赤ちやんが出来たやうでございますの。私は、いま、いつさいを失つたやうな気がしてゐますけど、でも、おなかの小さい生命が、私の孤独の微笑のたねになつてゐます。
 けがらはしい失策などとは、どうしても私には思はれません。この世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかつて来ました。あなたは、ご存じないでせう。だから、いつまでも不幸なのですわ。それはね、教へてあげますわ、女がよい子を生むためです。》

 「ヴィヨンの妻」のラストの、「人非人でもいいぢやないの。私たちは、生きてゐさへすればいいのよ。」という言葉と共鳴している。「ヴィヨンの妻」の妻も、『斜陽』のかず子も、家庭という関係の内だけで成立する、女という存在が持つ論理(生きていさへすればいい、よい子を生む)を主張できるという意味で、強靭な存在であるといえる。

 そして、このような女の論理は後の、「饗応夫人」(昭和22年10月)や「眉山」(昭和23年1月)の主人公のような、無償の行為につながっていく。


6 『斜陽』と太田静子
 『斜陽』と太田静子の日記(太宰死後の昭和23年10月、『斜陽日記』と題されて出版)との関係について、である。年譜によると、昭和二二年二月二一日、太宰治は太田静子を神奈川県足柄に訪ねて五日間滞在し、そのとき入手した静子の日記を携帯して、二月二六日に伊豆の旅館に止宿、そこで『斜陽』を書き出したとされる。

 太田静子の日記を素材として、『斜陽』が書かれたことは事実かもしれない。しかし、自分の経験であろうと、他人の書いたものであろうと、素材のない小説はないといえる。さらに、『斜陽』の中心的テーマはすでに、太田静子の日記を入手する以前の、「冬の花火」(昭和21年3月)で出つくしている。静子の日記は素材以上の意味を持たないかもしれないが、その日記がなければ『斜陽』は書かれなかったという意味では、素材以上のものだともいえる。作品が素材に制約されるという側面も見逃せない。

 ところで、『斜陽』の主人公かず子は昭和二一年の夏、六年前に一度だけ会った上原に三通の手紙を書いているが、そのことが唐突な感じを与えることは否定できない。一通目では遠回しに、上原の愛人になりたいと書き、二通目では突然、あなたの赤ちゃんがほしいと訴え、三通目では、あなたの愛妾になって、あなたの子供の母になることが望みだと、さらに積極的に訴えている。

 この積極性はかず子の性格によるというより、作者と太田静子との現実の関係が、色濃く反映した結果と考えたほうがいいのではないか。静子が積極的だという意味ではない。静子との関係という事実が、この作品に大きな影響を与えているのではないかということである。年譜(1999年筑摩書房版『太宰治全集第13巻』所収・山内祥史氏作成)による(「3月中旬」の項目を除く)と、太宰と静子との関係はつぎの通りである。

【昭和16年】
・9月上旬頃  太田静子(三十歳)、友人二人と三鷹の太宰の家を訪問
・12月中旬  太宰、静子と落ち合い、新宿の地下レストランで対談
【昭和19年】
・1月13日   太宰、神奈川県足柄下郡下曾我村原の大雄山荘に静子を
         訪れる
【昭和22年】
・1月6日   静子、三鷹の太宰の仕事部屋を訪れる
・2月21日  太宰、静子を大雄山荘に訪ね5日間滞在
・2月26日  太宰、静子の日記を携帯して伊豆の旅館に止宿
・2月26日  『斜陽』の稿を起こす
・3月6日   『斜陽』一、二章脱稿(『新潮』7月号に発表)
・3月中旬  太宰、静子を大雄山荘に訪ね一泊、静子に懐妊を告げられる
        (相馬正一『評伝 太宰治』)
・4月頃    『斜陽』三、四章脱稿(『新潮』8月号に発表、主人公のかず
         子が昭和21年の夏、上原に三通の手紙を書くのは四章)
・5月頃    『斜陽』五、六章脱稿(『新潮』9月号に発表)
・5月24日  静子、弟と三鷹に太宰を訪れる
・6月末    『斜陽』七、八章脱稿(完成)(『新潮』10月号に発表、かず子
        が昭和22年2月7日、上原に四通目(最後)の手紙を書くの
        は八章)
・11月12日 静子に治子誕生
・11月15日 静子の弟、太宰を三鷹に訪れる。太宰、認知の「証」を渡す

 上原と会う→上原を好きになる→上原の赤ちゃんがほしい、という話の筋は、逆から考えたほうがいいのではないか。太田静子との間に子供ができたという、作者の現実が先にあって、そこからストーリーが作られたのではないか。手紙の唐突さと不自然さは、そこからきているのかもしれない。

 しかし、そのように言うためには、かず子が上原に三通の手紙を書く、『斜陽』四章が脱稿された昭和二二年四月頃までに、太宰は太田静子の妊娠を知っていなければならないことになる。太宰が静子の妊娠を知った時期については、次のような説がある。

(1)当時、新潮社の出版部員だった野原一夫の証言
「『斜陽』という作品は『斜陽日記』をもとにして書き始めました。けれども、途中で、太田静子さんとの間に子供ができた。『斜陽』は、「第三章」から作品ががらっと変わります。実人生での体験が、作品の構想を大きく変えた。」
「「第三章」の執筆にかかったのは四月六日ですが、実はその前に、太田静子の懐妊という思いもかけぬ出来事がありました。/「第一章」「第二章」を書きおえてすこしした三月中旬、山荘を訪れた太宰は、静子から懐妊したと告げられました。」
(長部日出雄、野原一夫、井上ひさし、小森陽一「太宰治/「メタフィクション」の劇場人」(『座談会昭和文学史/第3巻』集英社2003年11月))

(2)相馬正一『評伝 太宰治(第三部)』(筑摩書房1985年7月)
「ところが、それから(静子が、昭和22年3月11日付の太宰の手紙を受け取ってから・引用者)四、五日して思いがけなく太宰がひとりで山荘を訪れ、一泊していった。その夜、静子が懐妊したことを告げると、太宰は一瞬固い表情をしたが、すぐもとの表情に戻り、「心配しなくてもいい。静子はいいことをしたのだから……」と言って強く抱きしめてくれたという。」(静子からの聞き書)

 太宰が静子の妊娠を知ったのは、三月中旬とされており、両氏とも、主人公かず子の三通の手紙が執筆された『斜陽』四章以前に、太宰は静子の妊娠を知ったと考えている。

 なお、相馬正一「『斜陽日記』のオリジナリティー」(『国文学/解釈と教材の研究』学灯社1999年6月号)によれば、静子が太宰に宛てた書簡(昭和21年9月26日)には、「赤ちやんがほしい……。」とあり、太宰の静子宛返書(昭和21年10月上旬)にも、「私はあなた次第です。(赤ちやんの事も)」とある(太宰の返書は全集に収録されている)。

 太宰が静子の妊娠を知ったのは、『斜陽』の主人公かず子が上原に宛てて、「あなたの赤ちゃんがほしい」と書いている二通目の手紙を太宰が執筆した以前なのか、「私の望み。あなたの愛妾になって、あなたの子供の母になる事。」と書いている三通目を執筆した以前なのか。それを確定することはできないとしても、静子が太宰の子供を望んでいて、太宰もそれに応えようとしていたことは、太宰と静子の手紙からもうかがえる。

 『斜陽』は「冬の花火」のテーマを敷衍した作品であるが、太田静子の日記と、静子との現実の関係が、色濃く反映している作品であるともいえる。


7 『斜陽』の母[1](かず子の母・母としてのかず子)
 『津軽』でたどり着き、「冬の花火」の出発点に置かれた、「津軽的なもの」「母的なもの」は、終戦後の津軽滞在によって否定されていく。東京に戻ってきてからの作品『斜陽』は、「母的なもの」の死と再生を集大成したものといえる。そこには作者の、戦後の現実に対する失望と希望が語られている。「母的なもの」の再生を目指す、最後の作品といってもいいかもしれない。

 『斜陽』には三人の母がいる。
(1)主人公かず子の母
(2)母としてのかず子(上原との子を妊娠する)
(3)擬似的な母としての上原の妻(12、3歳の女の子の母だが、かず子は上原との子を、直治の子として上原の妻に抱かせたいと考える。かず子と上原との子を抱く上原の妻は、擬似的に母となる。)

 かず子と母が、東京西片町から伊豆の山荘に引越してくるとき、母は、「お顔色が、いままで見たこともなかつたくらゐに悪い」と言われているように、最初から、日に日に衰えていく存在だった。東京→伊豆という空間的な移動は、戦前(戦争)→戦後という時間的な移動を意味しており、そのことによって、「古い時代と、新しい時代と、その二つの時代の感情を共に明瞭に理解する事のできる人」(「パンドラの匣」)として、かず子の母は戦後を刻印された存在だった。

 かず子の母は、「冬の花火」の継母あさがたどり着いた、「津軽的なもの」「母的なもの」の否定を出発点としており、そのことがかず子の母を最初から、衰えていくだけの存在にしている。「津軽的なもの」「母的なもの」は、『津軽』の育ての母たけ→「冬の花火」の継母あさ→『斜陽』のかず子の母と姿を変えながら、肯定的な存在から滅んでいくものへと変貌していく。かず子の母はやがて、病気で死ぬが、「母としてのかず子」「擬似的な母としての上原の妻」となって再生する。二人の母が誕生するために、かず子の母は死なざるをえなかったと言ってもいいかもしれない。そしてこの二人の母に、作者は戦後の希望を託していたようにみえる。

 東京西片町から伊豆に引っ越してくるときの、母の「哀しい御病気」(かず子の言葉)について、母は、「普通の病気ぢやないんです。神さまが私をいちどお殺しになつて、それから昨日までの私と違ふ私にして、よみがへらせて下さつた」と考えようとするが、かず子は、「イエスさまのやうな復活は、所詮、人間には出来ない」と考える。「冬の花火」の主人公数枝は、戦争が終わったときのことを、負けたのではない、滅んだのだというが、かず子の母も同様に滅びる存在とみなされている。

 ところでかず子が、「人間にだけあるもの。それはね、ひめごと、といふものよ。」と言うのに対し、母がほんのり顔を赤くするのはなぜか。母の「ひめごと」とはなんだろうか。「冬の花火」で、継母あさの「秘密」が不倫だったことから、また、かず子が母に、「どこやらデカダンと紙一重のなまめかしさ」を感じることから、それと同様なことを指しているのかもしれない。

 そして、「まさかお母さんに、私のやうな恥づかしい過去があるわけは無し、いや、それとも、何か。」と、かず子が思うように、母にも「恥ずかしい過去」=「ひめごと」があることが、暗示されている。しかし、『斜陽』のかず子は母の「ひめごと」を知っても、「冬の花火」の数枝のようには絶望しない人物として造形されている。かず子は母を、戦後の日本と同じように、滅亡する存在と見ており、その復活を自身に賭けているからである。

 かず子の母は伊豆に行く前日に、「死んだはうがよいのです。お父さまの亡くなつたこの家で、お母さまも、死んでしまひたいのよ。」と言い、かず子も「私たちの人生は、西片町のお家を出た時に、もう終つたのだと思つた。」と考える。弟の直治も遺書で、「僕は昔から、西片町のあの家の奥の座敷で死にたいと思つてゐました。」と記している。

 それまで住んでいた、東京西片町の家を出ることは、戦争によって日本が「滅亡」したのと同様に、かず子一家の「滅亡」を意味すると考えられている。そして、母と直治は「滅亡」を免れないが、かず子だけは「滅亡」を受け入れず、「戦闘、開始。」を宣言する。日本が「滅亡」から復活することを、作者はかず子に託しているといえる。

 そしてかず子は、上原との子を妊娠したことで、勝利を手にしたと考える。上原に宛てた最後の手紙で、かず子はそのことを、次のように「道徳革命」と呼んでいる。

《私は、勝つたと思つてゐます。
 マリヤが、たとひ夫の子でない子を生んでも、マリヤに輝く誇りがあつたら、それは聖母子になるのでございます。
 私には、古い道徳を平気で無視して、よい子を得たといふ満足があるのでございます。》
《革命は、いつたい、どこで行はれてゐるのでせう。すくなくとも、私たちの身のまはりに於いては、古い道徳はやつぱりそのまま、みぢんも変らず、私たちの行く手をさへぎつてゐます。海の表面の波は何やら騒いでゐても、その底の海水は、革命どころか、みじろぎもせず、狸寝入りで寝そべつてゐるんですもの。
 けれども私は、これまでの第一回戦では、古い道徳をわづかながら押しのけ得たと思つてゐます。さうして、こんどは、生れる子と共に、第二回戦、第三回戦をたたかふつもりでゐるのです。
 こひしいひとの子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます。
 あなたが私をお忘れになつても、また、あなたが、お酒でいのちをお無くしになつても、私は私の革命の完成のために、丈夫で生きて行けさうです。》
《私生児と、その母。
 けれども私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のやうに生きるつもりです。》

 「ヴィヨンの妻」の妻が、「人非人でもいいぢやないの。私たちは、生きてゐさへすればいいのよ。」と言うとき、この言葉は、家庭という関係の内だけで成立する論理を主張する、女という存在の強靭さを表現するものとなっている。しかし、「道徳革命」とは男の論理を表現する言葉でしかない。

 「ヴィヨンの妻」の妻と同様、『斜陽』のかず子にも、女という存在が持つ論理(よい子を生む)を主張する強靭さはあったが、「道徳革命」というような社会性(男の論理)を主張することで、この作品からは切実さが急速に失われていく。

 しかも、かず子の手紙の言葉はすでに、『新ハムレツト』(昭和16年5月)のオフヰリヤの言葉として、「もういまでは、ハムレツトさまのお子さまを産んで、丈夫に育てるといふ希望だけで胸が一ぱいでございます。あたしは、いまは幸福です。」「ハムレツトさまに捨てられても、あたしは、子供と二人で毎日たのしく暮して行けます。」と語られており、必ずしも戦後的な言説といえるものではなかった。

 『斜陽』のかず子も、「ヴィヨンの妻」の妻と同じように、「道徳革命」ではなく、「人非人でもいいぢやないの。」と言うべきではなかったのか。「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」(『右大臣実朝』)と書いた太宰だったが、かず子の「道徳革命」とは、「ホロビノ姿」としての「アカルサ」以外ではなかった。


8 『斜陽』の母[2](上原の奥さん)
 主人公のかず子は、六年前の上原とのことを、いまでも「ひめごと」として温めている。そして、そのことがかず子を、上原に手紙を書かせ、上原に会いに行くという行動に駆り立てる。同じように、直治も上原の奥さんとの思い出を、「秘密」として大切に保存していて、そのことが直治を上原のところにかよわせる理由の一つとなっている。

   かず子  =    上原
(姉弟)|       |(夫婦)
    直治  = 上原の奥さん

 上原の奥さんに対する直治の思いは、上原に対するかず子の思いより精神的なものであるといえる。作品『津軽』では、主人公は育ての母たけと遠く離れていたために、精神的にはもっとも近い母と子の関係を仮構することができた。同じような理由で、直治も上原の奥さんとの間に、母と子のような親密な関係を仮構することができたのである。直治は姉のかず子に宛てた遺書で、上原の奥さんとのことを「秘密」として、次のように書いている。

《姉さん。
 僕に、一つ、秘密があるんです。
 永いこと、秘めに秘めて、戦地にゐても、そのひとの事を思ひつめて、そのひとの夢を見て、目がさめて、泣きべそをかいた事も幾度あつたか知れません。》
《姉さんはそのひとをご存じの筈ですが、しかし、おそらく、逢つた事は無いでせう。そのひとは、姉さんよりも、少し年上です。一重瞼で、目尻が吊り上つて、髪にパーマネントなどかけた事が無く、いつも強く、ひつつめ髪、とでもいふのかしら、そんな地味な髪形で、さうして、とても貧しい服装で、けれどもだらしない恰好ではなくて、いつもきちんと着附けて、清潔です。そのひとは、戦後あたらしいタツチの画をつぎつぎと発表して急に有名になつた或る中年の洋画家の奥さんで、その洋画家の行ひは、たいへん乱暴ですさんだものなのに、その奥さんは平気を装つて、いつも優しく微笑んで暮してゐるのです。
 僕は立ち上つて、
「それでは、おいとま致します。」
 そのひとも立ち上つて、何の警戒も無く、僕の傍に歩み寄つて、僕の顔を見上げ、
「なぜ?」
 と普通の音声で言ひ、本当に不審のやうに少し小首をかしげて、しばらく僕の眼を見つづけてゐました。さうして、そのひとの眼に、何の邪心も虚飾も無く、僕は女のひとと視線が合へば、うろたへて視線をはづしてしまふたちなのですが、その時だけは、みぢんも含羞(はにかみ)を感じないで、二人の顔が一尺くらゐの間隔で、六十秒もそれ以上もとてもいい気持で、そのひとの瞳を見つめて、それからつい微笑んでしまつて、
「でも、……」
「すぐ帰りますわよ。」
 と、やはり、まじめな顔をして言ひます。
 正直、とは、こんな感じの表情を言ふのではないかしら、とふと思ひました。それは修身教科書くさい、いかめしい徳ではなくて、正直といふ言葉で表現せられた本来の徳は、こんな可愛らしいものではなかつたのかしら、と考へました。
「またまゐります。」
「さう。」
 はじめから終りまで、すべてみな何でもない会話です。僕が、或る夏の日の午後、その洋画家のアパートをたづねて行つて、洋画家は不在で、けれどもすぐ帰る筈ですから、おあがりになつてお待ちになつたら? といふ奥さんの言葉に従つて、部屋にあがつて、三十分ばかり雑誌など読んで、帰つて来さうも無かつたから、立ち上つて、おいとました、それだけの事だつたのですが、僕は、その日のその時の、そのひとの瞳に、くるしい恋をしちやつたのです。
 高貴、とでも言つたらいいのかしら。僕の周囲の貴族の中には、ママはとにかく、あんな無警戒な「正直」な眼の表情の出来る人は、ひとりもゐなかつた事だけは断言できます。》

 『津軽』の、主人公とたけが再会する場面と同様、親和的な雰囲気に満ちた場面だ。『津軽』の主人公と同じように、それが直治の夢でしかないとしても、である。ただ、『津軽』と異なるところは、直治と上原の奥さんの、母と子のような親密な関係が、作品の遠景としてしか存在できないほど縮小していることである。戦後の現実に対する作者の意識が、母と子のような関係を遠くに追いやっているからに違いない。そのような関係を、仮構する余裕がなくなっているともいえる。

 かず子には直治という橋渡しがあるので、かず子は直治を介して上原と結びつくことができる。ところが直治には、直治を上原の奥さんに橋渡しするものがないため、直治は上原の奥さんに、一歩も近づくことができない。かず子も直治も、人と人を結びつける橋渡しを自己の内に欠いているという意味で、作者の性格をいくぶんかは受け継いでいるといえる。

 上原の奥さんの、無償といってもいいあり方は、後の「饗応夫人」や「眉山」に通じる無償性であり、『斜陽』後の作品世界のあり方を暗示している。作者が求めていた、他者との接し方の発見でもあった。

 さらに、かず子は上原との子を、自殺した直治の子として上原の妻に抱かせたいと考える。かず子と上原との子を抱く上原の妻は、擬似的に母となる。上原に宛てた最後の手紙で、かず子はこう書いている。

《いまの世の中で、一ばん美しいのは犠牲者です。
 小さい犠牲者が、もうひとりゐました。
 上原さん。
 私はもうあなたに、何もおたのみする気はございませんが、けれども、その小さい犠牲者のために、一つだけ、おゆるしをお願ひしたい事があるのです。
 それは、私の生れた子を、たつたいちどでよろしうございますから、あなたの奥さまに抱かせていただきたいのです。さうして、その時、私にかう言はせていただきます。
「これは、直治が、或る女のひとに内緒に生ませた子ですの。」
 なぜ、さうするのか、それだけはどなたにも申し上げられません。いいえ、私自身にも、なぜさうさせていただきたいのか、よくわかつてゐないのです。でも、私は、どうしても、さうさせていただかなければならないのです。直治といふあの小さい犠牲者のために、どうしても、さうさせていただかなければならないのです。
 ご不快でせうか。ご不快でも、しのんでいただきます。これが捨てられ、忘れかけられた女の唯一の幽かないやがらせと思召し、ぜひお聞きいれのほど願ひます。》

 かず子は手紙にこう書くことで、何を意図しているのだろうか。自分の夫とよその女(かず子)の子を、自分を思っていた男(直治)の子として抱く上原の妻の姿に、作者はかず子が最後の手紙で書いている、「聖母子」のイメージを与えようとしているのではないか。ここには「母的なもの」の死と再生の、最終的なイメージが暗示されている。


9 『斜陽』後の作品世界
 『斜陽』の主人公かず子が到達した地点は、次に書かれた「おさん」(昭和22年7月)であっさりと否定されてしまう。「おさん」の主人公の「私」は、「ヴィヨンの妻」『斜陽』の主人公と同じような意味で、夫に「忍従」しているが、夫に対して積極的に振舞うことで「幸福」を感じるようになる。しかし、その「幸福」も長続きせず、「私」が、「これからは、何でもこの調子で、軽く夫に甘えて、冗談を言ひ、(略)気持の楽な生き方をしたい」と考えていた矢先に、夫は他の女と心中をしてしまう。「私」は夫の心中に対して、次のように気持を吐露している。

《夫のお友達の方から伺つたところに依ると、その女のひとは、夫の以前の勤め先の、神田の雑誌社の二十八歳の女記者で、私が青森に疎開してゐたあひだに、この家へ泊りに来たりしてゐたさうで、妊娠とか何とか、まあ、たつたそれくらゐの事で、革命だの何だのと大騒ぎして、さうして、死ぬなんて、私は夫をつくづく、だめな人だと思ひました。》

 「私」はここで、『斜陽』の主人公の最後の手紙の、「こひしいひとの子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます。」という宣言を全否定していることになる。「おさん」の「私」はまた、「道徳も何もありやしない」「道徳なんてどうだつていい」とも言っており、『斜陽』の主人公の「道徳革命」という言説を否定している。「ヴィヨンの妻」『斜陽』「おさん」という一連の作品はここで終わり、以後、女主人公が独白するという形の作品は書かれることはなかった。

 『斜陽』はこのように、「おさん」によって否定されることになるが、『斜陽』後の作品には、『斜陽』の背後に隠されていた、上原の奥さんの無償とでもいうべき世界が浮上してくる。

 「饗応夫人」(昭和22年10月)「眉山」(昭和23年1月)には、この無償の世界が極限の姿で描かれている。「饗応夫人」で、語り手の「私」は、主人公の奥様の無償性に対して「底知れぬ優しさ」を感じ、「人間といふものは、他の動物と何かまるでちがつた貴いものを持つてゐるといふ事を生れてはじめて知らされたやうな気がし」たと、考える。「眉山」でも、語り手の「僕」は主人公のトシちゃんに、「底知れぬ優しさ」を感じる。

 「饗応夫人」の奥さまや「眉山」のトシちゃんの、「底知れぬ優しさ」(無償性)とはこういうことである。「饗応夫人」の主人公の奥さまは、戦争で南方に行ったご主人の消息が不明であるのに、自宅に押しかけてくるご主人の知り合いやその仲間に対し、自分の健康を犠牲にしてまで世話を焼こうとする。同じように「眉山」の主人公、新宿の飲屋・若松屋の女中トシちゃんは、自身が腎臓結核で身体が大儀であるのに、客の「僕」たちのために、無理をして世話を焼いてくれる。

 「春の枯葉」で発見し、その後の「ヴィヨンの妻」『斜陽』「おさん」で深められた、「底知れぬ優しさ」(無償性)を積極的に追求するというテーマは、「饗応夫人」「眉山」において極限的な姿で描かれている。そしてそれが、家庭という関係の内だけで成立する論理を主張できる、女という存在の強靭さを描いた作品の行き着いたところだった。

 「底知れぬ優しさ」(無償性)という、女(母)の本質を描き切った太宰治は、それ以降、「桜桃」(昭和23年2月)「家庭の幸福」(昭和23年2月)『人間失格』(昭和23年5月)などで男(父)の本質を描こうとする。しかし、そこで描かれた男(父)とは、「子供より親が大事、と思ひたい。」(「桜桃」)、「家庭の幸福は諸悪の本(もと)。」(「家庭の幸福」)と言い、「私たちの知つてゐる葉ちやんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さへ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした。」(『人間失格』)と言われるような、疲れ果てた男(父)の姿でしかなかった。

 「底知れぬ優しさ」(無償性)という女(母)の姿と対峙するような、「底知れぬ強さ」(無償性)という、太宰が求めていた男(父)の姿はついに描かれることはなかった。昭和23年6月13日深夜の、太宰治の死のほうが早く訪れてきたから、である。(了)
                                      (2007.5.24)

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