4 『斜陽』と周辺作品論
─────────────────────────────── 1 終戦と「薄明」「パンドラの匣」 戦後の第一作とされる「薄明」(山内祥史氏は『太宰治全集13』(筑摩書房1999年5月刊)に収録されている年譜の中で、昭和20年9月中旬頃の脱稿と推測している)には、甲府で遭遇した空襲の様子が描かれている。主人公は空襲から逃れるために、一家を連れて妻の実家から避難するが、眼病で目が見えない長女を連れているために難渋を強いられる。妻の実家は空襲で、丸焼けになってしまう。数日たって、やっと目が見えるようになった長女を連れて妻の実家を見に行くが、長女はその焼跡を見ても、次のように微笑しているだけで、少しもこだわる様子を見せない。
「みんな焼けてしまったこと」と「子供の微笑」には、「戦争」と「戦後」という対比が含意されており、そこに終戦による作者の意識の変化を読み取ることができる。富士山に月見草が対比されていた(「富嶽百景」)ように、ここでは「戦争」に「子供の微笑」が対比されている。富士山や戦争よりも、月見草や子供の微笑の方が大切なのだ、と。そしてそれは、戦争が終ったことによる、解放感から出た言葉であるように思える。終戦による作者の意識の変化と希望を、この対比に見ることができる。 次に書かれた「パンドラの匣」(昭和20年11月)は、戦時中に印刷所が焼けてしまったために刊行できなかった、「雲雀の声」(昭和18年10月)の校正刷をもとに戦後書き直されたもので、純粋に戦後の作品とはいえないかもしれない。しかしこの作品でも、「こだわりのない」という言葉はキーワードとなっている。 肺結核を病んでいる主人公は、終戦を契機に新しい男に生まれ変わったと感じ、健康道場という療養施設に入ることを決意する。この作品には主人公を中心とした、同室の同病者、看護婦との生活が描かれている。主人公は次のように、「こだわりのない」とか「かるみ」とかいうことを意識している人物とされる。
主人公の感じている、「こだわりのない」とか「かるみ」とかいう意識は、戦争・終戦という過程の中から生まれた、作者の意識の変化が反映したものであることは確かだ。「すべてを失ひ、すべてを捨てた者の平安」という言葉は、「「ああ、みんな焼けちやつたね。」と言つて、やはり微笑してゐる。」(「薄明」)という言葉と明らかに共鳴している。そして作者の意識の変化は、主人公の言葉として次のように語られている。
「古い時代(戦争期)」と「新しい時代(戦後)」の、「二つの時代の感情」とは、「へんに大袈裟な身振りのものや、深刻めかしたもの」(「パンドラの匣」)から、「こだわりのない」とか「かるみ」とかいう意識への変化を意味しており、それは戦争が終ったことによる解放感が招き寄せたものであるといえる。そして「パンドラの匣」で、「幽かな『希望』の風が、頬を撫でる。」と書いているように、作者は終戦直後に一瞬だけ、希望を感じていたことも確かである。 2 『津軽』から津軽へ 終戦を津軽で迎えたことで、作者は一年前に書いた作品『津軽』の仮構性を、強く意識していたに違いない。三鷹に戻る昭和21年11月中旬までに、津軽を題材とした作品を、次のように8編書いている(津軽滞在中の作品18編中)が、『津軽』のような津軽は二度と書かれることはなかった。 1 庭 (昭和20年11月) 作者は終戦直後にはそれでも、希望や新しさを口にしていたが、津軽を題材とした作品でやがて、津軽(現実)は否定的に描かれるようになる。四作目の作品「やんぬる哉」を境に、「庭」「親といふ二字」「嘘」までにあった明るさは失われ、「冬の花火」「春の枯葉」「親友交歓」と書き継がれるに従って、津軽(現実)に対する失望は次第に深まっていく。 「やんぬる哉」は、津軽に対して違和感を表明した最初の作品である。終戦直前に、津軽の生家に帰ってきた主人公の「私」は、戦後、中学校時代の同級生だという医師を訪問するが、そこで窮屈な思いをしながら、最後にこんなことを思う。
津軽は作者にとって、すでに「世の俗物ども」と同様にしか感じられていない。 五作目の「雀」でも、津軽で出会った小学校の同級生に、「この東北の女みたいに意地悪く、男にへんに警戒するやうな様子もなく、伊豆の女はたいていさうらしいけれど、やつぱり、南国の女はいいね」と言わせて、津軽を間接的に批判している。 そして、「好いところが一つもみぢんも無かつた。」という、「小学校時代の親友」のことを描いた、「親友交歓」を最後に、津軽を題材とした作品は書かれなくなる。「やんぬる哉」では、小学校時代の友人とは楽しいが、中学校時代の友人とは窮屈だと語っていたが、「親友交歓」では小学校時代の同級生をも否定的に描いている。「ああ、このひとたちに大事なウヰスキイを飲ませるのは、つまらん事だ!」と、作者の肉声が作品の中に響いており、「このひとたち」が「津軽のひとたち」を指しているとすれば、津軽に対する全的な否定の声のようにも聞こえる。 終戦後の津軽滞在中に書かれた、津軽を題材とした作品は、『津軽』で描かれた津軽が、現実の津軽によって否定的に描かれていく過程でもあった。そしてそれは同時に、戦後そのものに対する否定につながっていくものだった。 3 「冬の花火」から『斜陽』へ 津軽を題材とした、六作目の作品「冬の花火」(昭和21年3月)には、津軽と日本に対する否定的な感情がより具体的に描かれている。夫の戦死が暗示されている主人公の数枝は、戦後、生家の津軽に帰ってきているが、日本はもう何もかもがだめだと言う。しかし、継母のあさを唯一の救いと感じ、その母と津軽で生活することによって、桃源郷・ユートピアを作ることはできないものかと夢想する。ところが、母の秘密(不倫)を知ることによって、その夢は崩壊する。眼前の津軽は作者にとって、否定の対象としかなっていない。 「冬の花火」の母あさは、主人公数枝の継母であるが、「生みの親より育ての親」といわれているような存在である。そのことは『津軽』のたけが、主人公「私」の育ての母であるのと、同じ位置にいることになる。「冬の花火」の母あさは、「津軽的なもの」の象徴、あるいは津軽は「母的なもの」の象徴であるといえる。『津軽』の到達点が、「冬の花火」の出発点となっている。 そして、「冬の花火」の主人公数枝は敗戦のことを、負けたのではなく滅亡したのだと言い、日本は何もかもだめなのだと言うが、「日本にはもう世界に誇るものがなんにも無くなつたけれど、でも、あたしのお母さんは、あたしのお母さんだけは。」と語っているように、継母の存在だけが生きていく拠り所になっている。「冬の花火」の育ての母あさは、『津軽』の育ての母たけが、戦後、変貌した姿だといえる。 ただ、「冬の花火」のあさが、『津軽』のたけと決定的に異なるのは、あさが「秘密」を抱え込んだ存在であるということである。ここに戦後の刻印を見ることができる。そして、この「秘密」は、『斜陽』では「ひめごと」と呼ばれ、『斜陽』という作品の推進力となっている。 ところで、「冬の花火」にはすでに、『斜陽』の骨格となるものが示されている。「冬の花火」の主人公数枝は母との関係を、「同性愛みたい」と言う。『斜陽』の主人公かず子にとっても、母との関係は同様なものだった。「冬の花火」の数枝が、日本で世界に誇れるものはお母さんだけと言うのに対し、『斜陽』のかず子は母を、「日本で最後の貴婦人」と呼んでいる。「冬の花火」の母あさと同じように、『斜陽』の母もまた弱りつつある存在である。「女には皆、秘密がある」と「冬の花火」で言われていることは、『斜陽』では「ひめごと」と言われる。「冬の花火」の数枝が、東京の好きな男のところへ行こうとするのと同様、『斜陽』のかず子も東京の上原のところへ行く。 このように、「冬の花火」は『斜陽』に直結する作品である。「冬の花火」の数枝と『斜陽』のかず子、「冬の花火」の母あさと『斜陽』の母は、明らかに呼応している。『斜陽』の中心的テーマは、『斜陽』の底本と言われる太田静子の日記を、入手する(昭和22年2月)以前の「冬の花火」(昭和21年3月)で、すでに出つくしているといっていいかもしれない。 ところで、唯一の救いとされる、「冬の花火」の継母あさや『斜陽』の母は、「秘密」や「ひめごと」を抱え込んでいることで、崩壊ははじめから約束されていたともいえる。『津軽』のたけと異なるのはそのことである。作者は戦争を通過した日本人に、「秘密」や「ひめごと」を隠し持っていない者などいないと考えていたのかもしれない。何よりもそのことで、戦時中の作者自身のことを指そうとしていたのかもしれない。 そして、継母あさ(「冬の花火」)や母(『斜陽』)が、「秘密」や「ひめごと」を抱え込んでいるのに対し、数枝(「冬の花火」)やかず子(『斜陽』)は、「秘密」や「ひめごと」を隠そうとはしない。そこに作者は、戦後的な意味と希望を見出しているようにみえる。「数枝、女には皆、秘密がある。お前は、それを隠さなかつただけだよ。」と「冬の花火」の母は言うが、「それを隠さなかつた」数枝には戦後が刻印されている。作者はそのことを、別のところで「かくめい」と呼んでいる。
しかし、「冬の花火」の数枝も、崩壊から免れているわけではない。日本と自分はどんなにあがいてもだめになるだけと数枝が言うのは、戦後に対する作者の希望があっという間に、失望に変わってしまったからではないか。 さらに、「冬の花火」の継母あさが、抱えている「秘密」によって衰弱し、もうだめなような気がする、早く死にたいと言うのは、戦後一瞬だけ抱いた希望を、作者が自らの手で扼殺してしまおうとすることではないのか。唯一の希望の象徴である母が、みずからを消滅させようとしている。『津軽』でたどり着き、「冬の花火」の出発に置かれた「津軽的なもの」「母的なもの」は、戦後の否定と一緒に葬り去られようとしているのである。
4 「ヴィヨンの妻」から『斜陽』へ
「春の枯葉」は国民学校の教師野中の妻節子が、積極的に振舞うことを志向しているところで作品は終わるが、その後の「トカトントン」(昭和21年11月)「ヴィヨンの妻」(昭和22年1月)『斜陽』(昭和22年6月)では、積極的に振舞うことによって「幸福」を発見するというテーマが追求されている。 津軽滞在最後の作品「トカトントン」では、作中の「某作家」は、終戦の日以降、何か物事に感激し奮い立とうとしても、遠くから幽かにトカトントンという金槌の音が聞こえてきて、何ともはかない気持になると訴える手紙に対し、それは「幻聴」だとして、次のような返答を与えている。
トカトントンという金槌の音は、自分自身の内面を凝視してしまうために生じる、自分の内部から聞こえてくる「幻聴」である。「某作家」はこの返答によって、「醜態を避ける」という内向する傾向に対し、「叡知よりも勇気を必要とする」という、外に向かう積極性を説いているのだといえる。 昭和21年11月14日、太宰治は妻子を連れて、青森の生家から東京三鷹の家に戻ってくる。帰京直後の作品「ヴィヨンの妻」(昭和22年1月)は、普段から家に落ち着いていることがない主人公の「夫」が、ある日の深夜、行きつけの飲み屋から金を盗んで帰ってくるところから話がはじまる。妻はあくる日から、人質のような形でその店で働くことになるが、そのことがきっかけとなって、妻は次のように、いつも夫と一緒にいられる場所を発見する。妻の、夫と一緒にいたいという気持ちが、痛いほど伝わってくる場面だ。
そして、夜遅く迎えにきた夫と一緒に、楽しく家路をたどることもあり、妻は夫に、「なぜ、はじめからかうしなかつたのでせうね。とつても私は幸福よ。」と語る。 夫が家に帰ってこなかった、ある日のあけがた、妻は店の客にけがされる。翌日、夫が飲み屋に泊まったと聞いて、妻は、「あたしも、こんどから、このお店にずつと泊めてもらふ事にしようかしら。」と言う。「ヴィヨンの妻」では主人公の妻が、夫に対し積極的に振舞うことで「幸福」を発見する。そして、どこまでも夫と一緒にいようとする妻は、最後に、「生きてゐさへすればいい」という、家族という関係の中でだけ成り立つ論理を発見する。
この作品には、夫が妻に、この世の中のどこかに神がいるんでしょうねと問いかけ、店の客にけがされた妻が、神がいるなら出てきてくださいと訴える場面があるが、妻の「私たちは、生きてゐさへすればいいのよ。」という言葉は、そんな夫と妻を包み込み肯定する言葉として、作品の中に響き渡っている。 この作品では妻が、飲み屋から夫と一緒に帰ること、飲み屋に夫と一緒に泊まることを積極的に選ぶことで、「生きてゐさへすればいい」という妻の論理を発見する。この論理は妻が主張することで、いっそう強固なものとなる。 「ヴィヨンの妻」はほかの戦後の家庭小説と同様、家庭が内と外の差異を消失させ、社会と接続する通路をもたなくなったことによる悲劇であるが、目的を持たない家庭という場を志向する妻だからこそ、「生きてゐさへすればいいのよ」と言えるのである。目的を持たない場でなければ、生きているだけでいいなんて言えない。人は社会的な関係の中では、何らかの役割を負わされているから、その役割に従って生きていくしかない。社会的な関係を志向する傾向が強い男に、「生きてゐさへすればいい」という論理は成り立たない。 たとえば、『斜陽』の直治は、「とにかくね、生きてゐるのだからね、インチキをやつてゐるに違ひないのさ。」と言うが、「インチキをやっている」とは社会的な関係を意識した男の論理である。「インチキ(人非人)でも生きているだけでいい」と言えるのが、女の論理であるといえる。 「ヴィヨンの妻」という作品は、妻のこの最後の言葉と同時に、とりあえずの「幸福」を発見する物語である。しかしこの「幸福」は後に、「家庭の幸福は諸悪の本(もと)。」(「家庭の幸福」)というように否定されることになる。
5 「冬の花火」と「ヴィヨンの妻」から『斜陽』へ 『斜陽』は「冬の花火」と「ヴィヨンの妻」が、合流した地点に成立しているようにみえる。「冬の花火」の主人公数枝と継母は、『斜陽』では主人公かず子と母に、「ヴィヨンの妻」の妻は『斜陽』では主人公かず子に姿を変えている。『斜陽』の主人公かず子は、「冬の花火」の主人公数枝の積極性と、「ヴィヨンの妻」の妻が発見した、生きているだけでいいという妻の論理をあわせ持った存在である。 『斜陽』の主人公かず子が、語り手「私」として語り出す現在は、東京西片町から伊豆の山荘に引越してきて四か月後の、昭和二一年四月のことで、それ以前のことは回想として語られる。山荘に引越してきたのは、「日本が無条件降伏をしたとしの、十二月のはじめ」とされているように、戦争・終戦を通過した後にしか、『斜陽』の世界は成立しなかった。 主人公のかず子は結婚していた六年前、弟の直治と親交のあった小説家の上原と会い、そのとき酒場で上原にキスをされたことを、いまでも「ひめごと」として温めている。かず子はその後、離婚・死産を体験する。 弟の直治は戦争で、南方の島へ行っていたが、昭和二一年の夏に帰還する。直治の帰還をきっかけに、かず子は上原に三通の手紙を書くことになるが、かず子が上原に近づく契機はいつも、弟の直治の存在に負っている。そして直治の自殺とともに、上原との関係も終わる。直治の存在を軸に、出来事が生起する。 『人間失格』の主人公葉蔵が、友人の堀木を介してしか行動できないように、かず子も直治を介してしか行動を起こせない。かず子は内在する動機で動いているのではなく、外からの力(直治)で動いているようにみえる。直治の存在によって、かず子の上原に対する思いは触発され、かず子は上原と結びついていく。 かず子が上原に宛てた三通の手紙の、「私は将来、そのお方の愛人として暮すつもりだ」(一通目)、「あなたの赤ちやんがほしい」(二通目)、「はばむ道徳を、押しのけられませんか?」(三通目)といった文面を見る限り、かず子は上原に対して積極的に振舞っているようにみえる。しかし、かず子自身が次に語るように、もともと消極的な性格と考えられる。
そのことは直治が遺書で、「姉さんは、結婚なさつて、子供が出来て、夫にたよつて生き抜いて行くのではないかと僕は、思つてゐるんです。」と記していることからも推測される。かず子の積極性というのは、男に「頼る」ことを積極的に選ぶという積極性である。消極性(「頼る」)を積極的に選び取る、というような積極性であるといえる。 この積極性は、「ヴィヨンの妻」の妻と夫のように、かず子と上原をとりあえずの「幸福」にさえ導かない。しかし、「ヴィヨンの妻」の妻が、「生きてゐさへすればいい」という妻の論理を発見したのと同様に、かず子も「よい子を生む」という母の論理を発見する。かず子はそのことを、上原に宛てた最後の手紙で、次のように書いている。
「ヴィヨンの妻」のラストの、「人非人でもいいぢやないの。私たちは、生きてゐさへすればいいのよ。」という言葉と共鳴している。「ヴィヨンの妻」の妻も、『斜陽』のかず子も、家庭という関係の内だけで成立する、女という存在が持つ論理(生きていさへすればいい、よい子を生む)を主張できるという意味で、強靭な存在であるといえる。 そして、このような女の論理は後の、「饗応夫人」(昭和22年10月)や「眉山」(昭和23年1月)の主人公のような、無償の行為につながっていく。
6 『斜陽』と太田静子 太田静子の日記を素材として、『斜陽』が書かれたことは事実かもしれない。しかし、自分の経験であろうと、他人の書いたものであろうと、素材のない小説はないといえる。さらに、『斜陽』の中心的テーマはすでに、太田静子の日記を入手する以前の、「冬の花火」(昭和21年3月)で出つくしている。静子の日記は素材以上の意味を持たないかもしれないが、その日記がなければ『斜陽』は書かれなかったという意味では、素材以上のものだともいえる。作品が素材に制約されるという側面も見逃せない。 ところで、『斜陽』の主人公かず子は昭和二一年の夏、六年前に一度だけ会った上原に三通の手紙を書いているが、そのことが唐突な感じを与えることは否定できない。一通目では遠回しに、上原の愛人になりたいと書き、二通目では突然、あなたの赤ちゃんがほしいと訴え、三通目では、あなたの愛妾になって、あなたの子供の母になることが望みだと、さらに積極的に訴えている。 この積極性はかず子の性格によるというより、作者と太田静子との現実の関係が、色濃く反映した結果と考えたほうがいいのではないか。静子が積極的だという意味ではない。静子との関係という事実が、この作品に大きな影響を与えているのではないかということである。年譜(1999年筑摩書房版『太宰治全集第13巻』所収・山内祥史氏作成)による(「3月中旬」の項目を除く)と、太宰と静子との関係はつぎの通りである。 【昭和16年】 上原と会う→上原を好きになる→上原の赤ちゃんがほしい、という話の筋は、逆から考えたほうがいいのではないか。太田静子との間に子供ができたという、作者の現実が先にあって、そこからストーリーが作られたのではないか。手紙の唐突さと不自然さは、そこからきているのかもしれない。 しかし、そのように言うためには、かず子が上原に三通の手紙を書く、『斜陽』四章が脱稿された昭和二二年四月頃までに、太宰は太田静子の妊娠を知っていなければならないことになる。太宰が静子の妊娠を知った時期については、次のような説がある。 (1)当時、新潮社の出版部員だった野原一夫の証言 (2)相馬正一『評伝 太宰治(第三部)』(筑摩書房1985年7月) 太宰が静子の妊娠を知ったのは、三月中旬とされており、両氏とも、主人公かず子の三通の手紙が執筆された『斜陽』四章以前に、太宰は静子の妊娠を知ったと考えている。 なお、相馬正一「『斜陽日記』のオリジナリティー」(『国文学/解釈と教材の研究』学灯社1999年6月号)によれば、静子が太宰に宛てた書簡(昭和21年9月26日)には、「赤ちやんがほしい……。」とあり、太宰の静子宛返書(昭和21年10月上旬)にも、「私はあなた次第です。(赤ちやんの事も)」とある(太宰の返書は全集に収録されている)。 太宰が静子の妊娠を知ったのは、『斜陽』の主人公かず子が上原に宛てて、「あなたの赤ちゃんがほしい」と書いている二通目の手紙を太宰が執筆した以前なのか、「私の望み。あなたの愛妾になって、あなたの子供の母になる事。」と書いている三通目を執筆した以前なのか。それを確定することはできないとしても、静子が太宰の子供を望んでいて、太宰もそれに応えようとしていたことは、太宰と静子の手紙からもうかがえる。 『斜陽』は「冬の花火」のテーマを敷衍した作品であるが、太田静子の日記と、静子との現実の関係が、色濃く反映している作品であるともいえる。
7 『斜陽』の母[1](かず子の母・母としてのかず子) 『斜陽』には三人の母がいる。 かず子と母が、東京西片町から伊豆の山荘に引越してくるとき、母は、「お顔色が、いままで見たこともなかつたくらゐに悪い」と言われているように、最初から、日に日に衰えていく存在だった。東京→伊豆という空間的な移動は、戦前(戦争)→戦後という時間的な移動を意味しており、そのことによって、「古い時代と、新しい時代と、その二つの時代の感情を共に明瞭に理解する事のできる人」(「パンドラの匣」)として、かず子の母は戦後を刻印された存在だった。 かず子の母は、「冬の花火」の継母あさがたどり着いた、「津軽的なもの」「母的なもの」の否定を出発点としており、そのことがかず子の母を最初から、衰えていくだけの存在にしている。「津軽的なもの」「母的なもの」は、『津軽』の育ての母たけ→「冬の花火」の継母あさ→『斜陽』のかず子の母と姿を変えながら、肯定的な存在から滅んでいくものへと変貌していく。かず子の母はやがて、病気で死ぬが、「母としてのかず子」「擬似的な母としての上原の妻」となって再生する。二人の母が誕生するために、かず子の母は死なざるをえなかったと言ってもいいかもしれない。そしてこの二人の母に、作者は戦後の希望を託していたようにみえる。 東京西片町から伊豆に引っ越してくるときの、母の「哀しい御病気」(かず子の言葉)について、母は、「普通の病気ぢやないんです。神さまが私をいちどお殺しになつて、それから昨日までの私と違ふ私にして、よみがへらせて下さつた」と考えようとするが、かず子は、「イエスさまのやうな復活は、所詮、人間には出来ない」と考える。「冬の花火」の主人公数枝は、戦争が終わったときのことを、負けたのではない、滅んだのだというが、かず子の母も同様に滅びる存在とみなされている。 ところでかず子が、「人間にだけあるもの。それはね、ひめごと、といふものよ。」と言うのに対し、母がほんのり顔を赤くするのはなぜか。母の「ひめごと」とはなんだろうか。「冬の花火」で、継母あさの「秘密」が不倫だったことから、また、かず子が母に、「どこやらデカダンと紙一重のなまめかしさ」を感じることから、それと同様なことを指しているのかもしれない。 そして、「まさかお母さんに、私のやうな恥づかしい過去があるわけは無し、いや、それとも、何か。」と、かず子が思うように、母にも「恥ずかしい過去」=「ひめごと」があることが、暗示されている。しかし、『斜陽』のかず子は母の「ひめごと」を知っても、「冬の花火」の数枝のようには絶望しない人物として造形されている。かず子は母を、戦後の日本と同じように、滅亡する存在と見ており、その復活を自身に賭けているからである。 かず子の母は伊豆に行く前日に、「死んだはうがよいのです。お父さまの亡くなつたこの家で、お母さまも、死んでしまひたいのよ。」と言い、かず子も「私たちの人生は、西片町のお家を出た時に、もう終つたのだと思つた。」と考える。弟の直治も遺書で、「僕は昔から、西片町のあの家の奥の座敷で死にたいと思つてゐました。」と記している。 それまで住んでいた、東京西片町の家を出ることは、戦争によって日本が「滅亡」したのと同様に、かず子一家の「滅亡」を意味すると考えられている。そして、母と直治は「滅亡」を免れないが、かず子だけは「滅亡」を受け入れず、「戦闘、開始。」を宣言する。日本が「滅亡」から復活することを、作者はかず子に託しているといえる。 そしてかず子は、上原との子を妊娠したことで、勝利を手にしたと考える。上原に宛てた最後の手紙で、かず子はそのことを、次のように「道徳革命」と呼んでいる。
「ヴィヨンの妻」の妻が、「人非人でもいいぢやないの。私たちは、生きてゐさへすればいいのよ。」と言うとき、この言葉は、家庭という関係の内だけで成立する論理を主張する、女という存在の強靭さを表現するものとなっている。しかし、「道徳革命」とは男の論理を表現する言葉でしかない。 「ヴィヨンの妻」の妻と同様、『斜陽』のかず子にも、女という存在が持つ論理(よい子を生む)を主張する強靭さはあったが、「道徳革命」というような社会性(男の論理)を主張することで、この作品からは切実さが急速に失われていく。 しかも、かず子の手紙の言葉はすでに、『新ハムレツト』(昭和16年5月)のオフヰリヤの言葉として、「もういまでは、ハムレツトさまのお子さまを産んで、丈夫に育てるといふ希望だけで胸が一ぱいでございます。あたしは、いまは幸福です。」「ハムレツトさまに捨てられても、あたしは、子供と二人で毎日たのしく暮して行けます。」と語られており、必ずしも戦後的な言説といえるものではなかった。 『斜陽』のかず子も、「ヴィヨンの妻」の妻と同じように、「道徳革命」ではなく、「人非人でもいいぢやないの。」と言うべきではなかったのか。「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」(『右大臣実朝』)と書いた太宰だったが、かず子の「道徳革命」とは、「ホロビノ姿」としての「アカルサ」以外ではなかった。
8 『斜陽』の母[2](上原の奥さん) かず子 = 上原 上原の奥さんに対する直治の思いは、上原に対するかず子の思いより精神的なものであるといえる。作品『津軽』では、主人公は育ての母たけと遠く離れていたために、精神的にはもっとも近い母と子の関係を仮構することができた。同じような理由で、直治も上原の奥さんとの間に、母と子のような親密な関係を仮構することができたのである。直治は姉のかず子に宛てた遺書で、上原の奥さんとのことを「秘密」として、次のように書いている。
『津軽』の、主人公とたけが再会する場面と同様、親和的な雰囲気に満ちた場面だ。『津軽』の主人公と同じように、それが直治の夢でしかないとしても、である。ただ、『津軽』と異なるところは、直治と上原の奥さんの、母と子のような親密な関係が、作品の遠景としてしか存在できないほど縮小していることである。戦後の現実に対する作者の意識が、母と子のような関係を遠くに追いやっているからに違いない。そのような関係を、仮構する余裕がなくなっているともいえる。 かず子には直治という橋渡しがあるので、かず子は直治を介して上原と結びつくことができる。ところが直治には、直治を上原の奥さんに橋渡しするものがないため、直治は上原の奥さんに、一歩も近づくことができない。かず子も直治も、人と人を結びつける橋渡しを自己の内に欠いているという意味で、作者の性格をいくぶんかは受け継いでいるといえる。 上原の奥さんの、無償といってもいいあり方は、後の「饗応夫人」や「眉山」に通じる無償性であり、『斜陽』後の作品世界のあり方を暗示している。作者が求めていた、他者との接し方の発見でもあった。 さらに、かず子は上原との子を、自殺した直治の子として上原の妻に抱かせたいと考える。かず子と上原との子を抱く上原の妻は、擬似的に母となる。上原に宛てた最後の手紙で、かず子はこう書いている。
かず子は手紙にこう書くことで、何を意図しているのだろうか。自分の夫とよその女(かず子)の子を、自分を思っていた男(直治)の子として抱く上原の妻の姿に、作者はかず子が最後の手紙で書いている、「聖母子」のイメージを与えようとしているのではないか。ここには「母的なもの」の死と再生の、最終的なイメージが暗示されている。
9 『斜陽』後の作品世界
「私」はここで、『斜陽』の主人公の最後の手紙の、「こひしいひとの子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます。」という宣言を全否定していることになる。「おさん」の「私」はまた、「道徳も何もありやしない」「道徳なんてどうだつていい」とも言っており、『斜陽』の主人公の「道徳革命」という言説を否定している。「ヴィヨンの妻」『斜陽』「おさん」という一連の作品はここで終わり、以後、女主人公が独白するという形の作品は書かれることはなかった。 『斜陽』はこのように、「おさん」によって否定されることになるが、『斜陽』後の作品には、『斜陽』の背後に隠されていた、上原の奥さんの無償とでもいうべき世界が浮上してくる。 「饗応夫人」(昭和22年10月)「眉山」(昭和23年1月)には、この無償の世界が極限の姿で描かれている。「饗応夫人」で、語り手の「私」は、主人公の奥様の無償性に対して「底知れぬ優しさ」を感じ、「人間といふものは、他の動物と何かまるでちがつた貴いものを持つてゐるといふ事を生れてはじめて知らされたやうな気がし」たと、考える。「眉山」でも、語り手の「僕」は主人公のトシちゃんに、「底知れぬ優しさ」を感じる。 「饗応夫人」の奥さまや「眉山」のトシちゃんの、「底知れぬ優しさ」(無償性)とはこういうことである。「饗応夫人」の主人公の奥さまは、戦争で南方に行ったご主人の消息が不明であるのに、自宅に押しかけてくるご主人の知り合いやその仲間に対し、自分の健康を犠牲にしてまで世話を焼こうとする。同じように「眉山」の主人公、新宿の飲屋・若松屋の女中トシちゃんは、自身が腎臓結核で身体が大儀であるのに、客の「僕」たちのために、無理をして世話を焼いてくれる。 「春の枯葉」で発見し、その後の「ヴィヨンの妻」『斜陽』「おさん」で深められた、「底知れぬ優しさ」(無償性)を積極的に追求するというテーマは、「饗応夫人」「眉山」において極限的な姿で描かれている。そしてそれが、家庭という関係の内だけで成立する論理を主張できる、女という存在の強靭さを描いた作品の行き着いたところだった。 「底知れぬ優しさ」(無償性)という、女(母)の本質を描き切った太宰治は、それ以降、「桜桃」(昭和23年2月)「家庭の幸福」(昭和23年2月)『人間失格』(昭和23年5月)などで男(父)の本質を描こうとする。しかし、そこで描かれた男(父)とは、「子供より親が大事、と思ひたい。」(「桜桃」)、「家庭の幸福は諸悪の本(もと)。」(「家庭の幸福」)と言い、「私たちの知つてゐる葉ちやんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さへ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした。」(『人間失格』)と言われるような、疲れ果てた男(父)の姿でしかなかった。 「底知れぬ優しさ」(無償性)という女(母)の姿と対峙するような、「底知れぬ強さ」(無償性)という、太宰が求めていた男(父)の姿はついに描かれることはなかった。昭和23年6月13日深夜の、太宰治の死のほうが早く訪れてきたから、である。(了) |