『斜陽』と周辺作品論【太宰治作品論 4】 Tweet─────────────────────────────── 2007.5.27UP / 2013.12.9更新 1 終戦と「薄明」「パンドラの匣」 戦後の第一作とされる「薄明」(山内祥史氏は『太宰治全集13』(筑摩書房1999年5月刊)に収録されている年譜の中で、昭和二十年九月中旬頃の脱稿と推測している)には、作者が甲府で遭遇した空襲の様子が描かれている。主人公の「私」は空襲から逃れるために、一家を連れて妻の実家から避難するが、眼病で目が見えない長女を連れているために難渋を強いられる。妻の実家は空襲で、丸焼けになってしまう。数日たって、やっと目が見えるようになった長女を連れて、主人公は妻の実家を見に行く。長女はその焼跡を見ても、微笑しているだけで、少しもこだわる様子を見せない。そのことは次のように描かれている。
《注射がきいたのか、どうか、或ひは自然に治る時機になつてゐたのか、その病院にかよつて二日目の午後に眼があいた。 「みんな焼けてしまったこと」と「子供の微笑」には、「戦争」と「戦後」という対比が含意されており、そこに終戦による作者の意識の変化を読み取ることができる。富士山に月見草が対比されていた(「富嶽百景」)ように、ここでは「戦争」に「子供の微笑」が対比されている。富士山や戦争よりも、月見草や子供の微笑の方が大切なのだ、と。それは、戦争が終ったことによる、解放感から出た言葉であるように思える。終戦による作者の意識の変化と希望を、この対比に見ることができる。 次に書かれた「パンドラの匣」(昭和20年11月)は、戦時中に印刷所が焼けてしまったために刊行できなかった、「雲雀の声」(昭和18年10月)の校正刷をもとに戦後書き直されたもので、純粋に戦後の作品とはいえないかもしれない。しかし、この作品でも、「こだわりのない」という言葉はキーワードとなっている。 肺結核を病んでいる主人公は、終戦を契機に新しい男に生まれ変わったと感じ、健康道場という療養施設に入ることを決意する。この作品には、主人公を中心とした、同室の同病者、看護婦との生活が描かれている。主人公は次のように、「こだわりのない」とか「かるみ」とかいうことを意識している人物とされる。 《いまでは何だか皆を高所から見下してゐるやうな涼しい余裕が出来てゐて、自由に冗談も言へるし、これもつまり、女に好かれたいなどといふ息ぐるしい欲望を、この半箇月ほどの間に全部あつさり捨て去つたせゐかも知れぬが、自分でも不思議なほど、心に少しのこだはりも無く楽しく遊んだのだ。好くも好かれるも、五月の風に騒ぐ木の葉みたいなものだ。なんの我執も無い。あたらしい男は、またひとつ飛躍をしました。》 《この「かるみ」は、断じて軽薄と違ふのである。欲と命を捨てなければ、この心境はわからない。くるしく努力して汗を出し切つた後に来る一陣のそよ風だ。世界の大混乱の末の窮迫の空気から生れ出た、翼のすきとほるほどの身軽な鳥だ。これがわからぬ人は、永遠に歴史の流れから除外され、取残されてしまふだらう。ああ、あれも、これも、どんどん古くなつて行く。君、理屈も何も無いのだ。すべてを失ひ、すべてを捨てた者の平安こそ、その「かるみ」だ。》 主人公の感じている、「こだわりのない」とか「かるみ」とかいう意識は、戦争・終戦という過程の中から生まれた、作者の意識の変化が反映したものであることは確かだ。「すべてを失ひ、すべてを捨てた者の平安」という言葉は、「「ああ、みんな焼けちやつたね。」と言つて、やはり微笑してゐる。」(「薄明」)という言葉と明らかに共鳴している。作者の意識の変化は、主人公の言葉として次のように語られている。 《古い時代と、新しい時代と、その二つの時代の感情を共に明瞭に理解する事のできる人は、まれなのではあるまいか。》 「古い時代(戦争期)」と「新しい時代(戦後)」の、「二つの時代の感情」とは、「へんに大袈裟な身振りのものや、深刻めかしたもの」から、「こだわりのない」とか「かるみ」とかいうものへの意識の変化を意味している。それは戦争が終ったことによる、解放感が招き寄せたものであるといえる。作品「パンドラの匣」で、「幽かな『希望』の風が、頬を撫でる。」と書いているように、作者は終戦直後に一瞬だけ、希望を感じていたことも確かである。 2 『津軽』から津軽へ 『津軽』の津軽は仮構された津軽だったが、いまは現実の津軽で生活している。帰り着く先に現実があるのではなく、津軽の現実が眼前に存在していた。そして、終戦による解放感が一瞬にして通り過ぎてしまったことで、津軽の現実が作者に重くのしかかってきたのである。 太宰は終戦を津軽で迎えたことで、一年前に書いた作品『津軽』の仮構性を強く意識していたに違いない。三鷹に戻る昭和二一年十一月中旬までに、作者は津軽を題材とした作品を次のように八編書いている(津軽滞在中の作品十八編中)。しかし、作品『津軽』のような津軽は、二度と書かれることはなかった。 1 庭 (昭和20年11月) 終戦直後にはそれでも、作者は希望や新しさを口にしていた。ところが、津軽を題材とした作品ではやがて、津軽(現実)が否定的に描かれるようになる。四作目の作品「やんぬる哉」を境に、「庭」「親といふ二字」「嘘」までにあった明るさは失われ、「冬の花火」「春の枯葉」「親友交歓」と書き継がれるに従って、津軽(現実)に対する失望感は次第に深くなっていく。 「やんぬる哉」は、津軽に対して違和感を表明した最初の作品である。主人公の「私」は、終戦直前に津軽の生家に帰ってくる。「私」は戦後、中学校時代の同級生だという医師を訪問し、そこで窮屈な思いをしながらこんなことを思う。 《私にはその時突然、東京の荻窪あたりのヤキトリ屋台が、胸の焼き焦げるほど懐しく思ひ出され、なんにも要らない、あんな屋台で一串二銭のヤキトリと一杯十銭のウヰスケといふものを前にして思ふさま、世の俗物どもを大声で罵倒したいと渇望した。》 津軽は作者にとって、すでに「世の俗物ども」と同様にしか感じられていない。 五作目の「雀」でも、主人公の「私」は、津軽で出会った小学校の同級生から、「南国の女」は「東北の女」のように意地悪く、男に警戒するような様子もなくていい、と言われる場面がある。津軽に対する、作者の間接的な批判と感じさせる。 そして、「好いところが一つもみぢんも無かつた」と言われている、小学校時代の親友のことを描いた「親友交歓」を最後に、津軽を題材とした作品は書かれなくなる。「やんぬる哉」では、小学校時代の友人とは楽しいが、中学校時代の友人とは窮屈だと語っていた。しかし、「親友交歓」では、小学校時代の同級生をも否定的に描いている。この作品の中には、「ああ、このひとたちに大事なウヰスキイを飲ませるのは、つまらん事だ!」と、作者の肉声が響いており、「このひとたち」が「津軽のひとたち」を指しているとすれば、津軽に対する全的な否定の声のようにも聞こえる。 終戦後の津軽滞在中に書かれた、津軽を題材とした作品は、『津軽』で描かれた津軽が、現実の津軽によって否定的に描かれていく過程でもあった。そして、そのことは同時に、戦後そのものに対する否定につながっていくものだった。 3 「冬の花火」から『斜陽』へ 津軽を題材とした六作目の作品「冬の花火」(昭和21年3月)には、津軽と日本に対する否定的な感情がより具体的に描かれている。主人公の数枝は、夫の戦死が暗示されている人物で、戦後、生家の津軽に帰ってきている。数枝は、日本はもう何もかもがだめだと言うが、継母のあさを唯一の救いと感じている。そして、その母と津軽で生活することによって、桃源郷・ユートピアを作ることはできないものかと夢想する。しかし、母の秘密(不倫)を知ることによって、数枝の夢は崩壊する。作者にとって、眼前の津軽は否定の対象としか見られていない。 「冬の花火」の母あさは、主人公数枝の継母であるが、「生みの親より育ての親」といわれているような存在である。そのことは『津軽』のたけが、主人公「私」の育ての母であるのと同じ位置にいることになる。母は「津軽的なもの」の象徴、あるいは津軽は「母的なもの」の象徴であるといえる。『津軽』の到達点が、「冬の花火」の出発点となっている。 「冬の花火」の主人公の数枝は敗戦を、負けたのではなく滅亡したのだと言い、日本は何もかもがだめなのだと言う。しかし、「日本にはもう世界に誇るものがなんにも無くなつたけれど、でも、あたしのお母さんは、あたしのお母さんだけは。」と語っているように、継母の存在だけが生きていく拠り所になっている。「冬の花火」の育ての母あさは、『津軽』の育ての母たけが、戦後、変貌した姿だといえる。 「冬の花火」のあさが、『津軽』のたけと決定的に異なるのは、あさが「秘密」を抱え込んだ存在であるということである。ここに戦後の刻印を見ることができる。そして、この「秘密」は、『斜陽』では「ひめごと」と呼ばれ、『斜陽』という物語を推進する力になっている。 ところで、「冬の花火」にはすでに、『斜陽』の骨格となるものが示されている。「冬の花火」の主人公数枝は、母との関係を「同性愛みたい」と語っている。『斜陽』の主人公かず子にとっても、母との関係は同様なものだった。「冬の花火」の数枝が、日本で世界に誇れるものはお母さんだけと言うのに対し、『斜陽』のかず子は母を、「日本で最後の貴婦人」と呼んでいる。「冬の花火」の母あさと同じように、『斜陽』の母もまた弱りつつある存在である。「冬の花火」で「女には皆、秘密がある」と言われていることは、『斜陽』では「ひめごと」と言われる。「冬の花火」の数枝が、東京の好きな男のところへ行こうとするのと同様、『斜陽』のかず子も東京の上原のところへ行く。 このように、「冬の花火」は『斜陽』に直結する作品である。「冬の花火」の数枝と『斜陽』のかず子、「冬の花火」の母あさと『斜陽』の母は、明らかに呼応している。『斜陽』の中心的テーマは、『斜陽』の底本と言われる太田静子の日記を、作者が入手する(昭和22年2月)以前の「冬の花火」(昭和21年3月)ですでに追究されているといっていいかもしれない。 唯一の救いとされる「冬の花火」の継母あさや『斜陽』の母は、「秘密」や「ひめごと」を抱え込んでいることで、崩壊ははじめから約束されていたともいえる。『津軽』のたけと異なるのはそのことである。作者は戦争を通過した日本人に、「秘密」や「ひめごと」を隠し持っていない者などいないと考えていたのかもしれない。何よりもそのことで、戦時中の作者自身のことを指そうとしていたのではないか。 「冬の花火」の数枝の継母あさや『斜陽』のかず子の母が、「秘密」や「ひめごと」を抱え込んでいるのに対し、数枝やかず子は「秘密」や「ひめごと」を隠そうとしない。そこに作者は、戦後的な意味と希望を見出しているようにみえる。「数枝、女には皆、秘密がある。お前は、それを隠さなかつただけだよ。」と、「冬の花火」の母は言う。秘密を隠さなかった数枝には、戦後が刻印されている。作者はそのことを、別のところで「かくめい」と呼んでいる。 《じぶんで、さうしても(原文は傍点・引用者)、他のおこなひをしたく思つて、にんげんは、かうしなければならぬ、などとおつしやつてゐるうちは、にんげんの底からの革命が、いつまでも、できないのです。》(「かくめい」昭和22年12月) しかし、「冬の花火」の数枝も、崩壊から免れているわけではない。数枝が、日本と自分はだめになるだけと言うのは、戦後に対する作者の希望が、一瞬にして失望に変わってしまったからではないか。 さらに、「冬の花火」の継母あさが、抱えている「秘密」によって衰弱し、早く死にたいと言うのは、作者が戦後の希望を自らの手で消滅させようとしているからではないか。『津軽』でたどり着き、「冬の花火」の出発点に置かれた「津軽的なもの」「母的なもの」は、戦後の否定と一緒に葬り去られようとしているのである。 4 「ヴィヨンの妻」から『斜陽』へ 《すみません、すみません。あなた、もういちど眼をあいて。わたくしは、心をいれかへたのよ。これからはお酒のお相手でも何でもしようと思つてゐましたのに、あなた!》 「春の枯葉」は、国民学校の教師野中の妻節子が、夫に対して積極的に働きかけようとしているところで終わっている。その後の「トカトントン」(昭和21年11月)「ヴィヨンの妻」(昭和22年1月)『斜陽』(昭和22年6月)では、現実の対象に積極的に働きかけることによって、「幸福」を発見するというテーマが追求される。 津軽滞在最後の作品「トカトントン」ではそのことが、読者から寄せられた手紙に対する、作中の「某作家」の返事として具体的に示されている。読者の手紙はこう訴えている。終戦の日以降、何か物事に感激し奮い立とうとしても、遠くから幽かにトカトントンという金槌の音が聞こえてきて、何ともはかない気持になる、と。「某作家」はこの訴えに対して、それは「幻聴」だとして次のような返答を与える。 《いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けてゐるやうですね。真の思想は、叡知よりも勇気を必要とするものです。》 トカトントンという金槌の音は、自分自身の内面を凝視した結果生じる、自分の内部から聞こえてくる「幻聴」である。「某作家」はこの返答によって、「醜態を避ける」という内向する傾向に対し、「叡知よりも勇気を必要とする」というような、外の対象に働きかける積極性を説いているのだといえる。 昭和二一年十一月十四日、太宰治は妻子を連れて、青森の生家から東京三鷹の家に戻ってくる。帰京直後の作品「ヴィヨンの妻」(昭和22年1月)は、普段から家に落ち着いていることのない、主人公の「私」の「夫」がある日の深夜、行きつけの飲み屋から金を盗んで帰ってくるところから話がはじまる。妻の「私」はあくる日から、人質のような形でその店で働くことになる。そして、そのことをきっかけに、妻は次のように、いつも夫と一緒にいられる場所を発見する。妻の、夫と一緒にいたいという気持ちが、痛いほど伝わってくる場面だ。 《その夜、十時すぎ、私は中野の店をおいとまして、坊やを背負ひ、小金井の私たちの家にかへりました。やはり夫は帰つて来てゐませんでしたが、しかし私は、平気でした。あすまた、あのお店へ行けば、夫に逢へるかも知れない。どうして私はいままで、こんないい事に気づかなかつたのかしら。きのふまでの私の苦労も、所詮は私が馬鹿で、こんな名案に思ひつかなかつたからなのだ。》 《その翌る日からの私の生活は、今までとはまるで違つて、浮々した楽しいものになりました。さつそく電髪屋に行つて、髪の手入れも致しましたし、お化粧品も取りそろへまして、着物を縫ひ直したり、また、おかみさんから新しい白足袋を二足もいただき、これまでの胸の中の重苦しい思ひが、きれいに拭ひ去られた感じでした。》 そして、夜遅く迎えにきた夫と一緒に、楽しく家路をたどることもあり、妻は夫に、「なぜ、はじめからかうしなかつたのでせうね。とつても私は幸福よ。」と語る。 夫が家に帰ってこなかったある日のあけがた、妻は店の客にけがされる。翌日夫から、昨夜は飲み屋に泊まったと聞いて、妻は、「あたしも、こんどから、このお店にずつと泊めてもらふ事にしようかしら。」と言う。「ヴィヨンの妻」では妻が、夫に対し積極的に働きかけることで「幸福」を発見する。そして妻は、どこまでも夫と一緒にいようと考え、最後に、「生きてゐさへすればいい」という、家族という関係の中でだけ成り立つ論理を発見する。
《「さつちやん(妻のこと・引用者)、ごらん、ここに僕のことを、人非人なんて書いてゐますよ。違ふよねえ。僕は今だから言ふけれども、去年の暮にね、ここから五千円持つて出たのは、さつちやんと坊やに、あのお金で久し振りのいいお正月をさせたかつたからです。人非人でないから、あんな事も仕出かすのです。」 この作品には、夫が妻に、この世の中のどこかに神がいるんでしょうねと問いかける場面と、店の客にけがされた妻が、神がいるなら出てきてくださいと訴える場面がある。「私たちは、生きてゐさへすればいいのよ。」という妻の言葉は、そんな夫と妻を包み込み、肯定する言葉として、作品の中に響き渡っている。 この作品では妻が、飲み屋から夫と一緒に帰ること、飲み屋に夫と一緒に泊まることを積極的に選ぶことで、「生きてゐさへすればいい」という妻の論理を発見する。この論理は妻が主張することで、いっそう強固なものとなる。 家庭という場は目的を持っていない。そうした場を志向する妻だからこそ、「生きてゐさへすればいいのよ」と言えるのである。目的を持たない場でなければ、生きているだけでいいなんて言うことはできない。人は社会的な関係の中では、何らかの役割を負わされているから、その役割に従って生きていくしかない。社会的な関係を志向する傾向が強い男に、「生きてゐさへすればいい」という論理は成り立たない。 『斜陽』の直治は、「とにかくね、生きてゐるのだからね、インチキをやつてゐるに違ひないのさ。」と言う。「インチキをやっている」とは、社会的な関係を意識した男の論理である。「インチキ(人非人)でも生きているだけでいい」と言えるのが、女の論理であるといえる。 「ヴィヨンの妻」という作品は、妻の、生きているだけでいいという最後の言葉によって、とりあえずの「幸福」を発見する物語である。しかし、この「幸福」は後に、「家庭の幸福は諸悪の本(もと)。」(「家庭の幸福」)と否定されることになる。 5 「冬の花火」「ヴィヨンの妻」から『斜陽』へ 『斜陽』は「冬の花火」と「ヴィヨンの妻」が、合流した地点に成立しているようにみえる。「冬の花火」の主人公数枝と継母は、『斜陽』では主人公かず子と母に、「ヴィヨンの妻」の妻は『斜陽』では主人公かず子に姿を変えている。『斜陽』の主人公かず子は、「冬の花火」の主人公数枝の積極性と、「ヴィヨンの妻」の妻が発見した、生きているだけでいいという妻の論理をあわせ持った存在である。 『斜陽』の主人公かず子が、語り手「私」として語り出す現在は、東京西片町から伊豆の山荘に引越してきて四か月後の、昭和二一年四月のことで、それ以前のことは回想として語られる。山荘に引越してきたのは、日本が無条件降伏をした年の十二月の初めとされているように、戦争・終戦を通過した後にしか、『斜陽』の世界は成立しなかった。 主人公のかず子は、結婚していた六年前、弟の直治と親交のあった小説家の上原と会い、そのとき酒場で上原にキスをされたことを、いまでも「ひめごと」として温めている。かず子はその後、離婚・死産を体験する。 かず子の弟の直治は、戦争で南方の島へ行っていたが、昭和二一年の夏に帰還する。かず子は帰還した弟が、再び上原と行動をともにしていることを知り、上原に三通の手紙を書く。かず子は弟の直治を橋渡しにしてしか、上原に近づくことができない。そして、直治の自殺とともに、かず子と上原との関係は終わる。直治の存在を軸に、出来事が生起する。 『人間失格』の主人公葉蔵が、友人の堀木を介してしか行動できないように、かず子も直治を介してしか行動を起こせない。かず子は内在する動機で動いているのではなく、外からの力(直治)で動いているようにみえる。直治の存在によって、かず子の上原に対する思いは触発され、かず子は上原と結びついていく。 かず子が上原に宛てた三通の手紙の、「私は将来、そのお方の愛人として暮すつもりだ」(一通目)、「あなたの赤ちやんがほしい」(二通目)、「はばむ道徳を、押しのけられませんか?」(三通目)といった文面を見る限り、かず子は上原に対して積極的に振舞っているようにみえる。しかし、かず子自身が次に語るように、もともと消極的な性格と考えられる。 《ああ、人間の生活には、喜んだり怒つたり悲しんだり憎んだり、いろいろの感情があるけれども、けれどもそれは人間の生活のほんの一パーセントを占めてゐるだけの感情で、あとの九十九パーセントは、ただ待つて暮してゐるのではないでせうか。》 かず子の消極性は、弟の直治が遺書で、「姉さんは、結婚なさつて、子供が出来て、夫にたよつて生き抜いて行くのではないかと僕は、思つてゐるんです。」と記していることからも推測される。 このことはかず子と上原を、「ヴィヨンの妻」の妻と夫のように、とりあえずの「幸福」にさえ導かない。しかし、「ヴィヨンの妻」の妻が、「生きてゐさへすればいい」という妻の論理を発見したのと同様に、かず子も「よい子を生む」という母の論理を発見する。かず子はそのことを、上原に宛てた最後の手紙で、次のように書いている。
《けれども、私は、幸福なんですの。私の望みどほりに、赤ちやんが出来たやうでございますの。私は、いま、いつさいを失つたやうな気がしてゐますけど、でも、おなかの小さい生命が、私の孤独の微笑のたねになつてゐます。 「ヴィヨンの妻」のラストの、「人非人でもいいぢやないの。私たちは、生きてゐさへすればいいのよ。」という言葉と共鳴している。「ヴィヨンの妻」の妻も、『斜陽』のかず子も、家庭という関係の内だけで成立する、女という存在が持つ論理(生きていさへすればいい、よい子を生む)を主張できるという意味で、強靭な存在であるといえる。 このような女の論理は、後の「饗応夫人」(昭和22年10月)や「眉山」(昭和23年1月)の主人公のような無償の行為につながっていくことになる。 6 『斜陽』と太田静子 太田静子の日記を素材として、『斜陽』が書かれたことは事実かもしれない。しかし、自分の経験であろうと、他人の書いたものであろうと、素材のない小説はないといえる。さらに、『斜陽』の中心的テーマはすでに、作者が静子の日記を入手する以前の「冬の花火」(昭和21年3月)で追究されている。静子の日記は、素材以上の意味を持たないかもしれない。けれども、その日記がなければ『斜陽』は書かれなかったという意味では、素材以上のものだともいえる。作品が素材に制約されるという側面も見逃せない。 『斜陽』の主人公かず子は、昭和二一年の夏に、六年前に一度だけ会った小説家の上原に三通の手紙を書いている。そのことが、唐突な感じを与えることは否定できない。一通目では遠回しに、上原の愛人になりたいと書き、二通目では突然、あなたの赤ちゃんがほしいと訴えている。三通目では、あなたの愛妾になって、あなたの子供の母になることが望みだと、さらに積極的に訴えている。 この積極性はかず子の性格によるというより、作者と太田静子との現実の関係が、色濃く反映した結果と考えたほうがいいのではないか。静子が積極的だという意味ではなく、作者と静子との関係という事実が、この作品に影響を与えているのではないかということである。年譜(1999年筑摩書房版『太宰治全集第13巻』所収・山内祥史氏作成)による(昭和22年3月中旬の項目を除く)と、太宰と静子との関係はつぎの通りである。 【昭和16年】 かず子が、上原と会う→上原を好きになる→上原の赤ちゃんがほしいと訴える、という話の筋は、逆から考えたほうがいいのではないか。太田静子との間に子供ができたという、作者の現実が先にあって、そこから作品のストーリーが作られたのではないか。かず子が上原に書いた手紙の唐突さと不自然さは、そこからきているのかもしれない。 しかし、そのように言うためには、かず子が上原に書いた三通の手紙を内容とする、『斜陽』四章が脱稿された昭和二二年四月頃までに、太宰は静子の妊娠を知っていなければならないことになる。太宰が静子の妊娠を知った時期については、次のような説がある。 (1)野原一夫の証言(当時新潮社の出版部員) (2)相馬正一『評伝 太宰治(第三部)』(筑摩書房1985年7月) 太宰が静子の妊娠を知ったのは、野原一夫、相馬正一とも昭和二二年三月中旬としており、主人公かず子の三通の手紙を内容とする『斜陽』四章の執筆以前に、太宰は静子の妊娠を知ったとみなされている。 なお、相馬正一「『斜陽日記』のオリジナリティー」(『国文学/解釈と教材の研究』学灯社1999年6月号)によれば、静子が太宰に宛てた書簡(昭和21年9月26日)には、「赤ちやんがほしい……。」とあり、太宰の静子宛返書(昭和21年10月上旬)にも、「私はあなた次第です。(赤ちやんの事も)」とある(太宰の返書は全集に収録されている)。 太宰が静子の妊娠を知ったのは、『斜陽』の主人公かず子が上原に宛てて、「あなたの赤ちゃんがほしい」と書いている、二通目の手紙を太宰が執筆した以前なのか。それとも、「私の望み。あなたの愛妾になって、あなたの子供の母になる事。」と書いている、三通目を執筆した以前なのか。それを確定することはできないとしても、静子が太宰の子供を望んでいて、太宰もそれに応えようとしていたことは、太宰と静子の手紙からもうかがえる。 『斜陽』は、「冬の花火」のテーマを敷衍した作品であるのと同時に、太田静子の日記と、作者と静子との現実の関係が、色濃く反映している作品であるといえる。 7 『斜陽』の母[1](かず子の母・母としてのかず子) 『斜陽』には三人の母がいる。 かず子の母は、かず子と東京西片町から伊豆の山荘に引越してくるとき、顔色がいままで見たこともなかったくらいに悪いと言われている。かず子の母は最初から、日に日に衰えていく存在だった。東京→伊豆という空間的な移動は、戦前(戦争)→戦後という時間的な移行を意味していた。そのことによって、かず子の母は、「古い時代と、新しい時代と、その二つの時代の感情を共に明瞭に理解する事のできる人」(「パンドラの匣」)として、戦後を刻印された存在だった。 かず子の母は、「冬の花火」の継母あさがたどり着いた、「津軽的なもの」「母的なもの」の否定を出発点としており、そのことがかず子の母を最初から、衰えていくだけの存在にしている。「津軽的なもの」「母的なもの」は、『津軽』の育ての母たけ→「冬の花火」の継母あさ→『斜陽』のかず子の母と姿を変えながら、肯定的な存在から滅んでいくものへと変貌していく。かず子の母はやがて、病気で死ぬことになるが、「母としてのかず子」「擬似的な母としての上原の妻」となって再生する。二人の母が誕生するために、かず子の母は死なざるをえなかったと言ってもいいかもしれない。この二人の母に、作者は戦後の希望を託していたようにみえる。 東京西片町から伊豆に引っ越してくるときの、母の「哀しい御病気」(かず子の言葉)について、母は、「神さまが私をいちどお殺しになつて、それから昨日までの私と違ふ私にして、よみがへらせて下さつた」と考えようとする。しかし、かず子は、イエスのような復活は人間にはできないと考える。「冬の花火」の主人公数枝は、戦争が終わったときのことを、負けたのではなく滅んだのだというが、かず子の母も同様に滅びる存在とみなされている。 ところで、かず子の、「人間にだけあるもの。それはね、ひめごと、といふものよ。」という言葉に対し、かず子の母がほんのり顔を赤くするのはなぜか。母の「ひめごと」とはなんだろうか。「冬の花火」で、継母あさの「秘密」が不倫だったこと、また、かず子が母に、「どこやらデカダンと紙一重のなまめかしさ」を感じていたことからみても、それと同様なことを指しているのかもしれない。 そして、「まさかお母さんに、私のやうな恥づかしい過去があるわけは無し、いや、それとも、何か。」とかず子が考えるように、母にも「恥ずかしい過去」=「ひめごと」があることが暗示されている。しかし、『斜陽』のかず子は母の「ひめごと」を知っても、「冬の花火」の数枝のようには絶望しない人物として描かれている。かず子は母を、戦後の日本と同じように、滅亡する存在と見ていて、その復活を自身に賭けているからである。 かず子の母は伊豆に行く前日に、夫の逝ったこの家で死んでしまいたいと言う。かず子も、私たちの人生は西片町の家を出た時に終わったと考える。弟の直治も遺書で、昔から西片町の家の奥の座敷で死にたいと思っていたと記している。 かず子一家にとって、それまで住んでいた東京西片町の家を出ることは、戦争によって日本が「滅亡」したのと同様に、一家の「滅亡」を意味すると考えられている。そして、母と直治は「滅亡」を免れることができないが、かず子は「滅亡」を受け入れず、「戦闘、開始」を宣言する。日本が「滅亡」から復活することを、作者はかず子に託しているといえる。 やがてかず子は、上原との子を妊娠したことで、勝利を手にしたと考える。かず子はそのことを、上原に宛てた最後の手紙の中で、次のように「道徳革命」と呼んでいる。 《私は、勝つたと思つてゐます。 「ヴィヨンの妻」の妻が、「人非人でもいいぢやないの。私たちは、生きてゐさへすればいいのよ。」と言うとき、この言葉は、家庭という関係の内だけで成立する論理を主張する、女という存在の強靭さを表現するものとなっている。しかし、「道徳革命」という言葉は、男の論理を表現するものでしかない。 「ヴィヨンの妻」の妻と同様、『斜陽』のかず子にも、女という存在が持つ論理(よい子を生む)を主張する強靭さはあった。しかし、「道徳革命」というような社会性(男の論理)を主張することで、この作品からは切実さが急速に失われていく。 しかも、かず子の手紙の言葉はすでに、『新ハムレツト』(昭和16年5月)のオフヰリヤの言葉として、「もういまでは、ハムレツトさまのお子さまを産んで、丈夫に育てるといふ希望だけで胸が一ぱいでございます。あたしは、いまは幸福です。」「ハムレツトさまに捨てられても、あたしは、子供と二人で毎日たのしく暮して行けます。」と語られており、必ずしも戦後的な言説といえるものではなかった。 『斜陽』のかず子も、「ヴィヨンの妻」の妻と同じように、「道徳革命」ではなく、「人非人でもいいぢやないの。」と言うべきではなかったのか。太宰は、「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」(『右大臣実朝』)と書いていた。かず子の「道徳革命」は、「ホロビノ姿」としての「アカルサ」以外ではなかった。 8 『斜陽』の母[2](上原の妻) かず子 = 上原 上原の妻に対する直治の思いは、上原に対するかず子の思いより精神的なものであるといえる。作品『津軽』では、主人公と育ての母たけが遠く離れていたため、主人公はたけと、精神的にはもっとも近い母と子の関係を仮構することができた。同じような理由で、直治も上原の妻との間に、母と子のような親密な関係を仮構することができたのである。直治は姉のかず子に宛てた遺書で、上原の妻とのことを、「秘密」として次のように書いている。 《姉さん。 『津軽』の中で、主人公が育ての母たけと再会する場面と同様、親和的な雰囲気に満ちた場面である。『津軽』の主人公と同じように、それが直治の夢でしかないとしても、である。『津軽』と異なるところは、直治と上原の妻の、母と子のような親密な関係が、作品の遠景としてしか存在できないほど縮小していることである。戦後の現実に対する作者の意識が、母と子のような関係を遠くに追いやっているからに違いない。そのような関係を、仮構する余裕がなくなっているともいえる。 かず子には弟の直治という橋渡しがあるので、かず子は直治を介して上原と結びつくことができる。ところが直治には、直治を上原の妻に橋渡しするものがないため、直治は上原の妻に一歩も近づくことができない。かず子も直治も、人と人を結びつける橋渡しを自己の内に欠いているという意味で、作者の性格をいくぶんかは受け継いでいるといえる。 上原の妻の、無償性といってもいいあり方は、後の「饗応夫人」や「眉山」に通じる無償性であり、『斜陽』後の作品世界のあり方を暗示している。 さらに、かず子は上原との子を、自殺した直治の子として、上原の妻に抱かせたいと考える。上原の妻は、かず子と上原との子を抱くことによって、擬似的に母となる。かず子は、上原に宛てた最後の手紙でこう書いている。 《いまの世の中で、一ばん美しいのは犠牲者です。 かず子は手紙にこう書くことで、何を意図しているのだろうか。上原の妻は、自分の夫とよその女(かず子)との子を、自分を思っていた男(直治)の子として抱くことになる。作者は上原の妻の姿に、かず子が最後の手紙で書いている「聖母子」のイメージを与えようとしているのではないか。ここには「母的なもの」の死と再生の、最終的なイメージが暗示されている。 9 『斜陽』後の作品世界 《夫のお友達の方から伺つたところに依ると、その女のひとは、夫の以前の勤め先の、神田の雑誌社の二十八歳の女記者で、私が青森に疎開してゐたあひだに、この家へ泊りに来たりしてゐたさうで、妊娠とか何とか、まあ、たつたそれくらゐの事で、革命だの何だのと大騒ぎして、さうして、死ぬなんて、私は夫をつくづく、だめな人だと思ひました。》 「私」はここで、『斜陽』の主人公の最後の手紙の、「こひしいひとの子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます。」という宣言を全否定していることになる。「おさん」の「私」はまた、「道徳も何もありやしない」「道徳なんてどうだつていい」とも言っており、『斜陽』の主人公の「道徳革命」という言説を否定している。 「ヴィヨンの妻」『斜陽』「おさん」という一連の作品はここで終わり、以後、女主人公が独白するという形の作品は書かれることはなかった。『斜陽』の世界は「おさん」によって否定されるが、『斜陽』後の作品には、『斜陽』の背後に隠されていた、上原の妻の無償性とでもいうべき世界が浮上してくる。 「饗応夫人」(昭和22年10月)「眉山」(昭和23年1月)には、この無償性の世界が極限の姿で描かれている。「饗応夫人」では、語り手の「私」が、主人公の「奥さま」の無償性に対して「底知れぬ優しさ」を感じ、人間というものは、他の動物と違った貴いものを持っているとはじめて知らされたと考える。「眉山」でも、語り手の「僕」は主人公のトシちゃんに、「底知れぬ優しさ」を感じる。 「饗応夫人」の「奥さま」や「眉山」のトシちゃんの、「底知れぬ優しさ」(無償性)とは次のようなことである。「饗応夫人」の主人公の「奥さま」は、戦争で南方に行った夫の消息が不明であるのに、自宅に押しかけてくる夫の知り合いやその仲間に対し、自分の健康を犠牲にしてまで世話を焼こうとする。同じように「眉山」の主人公、新宿の飲屋・若松屋の女中トシちゃんも、腎臓結核で身体が大儀であるのに、客の「僕」たちのために、無理をしてまで世話を焼いてくれる。 「春の枯葉」で発見し、その後の「ヴィヨンの妻」『斜陽』「おさん」で深められた、「底知れぬ優しさ」(無償性)を積極的に追求するというテーマは、「饗応夫人」「眉山」において極限的な姿で描かれている。それは、家庭(家族)という関係の内だけで成立する論理を主張できる、女という存在の強靭さを描いた作品の行き着いたところだった。 「底知れぬ優しさ」(無償性)という、女(母)の本質を描き切った太宰は、それ以降、「桜桃」(昭和23年2月)「家庭の幸福」(昭和23年2月)『人間失格』(昭和23年5月)などで、男(父)の本質を描こうとする。しかし、そこで描かれた男(父)とは、「子供より親が大事、と思ひたい。」(「桜桃」)、「家庭の幸福は諸悪の本(もと)。」(「家庭の幸福」)と言い、「私たちの知つてゐる葉ちやんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さへ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした。」(『人間失格』)と言われるような、疲れ果てた男(父)の姿でしかなかった。 「底知れぬ優しさ」(無償性)という女(母)の姿と対峙するような、「底知れぬ強さ」(無償性)という、太宰が求めていた男(父)の姿はついに描かれることはなかった。昭和二三年六月十三日深夜の、太宰治の死のほうが早く訪れてきたから、である。(了) (2007.5.24) (2013.12.9改訂) 【太宰治・作品論】
1 『人間失格』論1/2 2/2 |