3 『津軽』『お伽草紙』論
─────────────────────────────── 1 「信じるところに現実はある」
作品は直前の、育ての親との感動的な再会の場面で終っていてもよかったはずだ。しかし作者は、作品の中に身を乗り出すようにして、「私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。」と書き付けないではいられなかった。そのことは、結果的には作者が、虚飾をおこなっている、読者をだましていると意識していたことを示していた。そして、そうした意識の背後には、作者の「絶望」が横たわっていたのである。 作品『津軽』は、故郷の津軽を旅した(昭和十九年五月十二日〜六月五日)直後の、昭和十九年六月十五日に書き出され、七月末に書き上げられている(1990年筑摩書房版『太宰治全集第6巻』山内祥史氏解題による)。だが作品には、津軽の旅が直前の出来事であるようには書かれていない。「或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかつて一周した」(傍線・引用者)と記されているだけである。なぜか。こう書くことで作者は、現在も作者を支配している感情(それは津軽に対する失望感にほかならなかった)を、意識の奥底に仕舞い込んでしまいたかったに違いない。作者はこの旅によって、「絶望」をさらに深化させていたはずで、作品『津軽』は、津軽に対する失望によって仮構された世界だったといえる。作者がこの作品に対して、「虚飾」の意識を抱かざるを得なかったのはそのためである。「元気で行かう。絶望するな。」とは、作者がみずからに呼びかけている言葉にほかならなかった。 いったい作者は、津軽の何に失望していたのだろうか。「私」(作者)は旅に出た動機とその結果について、次のように語っている。
書かれたのが、育ての親越野たけとも三〇年ぶりに再会を果たした旅の後であることに注意すべきだろう。「私」(作者)はここで、「津軽人としての私をつかまうとする念願」で旅に出ながら、「生きかたの手本とすべき純粋の津軽人」を発見できなかった失望を語っている。「誰がどうしたとか、どなたが何とおつしやつたとか、私はそれには、ほとんど何もこだはるところが無かつたのである。」と言う「私」(作者)は、津軽の「現実」に、なによりも一方的に母と子の関係を仮構していた越野たけに失望していたに違いない。そのことはもちろん、「私」(作者)の側の問題でしかなかったのだが。その結果、「とにかく、現実は、私の眼中に無かつた。」と、津軽の「現実」を無視しているような言葉をさえ吐くようになるのである。 旅の手帳に二度も繰り返して書いたという、「信じるところに現実はあるのであつて、現実は決して人を信じさせる事が出来ない。」という言葉は、この作品の成り立ちを説明している。津軽の「現実」から、「現実は決して人を信じさせる事が出来ない」という言葉が生み出されたとすれば、「信じるところに現実はある」という言葉からは、作品『津軽』が生み出されたことになる。『津軽』は、「信じるところにある現実」として仮構された世界にほかならなかった。 それでは「私」(作者)が発見したという、「理由も形も何も無い、ひどく主観的なもの」とはなにか。「私」(作者)はそれを、「津軽人としての私」の「宿命とでもいふべきもの」だと言う。「私」(作者)は自己の資質を、自己の責任の及ばない、「宿命とでもいふべきもの」として捉えようとしているのである。 2 宿命
自分こそ「生粋の津軽人」だ、と「私」(作者)は主張したいに違いない。そして、「愛情の過度の露出」というものを、「生粋の津軽人」の特徴であるとして、そこに「東京の人」との違いを認めようとしている。それは後の、『人間失格』の主人公葉蔵の特徴でもあった資質、心と心を無限に通い合わせたいという強い願望によって、あふれ出す感情を抑え切れないような資質を指していた。もちろん葉蔵の周囲には、「東京の人」しか存在していなかったのだが。 「私」(作者)は、「愛情の過度の露出」という自己の資質を、「津軽人としての私」の「宿命」と考えようとしている。しかし作者は、そうした「津軽人としての私」を支えてくれるはずの、「生きかたの手本とすべき純粋の津軽人」を、現実の津軽では捜し出せなかったのではないか。「私」(作者)は、育ての親「たけ」と逢うことができなかったときの感想を、次のように述べている。
「有頂天で立てた計画」=「愛情の過度の露出」は現実と衝突し、「ちぐはぐな結果」しかもたらさない。「有頂天で立てた計画」とは、作品に即していえば津軽旅行の計画、なによりも育ての親「越野たけ」との再会の計画だったはずだ。けれどもそれは「私」(作者)に、失望(「ちぐはぐな結果」)しか与えなかったに違いない。「津軽人としての私」の「宿命」は、「ちぐはぐな結果」しかもたらさない、「具合のわるい宿命」でもあった。しかしそうした「具合のわるい宿命」は、「津軽人としての私」の「宿命」ではなく、「私」の個人的な「宿命」にほかならないと、「私」(作者)に気づかれている。 つまり、「私」(作者)は自己の性格の出自を、もっと個人的な「育ち」の中に見つけ出そうとしているのである。それで、久しぶりに逢った「たけ」が、「子供は?」「男? 女?」「いくつ?」、と「次から次と矢継早に質問を発する」のを見て、次のように考えるのである。
「私」は「たけ」の、「強くて不遠慮な愛情のあらはし方」と、自己の「愛情の過度の露出」が「似てゐる」こと、また、自己の性格が「津軽人としての私」にではなく、「金持ちの子供らしくないところ」に根差していることを発見している。「友」と共通なのもそのことだった。そしてそれが、「この悲しい育ての親の影響」だったと気づいて、「育ちの本質をはつきり知らされた。」と述べている。しかしそのことに「私」(作者)は、納得や喜びを感じているようには見えない。「絶望するな。」という最後の言葉は、このすぐ後に置かれている。「たけ」と逢って、「ああ、私は、たけに似てゐるのだと思つた。」と言ってみたり、叔母の写真を見て、「私は、似てゐると思つた。」(「思ひ出」昭和8年)と言ってみたりするのも、存在の根拠を求めて彷徨わざるを得なかった作者が、自己の拠りどころとして仮構したものに同一化しようとしている仕草にほかならなかった。 3 「お伽噺の主人公」 それでは『津軽』が、「信じるところにある現実」として仮構されるためには、どんな操作が必要だったのだろうか。東京から津軽へ空間的に移動することが、同時に、現在(大人)から過去(青年)へ時間的に移動することをも意味していることが必要だった。
「大人」から「青年」に時間的に遡行することによってしか、「信じるところにある現実」の仮構性は確保できなかった。「青年」とは、「用心深く」もなければ「他人行儀」でもない、親和的な心性の象徴だった。それは作品の言葉で、「愛情の過度の露出」とか「有頂天」とか言われているような心的な傾向を指していた。そしてそうした心性は、「見事に裏切られて、赤恥をか」くことにしかならないとされる。しかし作者はこの作品で、「人は、あてにならない、といふ発見」をする前の、「青年」のような心性を理想的な姿として描きたかったに違いない。「私」をはじめ登場人物は、「青年」に戻っているのである。 さらに「私」(作者)は、津軽地方の地勢、沿革、教育などについて知りたい人は、専門の研究家に聞くがよいと述べた上で、「私には、また別の専門科目があるのだ。世人は仮りにその科目を愛と呼んでゐる。人の心と人の心の触れ合ひを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追及した。」と語っている。作者は「愛」=「人の心と人の心の触れ合ひを研究する科目」を、作品『津軽』という、「信じるところにある現実」として仮構された世界で追及してみせたのである。その頂点にはいうまでもなく、育ての親「たけ」との再会の場面が置かれている。「私」は「たけ」に逢うために、運動会を行っている学校にやってくる。
「たけ」と逢う場面を仮構するための舞台が整えられつつあるといっていい。「信じるところにある現実」として仮構された作品の「現実」の上に、「たけ」との再会という、さらに仮構された「現実」を積み重ねるための舞台が、である。田圃の畦道→砂丘→砂丘の上の国民学校→学校の裏の運動場と辿っていくにしたがって、「私」は架空の舞台に近づいていく。そして運動会の様子を見て「呆然」とし、「夢見るやうな気持」になってしまう。そこでは、「昔と少しも変らぬ悲しいほど美しく賑やかな祭礼」が行われていたのである。作品は「私」(作者)の、「夢」の中の出来事となっていく。「行き着いた国の果の砂丘の上」という架空の舞台で、「お伽噺の主人公」になった「私」(作者)は、存分に「夢」を語るのである。
「私」(作者)は、「生みの母」は「たけ」のように、「不思議な安堵感を私に与へてはくれなかつた。」と述べた上で、「世の中の母といふもの」はその子に、「たけ」のような「甘い放心の憩ひを与へてやつてゐるものなのだらうか。」と問う。「たけ」という「信じるところにある現実」に、「私」(作者)の「夢」をそそぎこむために、「決して人を信じさせる事が出来ない現実」として、「生みの母」が持ち出されてきているといっていい。「たけ」は、「私」(作者)の「夢」をかなえてくれる人物でなければならないのだ。どうしてそんなことが可能だったのだろうか。「私」(作者)は「たけ」と、時間的(三〇年)にも空間的(津軽と東京)にも遠く離れていたために、精神的にはもっとも近い母と子の関係を仮構することができたのである。「夢」を仮構させたのが、「私」(作者)の「絶望」だったとしても、である。(『津軽』論了) 4 「瘤取り」 『お伽草紙』の中で作者は、絵本のお伽噺とは「全く別個の新しい物語」を子供に語る「父」として、またその物語を注釈する「私」として、二重に存在している。『お伽草紙』とは、お伽噺(絵本)→「父」の語る物語→「私」による注釈という経路で、現実の方に帰ってくる物語である。それに対して『津軽』は、「決して人を信じさせる事が出来ない現実」→「信じるところにある現実」→お伽噺(「たけ」との再会)という経路で、現実から遠ざかっていく物語だったのである。さらに、「父」の語る物語の主人公たちは、現実→夢→現実という道筋を辿ることになる。 つまり作品は、二重に現実の方に引っ張られていることになる。「父」の語る物語の内部では、主人公たちが現実の方に引っ張られており、さらに「父」の語る物語自体が、「私」によって現実の方に引っ張られている。『お伽草紙』は『津軽』のその後を描いた作品であるといえる。作者は作者自身の姿でもあった「お伽噺の主人公」を、現実の関係世界に引き戻して観察しているのである。 お伽噺(絵本)に出てくる人物は、個人として生きてはいない。だから無性格な存在なのだ。「父」の語る物語に出てくる人物は、具体的な個人として生きている。また、「アルトコロニ」ではなく、ちゃんと地名のある土地に住んでいる。ということは、性格として現れる「育ちの本質」を内に抱え込んだ存在であるということだ。このことによって、「悪い事をした人が悪い報いを受ける」(「瘤取り」)というお伽噺の世界は、「性格の悲喜劇」(同)という世界に変容する。その結果、「父」の語る物語の主人公たちの行為は、お伽噺とはまったく違った意味を与えられることになる。 最初の作品「瘤取り」の主人公の、右の頬に瘤を持っているお爺さんは、家庭にあってもつねに「浮かぬ顔」をしている。「もう、春だねえ。桜が咲いた。」とはしゃいでも、お婆さんや息子は興のないような返事をするだけである。お爺さんは、『津軽』の主人公が持っていた、「愛情の過度の露出」という性格を間違いなく受け継いでいる。しかし、「厳粛なるお婆さん」(妻)と「品行方正の聖人」(息子)のいる、「実に立派な家庭」の中では、いつも「浮かぬ気持」でいるしかなかった。お爺さんは、お婆さんや息子が住む現実から遊離してしまっていて、「孤独」なのだ。そのことがお爺さんを、現実から逃避する行為に走らせる。山へ柴刈りに行くという行為は、次のように描出されている。
お爺さんが山に登る目的は、「たきぎ拾ひ」のためというよりも、「楽しみ」のためである。お爺さんはそこで、家にいて「浮かぬ顔」をしているときとは別人のように、「楽しそうな顔」をしている。山に登るということは、お婆さんや息子のいる現実から逃れること、『津軽』の言葉で言えば、「決して人を信じさせる事が出来ない現実」から「信じるところにある現実」に上昇していくことを意味していた。お爺さんの性格と生活がそうさせているのは言うまでもない。右の頬の大きな瘤についても、お爺さんの孤独を慰める唯一の相手であるというように、お爺さんの生活の現実から説明されている。 その日もお爺さんは、岩の上で酒を飲みながら、日頃の「浮かぬ気持」を晴らしていた。そこへ春の夕立ち。お爺さんは林の中に逃げ込んで雨宿りをしていたが、いつの間にか眠ってしまう。気がつくと夜。お爺さんは驚いて、木の虚から這い出て行く。そして鬼の酒宴という、「この世のものとも思へぬ不可思議の光景」に出くわすことになるのである。しかし、お爺さんが眼をさましたところは、お爺さんの夢の中でしかなかった。鬼はお爺さんの夢の中にしか存在していない。 ところでお爺さんは、鬼が気持ち良さそうに酔っているのを見て、「胸の奥底から、妙なよろこばしさが湧いて出て」くるのを感じ、鬼に「親和の情」を抱くようになる。それで自分から、鬼の円陣のまんなかに飛び込んで、阿波踊りを軽妙に踊り抜くということになるのである。お爺さんは、「浮かぬ気持」をかかえて家庭にいるときとは違って、晴れ晴れとしている。お爺さんの鬱屈した思いが、こうした夢を見させているのである。しかしお伽噺とは違って、鬼に瘤を取られても、お爺さんはあまり嬉しそうな様子を見せない。 山に登ることが、お婆さんや息子のいる現実から逃避することを意味していたとするなら、山を降りることは、そうした現実へ復帰することを意味していた。お爺さんは山を降りる途中で、さっそく息子と出逢うことになる。そして、息子の聖人に「荘重に朝の挨拶」をされ、「ただまごついてゐる」のである。また、家に帰ってきても、「お婆さんの厳然たる態度に圧倒されて」、お爺さんは何も言えない。お爺さんは、息子やお婆さんという、「決して人を信じさせる事が出来ない現実」に「圧倒」されているのである。そして、二〇年ほど前に瘤ができたときと同じように、瘤がなくなったことに対しても、お婆さんや息子はあまり関心を示さない。「父」が語るこの一家の物語はこう終わっている。「結局、このお爺さんの一家に於いて、瘤の事などは何の問題にもならなかつたわけである。」、と。お爺さんが帰ってきた現実は、山に登る前と少しも変わっていなかったのである。ではお爺さん自身は変わったのだろうか。確かに変わったのだ。以前と少しも変わらない現実に帰ってくるという行為にこそ、お爺さんの変化を認めるべきではないだろうか。お爺さんは夢の中ではなく、この現実で生きていくしかないのである。 いっぽう左の頬に瘤を持っているお爺さんは、瘤を、「本当に、ジヤマツケなものとして憎み」、死んだっていいから小刀で切って落とそうかとまで思い詰めたりしている。前のお爺さんとは対照的に積極的なのだ。このお爺さんの家庭は、お爺さんが瘤のために「苦虫を噛みつぶしたやうな表情」をしているにもかかわらず、「少し蓮葉なくらゐいつも陽気に笑つてはしやいでゐる」妻と、「性質はいくらか生意気の傾向がある」娘がいつも何かと笑い騒ぎ、「まづ明るい印象」を人に与えている。やがてこのお爺さんは、右の頬に瘤を持っていたお爺さんから瘤がなくなったわけを聞かされ、自分も瘤を取ってもらおうと剣山の奥深くに入っていく。前のお爺さんにとって、山に登るという行為は、家にいるときの寂しさをまぎらすという消極的な意味しか持っていなかった。だがこのお爺さんにとって、それは、瘤を小刀で切り落とそうとするのと同じような積極的な意味を持つものだった。そしてその積極性が、右の頬にもうひとつ瘤をつけられるという「不幸」な結果を招いてしまう。 こうした結末から「私」は、次のような「教訓」を引き出している。
「私」の言説は総じて、「笑ひながら厳粛のことを語る。」(「狂言の神」昭和11年)といったふうに語られており、この場合もそのように読まれるべきだろう。何が「厳粛のこと」なのだろうか。「人間生活」という目に見えるもの(「悲喜劇」)の底には、個人の「育ちの本質」という目に見えないもの(「性格」)がいつも宿命のように流れているということ、このことが「厳粛のこと」なのだ。ふたりのお爺さんの違い(「悲喜劇」)は、「育ちの本質」(「性格」)の違いにほかならなかったのである。『津軽』で「育ちの本質」を発見したことが、この「瘤取り」には刻印されている。 5 「浦島さん」 浦島太郎は、「人は、なぜお互ひ批評し合はなければ、生きて行けないのだらう。」という疑問に捉えられている。そして、萩の花も小蟹も雁も私を「批評」しないのに、人間だけが何のかのと言う、うるさいものだ、と溜息をついている。そんなとき、助けてやった亀の、「竜宮には批評はありませんよ。」という一言に心をひかれ、竜宮に行く決心をする。そして竜宮ではじめて、「無限に許されてゐるといふ思想」を体験する。そこは「批評」というものがまったく存在しない世界だった。 人は人と関係するかぎり、相対化にさらされないわけにはいかない。「批評」とはそうした相対化のことにほかならなかった。しかし竜宮のように、「無限に許されてゐる」世界では、人は相対化のかわりに徹底的な孤独が与えられるだけである。相対化を受け入れることが生きることだとすれば、そこは関係の消失した死後の世界でしかなかった。浦島は、乙姫が幽かに笑っただけで無言のまま立ち去るのを見て、「真に孤独なお方」と感じる。だが亀は、「批評が気にならない者」には「孤独」など問題にならないと反論する。乙姫は既に死後の世界に住んでいたのである。「見渡す限り廃墟と言つていいくらゐの荒涼たる大広場」を歩いていく乙姫の様子は、次のように描かれている。
「批評」のない世界とは、関係の消失した(「たつたひとり」)死後の世界以外ではなかった。浦島は「無限に許されてゐる」幾日かを竜宮で過ごすが、そうした暮らしにも飽きるときがくる。
浦島は死後の世界から生の世界に戻ろうとしている。孤独を捨て、「陸上の人たち」の中に飛び込もうとしている。つまり、「無限に許されてゐる」世界から、「他人の批評」を気にしないではいられないような、「陸上の貧しい生活」に戻ろうとしているのである。しかし、浦島がその陸上で目にしたのは、竜宮以上に「荒涼たる」光景でしかなかった。作者が絵本から引用しているところによれば、「見渡す限り荒れ野原、人の影なく道もなく、松吹く風の音ばかり」(原文はカタカナでゴシック)というような光景だった。陸上は、「見渡す限り廃墟と言つていいくらゐの荒涼たる大広場」である竜宮とそっくりだったのである。浦島は帰ってきた陸上で、竜宮以上の孤独を感じたに違いない。 「父」の語る物語はここでいったん中断する。「私」が割り込んできて、長広舌をふるうことになるからである。浦島は、竜宮でもらった玉手箱を開けたために三〇〇歳のお爺さんになってしまうが、そのことを否定的に見ることに「深い疑念」を抱いていると、「私」は言う。それでパンドラの箱と比較しながら、様々な解釈を試みることになるのである。その結果、「浦島の三百歳が、浦島にとつて不幸であつたといふ先入感に依つて誤られて来た」ことに気がついたとして、「三百歳になつたのは、浦島にとつて、決して不幸ではなかつた(原文は傍点)のだ。」という結論を引き出し、作品の最後でつぎのように述べている。
「無限に許されてゐる」ためには、徹底的な「孤独」(死)が必要なことを、浦島は竜宮で知らされる。しかし、関係(生)を求めて帰ってきた陸上も、「孤独」を強いるところでしかなかった。浦島はいっさいの関係(生)を喪失してしまったのである。だが「私」は「先入感」を訂正しなければならない。浦島が「不幸」でなかったことを証明しなければならなかった。「忘却は、人間の救ひである。」という論理によって、「私」はそれを証明しようとしている。過去のすべてを「忘却」することで浦島は「救ひ」を得ている、と「私」は言いたいのだ。 「私」の言説によって、絵本の内容は改変される。「浦島は、それから十年、幸福な老人として生きたといふ。」、というように。中断していた「父」の語る物語は、この最後の一行につながって完結する。作者ははじめて、浦島を「生」を指向する人物として描いている。そして、竜宮にいたときに「幸福」を与えないで、この陸上でそれを与えている。なによりも作者は、浦島が「幸福な老人として生きた」ことを、「救ひ」であるとして肯定しているのである。作品『津軽』の「私」(作者)は、育ての親「たけ」と再会して、「無限に許されてゐる」体験をする。ここには、そうした夢を「忘却」することによって、この現実に生の意味を見出そうとしている作者がいる。 6 「カチカチ山」 その結果、「悪い事をした人が悪い報いを受ける」(「瘤取り」)というお伽噺の世界は、男と女の「性格の悲喜劇」(同)という問題に変換される。狸(男)は作者で兎(女)は世間、あるいは狸は夢で兎は現実、と言い換えることもできる。それではいったい、狸はどんな「性格」の持主だったのだろうか。そしてなぜ、「惨めな敗北を喫」せざるを得なかったのだろうか。狸は『津軽』の主人公と同じように、「愛情の過度の露出」という「性格」を所有していた。しかしそれはこの作品で、ずうずうしさ、独りよがり、自惚れ、思い込みというようなものとして、狸の存在を現実から遊離させるようにしか作用していない。そのために狸は兎(現実)に翻弄され、「敗北」するしかなかったのである。 「父」の語る物語の中のこの狸は、背中の大火傷に唐辛子を塗られて生死の境をさまよっていたが、十日も経たないうちに全快し、兎の庵に出かけていく。だが兎は狸を見て、「ひどく露骨にいやな顔」をする。「きたない! くさい! 死んぢまへ! といふやうな極度の嫌悪が、その時の兎の顔にありありと見えてゐる」のに、狸は一向に気がつかない。むしろ、「兎の眉をひそめた表情をも、これは自分の先日のボウボウ山の災難に、心を痛めてゐるのに違ひ無いと解し」て、お礼を述べたりしている始末である。こうした狸の振る舞いに対して、「私」(ここでは「作者」)はこう注釈している。
「私」はここでも、「笑ひながら厳粛のことを語る。」(「狂言の神」)という姿勢を崩していない。人と人との関係は限定されていて、決して「無限に許されてゐる」(「浦島さん」)ものではないということ、これがここで語られている「厳粛のこと」なのだ。作者はすでに、狸と兎のことを、男と女の問題にとどめておくことができなくなっている。狸の「おそるべき錯誤」とは、限定された関係を「無限に許されてゐる」と思い込んでいることにあった。狸は、「迷惑がられ、きたながられ、恐怖せられ」ていることに気付かない、「馬鹿者」でしかなかった。「愛情の過度の露出」は空転するだけである。そして狸は最後まで、兎(現実)を手に入れることができない。作者はこうした狸の振る舞いを、現実の方にいて冷静に観察しているのである。 しかし狸は、「好きなひとの傍にゐるといふ幸福感にぬくぬくとあたたまつてゐる様子」で、「ああ、まるで夢のやうだ。」などと勝手な独り言をつぶやいたりしている。そう、狸の「幸福感」など、狸の夢の中にしか存在していないのだ。やがて狸は兎の「憎悪感」によって、河口湖の底に沈められる。現実(「憎悪感」)によって、夢(「幸福感」)が「敗北」させられるのである。作品の最後で「私」は、狸が死ぬいまわの際に言った、「惚れたが悪いか」という一言をとりあげてこう結論している。
「無慈悲な兎」と「善良な狸」には、女と男、現実と夢、世間と作者というような普遍的な意味が与えられている。作者は、そうした兎(現実)に「惚れたが悪いか」と問い、悪いのだと答えているように見える。「愛情の過度の露出」は悪いのだと言っても同じことだ。そしてそのことがわからない者は、「他人の家に、憩ひの巣を期待する」「馬鹿者」でしかないとみなされているのである。作者はこの作品で、「敗北」するしかない自己の資質(狸)をとことん追いつめてみせたのである。 7 「舌切雀」 お爺さんの「消極性」は、「無口」ということに現れている。お爺さんはお婆さんに対して、いつも「ひどく低い声」でしか話をせず、しかも言葉の後半は口の中で澱んでいて、連れ添って十何年にもなるお婆さんにさえ言うことがよく聞き取れない。要するにお爺さんは、現実(お婆さん)との関係を拒否したいのだ。お爺さんはなぜ「無口」になったのか。そのことについて、舌を抜かれる前の雀と次のような会話を交わしている。
お爺さんの言い分はこうだ。自分は「本当の事を言ふために生れて来た」、だが、「世の中の人は皆、嘘つき」だから、自分の真価が発揮できる時機がくるまで「沈黙」しているのだ。お婆さんにもこう言っている。お前の言うことは気分本位のごまかしで、人の悪口だけだ、「おれをこんな無口な男にさせたのは、お前です。」、と。お爺さんはみずからの「消極性」を、「世の中の人」(お婆さん)のせいにしている。もちろんこうした発想こそ消極的と言わなければならない。 しかしお爺さんの「積極性」は、「世の中の人」(お婆さん)のような外部からではなく、お爺さん自身の内部から生まれてくる。それはまず、お爺さんの声の調子に現れる。お婆さんと話すときは、いつも聞き取れないような「低い声」しか出さなかったお爺さんが、若い女の声で話しかけてくる雀(お爺さんの夢の中の雀)とは、人が変わったみたいに「若やいだ声」でお喋りをはじめる。さらには、舌を抜かれていなくなった雀を、「何かに憑かれたみたいに」夢中で探しはじめる。それは、「生れてはじめての執拗な積極性」だった。お爺さんのこの雀探索について、「私」(ここでは「筆者(太宰)」)はこう説明している。
「私」はお爺さんの行動を、お爺さんの孤独感から説明しようとしている。お爺さんは、「自分の家にゐながら、他人の家にゐるやうな浮かない気分になつてゐるひと」として、癒されない孤独感を内に抱え込んでいた。ところが雀と出逢い、またそれを失ってみて、「胸中に眠らされてゐた何物か」が触発されるのを感じる。その時のお爺さんの気持ちは、「恋」という心理よりも「侘びしいもの」かもしれないと、「私」は考える。 やがてお爺さんは、探していた舌切雀と「すずめのお宿」で再会する。雀は「お照さん」と言い、お人形さんみたいな可愛い女の子の姿をしていた。その場面は、『津軽』の「私」が、育ての親「たけ」と再会する場面とそっくりだ。
『津軽』の「私」は、「たけ」を性の対象とすることができない。それで「たけ」との間に、精神的にはもっとも親密な母と子の関係を仮構することができたのである。同じようにお爺さんも、人形の「お照さん」を性の対象とすることができない。お爺さんが「お照さん」との間に、精神的な親和の関係を仮構することができたのもそのためである。雀によって触発されたお爺さんの気持ちは、性の関係が禁じられているという理由によって、「恋」より「侘びしいもの」であらざるを得なかったのである。 この作品が『津軽』と異なるのは、「すずめのお宿」が「普通のひとには見えない」、架空の場所(夢)として設定されていることである。お爺さんはその架空の場所から、お婆さんのいるこの現実世界に帰ってこざるを得ないのである。しかし、お爺さんにとって「自分の家」は、相変わらず「他人の家にゐるやうな浮かない気分」にさせるところでしかなかった。「現実は決して人を信じさせる事が出来ない」(『津軽』)のだった。それはなによりも、作者自身の気持ちだったに違いない。『津軽』を書いたときの「絶望」が甦ってきていたのかもしれない。そして「父」の語る物語の結末は、お伽噺(絵本)とは全く違ったものになっている。「すずめのお宿」に出掛けていったお婆さんは、金貨のいっぱいつまった大きな葛籠を背負ったまま凍死してしまう。お爺さんはこの金貨のおかげで間もなく仕官し、一国の宰相の地位まで昇りつめる。 お爺さんは「恋」(夢)を禁じられ、さらにはお婆さん(現実)をも奪い取られてしまう。作者に、帰るべき現実は信じられていないのだ。その結果、「仕官」のような「世間的価値」だけが、お爺さんには残されることになる。『津軽』の背後に作者の「絶望」が隠されていたように、「宰相」の背後にはお爺さんの「絶望」が隠されていたのである。(『お伽草紙』論了) |