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3 『津軽』『お伽草紙』論

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         1〜3:『 津  軽 』論 2001.01.31UP  2013.11.21更新(改訂版)
          4〜7:『お伽草紙』論 2001.11.19UP  2013.11.21更新(改訂版)

1 「信じるところに現実はある」
『津軽』はつぎの言葉で終っている。

《まだまだ書きたい事が、あれこれとあつたのだが、津軽の生きてゐる雰囲気は、以上でだいたい語り尽したやうにも思はれる。私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。》

作品は直前の、主人公の「私」と育ての親「たけ」との、感動的な再会の場面で終っていてもよかったはずだ。しかし、作者の太宰治は、作品の中に身を乗り出すようにして、「私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。」と、書きつけないではいられなかった。そのことは、結果的には作者が、虚飾を行っているのではないか、読者をだましているのではないか、と意識していたことを示していた。そして、そうした意識の背後には、作者の「絶望」が横たわっていたのである。

『津軽』は、作者が故郷の津軽を旅した(昭和十九年五月十二日〜六月五日)直後の、昭和十九年六月十五日に書き出され、七月末に書き上げられている(1990年筑摩書房版『太宰治全集第6巻』山内祥史氏解題による)。だが作品には、津軽の旅が、直前の出来事であるようには書かれていない。「或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかつて一周した」(傍線・引用者)と記されているだけである。なぜか。こう書くことで、作者は、現在も作者を支配している感情(それは津軽に対する失望感にほかならなかった)を、意識の奥底に仕舞い込んでしまいたかったに違いない。

作品『津軽』は、作者の、津軽に対する失望によって仮構された世界だったといえる。作者がこの作品に対して、「虚飾」の意識を抱かざるを得なかったのはそのためである。「元気で行かう。絶望するな。」とは、作者がみずからに呼びかけている言葉にほかならなかった。

作者はいったい、津軽の何に失望していたのだろうか。主人公の「私」は、旅に出た動機とその結果について、次のように語っている。

《都会人としての私に不安を感じて、津軽人としての私をつかまうとする念願である。言ひかたを変へれば、津軽人とは、どんなものであつたか、それを見極めたくて旅に出たのだ。私の生きかたの手本とすべき純粋の津軽人を捜し当てたくて津軽へ来たのだ。さうして私は、実に容易に、随所に於いてそれを発見した。誰がどうといふのではない。乞食姿の貧しい旅人には、そんな思ひ上つた批評はゆるされない。それこそ、失礼きはまる事である。私はまさか個人々々の言動、または私に対するもてなしの中に、それを発見してゐるのではない。そんな探偵みたいな油断のならぬ眼つきをして私は旅をしてゐなかつたつもりだ。私はたいていうなだれて、自分の足もとばかり見て歩いてゐた。けれども自分の耳にひそひそと宿命とでもいふべきものを囁かれる事が実にしばしばあつたのである。私はそれを信じた。私の発見といふのは、そのやうに、理由も形も何も無い、ひどく主観的なものなのである。誰がどうしたとか、どなたが何とおつしやつたとか、私はそれには、ほとんど何もこだはるところが無かつたのである。それは当然の事で、私などには、それにこだはる資格も何も無いのであるが、とにかく、現実は、私の眼中に無かつた。「信じるところに現実はあるのであつて、現実は決して人を信じさせる事が出来ない。」といふ妙な言葉を、私は旅の手帖に、二度も繰り返して書いてゐた。》

この文章が書かれたのが、作者と育ての親越野たけが、三〇年ぶりに再会を果たした旅の後であることに注意すべきだろう。「私」(作者)はここで、「津軽人としての私」をつかもうとする念願で旅に出ながら、「生きかたの手本とすべき純粋の津軽人」を発見できなかった失望を語っている。「誰がどうしたとか、どなたが何とおつしやつたとか、私はそれには、ほとんど何もこだはるところが無かつたのである。」と「私」は語っているが、津軽の「現実」に、なによりも一方的に母と子の関係を仮構していた、越野たけに失望していたに違いない。そのことはもちろん、「私」(作者)の側の問題でしかなかったのだが。その結果、「とにかく、現実は、私の眼中に無かつた。」と、「私」は 、津軽の「現実」を無視するような言葉をさえ吐くようになるのである。

「私」が旅の手帳に二度も繰り返して書いたという、「信じるところに現実はあるのであつて、現実は決して人を信じさせる事が出来ない。」という言葉は、この作品の成り立ちを説明している。津軽の「現実」から、「現実は決して人を信じさせる事が出来ない」という言葉が生み出されたとすれば、「信じるところに現実はある」という言葉からは、作品『津軽』が生み出されたことになる。『津軽』は、「信じるところにある現実」として仮構された世界にほかならなかった。

それでは、「私」が「純粋の津軽人」として発見したという、「理由も形も何も無い、ひどく主観的なもの」とはなにか。「私」はそれを、「津軽人としての私」の「宿命とでもいふべきもの」だと言う。「私」(作者)は自己の資質を、自己の責任の及ばない、「宿命とでもいふべきもの」として捉えようとしているのである。


2 「愛情の過度の露出」
主人公の「私」は、青森の病院の蟹田分院事務長をしている、初対面の「Sさん」の家に招かれる。そして、そこで「疾風怒涛の如き接待」を受け、「私」(作者)は、「私自身の宿命」を知らされたような気がするとして、次のように述べている。

《読者もここに注目をしていただきたい。その日のSさんの接待こそ、津軽人の愛情の表現なのである。しかも、生粋(きつすゐ)の津軽人のそれである。これは私に於いても、Sさんと全く同様な事がしばしばあるので、遠慮なく言ふ事が出来るのであるが、友あり遠方より来た場合には、どうしたらいいかわからなくなつてしまふのである。ただ胸がわくわくして意味も無く右往左往し、さうして電灯に頭をぶつけて電灯の笠を割つたりなどした経験さへ私にはある。食事中に珍客があらはれた場合に、私はすぐに箸を投げ出し、口をもぐもぐさせながら玄関に出るので、かへつてお客に顔をしかめられる事がある。お客を待たせて、心静かに食事をつづけるなどといふ芸当は私には出来ないのである。さうしてSさんの如く、実質に於いては、到れりつくせりの心づかひをして、さうして何やらかやら、家中のもの一切合切持ち出して饗応しても、ただ、お客に閉口させるだけの結果になつて、かへつて後でそのお客に自分の非礼をお詫びしなければならぬなどといふ事になるのである。ちぎつては投げ、むしつては投げ、取つて投げ、果ては自分の命までも、といふ愛情の表現は、関東、関西の人たちにはかへつて無礼な暴力的なもののやうに思はれ、つひには敬遠といふ事になるのではあるまいか、と私はSさんに依つて私自身の宿命を知らされたやうな気がして、帰る途々、Sさんがなつかしく気の毒でならなかつた。津軽人の愛情の表現は、少し水で薄めて服用しなければ、他国の人には無理なところがあるかも知れない。東京の人は、ただ妙にもつたいぶつて、チヨツピリづつ料理を出すからなあ。ぶえんの平茸(ひらたけ)ではないけれど、私も木曽殿みたいに、この愛情の過度の露出のゆゑに、どんなにいままで東京の高慢な風流人たちに蔑視せられて来た事か。「かい給へ、かい給へや」とぞ責めたりける、である。》(傍線・引用者)

「私」(作者)は、 自分こそ「生粋の津軽人」だと主張したいに違いない。そして、「愛情の過度の露出」というものを、「生粋の津軽人」の特徴であるとして、そこに「東京の人」との違いを認めようとしている。それは後の、『人間失格』の主人公葉蔵の特徴でもあった資質、心と心を無限に通い合わせたいという強い願望によって、あふれ出す感情を抑え切れないような資質を指していた。もちろん、葉蔵の周囲には、「東京の人」しか存在していなかったのだが。

「私」(作者)は、「愛情の過度の露出」という自己の資質を、「津軽人としての私」の「宿命」と考えようとしている。しかし、作者はそうした「津軽人としての私」を支えてくれるはずの、「生きかたの手本とすべき純粋の津軽人」を、現実の津軽では捜し出せなかったのではないか。「私」(作者)は、育ての親「たけ」と逢うことができなかったときの感想を、次のように述べている。

《しかし、どうしても逢ふ事が出来ない。つまり、縁が無いのだ。はるばるここまでたづねて来て、すぐそこに、いまゐるといふ事がちやんとわかつてゐながら、逢へずに帰るといふのも、私のこれまでの要領の悪かつた生涯にふさはしい出来事なのかも知れない。私が有頂天で立てた計画は、いつでもこのやうに、かならず、ちぐはぐな結果になるのだ。私には、そんな具合のわるい宿命があるのだ。》(傍線・引用者)

「有頂天で立てた計画」は、「愛情の過度の露出」によって計画されたものであるため、現実と衝突し、「ちぐはぐな結果」しかもたらさない。それは、作品に即していえば、津軽旅行における育ての親「越野たけ」との再会の計画だったはずだ。しかし、その再会は「私」(作者)に、失望(「ちぐはぐな結果」)しか与えなかったに違いない。「津軽人としての私」の「宿命」は、「ちぐはぐな結果」しかもたらさない、「具合のわるい宿命」でもあった。ところが、そうした「具合のわるい宿命」は、「津軽人としての私」の「宿命」ではなく、「私」の個人的な「宿命」にほかならないと、「私」(作者)に気づかれている。

「私」(作者)は自己の性格の出所を、もっと個人的な「育ち」の中に見つけ出そうとしているのである。それで「私」は、久しぶりに逢った「たけ」が、「子供は?」「男? 女?」「いくつ?」と、矢継早に質問を発するのを見て、次のように考えるのである。

《私はたけの、そのやうに強くて不遠慮な愛情のあらはし方に接して、ああ、私は、たけに似てゐるのだと思つた。きやうだい中で、私ひとり、粗野で、がらつぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だつたといふ事に気附いた。私は、この時はじめて、私の育ちの本質をはつきり知らされた。私は断じて、上品な育ちの男ではない。だうりで、金持ちの子供らしくないところがあつた。見よ、私の忘れ得ぬ人は、青森に於けるT君であり、五所川原に於ける中畑さんであり、金木に於けるアヤであり、さうして小泊に於けるたけである。アヤは現在も私の家に仕へてゐるが、他の人たちも、そのむかし一度は、私の家にゐた事がある人だ。私は、これらの人と友である。》(傍線・引用者)

「私」は「たけ」の、「強くて不遠慮な愛情のあらはし方」と、自己の「愛情の過度の露出」が似ていること、また、自己の性格が「津軽人としての私」にではなく、「金持ちの子供らしくないところ」に根差していることを発見している。「友」と共通なのも、そのことだった。そして、そのことが、「この悲しい育ての親の影響」だったと気づいて、「私」は、「育ちの本質をはつきり知らされた。」と述べている。

しかし、そのことに「私」(作者)は、納得や喜びを感じているようには見えない。「絶望するな。」という最後の言葉は、このすぐ後に置かれている。「たけ」と逢って、「ああ、私は、たけに似てゐるのだと思つた。」と言ってみたり、叔母の写真を見て、「私は、似てゐると思つた。」(「思ひ出」昭和8年)と言ってみたりするのも、自己の存在根拠を求めて彷徨わざるを得なかった作者が、自己の拠りどころとして仮構したものと一体化しようとしていることの表れにほかならなかった。


3 「お伽噺の主人公」
『津軽』の背後に隠されていた作者の「絶望」は、後に『人間失格』の中で顕在化する。『津軽』が、「信じるところにある現実」として肯定的に明るく描かれた作品とすれば、『人間失格』は、「決して人を信じさせる事が出来ない現実」として否定的に暗く描かれた作品である。別の言い方もできる。『津軽』は、「津軽人としての私」の「宿命」とされた、「愛情の過度の露出」によって、「信じるところにある現実」として描かれた作品である。そして、その同じ「宿命」が、「ちぐはぐな結果」しかもたらさない「具合のわるい宿命」に変じたとき、「決して人を信じさせる事が出来ない現実」として『人間失格』が描かれた、というふうに。

それでは、『津軽』が「信じるところにある現実」として仮構されるためには、どんな操作が必要だったのだろうか。東京から津軽へ空間的に移動することが、同時に、現在(大人)から過去(青年)へ時間的に移動することをも意味していることが必要だった。

《大人(おとな)といふものは侘しいものだ。愛し合つてゐても、用心して、他人行儀を守らなければならぬ。なぜ、用心深くしなければならぬのだらう。その答は、なんでもない。見事に裏切られて、赤恥をかいた事が多すぎたからである。人は、あてにならない、といふ発見は、青年の大人に移行する第一課である。大人とは、裏切られた青年の姿である。》

「大人」から「青年」に時間的に遡行することによってしか、「信じるところにある現実」の仮構性は確保できなかった。「青年」とは、用心深くもなければ他人行儀でもない、親和的な心性の象徴だった。それは作品で、「愛情の過度の露出」とか「有頂天」とか言われているような、心的な傾向を指していた。そして、そうした心性は、見事に裏切られて、赤恥をかくことにしかならないとされる。しかし、作者はこの作品で、「人は、あてにならない、といふ発見」をする以前の、「青年」のような心性を理想的な姿として描きたかったに違いない。作中の「私」をはじめ登場人物は、「青年」に戻っているのである。

さらに「私」(作者)は、津軽地方の地勢、沿革、教育などについて知りたい人は専門の研究家に聞くがよいと述べた上で、「私には、また別の専門科目があるのだ。世人は仮りにその科目を愛と呼んでゐる。人の心と人の心の触れ合ひを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追及した。」と語っている。作者は、「愛」=「人の心と人の心の触れ合ひを研究する科目」を、作品『津軽』という、「信じるところにある現実」として仮構された世界で追及してみせたのである。その頂点にはいうまでもなく、育ての親「たけ」との再会の場面が置かれている。「私」は「たけ」に逢うために、運動会を行っている学校にやってくる。

《教へられたとほりに行くと、なるほど田圃があつて、その畦道を伝つて行くと砂丘があり、その砂丘の上に国民学校が立つてゐる。その学校の裏に廻つてみて、私は、呆然とした。こんな気持をこそ、夢見るやうな気持といふのであらう。本州の北端の漁村で、昔と少しも変らぬ悲しいほど美しく賑やかな祭礼が、いま目の前で行はれてゐるのだ。まづ、万国旗。着飾つた娘たち。あちこちに白昼の酔つぱらひ。さうして運動場の周囲には、百に近い掛小屋がぎつしりと立ちならび、いや、運動場の周囲だけでは場所が足りなくなつたと見えて、運動場を見下せる小高い丘の上にまで筵(むしろ)で一つ一つきちんとかこんだ小屋を立て、さうしていまはお昼の休憩時間らしく、その百軒の小さい家のお座敷に、それぞれの家族が重箱をひろげ、大人は酒を飲み、子供と女は、ごはん食べながら、大陽気で語り笑つてゐるのである。日本は、ありがたい国だと、つくづく思つた。たしかに、日出づる国だと思つた。国運を賭しての大戦争のさいちゆうでも、本州の北端の寒村で、このやうに明るい不思議な大宴会が催されて居る。古代の神々の豪放な笑ひと濶達な舞踏をこの本州の僻陬に於いて直接に見聞する思ひであつた。海を越え山を越え、母を捜して三千里歩いて、行き着いた国の果の砂丘の上に、華麗なお神楽が催されてゐたといふやうなお伽噺の主人公に私はなつたやうな気がした。》(傍線・引用者)

主人公の「私」が、「たけ」と逢う場面を仮構するための舞台が、整えられつつあるといっていい。「信じるところにある現実」として仮構された作品の「現実」の上に、「たけ」との再会という、さらに仮構された「現実」を積み重ねるための舞台が、である。田圃の畦道→砂丘→砂丘の上の国民学校→学校の裏の運動場と辿っていくにしたがって、「私」は架空の舞台に近づいていく。そして、運動会の様子を見て呆然とし、「夢見るやうな気持」になってしまう。そこでは、「昔と少しも変らぬ悲しいほど美しく賑やかな祭礼」が行われていたのである。

作品は「私」(作者)の、「夢」の中の出来事となっていく。「行き着いた国の果の砂丘の上」という架空の舞台で、「お伽噺の主人公」になった「私」(作者)は、存分に「夢」を語るのである。

《たけが出て来た。たけは、うつろな眼をして私を見た。
「修治だ。」私は笑つて帽子をとつた。
「あらあ。」それだけだつた。笑ひもしない。まじめな表情である。でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないやうな、へんに、あきらめたやうな弱い口調で、「さ、はひつて運動会を。」と言つて、たけの小屋に連れて行き、「ここさお坐りになりせえ。」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言はず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちやんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見てゐる。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまつてゐる。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に一つも思ふ事が無かつた。もう、何がどうなつてもいいんだ、といふやうな全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持の事を言ふのであらうか。もし、さうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を体験したと言つてもよい。先年なくなつた私の生みの母は、気品高くおだやかな立派な母であつたが、このやうな不思議な安堵感を私に与へてはくれなかつた。世の中の母といふものは、皆、その子にこのやうな甘い放心の憩ひを与へてやつてゐるものなのだらうか。さうだつたら、これは、何を置いても親孝行をしたくなるにきまつてゐる。そんな有難い母といふものがありながら、病気になつたり、なまけたりしてゐるやつの気が知れない。親孝行は自然の情だ。倫理ではなかつた。》

「私」(作者)は、「生みの母」は「たけ」のように、「不思議な安堵感を私に与へてはくれなかつた。」と述べている。その上で、「世の中の母といふもの」はその子に、「たけ」のような「甘い放心の憩ひ」を与えてやっているものなのだろうかと問う。「たけ」という「信じるところにある現実」に、「私」(作者)の「夢」をそそぎこむために、「決して人を信じさせる事が出来ない現実」として、「生みの母」が持ち出されてきているといっていい。

「たけ」は「私」(作者)の「夢」を、かなえてくれる人物でなければならないのだ。どうしてそんなことが可能だったのだろうか。「私」(作者)は「たけ」と、時間的(三〇年)にも空間的(津軽と東京)にも遠く離れていたために、精神的にはもっとも近い母と子の関係を仮構することができたのである。「夢」を仮構させたのが、「私」(作者)の「絶望」だったとしても、である。(『津軽』論了)
                         (2001.1.27)  (2013.11.21改訂)


4 「瘤取り」
『津軽』の主人公の「私」は、育ての母と再会して、「私の育ちの本質」というべきものを発見する。それから一年後の『お伽草紙』(昭和20年6月)には、個人の「育ちの本質」が「性格の悲喜劇」となって、「人間生活」の表面に現れてくる様子が描かれている。しかしそこでは、『津軽』のように、作者自身が「お伽噺の主人公」になることはなかった。作者はあくまでも、「お伽噺の主人公」を書く位置にとどまっていて、その主人公の振る舞いを冷静に観察しているのである。

作者は『お伽草紙』の中で、絵本のお伽噺とは「全く別個の新しい物語」を子供に語る「父」として、また、その物語を注釈する「私」として、二重に存在している。『お伽草紙』は、お伽噺(絵本)→「父」の語る物語→「私」による注釈という経路で、現実世界に戻ってくる物語である。それに対して『津軽』は、「決して人を信じさせる事が出来ない現実」→「信じるところにある現実」→お伽噺(「たけ」との再会)という経路で、現実世界から遠ざかっていく物語だったのである。さらに『お伽草紙』では、「父」の語る物語の中で、主人公たちは、現実→夢→現実という道筋を辿ることになる。

『お伽草紙』という作品は、現実の方に二重に引っ張られていることになる。「父」の語る物語の内部では、主人公たちが現実の方に引っ張られており、さらに「父」の語る物語自体が、「私」によって現実の方に引っ張られている。『お伽草紙』は、『津軽』のその後を描いた作品であるといえる。作者は作者自身の姿でもあった、『津軽』の「お伽噺の主人公」を、現実の関係世界に引き戻して観察しているのである。

お伽噺(絵本)に出てくる人物は、個人として生きてはいない。だから無性格な存在である。「父」の語る物語に出てくる人物は、具体的な個人として生きている。そのため、「アルトコロニ」ではなく、ちゃんと地名のある土地に住んでいる。ということは、性格として現れる「育ちの本質」を内に抱え込んだ存在であるということになる。このことによって、「悪い事をした人が悪い報いを受ける」(「瘤取り」)というお伽噺の世界は、「性格の悲喜劇」(同)という世界に変容する。その結果、「父」の語る物語の主人公たちの行為は、お伽噺とはまったく違った意味を与えられることになる。

最初の作品「瘤取り」の主人公の、右の頬に瘤を持っているお爺さんは、家庭にあってもつねに「浮かぬ顔」をしている。お爺さんが、「もう、春だねえ。桜が咲いた。」とはしゃいでも、お婆さんや息子は興のないような返事をするだけである。お爺さんは、『津軽』の主人公が持っていた「愛情の過度の露出」という性格を、間違いなく受け継いでいる。しかし、「厳粛なるお婆さん」(妻)と「品行方正の聖人」(息子)のいる、「実に立派な家庭」の中では、いつも「浮かぬ気持」でいるしかなかった。

お爺さんは、お婆さんや息子の住む現実から遊離していて、「孤独」なのだ。そのことがお爺さんを、現実から逃避する行為に走らせる。山へ柴刈りに行くというお爺さんの行為は、次のように描出されている。

《このお爺さんの楽しみは、お天気のよい日、腰に一瓢をさげて、剣山にのぼり、たきぎを拾ひ集める事である。いい加減、たきぎ拾ひに疲れると、岩上に大あぐらをかき、えへん! と偉さうに咳ばらひを一つして、
「よい眺めぢやなう。」
 と言ひ、それから、おもむろに腰の瓢のお酒を飲む。実に、楽しさうな顔をしてゐる。うちにゐる時とは別人の観がある。》(傍線・引用者)

お爺さんが山に登る目的は、たきぎ拾いのためというよりも、「楽しみ」のためである。お爺さんはそこで、家にいて「浮かぬ顔」をしているときとは別人のような、「楽しそうな顔」をしている。山に登るということは、お婆さんや息子のいる現実から逃れること、『津軽』の言葉で言えば、「決して人を信じさせる事が出来ない現実」から、「信じるところにある現実」に上昇していくことを意味していた。お爺さんの性格と生活が、そうさせているのは言うまでもない。右の頬の大きな瘤についても、お爺さんの孤独を慰める唯一の相手であるというように、お爺さんの生活の現実から説明されている。

その日もお爺さんは、岩の上で酒を飲みながら、日頃の「浮かぬ気持」を晴らしていた。そこへ春の夕立ち。お爺さんは林の中に逃げ込んで、雨宿りをしていたが、いつの間にか眠ってしまう。気がつくと夜。お爺さんは驚いて、木の虚(うろ)から這い出て行く。そしてそこで、鬼の酒宴という、「この世のものとも思へぬ不可思議の光景」に出くわすことになるのである。しかし、お爺さんが眼をさましたところは、お爺さんの夢の中でしかなかった。鬼はお爺さんの夢の中にしか存在していない。

お爺さんは、鬼が気持ち良さそうに酔っているのを見て、胸の奥底から妙な喜ばしさが湧いて出てくるのを感じ、鬼に「親和の情」を抱くようになる。それで自分から、鬼の円陣のまんなかに飛び込んで、阿波踊りを軽妙に踊り抜くということになるのである。お爺さんは、「浮かぬ気持」をかかえて家庭にいるときとは違って、晴れ晴れとしている。お爺さんの鬱屈した思いが、こうした夢を見させているのである。しかし、お伽噺とは違って、鬼に瘤を取られても、お爺さんはあまり嬉しそうな様子を見せない。

お爺さんの場合、山に登ることが現実からの逃避を意味していたとするなら、山を降りることは現実への復帰を意味していた。翌日の朝、お爺さんは山を降りる途中で息子と出逢うが、息子の聖人に荘重に朝の挨拶をされ ても、ただまごついているだけである。また、家に帰ってきても、お婆さんの厳然たる態度に圧倒されて、お爺さんは何も言えない。お爺さんは、息子やお婆さんという、「決して人を信じさせる事が出来ない現実」に「圧倒」されているのである。そして、二〇年ほど前に、お爺さんの頬に瘤ができたときと同じように、その瘤がなくなったことに対しても、お婆さんや息子はあまり関心を示さない。

「父」が語るこの一家の物語は、次のような言葉で終わっている。「結局、このお爺さんの一家に於いて、瘤の事などは何の問題にもならなかつたわけである。」、と。お爺さんが帰ってきた現実は、山に登る前と少しも変わっていなかったのである。では、お爺さん自身は変わったのだろうか。確かに変わったのだ。以前と少しも変わらない現実に、帰ってくるという行為にこそ、お爺さんの変化を認めるべきではないだろうか。お爺さんは夢の中ではなく、この現実で生きていくしかないのである。

いっぽう、左の頬に瘤を持っているお爺さんは、瘤を本当にジャマッケなものとして憎み、死んだっていいから小刀で切って落とそうかとまで思い詰めたりしている。前のお爺さんとは対照的に積極的なのだ。この左の頬に瘤を持っているお爺さんの家庭は、お爺さんが瘤のために、苦虫を噛みつぶしたような表情をしているにもかかわらず、いつも陽気に笑ってはしゃいでいる妻と、性質はいくらか生意気な娘が、いつも何かと笑い騒ぎ、明るい印象を人に与えている。

やがて、この左の頬に瘤を持っているお爺さんは、右の頬に瘤を持っていたお爺さんから、瘤がなくなったわけを聞かされ、自分も瘤を取ってもらおうと剣山の奥深くに入っていく。右の頬に瘤を持っていたお爺さんにとって、山に登るという行為は、家にいるときの寂しさをまぎらすという消極的な意味しか持っていなかった。だが、左の頬に瘤を持っているお爺さんにとって、そのことは、瘤を小刀で切り落とそうとするのと同じような積極的な意味を持つものだった。そして、その積極性が、右の頬にもうひとつ瘤をつけられるという「不幸」な結果を招いてしまう。

こうした結末から、「私」は次のような「教訓」を引き出している。

《実に、気の毒な結果になつたものだ。お伽噺に於いては、たいてい、悪い事をした人が悪い報いを受けるといふ結末になるものだが、しかし、このお爺さん(左の頬に瘤を持っているお爺さん・引用者)は別に悪事を働いたといふわけではない。緊張のあまり、踊りがへんてこな形になつたといふだけの事ではないか。それかと言つて、このお爺さんの家庭にも、これといふ悪人はゐなかつた。また、あのお酒飲みのお爺さんも、また、その家庭も、または、剣山に住む鬼どもだつて、少しも悪い事はしてゐない。つまり、この物語には所謂「不正」の事件は、一つも無かつたのに、それでも不幸な人が出てしまつたのである。それゆゑ、この瘤取り物語から、日常倫理の教訓を抽出しようとすると、たいへんややこしい事になつて来るのである。それでは一体、何のつもりでお前はこの物語を書いたのだ、と短気な読者が、もし私に詰寄つて質問したなら、私はそれに対してかうでも答へて置くより他はなからう。
 性格の悲喜劇といふものです。人間生活の底には、いつも、この問題が流れてゐます。 》(傍線・引用者)

「私」の言説は総じて、「笑ひながら厳粛のことを語る。」(「狂言の神」昭和11年)といったふうに語られており、この場合もそのように読まれるべきだろう。何が「厳粛のこと」だろうか。「人間生活」という目に見えるもの(「悲喜劇」)の底には、個人の「育ちの本質」という目に見えないもの(「性格」)が、いつも宿命のように流れているということ、このことが「厳粛のこと」だと作者は言いたいようにみえる。ふたりのお爺さんの違い(「悲喜劇」)は、「育ちの本質」(「性格」)の違いにほかならなかったのである。『津軽』で「育ちの本質」を発見したことが、この「瘤取り」には刻印されている。


5 「浦島さん」
二つ目の作品「浦島さん」も、現実を離脱した主人公が、再び現実に戻ってくる話である。しかし、「瘤取り」のお爺さんように、以前と変わらない現実に戻ってくるわけではなかった。現実は、主人公の浦島太郎が竜宮にいるあいだに、おおきな変貌を遂げてしまう。「瘤取り」のお爺さんが山に登ることは、現実からの空間的な離脱だった。だが、浦島が竜宮に行くことは、現実からの時間的な離脱である。竜宮とは死後の世界を意味していた。

浦島は、人はなぜ、お互い「批評」し合わなければ生きて行けないのだろう、という疑問に捉えられている。萩の花も小蟹も雁も、私を「批評」しないのに、人間だけが何のかのと言う、うるさいものだと溜息をついている。そんなとき、助けてやった亀の、竜宮には「批評」はないという一言に心をひかれ、浦島は竜宮に行く決心をする。そして、竜宮ではじめて、「無限に許されてゐるといふ思想」を体験する。そこは「批評」というものが、まったく存在しない世界だった。

人は人と関係するかぎり、相対化にさらされないわけにはいかない。「批評」とはそうした、相対化のことにほかならなかった。しかし、竜宮のように「無限に許されてゐる」世界では、人は相対化のかわりに、徹底的な孤独が与えられるだけである。相対化を受け入れることが、生きることだとすれば、竜宮は人と人との関係が消失した死後の世界でしかなかった。浦島は乙姫が、幽かに笑っただけで無言のまま立ち去るのを見て、「真に孤独なお方」と感じる。だが亀は、「批評」が気にならない者には、「孤独」など問題にならないと反論する。乙姫は既に、死後の世界に住んでいたのである。

見渡す限り廃墟のような、荒涼たる大広場を歩いていく乙姫の様子は、次のように描かれている。

《乙姫は、ひとりで黙つて歩いてゐる。薄みどり色の光線を浴び、すきとほるやうなかぐはしい海草のやうにも見え、ゆらゆら揺蕩しながらたつたひとりで歩いてゐる。》

「批評」のない世界とは、人と人との関係が消失した(「たつたひとり」)死後の世界以外ではなかった。浦島は竜宮で、「無限に許されてゐる」幾日かを過ごすが、そうした暮らしにも飽きるときがくる。

《さうして、浦島は、やがて飽きた。許される事に飽きたのかも知れない。陸上の貧しい生活が恋しくなつた。お互ひ他人の批評を気にして、泣いたり怒つたり、ケチにこそこそ暮してゐる陸上の人たちが、たまらなく可憐で、さうして、何だか美しいもののやうにさへ思はれて来た。》

浦島は死後の世界から、人々が生活している現実の世界に戻ろうとしている。孤独を捨て、陸上の人たちの中に飛び込もうとしている。「無限に許されてゐる」世界から、「他人の批評」を気にしないではいられないような、陸上の貧しい生活に戻ろうとしているのである。

しかし、浦島が、帰ってきた陸上で目にしたのは、竜宮以上に荒涼たる光景でしかなかった。作者が絵本から引用しているところによれば、「見渡す限り荒れ野原、人の影なく道もなく、松吹く風の音ばかり」(原文はカタカナでゴシック)というような光景だった。陸上は、廃墟のような荒涼たる大広場である竜宮と、そっくりだったのである。浦島は帰ってきた陸上で、竜宮にいたとき以上の孤独を感じたに違いない。

「父」の語る物語は、ここでいったん中断する。「私」が割り込んできて、長広舌をふるうことになるからである。浦島は竜宮でもらった玉手箱を開けたために、三〇〇歳のお爺さんになってしまうが、そのことを否定的に見ることに深い疑念を抱いていると、「私」は言う。それで、パンドラの箱と比較しながら、様々な解釈を試みることになるのである。その結果、「浦島の三百歳が、浦島にとつて不幸であつたといふ先入感に依つて誤られて来た」ことに気がついたとして、「三百歳になつたのは、浦島にとつて、決して不幸ではなかつた(原文は傍点)のだ。」という結論を引き出し、作品の最後でつぎのように述べている。

《貝殻の底に、「希望」の星があつて、それで救はれたなんてのは、考へてみるとちよつと少女趣味で、こしらへものの感じが無くもないやうな気もするが、浦島は、立ち昇る煙それ自体で救はれてゐるのである。貝殻の底には、何も残つてゐなくたつていい。そんなものは問題でないのだ。曰く、
  年月は、人間の救ひである。
  忘却は、人間の救ひである。
 竜宮の高貴なもてなしも、この素張らしいお土産に依つて、まさに最高潮に達した観がある。思ひ出は、遠くへだたるほど美しいといふではないか。しかも、その三百年の招来をさへ、浦島自身の気分にゆだねた。ここに到つても、浦島は、乙姫から無限の許可を得てゐたのである。淋しくなかつたら、浦島は、貝殻をあけて見るやうな事はしないだらう。どう仕様も無く、この貝殻一つに救ひを求めた時には、あけるかも知れない。あけたら、たちまち三百年の年月と、忘却である。これ以上の説明はよさう。日本のお伽噺には、このやうな深い慈悲がある。
 浦島は、それから十年、幸福な老人として生きたといふ。》(傍線・引用者)

「無限に許されてゐる」ためには、徹底的な「孤独」(死)が必要なことを、浦島は竜宮で知らされる。しかし、人と人との関係(生)を求めて帰ってきた陸上も、「孤独」を強いるところでしかなかった。浦島はいっさいの関係(生)を、喪失してしまったのである。だが、「私」は「先入感」を訂正しなければならない。浦島が「不幸」でなかったことを、証明しなければならなかった。「忘却は、人間の救ひである。」という論理によって、「私」はそれを証明しようとしている。過去のすべてを「忘却」することで、浦島は「救ひ」を得ていると、「私」は言いたいのだ。

「私」の言説によって、絵本の内容は改変される。「浦島は、それから十年、幸福な老人として生きたといふ。」、というように。中断していた「父」の語る物語は、この最後の一行につながって完結する。作者ははじめて、浦島を「生」を指向する人物として描いている。そして、竜宮にいたときに「幸福」を与えないで、この陸上でそれを与えている。作者はなによりも、浦島が「幸福な老人として生きた」ことを、「救ひ」であるとして肯定しているのである。

作品『津軽』の主人公の「私」は、育ての親「たけ」と再会して、「無限に許されてゐる」体験をする。ここには、そうした夢を「忘却」することによって、この現実で生きていくことに意味を見出そうとしている作者がいる。


6 「カチカチ山」
三つ目の作品「カチカチ山」は、「カチカチ山の物語に於ける兎は少女、さうしてあの惨めな敗北を喫する狸は、その兎の少女を恋してゐる醜男。これはもう疑ひを容れぬ厳然たる事実のやうに私には思はれる。」という、「私」の注釈の言葉で始まっている。それは、狸に対する兎の仕打ちが執拗すぎることに着目して得た、「私」の結論だった。そして、「父」はこの「私」の注釈に従って、お伽噺(絵本)とは「全く別個の新しい物語」を語ることになる。

その結果、「悪い事をした人が悪い報いを受ける」(「瘤取り」)というお伽噺の世界は、男と女の「性格の悲喜劇」(同)という問題に変換される。狸(男)は作者で兎(女)は世間、あるいは狸は夢で兎は現実、と言い換えることもできる。

それではいったい、狸はどんな「性格」の持主だったのだろうか。そしてなぜ、狸は「惨めな敗北」を喫せざるを得なかったのだろうか。狸は『津軽』の主人公と同じように、「愛情の過度の露出」といった「性格」を所有していた。しかし、この作品ではそのことが、ずうずうしさ、独りよがり、自惚れ、思い込みというようなものとして、狸の存在を現実から遊離させるようにしか作用していない。そのため、狸は兎(現実)に翻弄され、「敗北」するしかなかったのである。

「父」の語る物語の中で、この狸は兎から、背中の大火傷に唐辛子をべたべた塗られ、生死の境をさまよっていた。しかし、十日も経たないうちに全快し、兎の庵にのこのこ出かけていく。だが、兎は狸を見て、ひどく露骨にいやな顔をする。極度の嫌悪が、その時の兎の顔にありありと見えているのに、狸は一向に気がつかない。むしろ、兎の眉をひそめた表情を、自分の先日の大火傷に心を痛めている からに違いないと解して、お礼を述べたりしている。こうした狸の振る舞いに対して、「私」(ここでは「作者」)はこう注釈している。

《しかし、とかく招かれざる客といふものは、その訪問先の主人の、こんな憎悪感に気附く事はなはだ疎いものである。これは実に不思議な心理だ。読者諸君も気をつけるがよい。あそこの家へ行くのは、どうも大儀だ、窮屈だ、と思ひながら渋々出かけて行く時には、案外その家で君たちの来訪をしんから喜んでゐるものである。それに反して、ああ、あの家はなんて気持のよい家だらう、ほとんどわが家同然だ、いや、わが家以上に居心地がよい、我輩の唯一の憩(いこ)ひの巣だ、なんともあの家へ行くのは楽しみだ、などといい気分で出かける家に於いては、諸君は、まづたいてい迷惑がられ、きたながられ、恐怖せられ、襖の陰に帚など立てられてゐるものである。他人の家に、憩ひの巣を期待するのが、そもそも馬鹿者の証拠なのかも知れないが、とかくこの訪問といふ事に於いては、吾人は驚くべき思ひ違ひをしてゐるものである。格別の用事でも無い限り、どんな親しい身内の家にでも、矢鱈に訪問などすべきものでは無いかも知れない。作者のこの忠告を疑ふ者は、狸を見よ。狸はいま明らかに、このおそるべき錯誤を犯してゐるのだ。》

「私」(ここでは「作者」)はここでも、「笑ひながら厳粛のことを語る。」(「狂言の神」)という姿勢を崩していない。人と人との関係は限定されていて、「無限に許されてゐる」(「浦島さん」)ものではないということが、ここで語られている「厳粛のこと」である。

作者はすでに、狸と兎のことを、男と女の問題にとどめておくことができなくなっている。狸の「おそるべき錯誤」とは、限定された関係を「無限に許されてゐる」と思い込んでいることにあった。狸は、迷惑がられていることに気づかない、「馬鹿者」でしかなかった。「愛情の過度の露出」は空転するだけである。そして、狸は最後まで、兎(現実)を手に入れることができないが、作者はこうした狸の振る舞いを、現実の方にいて冷静に観察しているのである。

しかし、狸は、好きな人の傍にいるという「幸福感」にぬくぬくと温まっている様子で、「ああ、まるで夢のやうだ。」などと、勝手な独り言をつぶやいたりしている。狸の「幸福感」など、狸の夢の中にしか存在していないのである。やがて、狸は兎の「憎悪感」によって、河口湖の底に沈められる。現実(「憎悪感」)によって、夢(「幸福感」)が「敗北」させられるのである。「私」(ここでは「作者」)は作品の最後で、狸が死ぬいまわの際に言った、「惚れたが悪いか」という一言をとりあげて、こう結論している。

《女性にはすべて、この無慈悲な兎が一匹住んでゐるし、男性には、あの善良な狸がいつも溺れかかつてあがいてゐる。作者の、それこそ三十何年来の、頗る不振の経歴に徴して見ても、それは明々白々であつた。おそらくは、また、君に於いても。後略。》

「無慈悲な兎」と「善良な狸」には、女と男、現実と夢、世間と個人というような、普遍的な意味が与えられている。作者は、そうした兎(現実)に「惚れたが悪いか」と問い、悪いのだと答えているように見える。「愛情の過度の露出」は悪いのだ、と言っても同じことである。そして、そのことがわからない者は、他人の家に憩いの巣を期待するような「馬鹿者」でしかないとみなされている。作者はこの作品で、現実に対して「敗北」するしかない自己の資質(狸)を、とことんまで追いつめてみせたのである。


7 「舌切雀」
最後の作品「舌切雀」では、主人公のお爺さんが、「世間的価値がゼロに近い」人物として設定されている。お爺さんは定職にもつかず、読書はしても著述などしようとする気配も見せず、ただぼんやりしているだけである。ところが、可愛がっていた雀が、お婆さんに舌を抜かれていなくなってしまうと、「その消極性は言語に絶するものがある」と思われていたお爺さんが、「生れてはじめての執拗な積極性」を見せて、雀を探しはじめる。そして、そのことが契機となって、お爺さんは「世間的価値」の方に踏み出して行くことになる。この作品では、突然変化する人間心理の不思議さが描かれている。

お爺さんの「消極性」は、「無口」ということに現れている。お爺さんはお婆さんに対して、いつも「ひどく低い声」でしか話をしない。しかも、言葉の後半は口の中で澱んでいて、連れ添って十何年にもなるお婆さんにさえ言うことがよく聞き取れない。お爺さんは、現実(お婆さん)との関係を拒否したいのである。お爺さんはなぜ「無口」になったのか。そのことについて、お爺さんは舌を抜かれる前の雀と、次のような会話を交わしている。

《「おれか、おれは、さうさな、本当の事を言ふために生れて来た。」
「でも、あなたは何も言ひやしないぢやないの。」
世の中の人は皆、嘘つきだから、話を交すのがいやになつたのさ。みんな、嘘ばつかりついてゐる。さうしてさらに恐ろしい事は、その自分の嘘にご自身お気附きになつてゐない。」
「それは怠け者の言ひのがれよ。ちよつと学問なんかすると、誰でもそんな工合ひに横着な気取り方をしてみたくなるものらしいのね。あなたは、なんにもしてやしないぢやないの。寝てゐて人を起こすなかれ、といふ諺があつたわよ。人の事など言へるがらぢや無いわ。」
「それもさうだが、」とお爺さんはあわてず、「しかし、おれのやうな男もあつていいのだ。おれは何もしてゐないやうに見えるだらうが、まんざら、さうでもない。おれでなくちや出来ない事もある。おれの生きてゐる間、おれの真価の発揮できる時機が来るかどうかわからぬが、しかし、その時が来たら、おれだつて大いに働く。その時までは、まあ、沈黙して、読書だ。」》(傍線・引用者)

お爺さんの言い分はこうだ。自分は本当の事を言うために生まれて来た。だが、世の中の人は皆嘘つきだから、自分の真価が発揮できる時機がくるまで「沈黙」しているのだ、と。お婆さんにもこう言っている。お前の言うことは気分本位のごまかしで、人の悪口だけだ。おれを、こんな無口な男にさせたのはお前です、と。お爺さんはみずからの「消極性」を、「世の中の人」や「お婆さん」のせいにしている。もちろん、こうした発想こそ消極的と言わなければならない。

しかし、お爺さんの「積極性」は、「世の中の人」や「お婆さん」のような外部からではなく、お爺さん自身の内部から生まれてくる。それは最初に、お爺さんの声の調子に現れる。お婆さんと話すときはいつも、聞き取れないような「低い声」しか出さなかったお爺さんが、若い女の声で話しかけてくる雀(お爺さんの夢の中の雀)とは、人が変わったみたいに「若やいだ声」でお喋りをはじめる。

さらに、お婆さんに舌を抜かれていなくなった雀を、お爺さんは何かに憑かれたみたいに、夢中で探しはじめる。それは、「生れてはじめての執拗な積極性」だった。お爺さんのこの雀探索について、「私」(ここでは「筆者(太宰)」)はこう説明している。

《お爺さんにとつて、こんな、がむしやらな情熱を以て行動するのは、その生涯に於いて、いちども無かつたやうに見受けられた。お爺さんの胸中に眠らされてゐた何物かが、この時はじめて頭をもたげたやうにも見えるが、しかし、それは何であるか、筆者(太宰)にもわからない。自分の家にゐながら、他人の家にゐるやうな浮かない気分になつてゐるひとが、ふつと自分の一ばん気楽な性格に遭ひ、之を追ひ求める、恋、と言つてしまへば、それつきりであるが、しかし、一般にあつさり言はれてゐる心、恋、といふ言葉に依つてあらはされる心理よりは、このお爺さんの気持は、はるかに侘しいものであるかも知れない。》

「私」(ここでは「筆者(太宰)」)はお爺さんの行動を、お爺さんの孤独感から説明しようとしている。お爺さんは、「自分の家」にいながら「他人の家」にいるような、「浮かない気分になつてゐるひと」として、癒されない孤独感を内に抱え込んでいた。ところが、雀と出逢い、またそれを失ってみて、胸中に眠らされていた何物かが触発されるのを感じる。その時のお爺さんの気持ちは、「恋」という心理よりも「侘びしいもの」かもしれないと、「私」(ここでは「筆者(太宰)」)は考える。

やがてお爺さんは、探していた舌切雀と「すずめのお宿」で再会する。雀は「お照さん」と言い、お人形さんみたいな可愛い女の子の姿をしていた。その場面は、『津軽』の「私」が、育ての親「たけ」と再会する場面とそっくりだ。

《お照さんは小さい赤い絹蒲団を掛けて寝てゐた。お鈴さんよりも、さらに上品な美しいお人形さんで、少し顔色が青かつた。大きい眼でお爺さんの顔をじつと見つめて、さうして、ぽろぽろと涙を流した。
 お爺さんはその枕元にあぐらをかいて坐つて、何も言はず、庭を走り流れる清水を見てゐる。お鈴さんは、そつと席をはづした。
 何も言はなくてもよかつた。お爺さんは、幽かに溜息をついた。憂鬱の溜息ではなかつた。お爺さんは、生れてはじめて心の平安を経験したのだ。そのよろこびが、幽かな溜息となつてあらはれたのである。》

『津軽』の「私」は、「たけ」を性の対象とすることができない。それで、「たけ」との間に、精神的にはもっとも親密な、母と子の関係を仮構することができたのである。同じようにお爺さんも、人形の「お照さん」を性の対象とすることができない。お爺さんが「お照さん」との間に、精神的に親密な関係を仮構することができたのもそのためである。雀によって触発されたお爺さんの気持ちは、性の関係が禁じられているという理由によって、「恋」より「侘びしいもの」であらざるを得なかったのである。

この作品が『津軽』と異なるのは、「すずめのお宿」が、普通の人には見えない架空の場所(夢)として設定されていることである。お爺さんはその架空の場所から、お婆さんのいるこの現実世界に帰ってこざるを得ないのである。しかし、お爺さんにとって「自分の家」は、相変わらず「他人の家にゐるやうな浮かない気分」にさせるところでしかなかった。「現実は決して人を信じさせる事が出来ない」(『津軽』)のだった。それはなによりも、作者自身の気持ちだったに違いない。『津軽』を書いたときの失望感が、甦ってきていたのかもしれない。

「父」の語る物語の結末は、お伽噺(絵本)とは全く違ったものになっている。お婆さんは「すずめのお宿」に出掛けていくが、金貨のいっぱいつまった大きな葛籠を背負ったまま凍死してしまう。お爺さんはこの金貨のおかげで、間もなく仕官することができ、一国の宰相の地位まで昇りつめる。

お爺さんは「恋」(夢)を禁じられ、さらにお婆さん(現実)をも奪い取られてしまう。作者に、帰るべき現実は信じられていないのだ。その結果、「仕官」のような「世間的価値」だけが、お爺さんには残されることになる。『津軽』の背後に作者の「絶望」が隠されていたように、「宰相」の背後にはお爺さんの「絶望」が隠されていたのである。(『お伽草紙』論了)
                         (2001.11.7)  (2013.11.21改訂)

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