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7 中期作品論[甲府]

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1 「満願」「姥捨」「花燭」
太宰治の中期は、妻初代との心中未遂・離別を経て、甲府滞在の時期を中心にはじまっている。この時期、太宰の生活と作品に大きな影響を与えたのは、甲府に住む石原美知子との結婚をめぐる出来事だった。太宰はこの結婚に向けて、生活の場所を次のように変えている。

(1)天沼の下宿(昭12.6.21〜昭13.9.12)
妻初代との離別後、東京杉並の天沼において、単身で下宿生活をはじめる。石原美知子との結婚話がはじまる(昭13.7)。

(2)御坂峠の天下茶屋(昭13.9.13〜11.16)
天沼の下宿を引き払い、井伏鱒二の滞在していた山梨県御坂峠の天下茶屋に滞在する。甲府の石原家で、美知子と見合いをする(昭13.9.18)。井伏はまもなく帰京する(同年.9.19)。石原家で婚約披露宴を行う(同年.11.6)。

(3)甲府の下宿(昭13.11.16〜昭14.1.5)
御坂峠を降り、甲府の素人下宿に止宿する。

(4)甲府の新居(昭14.1.6〜8.31)
東京杉並の井伏鱒二宅で、石原美知子と結婚式を挙げる(昭14.1.8)。美知子夫人と、甲府御崎町の借家に新居を構える(同日)。東京三鷹の借家に転居する(昭14.9.1)。

生活場所の変化は、太宰の再生・変化を象徴している。美知子夫人との結婚によって、太宰の生活は単身の下宿生活から、美知子夫人との新婚生活へと変化する。

石原美知子との結婚話がはじまると、太宰は「灯籠」(昭和12年8月)以来、一年近く書くことのなかった小説を立て続けに書いている。天沼の下宿時代に書かれた、「満願」(昭和13年7月)「姥捨」(同年8月)「花燭」(同年9月)である。そして、甲府の石原美知子に引き寄せられるかのように、太宰は天沼の下宿を引き払い、井伏鱒二の滞在していた山梨県御坂峠の天下茶屋に赴く。

「満願」「姥捨」「花燭」には、精神病院入院、妻初代との心中未遂・離別などの〈HUMAN LOST体験〉を通過した後の、太宰の変化が刻印されている。

作者は〈HUMAN LOST体験〉によって、他者は自分とは独立した存在で、自分のために存在しているものではないことを自覚する。むしろ、自分は他者のために存在しているのではないか、と。それは、他者の眼差しを意識すること(自分に意識を向けること)をやめて、他者に眼差しを向けようとすることだった。

他者の眼差しを意識すること(他者に依存すること)をやめたとき、作者は、他者の評価には動じない「むつと図太い男」(「HUMAN LOST」)として、他者に対して平静な眼差しを向けることができるようになったのではないだろうか。

「満願」は太宰中期の嚆矢となる短編で、主人公と登場人物に向けられた、作者の平静で好意的な視線によって描かれている。「満願」に登場する、「お医者」「お医者の奥さん」「牛乳配達の青年」「若い奥さま(小学校の先生の奥さま)」の四人の人物に、主人公と作者は好意的な視線を向けている。そして、そのことによって、主人公も、登場人物から自分に向けられる視線を好意的なものと感じる。

主人公の「私」は、四年前、伊豆の三島で一夏を過ごし、そこで小説を書いていた。そのとき仲良くなった「お医者」の家で、毎朝新聞を読んでいると、その時刻に薬をとりにくる小学校の先生の「若い奥さま」がいた。「お医者」はときどき、その「若い奥さま」に、「奥さま、もうすこしのご辛棒ですよ。」と大声で叱咤することがあった。「私」は、この「若い奥さま」に好意的な視線を向けることで、自己の内部に生じた自己肯定感を直接感じとって、次のように語る。この作品の最後の場面である。

《お医者の奥さんが、或るとき私に、そのわけを語つて聞かせた。小学校の先生の奥さまで、先生は、三年まへに肺をわるくし、このごろずんずんよくなつた。お医者は一所懸命で、その若い奥さまに、いまがだいじのところと、固く禁じた。奥さまは言ひつけを守つた。それでも、ときどき、なんだか、ふびんに伺ふことがある。お医者は、その都度、心を鬼にして、奥さまもうすこしのご辛棒ですよ、と言外に意味をふくめて叱咤するのださうである。
 八月のをはり、私は美しいものを見た。朝、お医者の家の縁側で新聞を読んでゐると、私の傍に横坐りに坐つてゐた奥さんが、
「ああ、うれしさうね。」と小声でそつと囁いた。
 ふと顔をあげると、すぐ眼のまへの小道を、簡単服を着た清潔な姿が、さつさつと飛ぶやうにして歩いていつた。白いパラソルをくるくるつとまはした。
「けさ、おゆるしが出たのよ。」奥さんは、また、囁く。
 三年、と一口にいつても、――胸が一ぱいになつた。年つき経つほど、私には、あの女性の姿が美しく思はれる。あれは、お医者の奥さんのさしがねかも知れない。》

主人公の「私」は、「若い奥さま」に向けた好意的な視線(「私は美しいものを見た」)によって、自己の内に自己肯定感が生じている(「胸が一ぱいになつた」)のを感じとっている。

作者はこの世界にみずからの意思で、積極的に参加しているという実感をもつことで、この世界に肯定的な視線を向けているのではないだろうか。他者の眼差しを意識することから生じる被害感は、この作品では影をひそめている。この世界をまるごと肯定することによって、この世界からまるごと肯定される。「満願」はそんな一瞬から生まれた作品のように感じさせる。

「姥捨」「花燭」は、〈HUMAN LOST体験〉後の、太宰の他者に向ける視線の変化を示している。

「姥捨」は太宰と妻初代の、前年の心中未遂・離別を題材とした作品である。主人公の嘉七とかず枝夫婦は、水上の谷川温泉で心中を試みるが、二人とも生き残ってしまう。そのときの心境を、嘉七は次のように語っている。それは現在の太宰の心境でもあった。

《おれは、この女を愛してゐる。どうしていいか、わからないほど愛してゐる。そいつが、おれの苦悩のはじまりなんだ。けれども、もう、いい。おれは、愛しながら遠ざかり得る、何かしら強さを得た。生きて行くためには、愛をさへ犠牲にしなければならぬ。なんだ、あたりまへのことぢやないか。世間の人は、みんなさうして生きてゐる。あたりまへに生きるのだ。生きてゆくには、それよりほかに仕方がない。おれは、天才でない。気ちがひぢやない。》

妻初代との離別を、正当化する理屈ととられかねない言葉である。しかし、ここには、作者が〈HUMAN LOST体験〉後に獲得した、対象に向ける視線の変化が示されている。

「生きて行くためには、愛をさへ犠牲にしなければならぬ。」と、主人公は語っている。以前であれば、作者は、「愛のためには、生きて行くことをさへ犠牲にしなければならぬ。」と考えていたはずである。しかし、「生きて行く」ということと、「愛をさへ犠牲」にするということの二重性を、作者は、「世間の人」が「あたりまへに生きる」生き方と考えようとしている。そして、作者自身も「世間の人」と同じように、「あたりまへに生きる」ことを選択しようとしているようにみえる。

主人公はこの二重性の中で葛藤しており、「愛しながら遠ざかり得る、何かしら強さを得た。」と語っている。葛藤を葛藤のまま受け容れることを、作者は「強さ」と意識している。この「強さ」は、「むつと図太い男」(「HUMAN LOST」)の延長線上にある「強さ」である。

「花燭」でも、主人公は、「あたりまへに生きる」ことを求めて、次のように語る場面がある。

《ところが、このごろ、ふつと或る種の疑念がわいて出た。なぜ、この人たちは働かないのかしら。たいへん素朴な疑念であつた。求めて職が得られないならば、そのときには、純粋に無報酬の行為でもよい。拙(つた)なくても、努力するのが、正しいのではないのか。世の中は、それをしなければ、とても生きて居れないほどきびしいところではないのか。生活の基本には、そんな素朴な命題があつて、思考も、探美も、挨拶も、みんなその上で行はれてゐるもので、こんなに毎晩毎晩、同じやうに、寝そべりながら虚栄の挨拶ばかり投げつけ合つてゐるのは、ずゐぶん愚かな、また盲目的に傲慢な、あさましいことではないのか。》

「世の中」は努力しなければ生きていられないほど厳しいところであって、それが「生活の基本」にある「素朴な命題」だと、作者は書いている。「拙(つた)なくても、努力するのが、正しいのではないのか。」という発言は、太宰が中期作品を書き出す場所を固めるために必要な言葉だったと感じさせる。


2 「I can speak」
石原美知子との結婚話がはじまると、太宰は、「世間の人」と同じように「あたりまへに生きる」(「姥捨」)ことを目指して、「世の中」は努力しなければ生きていられないほど厳しいところである(「花燭」)と考えるようになる。

しかし、「生きて行くためには、愛をさへ犠牲にしなければならぬ。」(「姥捨」)というような二重性を生きることは、息苦しさを感じさせることでもあった。そのことについて、作者は、御坂峠を降りて、甲府で下宿住まいをしていたときの作品「I can speak」(昭和13年12月)で、次のように書いている。

《くるしさは、忍従の夜。あきらめの朝。この世とは、あきらめの努めか。わびしさの堪へか。わかさ、かくて、日に虫食はれゆき、仕合せも、陋巷の内に、見つけし、となむ。
 わが歌、声を失ひ、しばらく東京で無為徒食して、そのうちに、何か、歌でなく、謂はば「生活のつぶやき」とでもいつたやうなものを、ぼそぼそ書きはじめて、自分の文学のすすむべき路すこしづつ、そのおのれの作品に依つて知らされ、ま、こんなところかな? と多少、自信に似たものを得て、まへから腹案してゐた長い小説に取りかかつた。》(傍線・引用者)

作者は、二重性を生きることの息苦しさを語っているように見える。「拙(つた)なくても、努力するのが、正しいのではないのか。」(「花燭」)と書いたものの、その「努力」とは「あきらめの努め」でしかないのではないか。「あたりまへに生きる」(「姥捨」)と書いたものの、それは若さを失くして、幸せを陋巷の内に見つけようとするだけのことではないのか、と。

作者の気持ちは、「わが歌」と「生活のつぶやき」の間で揺れ動いている。「生きて行く」ということと、「愛をさへ犠牲」にするということの間で揺れ動いていたのと同じように、である。

「I can speak」の主人公の「私」は、ある夜、下宿の窓から、小路ひとつ隔ててある製糸工場のその小路で、酔漢の荒い言葉が起こったのを耳にする。製糸工場の女工さんに向かって、その女工さんの弟が酒に酔って、工場の塀の外から話しかけているのだった。「私」は弟が話す言葉の中に、「I can speak」という英語を聞きつけて衝撃を受け、「ふつと私は、忘れた歌を思ひ出したやうな気がした。」と感じる。

女工さんの弟にとって、「I can speak」という英語は、「生活のつぶやき」ではなく、「わが歌」に外ならなかった。「私」もまた、女工さんの弟の「わが歌」を聞いて、自分にも「忘れた歌」として、「わが歌」があることを思い出す。

太宰は過去に、「わが歌」だけを追い求めて挫折した経験があった。作品「I can speak」の主人公の「私」は、「生活のつぶやき」というようなものを書きはじめて、「ま、こんなところかな?」と考えていたとき、ふとしたことから、忘れていた「わが歌」を思い出す。思い出したのは、もちろん作者自身である。「生活のつぶやき」が自己の外の対象に向かう意識とすれば、「わが歌」とは自己の内に向かう意識といえる。

「忘れた歌を思ひ出した」と書いた一ケ月後に、作者は、美知子夫人と甲府御崎町に新居を構えて(昭14.1)、新たな生活に踏み出す。そして、「生活のつぶやき」が同時に「わが歌」であるような作品を、次々と書くようになる。甲府御崎町の新婚時代(8ヶ月)だけでも、十四編の小説を書いている。

「生活のつぶやき」だけでは文学は成り立たないし、「わが歌」だけでも文学は成り立たない。太宰は甲府御崎町時代に、「生活のつぶやき」が同時に「わが歌」であるような言葉が存在することを発見したのではないだろうか。


3 「黄金風景」「富嶽百景」
太宰は美知子夫人と、甲府御崎町の新居で生活をはじめた(昭14.1.8)直後から、「黄金風景」(昭和14年1月)「富嶽百景」(同)「女生徒」(同年2月)「新樹の言葉」(同年3月)「葉桜と魔笛」(同年4月)などの、中期を代表する名作を次々と書き続ける。

これらの作品は、「I can speak」の言葉で言えば、「歌」と「生活のつぶやき」の間で揺れ動いている作者の気持ちそれ自体を、「わが歌」として描いた作品である。「歌」の方に重心を置くか、「生活のつぶやき」の方に重心を置くかの違いによって、作品もまた違った色合いをみせている。

「黄金風景」は、作者が薬物中毒で苦しんでいた、船橋時代(昭10年〜11年)を回想した短編である。作品では、主人公の「私」の精神的な危機的状況が、次のようにリアルに描かれている。

《一昨年、私は家を追はれ、一夜のうちに窮迫し、巷をさまよひ、諸所に泣きつき、その日その日のいのち繋ぎ、やや文筆でもつて、自活できるあてがつきはじめたと思つたとたん、病を得た。ひとびとの情で一夏、千葉県船橋町、泥の海のすぐ近くに小さい家を借り、自炊の保養をすることができ、毎夜毎夜、寝巻をしぼる程の寝汗とたたかひ、それでも仕事はしなければならず、毎朝々々のつめたい一合の牛乳だけが、ただそれだけが、奇妙に生きてゐるよろこびとして感じられ、庭の隅の夾竹桃の花が咲いたのを、めらめら火が燃えてゐるやうにしか感じられなかつたほど、私の頭もほとほと痛み疲れてゐた。》

主人公の「私」は、「私は(子供のとき・引用者)、のろくさいことは嫌ひで、それゆゑ、のろくさい女中を殊にもいぢめた」と語り、また、「いまでも、多少はさうであるが、私には無智な魯鈍の者は、とても堪忍できぬのだ」と語っている。

「のろくさいことは嫌ひ」と語る主人公の言葉は、作者自身の言葉であるに違いない。「のろくさいことは嫌ひ」という言葉が象徴するのは、現実世界に対する否定的な感情とそのことによる被害意識である。それが、作者の薬物中毒によってあぶりだされ、作者に精神的な危機を感じさせていたのではないか。

主人公の「私」は、毎夜、寝巻をしぼるほどの寝汗とたたかい、毎朝の冷たい牛乳だけが生きている喜びで、夾竹桃の花を火が燃えているようにしか感じられなかったと語っている。誇張とは感じられない。「私の頭もほとほと痛み疲れてゐた」と語っているように、作者の精神的な危機をリアルに表現している言葉のように思える。

そんなとき、「私」が子供のころ、のろくさい女中としていじめたお慶の一家が、「私」の家を訪ねてくる。「私」は逃げるように、海浜へ飛び出してしまう。「私」(作者)は、夾竹桃の花を火が燃えているようにしか感じられなかったように、お慶一家をも自分を迫害するものとしか感じられなかったのである。

「私」は海岸伝いに町の方へ歩いていき、町で意味もなく三十分ほど時間をつぶして、ふたたび家へ引き返してくる。すると、海辺でお慶親子三人が、のどかに海に石の投げっこをしては笑い興じているのが見え、その声が聞こえてくる。

《「なかなか、」お巡りは、うんと力こめて石をはふつて、「頭のよささうな方ぢやないか。あのひとは、いまに偉くなるぞ」
「さうですとも、さうですとも」お慶の誇らしげな高い声である。「あのかたは、お小さいときからひとり変つて居られた。目下のものにもそれは親切に、目をかけて下すつた」
 私は立つたまま泣いてゐた。けはしい興奮が、涙で、まるで気持よく溶け去つてしまふのだ。
 負けた。これは、いいことだ。さうなければ、いけないのだ。かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与へる。》

この作品の最後の場面である。主人公の「私」は、のろくさい女中としていじめたお慶が、自分を責めるどころか、自分のことを目下のものにも親切だったと話すのを聞いて、「負けた」と感じ、「かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与へる。」と考える。

お慶夫婦の会話が、主人公の「私」の精神的な危機を救ったわけではない。お慶夫婦の会話を聞いているのは、作中の「私」ではなく、この作品を書いている現在の作者自身である。作者は作品の中のお慶一家の間近で、夫婦の会話を聞くことができる架空の場所にいる。

つまり、〈HUMAN LOST体験〉後の、作者の現在の意識が、船橋時代の精神的な危機を冷静に回想させ、自己再生という「わが歌」を歌い上げるために、お慶夫婦の会話を必要としていたのである。「かれらの勝利」=「(自分の)負け」を、「いいことだ」と肯定することによって、自他を肯定し、「私のあすの出発」という再生へつなげようとする「わが歌」を、である。

「富嶽百景」になると、「満願」や「黄金風景」にあったような、登場人物に対する主人公の好意的な視線と同時に、現在の作者の「生活のつぶやき」が作品の中に出現するようになる。

主人公の「私」は、思いを新たにする覚悟で、井伏鱒二の滞在している御坂峠の天下茶屋にやってくる。そこは昔から、富士三景の一つに数えられているようなところだった。

《私は、部屋の硝子戸越しに、富士を見てゐた。富士は、のつそり黙つて立つてゐた。偉いなあ、と思つた。
「いいねえ。富士は、やつぱり、いいとこあるねえ。よくやつてるなあ。」富士には、かなはないと思つた。念々と動く自分の愛憎が恥づかしく、富士は、やつぱり偉い、と思つた。よくやつてる、と思つた。》(傍線・引用者)

主人公の「私」は富士に、「念々と動く自分の愛憎」とは正反対のものを見ている。富士は「のつそり黙つて立つて」いるだけで、自分のように感情に突き動かされることはない。富士は「むつと図太い男」(「HUMAN LOST」)の延長線上にある、作者が理想としている自分の姿を象徴していた。

ところが、「念々と動く自分の愛憎」の対象は、富士にも向けられる。

《けれどもやはりどこかこの富士の、あまりにも棒状の素朴には閉口して居るところもあり、これがいいなら、ほていさまの置物(おきもの)だつていい筈だ、ほていさまの置物は、どうにも我慢(がまん)できない、あんなもの、とても、いい表現とは思へない、この富士の姿も、やはりどこか間違つてゐる、これは違ふ、と再び思ひまどふのである。》(傍線・引用者)

そして、富士の姿の素朴さに「思ひまどふ」ように、「私」は、吉田の町から御坂峠に遊びにきた「遊女の一団体」の様子にも「思ひまどふ」のである。「私」はその遊女の一団を、茶店の二階から見ていたが、「暗く、わびしく、見ちや居(を)れない風景」だったという。そのときの気持ちを、「私」はつぎのように語っている。

《二階のひとりの男の、いのち惜しまぬ共感も、これら遊女の幸福に関しては、なんの加へるところがない。私は、ただ、見てゐなければならぬのだ。苦しむものは苦しめ。落ちるものは落ちよ。私に関係したことではない。それが世の中だ。さう無理につめたく装ひ、かれらを見下ろしてゐるのだが、私は、かなり苦しかつた。
 富士にたのまう。突然それを思ひついた。おい、こいつらを、よろしく頼むぜ、そんな気持で振り仰げば、寒空のなか、のつそり突つ立つてゐる富士山、そのときの富士はまるで、どてら姿に、ふところ手して傲然とかまへてゐる大親分のやうにさへ見えたのであるが、私は、さう富士に頼んで、大いに安心し、気軽くなつて茶店の六歳の男の子と、ハチといふむく犬を連れ、その遊女の一団を見捨てて、峠のちかくのトンネルの方へ遊びに出掛けた。トンネルの入口のところで、三十歳くらゐの痩せた遊女が、ひとり、何かしらつまらぬ草花を、だまつて摘み集めてゐた。私たちが傍を通つても、ふりむきもせず熱心に草花をつんでゐる。この女のひとのことも、ついでに頼みます、とまた振り仰いで富士にお願ひして置いて、私は子供の手をひき、とつとと、トンネルの中にはひつて行つた。トンネルの冷い地下水を、頬に、首筋に、滴滴と受けながら、おれの知つたことぢやない、とわざと大股に歩いてみた。》

「私に関係したことではない」と考えても、「私」は、遊女の一団をただ見ていなければならず、胸中は「かなり苦しかつた」のである。

そんなとき、「私」は、「こいつらを、よろしく頼むぜ」と、富士に頼むことを突然思いつく。「私」は遊女を視界からはずし(「その遊女の一団を見捨てて」)、富士を振り仰いで視界いっぱいに入れる(「傲然とかまへてゐる大親分のやうにさへ見えた」)ことで、自己の意識を外に向けて、「安心」「気軽さ」を手に入れようとする。富士は感情的に反応しない、理想化された自分の姿であったから、その富士と一体化することによって、「私」は、「安心」「気軽さ」を感じることができたのである。

しかし、遊女を富士に頼んだ後も、「おれの知つたことぢやない、とわざと大股に歩いてみた」と描かれているように、主人公の「私」の気持ちは、「思ひまどふ」のである。そして、作者は、「思ひまどふ」主人公の姿を、そのまま肯定しているようにみえる。「思ひまどふ」ことは「思ひまどふ」ままでいいのだ、と。

さらに、「念々と動く自分の愛憎」は、「私」が滞在している御坂峠の天下茶屋の「十五の娘さん」にも向けられる。

「娘さん」が「私」に、「私」の書き散らした原稿用紙をそろえるのが楽しいと話すのを聞いて、「私」は、「これは人間の生き抜く努力に対しての、純粋な声援である。なんの報酬も考へてゐない。私は、娘さんを、美しいと思つた。」と考える。

ところが、この記述のすぐ後に、「私」が「娘さん」に対して、「まつたくいやな気持」になる場面が描かれる。それは一日中、「私」と「娘さん」が二人きりで茶店にいたときのことだった。「娘さん」は茶店の背戸で洗濯をしていた。「私」が近寄って笑いかけると、「娘さん」は恐怖の表情をしている。「私」は「まつたくいやな気持」になって、山路を荒っぽく歩き回るしかなかった。

「私」の「念々と動く自分の愛憎」は、富士山にも、遊女にも、茶店の娘にも向けられ、「私」はそうした愛憎の感情が生じることに「思ひまどふ」が、作者はその「思ひまどふ」こと自体を肯定しているようにみえる。

そして、「私」が御坂峠の寒さに耐えきれなくなって、山を下りることを決意した前日のことである。「私」が茶店で番茶を啜っていると、東京から遊びにきたと思われる、若い知的な娘さん二人から、カメラのシャッターを切ってくれと頼まれる。この作品の最後の場面である。

《私は平静を装ひ、娘さんの差し出すカメラを受け取り、何気なささうな口調で、シヤツタアの切りかたを鳥渡たづねてみてから、わななきわななき、レンズをのぞいた。まんなかに大きい富士、その下に小さい、罌粟(けし)の花ふたつ。ふたり揃ひの赤い外套を着てゐるのである。ふたりは、ひしと抱き合ふやうに寄り添ひ、屹(き)つとまじめな顔になつた。私は、をかしくてならない。カメラ持つ手がふるへて、どうにもならぬ。笑ひをこらへて、レンズをのぞけば、罌粟の花、いよいよ澄まして、固くなつてゐる。どうにも狙ひがつけにくく、私は、ふたりの姿をレンズから追放して、ただ富士山だけを、レンズ一ぱいにキヤツチして、富士山、さやうなら、お世話になりました。パチリ。
「はい、うつりました。」
「ありがたう。」
 ふたり声をそろへてお礼を言ふ。うちへ帰つて現像してみた時には驚くだらう。富士山だけが大きく大きく写つてゐて、ふたりの姿はどこにも見えない。
 その翌る日に、山を下りた。まづ、甲府の安宿に一泊して、そのあくる朝、安宿の廊下の汚い欄干によりかかり、富士を見ると、甲府の富士は、山々のうしろから、三分の一ほど顔を出してゐる。酸漿(ほほづき)に似てゐた。》

構図的には、遊女と富士の場合と同様である。「私」は遊女を視界からはずし、富士を振り仰いで視界いっぱいに入れて、「安心」を手に入れようとする。ここでは、カメラのレンズから娘さん二人の姿を「追放」して、富士山だけをレンズ一ぱいに入れてシャッターを切る。

富士は作者が理想としている、自分の姿を象徴していた。「念々と動く自分の愛憎」とは正反対に、富士は「のつそり黙つて立つて」いるだけで、感情に突き動かされることのない存在だった。「私」(作者)は、遊女や若い知的な娘さんを自分の視界からはずして、富士山だけを視界いっぱいに入れて「安心」を手に入れようとしているようにみえる。しかし、富士とも別れるときがやってくる。「富士山、さやうなら、お世話になりました。」、と。

山を下りた翌日に、「私」が甲府からみた富士は、山々の後ろから三分の一ほど顔を出していて、ほおずきに似ていた。富士山は、「私」の視界の中心から退いて、背景の一部となっている。

山を下りるということは、現実と直面することを意味していた。作者は山を下りた甲府で、美知子夫人と結婚し、新たな生活をはじめることになる。富士山は背景に後退し、「生活のつぶやき」となる対象が前景にせり出してきたのである。

作者の黄金時代とでもいうべき、結婚前後の一時期は、二度と訪れることのない輝きに満ちたものだったのかもしれない。「富嶽百景」の主人公が、河口局から峠の茶屋に引き返すバスに揺られながら遭遇した、「ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた」という場面のように。


4 「女生徒」「春の盗賊」
「富嶽百景」の主人公は、「念々と動く自分の愛憎」が恥ずかしいと考える。作品「女生徒」は、この「念々と動く自分の愛憎」を主人公の気分の揺れとして、女生徒の独白体で描いた作品である。

なお、「女生徒」は、太宰の下宿先に郵送されてきた、当時洋裁学校に通う十九歳の女性の日記を下敷きにしている。この日記は『有明淑の日記』(2000年2月青森県近代文学館)として刊行されている。

「女生徒」は語句の大半を、この日記から取り入れているという。しかし、「女生徒」と『有明淑の日記』を読み比べてみれば分かるように、両者から受ける印象は随分と違う。「女生徒」には、日記にない文章のリズムがあって、「女生徒」の主人公の「私」の内面の世界と、『有明淑の日記』の書き手の「私」の内面の世界とでは、相当な開きがあると感じさせる。「女生徒」は一個の独立した、太宰の作品であるといえる。

「女生徒」から、主人公の女生徒が語る「念々と動く自分の愛憎」(気分の揺れ)の一部を引用してみる。

《けさから五月、さう思ふと、なんだか少し浮き浮きして来た。》
《ひとりで食堂でごはんをたべてゐると、矢鱈むしやうに旅行に出たい。》
《人間は、立つてゐるときと、坐つてゐるときと、まるつきり考へることが違つて来る。坐つてゐると、なんだか頼りない、無気力なことばかり考へる。》
《もう、お茶の水。プラツトフオムに降り立つたら、なんだかすべて、けろりとしてゐた。いま過ぎたことを、いそいで思ひかへしたく努めたけれど、一向に思ひ浮ばない。》
《バスから降りると、少しほつとした。どうも乗り物は、いけない。空気が、なまぬるくて、やりきれない。大地は、いい。土を踏んで歩いてゐると、自分を好きになる。》
《草の上に坐つたら、つい今しがたまでの浮き浮きした気持が、コトンと音たてて消えて、ぎゆつとまじめになつてしまつた。》
《少し浮き浮きして台所へ行き、お米をといでゐるうちに、また悲しくなつてしまつた。》
《いつもさうだが、私はお料理して、あれこれ味をみてゐるうちに、なんだかひどい虚無にやられる。》

主人公の気分の微妙な揺れは、女生徒の独白体によって、手に取るように描かれている。こうした気分の揺れは、通常であれば、意識に上らないでやり過ごされるに違いない。目の前の現実に向いている意識の方が、優先されているはずだからである。

たとえば、「浮き浮き」して台所へ行き、お米をといでいるうちに「悲しく」なってしまったと、女生徒が語る場合。主人公の「私」の気分が「浮き浮き」していたのは、鏡を覗いてみて、自分の顔が活き活きしていたのを知ったからであった。しかし、台所へ行き米をといでいるうちに、なぜか「悲しく」なってしまう。

自分の顔を鏡で見るということや、米をとぐということは、自分の気分とは関係なく、現実の必要性にもとづく行為のはずである。しかし「私」は、そうした現実の行為に積極的な意味を見出すことができない。現実の行為の意味より、自分の気分が優先されているため、自分の気分の微妙な揺れの方が強く意識されている。

「私」はその理由を、次のように説明している。

《結局は、私ひまなもんだから、生活の苦労がないもんだから、毎日、幾百、幾千の見たり聞いたりの感受性の処理が出来なくなつて、ポカンとしてゐるうちに、そいつらが、お化けみたいな顔になつてポカポカ浮いて来るのではないのかしら。》

「私」のこの説明には、作者の冷静な意識が働いていると感じさせる。「私」は、「ひま」で、「生活の苦労」がないため、目の前の現実の対象(「毎日、幾百、幾千の見たり聞いたり」)に対して、理解して対処していこうとする意思が持てない(「感受性の処理が出来なくなつて」)。それで、現実の行為の意味が分からず(「ポカンとしてゐる」)、気分だけが優先的に意識される。外の現実に対して、無関心な状態であるといえる。その結果として、現実の対象が「お化けみたいな顔になつてポカポカ浮いて来る」ようになるのではないだろうか。

つまり、現実の対象は、主人公の「私」が目の前で見ているそのときから、少し遅れて「私」の意識に上ってくることになるのではないか。「お化けみたいな顔になってポカポカ浮いて来る」というのは、そういうことではないのだろうか。「私」は、「どんな遠くの田舎の野道を歩いてゐても、きつと、この道は、いつか来た道、と思ふ。」と語っている。現実に「田舎の野道」を見ているそのときから、少し遅れて「田舎の野道」という理解がやってくるため、そのことが「いつか来た道」と既視体験のように感じさせているように思える。

主人公の「私」は、現実の行為の意味より、自分の気分の微妙な揺れの方を意識している。そのため、現実の世界が、「お化けみたいな顔になってポカポカ浮いて来る」というように、気分によって曖昧に色づけされた世界として現れている。それは、「ひま」で「生活の苦労」がないと語る、「私」の心の内の風景である。

そして、作者は主人公の「私」に憑依しているかのように、「私」の気分の揺れを、読む者の手が届きそうな距離で描いている。描いている作者自身は、女生徒の気分の揺れから、いつでも離脱できる位置にいるに違いない。

「富嶽百景」の主人公が、富士の姿の素朴さに「思ひまどふ」ように、「女生徒」の主人公も、「世間」と「自分」との関係に「思ひまどふ」場面がある。

《強く、世間のつきあひは、つきあひ、自分は自分と、はつきり区別して置いて、ちやんちやん気持よく物事に対応して処理して行くはうがいいのか、または、人に悪く言はれても、いつでも自分を失はず、韜晦しないで行くはうがいいのか、どつちがいいのか、わからない。一生、自分と同じくらゐ弱いやさしい温い人たちの中でだけ生活して行ける身分の人は、うらやましい。苦労なんて、苦労せずに一生すませるんだつたら、わざわざ求めて苦労する必要なんて無いんだ。そのはうが、いいんだ。》

「世間(=「人」)」と「自分」とを対立的にとらえて、どちらに比重をおいたらいいのかが「わからない」と、主人公の女生徒は訴えている。そして、そんな対立がないような、自分と同じくらい弱く優しく温かい人たちの中で生活することが希求される。

「世間」と「自分」との対立、そして、その対立を解消するような、弱く優しく温かい人たちの中での生活の希求といったことは、作者の永遠のテーマであるといえる。作者はこの二つのテーマの間で、「思ひまどふ」ように作品を書き続ける。

作者が新婚生活をはじめてから、四か月後の「春の盗賊」(昭和14年4月)では、「世間」と「自分」との対立が作品の主要なテーマとなっており、その対立に「思ひまどふ」主人公の姿が描かれている。主人公の「私」は、「世評」について次のように語っている。

《以前は、私にとつて、世評は生活の全部であり、それゆゑに、おつかなくて、ことさらにそれに無関心を装ひ、それへの反発で、かへつて私は猛りたち、人が右と言へば、意味なく左に踏み迷ひ、そこにおのれの高さを誇示しようと努めたものだ。けれども今は、どんな人にでも、一対一だ。これは私の自信でもあり、謙遜でもある。どんな人にでも、負けてはならぬ。勝をゆづる、など、なんといふ思ひあがつた、さうして卑劣な精神であらう。ゆづるも、ゆづらぬもない。勝利などといふものは、これはよほどの努力である。人は、もし、ほんたうに自身を虚しくして、近親の誰かつまらぬひとりでもよい、そこに暮しの上での責任を負はされ生きなければならぬ宿業に置かれて在るとしたならば、ひとは、みぢんも余裕など持てる筈がないではないか。》

主人公の「私」は、「世評」(他者の評価)を意識することから逃れられなかった。そのことは、現実の対象と向き合うことを妨げ、他者に依存してしか生きていけない生き方を招いた。しかも、「世評」(他者の評価)は、「私」自身が恣意的に作り上げたものでしかなかった。

しかし、現在の「私」は、「どんな人にでも、一対一だ」と考え、それが「私」の「自信」でもあり、「謙遜」でもあると述べている。「私」は他者に対して、「一対一」で向きあうことによって、「謙遜」を意識している。そして、他者と「一対一」で接することによって、他者を「世評」とみなすことをやめた「自信」を得ているようにみえる。

さらに「私」は、近親の暮しに責任を負わされて生きなければならないなら、少しも余裕など持てるはずはないと語っている。「私」は、「いまでは私は、世話しなければならぬその義務の在る数人をさへ持つてゐる。」と言う。

ここには、美知子夫人との結婚による作者の生活が反映している。現実の生活に直面することによって、「私」は、「世評」(他者の評価)などを意識する余裕などないと考えている。作品「女生徒」の主人公の「私」は、「ひま」で「生活の苦労」がないため、自分の気分を優先する人物として描かれていた。「春の盗賊」の「私」には、「女生徒」の「私」とは反対に、「生活」という普遍性を手にしていることによる強さがある。

ところが、「春の盗賊」の「私」には、こうした現実の生活にどうしても馴染めないという感覚が甦ってくる。作者からみれば、「生活のつぶやき」(「I can speak」)を書いてみたが、「忘れた歌」(同)が甦ってくるの感じているということになる。金だけを持っていった泥棒のことを、「私」は、「徹頭徹尾のリアリスト」と呼んで、「つまらないどろぼう」だと言う。作品の最後で、「私」は次のように語っている。

《どろぼうに見舞はれたときにも、やはり一般市民を真似て、どろぼう、どろぼうと絶叫して、ふんどしひとつで外へ飛び出し、かなだらひたたいて近所近辺を駈けまはり、町内の大騒ぎにしたはうが、いいのか。それが、いいのか。私は、いやになつた。それならば、現実といふものは、いやだ! 愛し、切れないものがある。あの悪徳の、どろぼうにしても、この世のものは、なんと、白々しく、興覚めのものか。ぬつとはひつて来て、お金さらつて、ぬつとかへつた。それだけのものでは、ないか。この世に、ロマンチツクは、無い。私ひとりが、変質者だ。さうして、私も、いまは営々と、小市民生活を修養し、けちな世渡りをはじめてゐる。いやだ。私ひとりでもよい。もういちど、あの野望と献身の、ロマンスの地獄に飛び込んで、くたばりたい! できないことか。いけないことか。この大動揺は、昨夜の盗賊来襲を契機として、けさも、否、これを書きとばしながら、いまのいままで、なお止まず烈しく継続してゐるのである。》(傍線・引用者)

「私」は、「生活のつぶやき」と「忘れた歌」との間で「大動揺」している。そして、作者はこの時期の作品を、「生活のつぶやき」だけを描くことによってでもなければ、「忘れた歌」だけを描くことによってでもなく、「大動揺」を「大動揺」のまま描き続けることで維持していく。なぜならば、「ロマンスの地獄」(「忘れた歌」)というものが、「小市民生活」を破壊することによって、自己と他者を破壊するものでしかないことを、体験的に知っていたからである。(了)
                                    (2014.8.10)

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