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中期作品論[三鷹]

【太宰治作品論 8】 

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1 「善蔵を思ふ」 
昭和十四年九月一日、太宰治は甲府御崎町での新婚生活を八ヶ月で切り上げ、東京三鷹の借家に転居する。御崎町時代の後半は、前半の作品「黄金風景」「富嶽百景」「新樹の言葉」「葉桜と魔笛」などにあった輝きが作品から失われている。三鷹移住後の作品もその延長線上にある。太平洋戦争勃発(昭16.12.8)までのこの時期は、魅力的な作品の少ない時代といえる。

甲府御崎町時代後半の作品「春の盗賊」で描かれていた、「生活のつぶやき」と「忘れた歌」との間で動揺する人物の姿は、三鷹移住後は「生活者」と「芸術家」の間で動揺する人物として描かれるようになる。作者の内部にあった葛藤が、作者の社会的な存在としての葛藤に置き換えられている。そこには太宰が三鷹で、御崎町時代のような家族や気心の知れた人たちとの関係とは異なる、他人との関係を余儀なくされたことが反映しているに違いない。

作者は「鴎」(昭和14年11月)の中で、「私は、いま人では無い。芸術家といふ、一種奇妙な動物である。」と語り、「女の決闘」(昭和15年3・4月)でも、「市民を嘲つて芸術を売つて、さうして、市民と同じ生活をしてゐるといふのは、なんだか私には、不思議な生物のやうに思はれ」と書いている。

太宰は「芸術家」としての自分を、「市民と同じ生活」をしているのに、市民生活に反するような作品を書いて「市民を嘲つて」いる、「奇妙な動物」「不思議な生物」と感じている。太宰には、自分は本当は「市民と同じ生活」から逸脱した存在ではないかという思いがあった。それなのに「市民と同じ生活」を装って、「芸術家」として振る舞っているのではないかという自責の念のようなものがあったに違いない。

「芸術家」として優れているということは、「芸術」が優れていることであって、必ずしも「人」として優れていることではないはずである。「芸術」と「人」とは別のことであるのに、太宰には「人」として失格しているとみなされていた時期があり、そのことによって「芸術家」として認められなかったという痛切な体験があった。太宰の言い分は、自分は「人」として失格していても、「芸術」が認められれば、「芸術家」として認められてもいいはずだということにあったのではないか。

太宰には、自分は「市民と同じ生活」の基準が働いている世界では生きていくのが難しいという思いがあった。それでも、「市民と同じ生活」をしなければ「芸術家」としても認められないなら、「市民と同じ生活」をしていくしかない。だがそのことは「市民を嘲つて芸術を売つて」いるのと同じことだ。そんな自分は「不思議な生物」でしかない。太宰にとって、甲府における新婚生活は「市民と同じ生活」をすることだった。そのことに対する違和感が、三鷹に転居することによって顕在化してきたといえる。

「善蔵を思ふ」(昭和15年2月)は、「芸術家」として認められるためには「人」として認められることが必要で、そのことがまた「生活者」として社会的な成功につながるというなら、そんな世界のあり方に異議を申し立てたいという気持ちを表明した作品である。

「善蔵を思ふ」は主人公の小説家の「私」が、甲府から三鷹に引っ越してきて四日目の出来事からはじまる。「私」はその日、ひょっこり庭に現れた贋の百姓女から、だまされて八本のバラの苗木を買ってしまう。「私」はそれから四、五日のあいだ、そのバラに夢中になって、水をやったり、添え木を作ってやったりする。「私」はたいした花も咲くまいと半ば諦めていた。ところが、それから十日ほど後に遊びにきた洋画家の友人が、「私」に「或る、意外の事実」を告げる。

作品はこの「或る、意外の事実」が明らかにされないまま、主人公の「私」から、前夜の郷土出身の芸術家の集まりにおける「私」の失態が明かされる。「私」は「沢山の汚名」をもっていて、故郷の人は「私」の作品を読むことを避けている。それでも「私」はふるさとを捨てきれないし、名誉挽回ができるかもしれないという思いから、郷土の芸術家の集まりに出席する。ところが宴会がはじまると、酒ばかりがぶがぶ飲んで、意志のブレーキがきかなくなって失態を演じてしまう。「私」はその夜のことを、次のように述懐する。

《私は、その夜、やつとわかつた。私は、出世する型では無いのである。諦めなければならぬ。衣錦還郷のあこがれを、此の際はつきり思ひ切らなければならぬ。人間到るところに青山、と気をゆつたり持つて落ちつかなければならぬ。私は一生、路傍の辻音楽師で終るのかも知れぬ。馬鹿な、頑迷のこの音楽を、聞きたい人だけは聞くがよい。芸術は、命令することが、できぬ。芸術は、権力を得ると同時に、死滅する。》  

自分は「出世する型」ではないので、この世で成功者となることを諦めなければならない。「路傍の辻音楽師」で一生を終わるかもしれない。芸術は「命令」や「権力」とは無縁の存在だ、と「私」は語る。「私」はこの述懐を「覚悟」と考えるが、「衣錦還郷」が実現しなかったことによる負け惜しみといったほうがいいかもしれない。

作品はここで、「私」の失敗談の直前で宙ぶらりんになっていた、「或る、意外の事実」が明かされる。故郷の芸術家の集まりの翌日に訪ねてきた洋画家の友人に、「私」は前夜の失態を語り、これからの「覚悟」も打ち明ける。そのとき友人は庭のバラに眼をつけて、「意外の事実」を知らせてくれる。そのバラが「なかなか優秀」だというのである。「衣錦還郷」を諦めたかわりであるかのように、たいした花も咲くまいと諦めていたバラが優秀だったと知らされる。「私」は友人からそのことを知らされて、つぎのような思いを作品の最後で述べている。

《「同郷人だつたのかな? あの女は。」なぜだか、頬が熱くなつた。「まんざら、嘘つきでも無いぢやないか。」
 私は縁側に腰かけ、煙草を吸つて、ひとかたならず満足であった。神は、在る。きつと在る。人間到るところ青山。見るべし、無抵抗主義の成果を。私は自分を、幸福な男だと思つた。悲しみは、金を出しても買へ、といふ言葉が在る。青空は牢屋の窓から見た時に最も美しい、とか。感謝である。この薔薇の生きて在る限り、私は心の王者だと、一瞬思つた。》  

負け惜しみから口にした、路傍の辻音楽師で終るとか、芸術は権力を得ると死滅するといった言葉をここでは聴くことができない。そのかわりに、「満足」「神」「幸福」「悲しみ」「心の王者」という言葉が登場する。「覚悟」はここでは、自分の存在をそのまま受け入れようとする、内面的な深化の過程としてあらわれている。

その契機となったのは、たいした花も咲くまいと諦めていたバラが優秀だったと知らされたことだった。主人公の「私」は失態を演じてはじめて、自分が価値をおくべき対象を見出したのである。「衣錦還郷」という社会的な成功のかわりに、内面的な「満足」「幸福」に価値がおかれようとしている。

諦めていたバラが価値のあるものに変化したように、「衣錦還郷」を諦めた自分も価値のあるものに変化することができるに違いない、と「私」は信じようとしている。「私」は諦めた社会的な成功の先に、「牢屋の窓から見た青空」のような美しい自分の姿を見ようとしている。「私」は諦めが希望につながることを発見し、そんな自分を「心の王者」だと一瞬だけ思う。世の中の誰もが、そんな一瞬一瞬を見つけ出しながら生活しているに違いない。太宰はそんな一瞬を作品として定着し、永遠に残したことになる。太宰の思いは「市民と同じ生活」と深いところでつながったのである。


2 「女の決闘」
「女の決闘」(昭和15年3・4月)は、鴎外訳のヘルベルト・オイレンベルグ著「女の決闘」を全文引用して、「芸術家」の存在を問うている作品である。

この作品で小説家の「私(DAZAI)」は、「女の決闘」(鴎外訳)を引用しながら作中人物の心理について語っている。その中で、原作では背後にいて姿を現さない、妻のある男を原作者自身とみなして作中に登場させる。この男の恋人である医科大学の女学生は、この男(原作者)に向かって、あなたを愛しているのではない、芸術家というあなたの職業に対して関心を持っているだけだとして、次のように語っている。

《市民を嘲つて芸術を売つて、さうして、市民と同じ生活をしてゐるといふのは、なんだか私には、不思議な生物のやうに思はれ、私はそれを探求してみたかつたといふ、まあ、理屈を言へばさうなるのですが、でも結局なんにもならなかつた。》  

女学生の、自分の恋人(原作者)に向けた発言だが、太宰が小説家としての自分自身に向けた言葉と考えられる。芸術は「市民と同じ生活」と相容れないと思っていたのに、「市民と同じ生活」をすることが「芸術家」としても認められることにつながるという不思議な現象に、太宰は疑念をいだいていた。太宰は前年の結婚により、「生活者」としての自分と、「芸術家」としての自分という二重性に直面することになった。「芸術家」としては「生活者」に想像もできないような作品を書いておきながら、「生活者」としては「市民と同じ生活」をしている。太宰が感じていたのは、そういうことが可能な不思議さと、そのことに対する後ろめたさだったのではないか。

この作品では「女の決闘」(鴎外訳)の原作者を作中に登場させることによって、原作者を通じて「芸術家」としての自己のあり方を問題にしようとしている。作中の「私(DAZAI)」は、「女の決闘」(鴎外訳)の描写が的確だとして、目前の事実に対してあまりにも的確な描写は読む者にとって嫌なもので、それは原作者が目前の事実を「冷い心」で書き写しているからだと述べている。さらに、「描写に対する不愉快」は「原作者に対する不愉快」となるともいう。

このことを太宰自身に置き換えてみれば、太宰の作品は、作者の太宰が目前の事実を「冷い心」で書き写しているから描写が的確で、その描写に対する不愉快は作者の太宰に対する不愉快となるということである。太宰は「芸術家」としての自己をこのように見ていたのではないか。こうした自己のイメージを変えようとして、太宰は「女の決闘」(鴎外訳)の描写の中に介入して、「女の決闘」(鴎外訳)の原作者のイメージを変えようとする。「女の決闘」(鴎外訳)の原作者のイメージを変えることは、自己のイメージを変えることでもあったからである。

そのために太宰は、原作の「女の決闘」(鴎外訳)とは「全く別な物語」を試みると表明する。原作と「全く別な物語」として、「私(DAZAI)」は女学生の不倫相手の男の妻の味方になる。そして、原作者がその男の妻(自分の妻)を「無残に冷たく描写」している、その「復讐」の描写を試みるというのである。その「復讐」はまず、女学生が不倫相手の男を詰る次のような言葉として描写される。

《私はあなたを愛してゐない。あなたはどだい美しくないもの。私が少しでも、あなたに関心を持つてゐるとしたら、それはあなたの特異な職業に対してであります。》 

女学生は不倫相手の男に対し、「芸術家」という「特異な職業」に関心を持っているだけで、男として魅力を感じているわけではないと言う。「私(DAZAI)」は、「芸術家」には例外なく二つの「悪徳」がそなわっていて、一つは「好色の念」で、もう一つは「好奇心」だと語る。「好奇心」とは、「珍らしいものを見事に表現してやらうといふ功名心」のようなものだと説明している。そして「愛欲に狂乱」していながら、その「狂乱の様をさへ描写」しようと努めているのが、「芸術家の宿命」であるとする。

太宰は「女の決闘」(鴎外訳)の原作者を批判することによって、「芸術家」としての自己を批判しようとしている。太宰は「芸術家」として認められそうになっている自己に対して、後ろめたさを過剰に意識していたようにみえる。太宰は「芸術家」という「特異な職業」が呼び込んでしまう、社会的なさまざまな出来事にどうしても馴染めない自分を意識していたに違いない。

「女の決闘」(鴎外訳)で、男の妻は女学生に決闘を申し込むが、その結果、女学生は男の妻の拳銃の弾にあたって死んでしまう。男の妻も監房の中で、絶食して死んでしまう。残されたのは牧師にあてた、男の妻からの短い一通の手紙だった。「女の決闘」(鴎外訳)はここで終わるが、太宰の「女の決闘」は終わらない。男(原作者)はこの手紙に書いてあった、妻の「強烈のそれこそ火を吐くほどの恋の主張」を書き写しているうちに、妻のことを「神と同列だ。人間でない部分が在る」と驚倒してしまう。「私(DAZAI)」は男のその後の生活について、次のように語っている。

《それから、驚くべきことには、実にくだらぬ通俗小説ばかりを書くやうになりました。いちど、いやな恐るべき実体を見てしまつた芸術家は、それに拠つていよいよ人生観察も深くなり、その作品も、所謂、底光りして来るやうにも思はれますが、現実は、必ずしもさうでは無いらしく、かへつて、怒りも、憧れも、歓びも失ひ、どうでもいいといふ白痴の生きかたを選ぶものらしく、この芸術家も、あれ以来といふものは、全く、ふやけた浅墓な通俗小説ばかりを書くやうになりました。かつて世の批評家たちに最上級の言葉で賞讃せられた、あの精密の描写は、それ以後の小説の片隅にさへ、見つからぬやうになりました。次第に財産も殖え、体重も以前の倍ちかくなつて、町内の人たちの尊敬も集り、知事、政治家、将軍とも互角の交際をして、六十八歳で大往生いたしました。その葬儀の華やかさは、五年のちまで町内の人たちの語り草になりました。再び、妻はめとらなかつたのであります。》  

これは太宰のこれまでの自身の体験を踏まえた言説であって、後の『人間失格』の主人公の手記を思わせる内容である。太宰は甲府から三鷹に出てきて、小説家として認められるようになったことが重荷だったのかもしれない。小説家という社会的な存在に馴染めなかったのかもしれない。財産も体重も増え、尊敬も集り、政治家、将軍とも交際をして、六十八歳で大往生したというこの男の生き方は、「善蔵を思ふ」の主人公とは正反対の生き方である。

太宰の「女の決闘」によって、「女の決闘」(鴎外訳)の原作者のイメージはどのように変えられたのだろうか。現実の決定的な体験によって、原作者は「人生観察」を深くするどころか、かえって「怒りも、憧れも、歓び」もなくして、浅墓な通俗小説を書くようになってしまう。これが太宰によってイメージされた原作者の姿である。

この原作者のイメージは、太宰自身のイメージと重ねられていたはずである。太宰は現実の強烈な体験が、「怒りも、憧れも、歓び」も失わせることがあることを知っていた。太宰は自分の〈HUMAN LOST体験〉が、「人生観察」を深くさせることもなく、浅墓な通俗小説を書かせるようになるのではないか。そのことによって、財産も体重も増え、尊敬も集り、政治家とも交際をするようになるのではないかと怖れていた。自分を批判的にみる作品を書かせたのも、そうした怖れからだったような気がする。


3 「きりぎりす」
「芸術家」と「生活者」という二重性が、現実の社会で招き寄せてしまう問題について、太宰治は「きりぎりす」(昭和15年9月)でとことん追求してみせた。

この作品は語り手である主人公の「私」が、夫である「あなた」に語りかけるという形式で成り立っている。主人公の「私」は、五年前の十九歳の春にある画家と結婚する。その画家は親からも愛想づかしをされており、また左翼らしいという話などもあって、「私」の両親も結婚には反対していた。だが「私」は画家の絵に感動し、ほとんど身一つで画家の淀橋のアパートにやってくる。

「私」の夫の画家は結婚後も、展覧会や大家(たいか)の名前などには無関心で、勝手な絵ばかりを描いていた。貧乏になればなるほど、「私」は自分の力をためすことができて張り合いを感じていた。「私」は、淀橋のアパートで暮らした二年ほど楽しい月日はなかったと述懐している。

この作品は「おわかれ致します。」という、「私」の、夫に対する別れの言葉で書き出されている。画家の夫が急に偉くなって、淀橋のアパートを引き上げて三鷹の家に住むようになってから、「私」には楽しいことが何にもなくなってしまったという。「善蔵を思ふ」もこの作品も、三鷹に引っ越してきたことが生活の変化の契機になっている。太宰が小説家として社会的に認められるようになったのも、三鷹に移住してきてからのことだった。「私」は三鷹に引っ越してきてからのことを、次のように語っている。

《私は、あなたを、この世で立身なさるおかたとは思はなかつたのです。死ぬまで貧乏で、わがまま勝手な画ばかり描いて、世の中の人みんなに嘲笑せられて、けれども平気で誰にも頭を下げず、たまには好きなお酒を飲んで一生、俗世間に汚されずに過して行くお方だとばかり思つて居りました。私は、ばかだつたのでせうか。でも、ひとりくらゐは、この世に、そんな美しい人がゐる筈だ、と私は、あの頃も、いまもなほ信じて居ります。その人の額(ひたひ)の月桂樹の冠は、他の誰にも見えないので、きつと馬鹿扱ひを受けるでせうし、誰もお嫁に行つてあげてお世話しようともしないでせうから、私が行つて一生お仕へしようと思つてゐました。私は、あなたこそ、その天使だと思つてゐました。私でなければ、わからないのだと思つてゐました。それが、まあ、どうでせう。急に、何だか、お偉くなつてしまつて。私は、どういふわけだか、恥づかしくてたまりません。》

「私」は画家の夫を、「芸術家」として、「人」として、「一生、俗世間に汚されずに過して行くお方」と思っていた。ところが、夫の絵があるときから多くの人に愛されるようになり、個展が開かれると新聞でも称賛され、大家(たいか)からも手紙が来るようになる。「私」の家は急に金持ちになり、夫は淀橋のアパートの小さな部屋を恥ずかしがるようになって、三鷹の大きい家に引っ越してくる。

「私」の夫は三鷹に引っ越してきてからは、まるで人が変わったように、お喋りになり、金にこだわるようになってしまう。「私」は、金も何もほしくない、「心の中で、遠い大きいプライド」を持ってこっそり生きていたいと思う。

新聞では夫のことを、孤高、清貧、憂愁、祈りなどという賛辞を並べて書きたてていた。「私」は夫について、清貧でもなんでもないし、憂愁などという美しい影などなく、祈りなんてもったいない。ましてや孤高だなんて、取り巻きの追従の中で生きているだけだと語る。そんな夫の振る舞いを見ていて、「私」は次のように思う。

《世の中の成功者とは、みんな、あなたのやうな事をして暮してゐるものなのでせうか。よくそれで、躓かずに生きて行けるものだと、私は、そら恐しくも、不思議にも思ひます。きつと、悪い事が起る。起ればいい。あなたのお為にも、神の実証のためにも、何か一つ悪い事が起るやうに、私の胸のどこかで祈つてゐるほどになつてしまひました。けれども、悪い事は起りませんでした。一つも起りません。相変らず、いい事ばかりが続きます。》

「私」は「世の中の成功者」となった夫の、ある大家(たいか)の家を訪問したときの「卑劣」な態度を目撃して夫と別れようと思う。「私」は夫を「遠くから批判」できるようになり、「あなたは、ただのお人です。これからも、ずんずん、うまく、出世をなさるでせう。くだらない。」と真情を吐露する。

ここでは「芸術家」としての夫が、「世の中の成功者」となると豹変してしまうことの不可解さが、妻の眼をとおして語られている。「芸術」が認められ、「芸術家」として認められることが、なぜ「世の中の成功者」となるのか。太宰はそのことに懐疑的であって、異議を申し立てたかったのではないだろうか。それだったら、「世の中の成功者」となるために、「芸術」を利用しているだけではないのか。「世の中」の常識に反することを書き、反することを行っているのに、「世の中」に容れられて「世の中の成功者」となるというのは矛盾だし、どこか間違っているのではないか、と。

ここには太宰の〈HUMAN LOST体験〉による、「世の中」や「世の中の成功者」に対する不信感が色濃く反映しているようにみえる。さらに、自分が「世の中の成功者」となりつつある現在に対する違和感も反映しているに違いない。「これからも、ずんずん、うまく、出世をなさるでせう。くだらない。」という「私」の夫に対する言葉は、太宰の自分自身に対する戒めの言葉でもあった。「私」は作品の最後で、夫に対する別れの言葉を独りごとのようにこう訴える。

《電気を消して、ひとりで仰向に寝てゐると、背筋の下で、こほろぎが懸命に鳴いてゐました。縁の下で鳴いてゐるのですけれど、それが、ちやうど私の背筋の真下あたりで鳴いてゐるので、なんだか私の背骨の中で小さいきりぎりすが鳴いてゐるやうな気がするのでした。この小さい、幽かな声を一生忘れずに、背骨にしまつて生きて行かうと思ひました。この世では、きつと、あなたが正しくて、私こそ間違つてゐるのだらうとも思ひますが、私には、どこが、どんなに間違つてゐるのか、どうしても、わかりません。》

「私」のこの思いは、作者太宰自身の思いにほかならなかった。「世の中の成功者」となることより、「背骨の中でかすかに鳴いているきりぎりすの声」が象徴する、「心の中で、遠い大きいプライド」を持ってこっそり生きていたいという、「私」の希求に価値がおかれようとしている。「善蔵を思ふ」の主人公の「私」が、「この薔薇の生きて在る限り、私は心の王者だと、一瞬思つた。」ように、である。


4 「駈込み訴へ」「走れメロス」『新ハムレツト』
太宰治は、ある場面では「芸術家」として振舞い、また別のある場面では「生活者」として振舞うという二重性を生きることに戸惑いを感じていたのかもしれない。「芸術家」という社会的な存在となった自己に対して、自己嫌悪があったからだと思える。

甲府御崎町時代後半の作品「春の盗賊」(昭和14年4月)の中で、主人公は、以前は「世評」を過剰に気にしていたが、「今は、どんな人にでも、一対一だ。」と考える。太宰は自己の存在の仕方を、「世評」という社会的な存在から、「一対一」という個人的な存在に重心を移そうとしているようにみえる。太宰は社会的な関係を無化して、人との関係を「一対一」の個人的な関係に限定することで問題の解決を図ろうとしている。この時期の「駈込み訴へ」(昭和14年12月)「走れメロス」(昭和15年3月)などには、主人公が、社会的な存在としての自己と個人的な存在としての自己という二重性を、「一対一」という個人的な関係に限定しようとする姿が描かれている。

「駈込み訴へ」は、新約聖書のユダが語り手の「私」となって、「あの人」(キリスト)の居所を役所に訴え出たときの語りで構成されている。作品の書き出しで、「私」(ユダ)はキリストのことを「あの人」と呼び、自分の師であり、主であるが、自分との関係は「人と人との間」だと語る。この作品は冒頭で、主人公の「私」(ユダ)によって、ユダとキリストの関係は「一対一」の関係だと表明されていることになる。太宰は師弟という社会的な関係を、あるいは宗教集団の成員という社会的な関係を個人的な「一対一」の関係に限定したときに生じる、個人の内面の劇に焦点を当てている。

さらに「私」(ユダ)はキリストに、説教などやめて母(マリヤ)と私と三人で静かな一生を暮らしていこうと誘ったりする。作品にはキリストとの「一対一」の関係を希求する、「私」(ユダ)の心情が生き生きと描かれている。「私」の心情は太宰が求めていた心情でもあった。「私」(ユダ)はまたキリストとの関係について、「たつた二人きりで一生永く生きてゐてもらひたい」と望むが、こうした「私」の心情は恋愛関係のように内閉していくものでしかなかった。「一対一」の関係を希求する「私」(ユダ)の心情は、キリストのもつ社会性から撥ね返されてしまう。

「走れメロス」では、「一対一」の関係がより強調される。作品の書き出しですでに、メロスは社会的な存在として無化されている。「メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。」とされ、また「メロスには父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。」とされているように、メロスには最初から社会的な関係が免除されている。石工をしている竹馬の友のセリヌンテイウスとメロスとの「一対一」の関係は、メロスと王との「一対一」の関係にまで拡大される。メロスと友との関係にはリアリティがあるが、最後の場面で示されるメロスと王との関係にはリアリティが希薄である。

「駈込み訴へ」や「走れメロス」のように、社会的な関係を「一対一」の関係に限定しても、「一対一」の関係は社会的な関係から撥ね返されてしまうし、リアリティのない話になってしまうことは不可避だった。そこで太宰が試みたのは、「芸術家」と「生活者」という二重性を、言い換えれば社会の成員としての自己と個人としての自己という二重性を、二重性のまま自己の内面の劇として作品化することだった。『新ハムレツト』(昭和16年5月)は社会の成員としての自分にも、個人としての自分にも、均等に比重をおいた人物を描こうとした作品といえる。

『新ハムレツト』の主人公のハムレットは、デンマークの王子という自己の社会的な身分が招き寄せる関係の世界になじめないでいる。ただこの作品ではハムレットの気持ちが、「善蔵を思ふ」や「駈込み訴へ」「走れメロス」のように、ハムレットによって一方的に語られることはない。ハムレットは周囲の人物によって、次のように語られている。

 《出世といふ希望のあるうちは、人はデカダンスに落ちいる事はありません。君には、その希望がありません。落ちてみたい情熱だけです。》(現王。叔父)
《甘えつ子ですよ。朝から晩まで、周囲の者に、ほめられて可愛がられてゐたいのです。その場かぎりの喝采が欲しくて、いつも軽薄な工夫をしてゐます。あんな出鱈目な生きかたをして、本当に、将来どうなることでせう。》(王妃。母)
《乱雲がもくもく湧き立つたのなんのといふ言葉は、これからは、なるべくおつしやらないやうに。とても、まともには聞いて居られません。なんといふ、まづい事ばかりおつしやるのでせう。あなたも、そろそろ子供の父になるのですよ。》(侍従長)

ハムレットは「落ちてみたい情熱だけ」「甘えつ子」と評され、「そろそろ子供の父になる」のにその自覚に欠けていると批判されている。ハムレットは社会的な存在として失格しているとみなされているのである。太宰の〈HUMAN LOST体験〉が、ハムレットのイメージの形成に与っていたに違いない。ハムレット自身も自分のことを、「僕は、どうも、人を信頼し過ぎる。愛に夢中になりすぎる。」と考え、「過度の感覚の氾濫だけ」があると自覚している。

ハムレットのこの性格は、戦後の『人間失格』(昭和23年5月)の主人公の性格と共通のものといっていい。『人間失格』で主人公は、「どこまでも自(おのづか)らどんどん不幸になるばかり」な人物として描出されている。ハムレットも同様に、「どんどん不幸になる」ことを予感させる性格の持ち主である。その性格とは人と人との社会的な関係を、個人との情緒的な関係に収斂させようとする資質を指していた。それは太宰の資質でもあった。太宰には、「一対一」の関係が生かされないような世界では生きていけないという思いがあったのではないか。太宰はそんな資質を無垢なものとして救抜するために、オフィリヤにハムレットのことを「どこやらに、神の御子のやうな匂ひが致します。」と言わせ、『人間失格』でも主人公のことを「神様みたいないい子でした。」と言わせているように思える。

『新ハムレツト』にはまた、『斜陽』(昭和22年6月)の戦後的な言説と考えられそうな、次のような言葉がすでに書きつけられていた。

・『斜陽』かず子の言葉
《けれども、私は、幸福なんですの。私の望みどほりに、赤ちやんが出来たやうでございますの。私は、いま、いつさいを失つたやうな気がしてゐますけど、でも、おなかの小さい生命が、私の孤独の微笑のたねになつてゐます。》

・『新ハムレツト』オフィリヤの言葉
《あたしは、自分を仕合せな女だと思つて居ります。ハムレツトさまに捨てられても、あたしは、子供と二人で毎日たのしく暮して行けます。》

太宰は『新ハムレツト』において、錯乱の後期(昭和20年〜23年)といわれる戦後期の作品の入口にまでたどり着いていた。だが太平洋戦争の勃発(昭16.12.8)によって、太宰治は戦後的な作品の一歩手前でわずかな猶予期間を与えられることになったのである。(了)

                                     (2018.1.27)


【太宰治・作品論】

 1 『人間失格』論1/2   2/2
 
2 後期家庭小説論
 3 『津軽』『お伽草紙』論
 4 『斜陽』と周辺作品論
 5 前期作品論
 6 HUMAN LOST体験
 7 中期作品論[甲府]
 8 中期作品論[三鷹]
 9(終) 中期作品論[戦争]

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