表紙サイトマップ

中期作品論[戦争]

【太宰治作品論 9(終)】 

───────────────────────────────

                                       2018.4.4UP

1 「新郎」
昭和十四年九月に東京三鷹に住居を定めてから、太宰治は、作家としての自己に対する違和感を表明する作品を書くようになっていた。だが太平洋戦争の勃発(昭16.12.8)によって、生活者としての自己や作家としての自己の問題は吹き飛んでしまう。太宰が問題にしていた自己のあり方に対する懐疑は、戦争という外部からやってきた力によって、ある意味で「解決」を与えられることになる。

戦争という現実の中で、個人の意識はどんな状態におかれるのか。戦争末期に二十歳だった三島由紀夫は、そのときの気持ちをこんなふうに書いている。

《かういふ日々に、私が幸福だつたことは多分確かである。就職の心配もなければ、試験の心配さへなく、わづかながら食物も与へられ、未来に関して自分の責任の及ぶ範囲が皆無であるから、生活的に幸福であつたことはもちろん、文学的にも幸福であつた。批評家もゐなければ競争者もゐない、自分一人だけの文学的快楽。……こんな状態を今になつて幸福だといふのは、過去の美化のそしりを免かれまいが、それでもできるだけ正確に思ひ出してみても、あれだけ私が自分といふものを負担に感じなかつた時期は他にない。私はいはば無重力状態にあり、私の教養は古本屋の教養であり、(事実、戦争末期には、金で素直に買へるものは古本しかなかつた)、私の住んでゐたのは、小さな堅固な城であつた。
 ――そして不幸は、終戦と共に、突然私を襲つてきた。》(「私の遍歴時代」昭和38年)

もちろん、戦争末期に二十歳の大学生だった三島由紀夫と、三十七歳の既婚者だった太宰とでは、気持ちの持ち方に違いがあったことは確かだろう。それでも内的な意識の動かし方には、それほど違いがあったとは思えない。戦争の現実という圧倒的な力の前で、個人の意識は内閉する余裕を失い、外の現実に無理やり持っていかれるほかなかったのではないか。このことは意識が自己の外に向けられることで、皮肉にも「不健康」な精神を、ある意味で「健康」にするという効果をもたらしたといえる。太宰も戦争という現実を、「私が自分といふものを負担に感じなかつた時期」と感じていたに違いない。太宰は戦争末期に、「春」(昭和20年3月)というエッセーを次のように書き出している。

《もう、三十七歳になります。こなひだ、或る先輩が、よく、まあ、君は、生きて来たなあ、としみじみ言つてゐいました。私自身にも、三十七まで生きて来たのが、うそのやうに思はれる事があります。戦争のおかげで、やつと、生き抜く力を得たやうなものです。》

戦争のおかげでやっと生き抜く力を得たという言葉は、太宰の本音だったに違いない。戦争の現実が、自己の内閉する意識を外に向けさせ、「生き抜く力」を太宰に与えていたのである。

「新郎」は末尾に、「(昭和十六年十二月八日之を記せり。/この朝、英米と戦端ひらくの報を聞けり。)」と付記されており、太宰はこの作品が太平洋戦争の勃発(昭16.12.8)の報を聞いて書いたものであることを明らかにしている。

「新郎」には作者がそれまで固執していた、生活者としての自己や作家としての自己の問題はきれいに取り払われている。開戦の報を聞いて、太宰の意識は戦争の現実に持っていかれそうになっている。個人の意識は、圧倒的な現実の力の前では無力でしかないのか。このことは依然として現在の問題であり、今後の問題でもある。開戦の日に記したという「新郎」の、作者とおぼしき主人公の「私」は次のように語っている。

《家の者達に就いては、いまは少しも心配してゐないので、毎日、私は気軽である。青空を眺めて楽しみ、煙草を吸ひ、それから努めて世の中の人たちにも優しくしてゐる。》
《一日一日の時間が惜しい。私はけふ一日を、出来るだけたつぷり生きたい。私は学生たちばかりでなく、世の中の人たち皆に、精一ぱいの正直さで附き合ひはじめた。》

ここには、「自分といふものを負担に感じなかつた」(三島)という意識から生じた、「健康」が示されている。だがそれは自分の内部から生まれた「健康」ではなく、戦争という現実から強いられた「健康」といってよかった。戦争という現実が消滅すれば、容易に「不健康」に戻ってしまうような「健康」でしかなかった。

太宰はこうした健康的な明るさが、実は不健康であることに気づかないはずはなかった。太宰はこの作品からほぼ一年後の『右大臣実朝』(昭和18年3月)で、「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」と書いている。「新郎」に描かれているような健康的な明るさを、太宰はその後、「ホロビノ姿」としての「アカルサ」と感じるようになっていたのではないか。

太宰が戦争の現実に、とことん持っていかれることがなかったのは、一つには「アカルサ」に不健康を嗅ぎ取っていたことにあった。もう一つは、戦後、戦時中に書いた『津軽』『新釈諸国噺』『惜別』『お伽草子』などの作品を振り返り、「その時に死んでも、私は日本の作家としてかなりの仕事を残したと言はれてもいいと思つた。他の人たちは、だらしなかつた。」(「十五年間」昭和21年1月)と自負しているように、また「私はねばつて、とにかく小説を書きとほした。」(同)と書いているように、戦時にあっても多くの長編小説や短編集などを「書きとおしたねばり」にあったと思える。


2 「故郷」「散華」
戦時中の太宰に、三島由紀夫と同じような「自分といふものを負担に感じなかつた」という思いがあったとすれば、そのことが太宰に、「私はねばつて、とにかく小説を書きとほした。」という強靭さを与える契機になったと考えられる。

「故郷」(昭和17年11月)は、母の重体を告げられた主人公の「私」(太宰)が、妻と女児を連れて生家の青森県金木を訪れたときのことを書いた作品である。「私」の家族三人は、やつれて寝ている「私」の母と対面するが、「私」はその場の空気にたえきれなくなって、母のそばから離れてひとりで洋室に逃れた。「私」は電気がつかない洋室の、寒い暗闇の中でソファーに寝ていた。しばらくすると妻が洋室に入ってきて、今夜はどこへ泊るのかと聞くが、「私」は十年も故郷に顔出しのできない立場になっていたので、はっきりと答えることができない。「私」と妻は途方に暮れるが、その場面は次のように描かれている。

《妻は、でも、すぐには立ち去らうとしなかつた。暗闇の中に、うなだれて立つてゐる。こんな暗いところに二人ゐるのを、ひとに見られたら、はなはだ具合ひがわるいと思つたので私はソフアから身を起して、廊下へ出た。寒気がきびしい。ここは本州の北端だ。廊下のガラス戸越しに、空を眺めても、星一つ無かつた。ただ、ものものしく暗い。私は無性に仕事をしたくなつた。なんのわけだかわからない。よし、やらう。一途に、そんな気持だつた。》

母が重体という現実、本州の北端にいて泊まるところも思うようにならないという現実、そんな自分の意思ではどうすることもできない現実に直面して、「私」は思う。理由はよく分からないが、無性に仕事がしたくなった。「よし、やらう。」と、一途にそんな気持ちだった、と。

戦争という巨大な現実に直面したときも、この場面と同様に「よし、やらう。」という気持ちになったはずである。戦時にあって多くの小説を「書きとおしたねばり」を支えたのも、太宰のこの「よし、やらう。」という決意だったような気がする。「新郎」の健康的な明るさは、戦争という外部の現実から強いられたものだった。だがこの「よし、やらう。」という決意は、太宰の心の内奥から湧き上がってきたものだった。

「散華」(昭和18年11月)は、アッツ島の玉砕で戦死した大学生の「三田君」のことを書いた作品である。「三田君」は詩を書いていて、作者とおぼしき作中の「私」を慕っていた。「私」は「三田君」の詩を、そんなに感心していなかった。「三田君」は大学を卒業すると、すぐに出征してしまう。「私」の手許には、出征後の「三田君」の便りが四通ある。

「三田君」から受け取った便りの最後の一通は、北海道のアッツ島守備の部隊から発せられたハガキである。「私」はそのハガキの、つぎのような文章に「感動」する。

《御元気ですか。
 遠い空から御伺ひします。
 無事、任地に着きました。
 大いなる文学のために、
 死んで下さい。
 自分も死にます、
 この戦争のために。》

「私」はこの「三田君」の文章に接して、「最高の詩」のような気がしてきたとして、次のような感想を抱く。

《死んで下さい、といふその三田君の一言が、私には、なんとも尊く、ありがたく、うれしくて、たまらなかつたのだ。これこそは、日本一の男児でなければ言へない言葉だと思つた。》
《けれども、あの「死んで下さい」といふお便りに接して、胸の障子が一斉にからりと取り払はれ、一陣の涼風が颯つと吹き抜ける感じがした。
 うれしかつた。よく言つてくれたと思つた。大出来の言葉だと思つた。戦地へ行つてゐるたくさんの友人たちから、いろいろと、もつたいないお便りをいただくが、私に「死んで下さい」とためらはず自然に言つてくれたのは、三田君ひとりである。なかなか言へない言葉である。》

「三田君」は後に、アッツ島の玉砕で戦死する。「私」は「三田君」の最後の便りを三度引いて、「私はあのお便りの言々句々が好きなのである。」と語っている。

太宰はここで、戦争の感性にのみ込まれそうになっているのだろうか。そうではないと思える。「自分も死にます、この戦争のために。」という戦争の感性に、「大いなる文学のために、死んで下さい。」という言葉を対置しているのである。文学のために死ぬということは、戦争のために死ぬということとは反対の感性である。「故郷」で主人公の「私」(太宰)が、無性に仕事がしたくなり、「よし、やらう。」と決意したことと同様な感性であるといっていい。戦争の現実に対して、太宰が「ねばつて、とにかく小説を書きとほ」すことができたのも、このように戦争の感性にのみ込まれることなく戦時を過ごすことができたためである。そして太宰がねばって書きとおした小説も、「戦争のために」ではなく、「文学のために」を貫いたような気がする。

太宰の「よし、やらう。」という決意の意味することは、この時期にねばって書きとおしたと太宰が語っている、その小説のなかに垣間見ることができる。『正義と微笑』(昭和17年3月)では、「うんと勉強しよう。勉強といふものは、いいものだ。」と言う場面にみられるように、「勉強」という言葉が多く書かれている。『右大臣実朝』(昭和18年3月)でも、後に実朝を殺すことになる公暁に対して、実朝が「学問ハオ好キデスカ」と聞き、「ソレダケガ生キル道デス」と言う場面がある。

また、太宰は出身校の青森中学校から、「決戦下に於ける学徒に望む」というテーマの執筆依頼がくると、「勉強」や「学問」に触れて、次のような文章(昭和18年12月)を『青中月報』に書いている。

《戦時に於いても、学問をおろそかにしてはならぬ。殊に中学時代に勉強をなまけてゐる様な男は、何の役にも立たぬ。
 陸海空の軍神達は、すべて学問に於いても抜群であつた様に聞き及ぶ。いつも少し無理なくらゐに勉強せよ。勉強しすぎて、からだを悪くしたなんてのは嘘だ。》(無題・全文)

太宰は「戦争」に「勉強」や「学問」を対置することによって、戦争の感性にのみ込まれることに精一杯抗したといえるのではないだろうか。太宰自身にとって、「勉強」や「学問」とは小説を書き続けることを意味していた。太宰は戦争期に、代表作といえる『津軽』『お伽草紙』をはじめとした、多くの長編小説や短編集などを猛烈な勢いで書いた。それが太宰治の、戦争という現実に対処する仕方だった。(了)

(2018.4.4)

太宰治作品論(完)


【太宰治・作品論】

 1 『人間失格』論1/2   2/2
 
2 後期家庭小説論
 3 『津軽』『お伽草紙』論
 4 『斜陽』と周辺作品論
 5 前期作品論
 6 HUMAN LOST体験
 7 中期作品論[甲府]
 8 中期作品論[三鷹]
 9(終) 中期作品論[戦争]

表紙サイトマップ