埋草コラム
2000.8.11
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炎熱の前橋行―朔太郎記念館を訪ねて
岩田幸吉
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先週白神山地から帰ってきたばかりの、
畏友岩田幸吉さんの文章です。
1 盛夏も極まった感のある七月のさる日、
友人の誘いに促されて前橋に行った。
気温は三十八度を超え、
車は「烈風」にあらず
熱風の高速道路を突き進むこと三時間余り。
それでも車内は
終始エアコンの冷気に満たされていたせいか、
ただ一度だけ立ち寄った
サービスエリアで車外へ出た途端、
炎熱地獄に襲われた。
不思議なことに、
それでからだの方も逆にシャッキリしたというのか
覚悟もきまり、
前橋に着くや所用のある友人とは別れて
独り炎暑の街中をブラつく元気が湧いた。
駅前ではちょうど
納涼会のようなイベントが始まったところで
結構な人混みができていて、
私もしばらくそこに紛れ込むことにした。
かき氷を頬ばりながら
縁日のように立ち並んだ屋台を
覗き込んだりしているとき、
不意にある詩句が思い浮んだ。
最初、それを朔太郎のものかと受けとめたのは
私の迂闊さで
実は伊東静雄のものだったなと
すぐに気付かされた。
けれどもそれはそのとき二人の詩人が
私の意識の中では奇妙に近親的な融合状態を
つくりだしたことのようにも思われた。
2
このことは朔太郎が「わが人に与うる哀歌」を
他に先じて評価した事実などとは別に、
私自身、最近、
これまで読んできた詩人たちの作品を
その風土性の深さとでもいうべき点において
測るという気持が強く、
この二人の詩人についても
その表現にみられる生硬さというか
トゲのようなものが論理や知的硬質さを
いみするものでなく、
どこかでかれらの風土性に
通底しているような気がしていたからだ。
友人の車に便乗して前橋にくる気になったのも
やはりその辺りの事情と無縁ではなく、
朔太郎が上京と帰郷を繰り返しながらも
結局人生の少なからぬ時間を過ごすことになった
この街をいまさらながら
私自身の視野に納めておこうかという気持が
働いたのかも知れない。
3
朔太郎記念館というのがあるときいていたので、
この際そこも訪ねておきたいと思い、
人混みを脱け出してタクシーを拾った。
タクシーは高層のビルが立ち並ぶ官庁街を
右折すると利根川沿いをしばらく走り続け
やがて敷島バラ園なる看板のある
公園(入口)で停まった。
この中に記念館があるとのこと。
季節はずれのバラ園にも
赤松の林の中の記念館にも人影は全く見えず、
そこには萩原家の書斎と離れと土蔵が
移築復元されていた。
こういう行きとどいた環境の中で
保存管理される記念館を含めた
文化的遺産というべきものの
退屈さや風情の無さを非難するつもりは
この際毛頭ないが、
それにしても
ちょっと拍子ぬけさせられたことは事実で、
わざわざこういう場所を訪ねてしまった
自分の安易さが少々悔まれた。
書斎と離れは戸締りがしてあって、
詩人が自ら注文したという家具調度も
レースのカーテンのほか
何も確かめることはできなかった。
仕方なく土蔵の中の展示資料を
小一時間ほど眺めて過すことになった。
4
そろそろ引きあげようかと思っていた矢先、
展示資料として開かれた
ノートか原稿の一行に
「物みなは歳日と共に亡び行く」の文字が
目にとまった。
記念館を出てからもその一行が
何かの痕跡のように頭の中から去らなかった。
それは思想というよりむしろ
退嬰的な感慨に近いかも知れない。
そしてこの感慨はたとえば、
西行でもいい、芭蕉でもいい、
過去の日本の偉大な詩人たちが
等しく共有したものだとしても、
それを日本的回帰などと
それこそ思想のレベルで考えたら
何も始まらないしつまらぬことのように思われた。
私にできるのはせめて
この深い詠嘆にどれほど共振できるかだと
いう気がして、
この詩人が死んだ後の時間が
私の生きてきた時間なのだなどと、
妙な納得の仕方をしてみたりもした。
だが、その時間も既に半世紀を優に超えている。
私はさっき
風土性などということばを持ち出してみたものの、
それが目に見えるような実体でないとすれば
詩人が生きた六十年前の前橋の
街並みだとか風景などというものは
どこにもありようがないし、
かりにその面影をどこかに認めえたにしても
何の関係もないことだといわねばならないだろう。
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