埋草コラム
2001.2.7 友人の岩田幸吉さんから、 ■作品『津軽』からの引用文は次のとおりです。 《東京の人は、ただ妙にもつたいぶつて、チヨツピリづつ料理を出すからなあ。ぶえんの平茸(ひらたけ)ではないけれど、私も木曽殿みたいに、この愛情の過度の露出のゆゑに、どんなにいままで東京の高慢な風流人たちに蔑視せられて来た事か。「かい給へ、かい給へや」とぞ責めたりける、である。》 ■教えていただいた出典は次のとおりです。 河出書房新社刊 日本の古典 平家物語 巻八(現代語訳 中山義秀訳) 猫間 康定は、都へのぼり、参院して、中庭にかしこまって関東の様子をくわしく奏上したので、法皇も大いに御感ありて、公卿や殿上人たちも、笑壷に入られた。 兵衛佐のりっぱなことはどうだろう。あのころ都の守護をしていた木曽義仲は似ても似つかぬほど劣っていた。色の白い好男子であったが、立居ふるまいのぶこつさ、物をいうときの言葉づかいの聞き苦しさは、まったく話にならない。それもそのはず、二歳から三十いくつの時まで、信濃の国の木曽という山里に住み慣れていたのだから、しつけのよいはずがない。 あるとき、猫間中納言光高卿という人が、義仲に相談があって、たずねて来たことがある。郎党どもが、 根井小弥太が給仕をつとめた。ひどく大きな深い田舎合子に飯を山盛りに盛り上げ、お菜三品を添えて、平茸の汁で、食事をすすめた。義仲の前にも、同様の膳を据えた。義仲は、すぐに箸をとって食べはじめたが、中納言は合子がきたならしいので、ためらっていると、 その後義仲は参院したが、官位のある者が直垂で出仕するのはよくないことだと言って、急に狩衣をきた。ところがその装束といい、烏帽子のかぶり方といい、袖から指貫の裾にいたるまで、そのかっこうの見苦しいことははなはだしい。鎧を着て、矢を負い、弓を持ち兜の緒をしめて、馬に乗った姿とは、似ても似つかぬほどみっともなかった。それでもからだをゆがめて牛車に乗った。 牛飼は、屋島の大臣宗盛卿の牛飼で、牛車も大臣殿の持っていたものであった。久しく車を引かせないで、つなぎ飼いしてあった。精力のあふれた強牛に、門をでるやいなや、一鞭くれたから、なんでたまろう、たちまち一散にとび出したので、義仲は車の中で仰向けに倒れた。蝶が羽をひろげたように、左右の袖をひろげ、ばたばた手をあがいて起きようとしたが、どうしても起きあがれない。そこで、義仲は、「牛飼」という言葉を知らないので、木曽言葉で、 さて、院の御所へ着いて、門の前で車かけをはずさせ、後ろから降りようとすると、雑色として使われていた京の男が、 そのほか、おかしなことがたくさんあったが、世間では義仲を恐れて、口にしなかった。牛飼はついに斬られてしまった。 けっこう笑える話ですね。 |