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 埋草コラム

2001.10.26
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「遠くの多数」と「近くの少数」
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ボクシングは好きなので、
昔からよくテレビで見ている。
輪島功一は
いまはだんご屋さんだけれど、
世界チャンピョンだったころ、
一番うれしいのはどんなときかと聞かれて、
リングに上がったとき、
リングサイドから知り合いが、
ガンバレーって声援を送ってくれるときだと、
テレビのインタビューで答えていた。

それを聞いていて意外な気がした。
世界チャンピョンになったときとか、
防衛戦に勝って
ファンに喜んでもらえたときとかいう答えを
予想していたからだ。

ファンのような「遠くの多数」よりも、
知り合いのような「近くの少数」のほうが、
世界選とかを闘っていく上で、
心の支えになっているということになるのだろう。
輪島功一が成し遂げたものの大きさに比べて、
それを支えているものが
身近な小さなところにあるということ、
そのことがとても意外だった。

それからは、
マラソンで優勝した人の、
走り終わった直後のインタビューなどを、
注意して聞くようになった。
喜びを伝えたい人や
支えになった人という問いには、
やっぱり身近な人をあげることが多いように思う。
アナウンサーに、
沿道で応援してくれた人や
全国のファンに一言お願いします、
なんて言われてはじめて、
「遠くの多数」を意識するのではないか。

もちろんそのことは、
ボクシングやマラソンに限らない。
わたしたちの生活だって同じような気がする。
「近くの少数」は家族だったり、
友人だったりする。
そして、
そんな「近くの少数」がなければ、
何にもできないのかもしれない。

でも、である。
「近くの少数」のためにだけ何事もある、
というような倒錯をやってしまうんですねー。
家族思いとか友人思いとかって、
そんな倒錯でもあることが
あるような気がするのですが。
太宰は晩年、
そのことをこんなふうに書いている。

家庭の幸福は諸悪の本(もと)。
(「家庭の幸福」)

ゲスな云ひ方をするけれども、
妻子が可愛いだけぢやねえか。

(志賀直哉のこと・注)」
(「如是我聞」)

「近くの少数」って、
心が生きる場所であるのと同時に、
心が死ぬ場所でもあることは
確かなようです。

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