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 埋草コラム

2002.1.21
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上手な字はみんな似通っているけれど
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大きな声で言うことではないけれど、
私は自分の字を、
すごく下手だと思っている。
自分でもちっとも好きになれない。
しかも、
あるときは大きさが不揃いだったり、
別のときはくねくねしていたりと
いつも違うように下手
なのである。
自分でもどうしてだかよく分からないけれど、
字の形が、
書くたびに違うのですね。

ところで、
幸せな家庭はみんな似通っているけれど、
不幸な家庭はそれぞれ違っている、
というのは
『アンナ・カレーニナ』の書き出しの言葉である。
幸せには「型」があるから
どれも似通っているけど、
不幸には「型」がないから、
それぞれが違っている
ということになるのではないかと、
文豪トルストイの言葉を
勝手に理解しているのですが。

同じように、
上手な字はみんな似通っているけれど、
下手な字はそれぞれ違っている、
といえるのではないだろうか。
そのことは、
一人の人のこととしてもいえると思う。
字の上手な人の字は
いつも同じように上手だけれども、
字の下手な人の字は
いつも違うように下手だ、
というように。

「型」が定まっていればなかなか崩れないが、
「型」が定まっていないとすぐ崩れてしまう。
幸福とか字が上手だとかいうことは、
「型」が定まっていることだから崩れにくいが、
不幸とか字が下手だとかいうことは、
「型」が定まっていないことだから、
崩れやすいといえるのではないか。
「型」が定まっていないことが、
不幸とか字が下手なことの
原因になっていると言っていいのかもしれない。

同じように、
料理のまずい店って、
ぬるかったり、
からかったりと
いつも違うようにまずい
のに、
おいしい店は
いつも同じようにおいしいような気がする。
「型」が定まっているかどうかによるのではないか、
と思う。
そのことで、
料理が崩れやすかったり、
崩れにくいかったりするのではないか。

「型」というのは、
約束事のことだから、
何度もくりかえしやって
身につけるしかないのかもしれない。
字の書順や味付けのさじ加減なんかを
くりかえしやって、
身につけるしかないようだ。
家庭の幸せだって、
約束事に支えられている。
そして、
一度身につけた「型」は崩れにくい。
水泳や自転車から何年も遠ざかっていても、
すこしやってみればすぐできるようになる。
ちゃんと「型」が身についていたからだと思う。

「型」がちゃんと定まっていないうちに
実践に臨むと、
「型」が定着していないから、
そのたんびに違う形が
現れてしまうのではないだろうか。
いつも違うように字が下手だとか、
いつも違うように料理がまずいとかって、
そういうことだと思う。
それは、
「型」という決まり事を理解していないか、
理解できないかのどちらかだと思う。

「型」には考えられる限りでの、
最高の知がつまっているような気がする。
それでも「型」は変化するのだから、
それこそ型どおりにやっていても
駄目なのかもしれない。
家庭の幸福の形だって、
きっと変わるのだから。

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