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 埋草コラム

2002.3.22
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思い出したくない出来事
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思い出そうとすると、
怒りや
悲しみや
憎しみや
恐れや
後ろめたさのような、
否定的な感情を喚起する、
そんな過去の出来事がある。
それで、
思い出すことの厭な出来事や人もあれば、
つい何度も思い出して、
そんな否定的な感情に
浸りきってしまうこともある。

長い時間がたてばたいてい、
過去の感情は希薄になっていくのに、
それを思い出すと、
どうしても恐怖感や嫌悪感にとらえられてしまう、
そんな出来事がある。
そのときの感情が、
いまも同じ強度で保存されているので、
過去の出来事なのに、
感情だけはいまでも生きているように
感じられてしまう。
そしてそのことは、
すごく不幸なことに思える。
過去の感情にとらわれているって、
とても不自由な気がする。

そんな過去の出来事も、
無限のかなたに遠ざけて客観視できれば、
そのときの感情が
呼び起こされることがないかもしれない。
でも、そのことって、
すごく難しい。
自分の体験したことを、
客観的に見るなんて、
そんな簡単にはできない。

ディビット・マス著『トラウマ』(講談社)から、
過去の厭な出来事を、
客観視して遠ざけるヒントを得たように思う。
トラウマ(精神的外傷)を治すやり方として
示されているものだが、
それはこんな方法である。

(イメージする)
映画館の中央に、
私は一人で座っている。
観客はほかに誰もいない。
前には大きなスクリーン、
後ろには映写室がある。
私の魂は体から抜け出して、
映写室に入る。
そこからは、
中央の席に座ってフイルムを見ている、
私自身の後姿が見える。
私は映写室の中から、
スクリーンとそれを見ている私の後ろ姿を
見ていることになる。

スクリーンにフイルムが上映される。
トラウマの原因となった出来事
(たとえば交通事故)が映し出される。
偶然誰かが撮ったビデオを、
見せられているような感じで見ている。
トラウマ体験がはじまる少し前
(楽しそうにドライブしている)から、
フイルムをスタートさせる。
そして、
記憶が薄れかかったところ(車の衝突)で
ストップする。

このときすぐ、
私はフイルムの中に入って、
過去に起こった出来事を、
現実に体験しているように再体験する。
ただし、
ビデオテープを巻き戻すように、
実際の出来事を反対方向に体験する。
こんな感じになる。
私はいま、
衝突した車の中にいる。
衝突した車から、
自分の車が引き離されていく。
そして最後に、
楽しそうにドライブしている
最初の姿が見える。
巻き戻しはすばやく行う。

衝突するまでのフイルムを見ることは苦痛でも、
巻き戻しをすばやく行えば、
楽しそうにドライブしている
はじめのイメージにもどり、
この記憶が後まで残ることになるという。
こうして、トラウマを解消するらしい。

私が実際に体験した交通事故で、
この方法を試してみる。
伊豆で遭遇した、
十数年前の交通事故を思い出すたびに、
小さな恐怖感におそわれていた。
上のやり方では、
こんな感じになる。

(私は映写室から、
観客席の中央に座っている私の肩越に、
スクリーンを見ている。
スクリーンには、
誰かが偶然撮影したビデオ映像が
上映されている。)
広い道路の右方向から、
こちらに向かってクルマが接近してくる。
運転席には私が、
助手席には家人がいるのが見える。
後部座席には、
まだ幼い娘が二人、
横になって寝ているのがかすかに見える。
(私はこの情景を映写室から、
観客席にいる私の肩越に、
スクリーン上に見ている。)

道の左方向に映像が切り替わる。
横道からクルマが突然、
この道に侵入してくるのが見える。
(私はこの情景を映写室から、
観客席にいる私の肩越に、
スクリーン上に見ている。)

映像の中で、
2台のクルマが衝突する。
私のクルマのボンネットはめくり上がり、
緑色のラジエーター液が道路に流れ出している。
クルマの中で、
慌てている私の姿が見える。
(私はこの情景を映写室から、
観客席にいる私の肩越に、
スクリーン上に見ている。)

(このとき私はすばやくフイルムの中に入る。)
私は運転席に座っている。
いま衝突した瞬間だ。
衝撃を感じる。
その直後に、
衝突したクルマはすばやく離れていく。
あっという間に遠ざかり、
すぐ見えなくなる。
私は助手席の家人と話しながら、
楽しそうにドライブしている。
(再体験しながらすばやく巻き戻す。)

こういうふうになると思う。
一連の作業には、
けっこうエネルギーがいるし、
何度かやってみないと
うまくいかないようにも感じられる。
でも終わってみるいと、
気分はそれなりにサバサバしている。
厭な思い出や人を遠ざけたことで、
そのとき味わった感情を
喚起しなくてもすむようになった気がする。

過去の出来事を、
過去に起こったのと同じように再体験するから、
そのときのいやな感情が
よみがえってきてしまうのだと思う。
過去の出来事それじたいではなく、
それにまつわる感情を
消去できればいいのかもしれない。
でもそのことは、
なかなか難しい。

自分がいて相手がいるという場合、
第三の視点から自分を見ることが、
客観的に見ることだと
普通は考えられている。
スクリーンに映った、
自分と相手の姿を見るように、
である。
でもこのことって、
すぐ自分の視点から相手を見たり、
相手の視点から自分を見たりしてしまう。
つまりいつでもすぐ、
スクリーンの中に入って、
当事者になりきってしまうのだ。

この『トラウマ』という本で示されているのは、
そういうやり方ではない。
第三の視点ではなくて、
第四の視点から自分を見るという方法だ。
スクリーンの中の自分を見ている、
観客席にいるもう一人の自分というのは、
第三の視点のことだ。
観客席にいる自分の肩越しに
スクリーンを見ている、
映写室の中の自分とは、
第四の視点だ。

そして第四の視点からは、
スクリーンの中に簡単に入り込めない。
つまりそこからは、
自分のことを遠くに、
客観的に見ることができる
ということになると思う。

その後の、
スクリーンの中に飛び込んで、
過去に体験したことをすばやく、
ビデテープを巻き戻すようにして
再体験するということは、
スクリーンの中の自分を見ているのとは反対に、
いま実際に起こっていることを
体験しているのと同じことになるので、
過去の感情が呼び起こされる。

こうして、
衝突時の恐怖感は
はるかかなたに遠ざけられ、
楽しそうにドライブしている
いま現在の気分が後に残る、
という理屈になるようです。
このやり方で、
すべてがうまくいくのかどうかは
分からないけれど、
やってみる価値はあるような気がしています。

これと似たようなことは、
臨死体験を書いたものでよく聞きます。
ベッドに横たわっている自分の姿を、
斜め上の空中に浮いた自分が見ている。
自分はすでに死んでいて、
ベッドの回りでは近親者が泣いている。
そんな様子を、
空中に浮いた自分は客観的に、
冷めた気分で見ている。
やがて空中に浮いた自分は、
下のベッドにいる自分に向かって
急降下していく。
上の自分と下の自分が重なって
一つになったとき、
目が覚めて生き返る。

『トラウマ』の方法とそっくりだと思う。
死→生、
という方向には何か、
こういった同一のパターンが
ひそんでいるのだろうか。

人が死んでしまえば、
その人は私の中で
無限のかなたに退いてしまうから、
その人にいだいていた感情も無限のかなたに、
ぼんやりと感じられるだけのものになる。
その人に対するいま現在の感情がないので、
ビデオテープを巻き戻すようにして
過去を再体験すると、
その人のいい思い出だけが残るように
なるのかもしれないと思う。


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