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 埋草コラム

2002.12.30
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何を望んでも何もできないからこそ
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たとえば高校のクラス会などで、
こんな光景を目にすることがある。
当時はどちらかというと、
内気で物静かだった人が、
自分がいま会社でどんな立場にいて、
どんな仕事をしているかといったことを、
とうとうと話している。
そういうのを聞いていると、
すごいなぁと思ってしまう。
こんなこともある。
普段は職場などで、
その役目を果たしているとはいえないような人が、
公式の場に出ると、
自分の役目みたいなものを堂々と述べている。

こういうことをたびたび目撃すると、
そこには何か謎があるのではないかと
考えたくなってくる。
好き嫌いや、
いい悪いの問題ではないことだけは、
確かなようだ。
どうもそういうことに、
得意な人と苦手な人がいるらしい。

公式の場で堂々と振る舞うには、
社会的な何かになり切る必要があるのではないか。
会社員になり切ったり、
社長になり切ったり、
歌手になり切ったり、
先生になり切ったりというふうに。
そして、
そのことが簡単にできる人と、
できない人がいるらしい。
だから、
普段は物静かなのに
公式な場になると張り切る人や、
普段はおしゃべりなのに
公式な場になると静かになっちゃう人がいるのは、
私的な場と公的な場との間に、
この「なり切る」ことを境として
大きな断層があるためではないか。

そしてその断層を
うまく跳び越えることができないと、
どちらかの場が苦手ということになるのではないか。
私などどちらかというと、
公的な場にうまく
跳び移ることができないのだけれど、
意識的にも無意識のうちにも、
その場に必要な何かになり切ることを
拒否しているからかもしれないと思っている。
でも、
社会性がないと言われようと、
あまりムリをしないで、
必要最小限社会的であればいいなんて、
もうこのトシになると思ってしまいます。

だから、
社会的な地位や発言力をもつことより、
家族や身近な人たちとの小さな幸せや、
好きなことをこつこつとやっていることの方に、
はるかに大きな幸せを
感じるということになりそうです。

太宰治は昔、
昭和二十二年に望むことと問われ、
「何を望んだつて、何も出来やしねえ。」
と答えている。
この言葉を肯定的な意味で考えることができたら、
そのほうがいいのではないかと、
いまは思っています。

何を望んでも何もできないからこそ、
いまあるものと気持ちよく生きていけたらいい、と。
2003年に望むことです。

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