埋草コラム
2005.11.28
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「深さ」ということ
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先日、「たけしの日本教育白書」
(11月12日21時・フジテレビ)という番組を、
たけしと爆笑問題太田の掛け合いが面白くて見ていたら、「頭がイイ」ということを脳の問題として扱っていた。
ベストセラーとなっている、斎藤孝の一連の著作や、
樋口裕一著『頭がいい人、悪い人の話し方』
などを読んでも、
「頭がいい」
「機転が利く」
「飲み込みが早い」
「知的な会話ができる」
「ユーモアのセンスがある」
「応答が当意即妙である」というようなことが、
価値あるものとされていて、
ここでも頭=脳が問題とされている。
社会的な生活を営んでいくためには、
社交的なセンスとして、
そうしたものは必要であるかもしれない。
けれども、
「頭がいい」とか「機転が利く」とかいうようなことには、
人を夢中にさせる魅力がないのではないか。
ある男やある女に魅力を感じているというとき、
「頭がいい」とか「機転が利く」とかいうこととは、
もっと別のところに惹きつけられているのではないか。
なぜなら、「頭がいい」とか「機転が利く」とかいうことには、
「深さ」が欠けているからである。
頭=脳という問題とは別のことが必要なのだ。
人を強く惹きつけるためには、
どうしても「深さ」が必要だと思う。
その「深さ」とはその人の内奥から
自然に湧き出てくるもので、
「頭がいい」とか「機転が利く」とかいう
浅いところにあるものとは違う。
浅いところにあるものは
意識で何とかなるかもしれないが、
深いところにあるものは意識ではどうしようもない。
深いところにあるものに魅力を感じるのはそれが、
私たちの深いところにある何かに触れるからだろう。
それは人であっても、
音楽や文学であっても同じだ。
ただ、社会的な関係では「深さ」というようなものが、
そんなに求められていないことも確かだ。
だからそこで、「深さ」を求めても仕方ないし、
むしろ邪魔なことかもしれない。
「深さ」は「重いもの・暗いもの」ではないけれど、
社会的な関係では「軽やかさ」を、
人との関係では「深さ」を求めたいと思ってはいても、
なかなか思うようにはいかない。
場違いなところで「深さ」を求めたり、してしまう。
さいきん、宮大工から聞き書きした、
西岡常一・小川三夫・塩野米松著
『木のいのち木のこころ』を読み、
生き方に「深さ」というものがあることを知った。
「世間では記憶力のいい人を頭がいいといいますが、大工の場合は記憶力も大事ですが、手が記憶どおりに動かなくてはなりませんのや。そやから手に記憶させなければあきません。記憶がよく頭で覚えたと思っても、実際に仕事をするときには手が頭についていけないもんでっせ。手に記憶させるには繰り返すしかないですな。経験の積み重ねです。/記憶が悪いわけやないけど、頭のなかだけではどうしても得心がいかない。実際に手で持ってやってみて、少しずつわかって納得がいく。こない人のほうが、一目で見て、話を聞いてわかったという人より後世に名を残す名工になりますな。」(西岡常一の話、92ページ、アンダーライン・赤色は引用者)
「時間がかかるのはしかたがない。要領がよく何をやらせても筋がいいって褒められる人がおるな。そんな人が職人に向いていると思うやろが、違うんや。/いいか、この仕事は早く簡単に覚えるより、じっくり体の芯まで覚え込むほうがいい。そこまで覚えたら絶対に忘れない。頭と体はそこが違う。頭はすぐ忘れるやろ。手は忘れないからな。人が五年でやるところを十年かかってもいい。そのほうが実際に仕事をするようになってから成功する率が高いんや。」(小川三夫の話、292ページ、アンダーライン・赤色は引用者)
頭より手や体を使うこと、
早さより時間をかけること、
つまり「頭を使い早く」ということより、
「手や体を使い時間をかけて」ということのほうに、
「深さ」というものがあるのだと思う。
「頭を使い早く」ということも、
「手や体を使い時間をかけて」ということも、
もちろん比喩的な意味で、
「手や体を使い時間をかけて」のように頭を使えば
「深さ」は得られるし、
「頭を使い早く」のように手や体を使ったのでは
「深さ」は得られないのだと思う。
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