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5 前期作品論

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                            2012.11.16UP
                                  2013.4.19更新(改訂版)

1 年譜的事実と作品
太宰治の文学的生涯は、錯乱の前期(昭和8年〜12年)、安定の中期(昭和13年〜20年)、錯乱の後期(昭和20年〜23年)の三つの時期に区分されている。安定の中期(石原美知子との見合い・婚約(昭和13年)前後〜敗戦)を真ん中に挟んで、前後に錯乱の時期が置かれている。

錯乱の前期(昭和8年〜12年)はさらに、前半と後半に別けることができる。前半(昭和8年〜9年)は、小山初代との結婚と津島家からの分家除籍(昭和5年)、田辺あつみとの心中事件(同年)、左翼運動(昭和7年離脱)などの問題が一段落した後の、相対的な安定期といっていい時期である。

後半(昭和10年〜12年)は、東京帝国大学落第と入社試験の失敗、自殺未遂、薬物(パビナール)中毒、芥川賞をめぐる騒動、借銭、精神病院入院、初代との心中未遂、初代との離別などの問題をひき起こした、混乱期といっていい時期である。

「ダス・ゲマイネ」「狂言の神」「虚構の春」「二十世紀旗手」などの前期・後半の作品は、「思ひ出」「魚服記」「道化の華」「ロマネスク」などの前期・前半の作品と比べ、作品としての解体が深化しているといえる。前期(昭和8年〜12年)を中心とした、太宰治の個人的な出来事と主な作品を、山内祥史氏作成の年譜(1999年筑摩書房版『太宰治全集第13巻』所収)から抜き出してみると次のようになる。

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【1927年/昭和2年】19歳(数え年、以下同じ)
・官立弘前高等学校に入学(4月)、遠縁にあたる弘前市の藤田方から通学した。
・長兄文治(30歳)が青森県県会議員選挙に当選(9月25日)。
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【1928年/昭和3年】20歳
・個人編集の同人雑誌「細胞文芸」を創刊(5月1日付)。
・青森市の芸妓紅子(戸籍名・小山初代、17歳)と知り合う。
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【1929年/昭和4年】21歳
・弟礼治(青森中学在学)が病死(享年18歳)(1月5日)
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【1930年/昭和5年】22歳
・東京帝国大学文学部仏蘭西文学科に入学(4月)。
・井伏鱒二に作品社事務所で会う(5月中旬)。
・三兄圭治が病死(享年28歳)(6月21日)。
・太宰の指示により青森を発った小山初代を、赤羽駅に迎える(10月1日)。
・上京した長兄文治と会談(11月9日)。文治は分家除籍を条件に、初代との結婚を承諾、初代を同伴して帰郷した(分家除籍は11月19日)。
・銀座のカフェーの女給田辺あつみ(戸籍名・田部シメ子、19歳、人妻)と知り合う(11月下旬)。
・鎌倉の海岸にて、田辺あつみと心中を図る(あつみは死去)(11月28日)。
・南津軽郡の温泉場の旅館で、小山初代と仮祝言をあげる(12月)。
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【1931年/昭和6年】23歳
・小山初代が上京(2月)、神田のアパートに住む。その後、五反田、豊多摩郡淀橋町などに転居。
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【1932年/昭和7年】24歳
「列車」[3月下旬頃初稿脱稿(昭和8年1月下旬から2月上旬まで頃発表稿脱稿)]
・長兄文治にともなわれ、青森警察署の特高課に出頭、共産党活動との絶縁を誓約して帰京する(7月中旬)。
・初代と静岡県静浦村に1カ月ほど滞在、「思ひ出」を書きはじめる(7月31日)。
「思ひ出」[秋頃初稿脱稿(昭和8年5月頃発表稿脱稿)]
「魚服記」[11月頃初稿脱稿(昭和8年1月下旬頃発表稿脱稿)]
・青森検事局に出頭、左翼運動との絶縁を誓約して帰京する(12月下旬)。
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【1933年/昭和8年】25歳
「猿ケ島」[5月から秋までに初稿脱稿(昭和10年1月頃までに発表稿脱稿)]
「陰火」[10月頃初稿脱稿(昭和10年8月下旬発表稿脱稿)] 
「地球図」[秋頃初稿脱稿(昭和10年10月23日頃発表稿脱稿)]
「道化の華」[秋頃脱稿]
「葉」[11月頃初稿脱稿(12月頃発表稿脱稿)]
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【1934年/昭和9年】26歳
「玩具」[昭和8年12月から1月まで頃脱稿] 
「猿面冠者」[1月27日初稿脱稿(5月中旬頃発表稿脱稿)]
「彼は昔の彼ならず」[5月下旬か6月初めか頃脱稿]
「ロマネスク」[8月末頃脱稿]
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【1935年/昭和10年】27歳
・東京帝国大学は落第と決定、都新聞社の入社試験を受けるが失敗(3月)。
・鎌倉の深田久弥宅を訪問、鎌倉八幡宮の裏山で縊死を図るが未遂に終わる(3月16日)。
・急性虫垂炎で杉並区阿佐ケ谷の篠原病院に入院(4月4日)。腹膜炎を併発、疼痛鎮静のためほとんど毎日、パビナール(麻薬性鎮痛鎮咳剤)注射を受ける。
・世田谷区経堂町の経堂病院に転院(5月1日。退院は6月30日)。
・千葉県船橋町の借家に転居(7月1日)。
「ダス・ゲマイネ」[8月末脱稿]
・長兄文治が青森県議会議員に当選(9月25日)。
・授業料未納により、東京帝国大学を除籍される(9月30日付)。
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【1936年/昭和11年】28歳
「狂言の神」[5月10日脱稿]
「虚構の春」[5月末から6月1日まで頃脱稿]
・『晩年』が砂子屋書房から刊行(6月25日付)
・上野精養軒において、『晩年』の出版記念会が持たれる(7月11日)。
・パビナール中毒と肺病を癒そうと、単身群馬県谷川温泉の川久保屋に投宿(8月7日)。同地にて、『晩年』が第三回芥川龍之介賞に落ちたことを知り、強い衝撃を受ける(8月11日)。当時の借銭は、18名、451円に及んでいた。
「創生記」[8月末頃脱稿]
「二十世紀旗手」[9月17日頃初稿脱稿(12月29日発表稿脱稿)]
・船橋を来訪した井伏鱒二らが、麻薬中毒治療のための入院を説得、東京武蔵野病院に「慢性パビナール中毒症」の病名で入院(10月13日)。
・東京武蔵野病院を全治退院(11月12日)。
「HUMAN LOST」[11月24日頃脱稿]
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【1937年/昭和12年】29歳
・知友から、前年の太宰入院中の初代との過失を打ち明けられる(3月上旬)。
・初代とともに水上村谷川温泉に行き、心中を図るが未遂に終わる(3月20日頃)。
・三姉あいが死去(享年34歳)(4月8日)。
・初代との離別が決定する(6月)。
・甥(次姉トシの長男)の津島逸朗(東京医学専門学校在籍)が自殺(享年25歳)(10月21日)。
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2 「魚服記」を中心に(よそから来た者)
太宰治は前期・前半の作品(昭和8年〜9年)の多くで、主人公を「よそから来た者」として描いている。そのことは太宰が自分自身を、「よそから来た者」と意識していたことを暗示している。

「列車」(昭和7年)の「テツさん」は、東京の大学に入った、恋人の「汐田」の卒業を待ちかねて、三年後の冬に青森から上京してくる。心変わりした「汐田」は、「テツさん」を国元に送り返す。

「魚服記」(昭和7年)の主人公の父親と娘は、馬禿山(まはげやま)の炭焼小屋で寝起きしている。この山には炭焼小屋が十いくつあるが、父親と娘の小屋は他の小屋と離れて建てられている。父親と娘が「ちがふ土地のもの」であったからである。

「猿ケ島」(昭和8年)の主人公の猿は、ロンドン動物園に連れてこられた、野生の日本猿である。この日本猿は動物園から遁走する。

「地球図」(昭和8年)の主人公の「シロオテ」は、二百年ほど前、伝道のためにローマから日本に来た、「そとから来た外国人」である。「シロオテ」は切支丹屋敷の獄舎につながれ、牢死する。

「道化の華」(昭和8年)の主人公の「葉蔵」は、女と海に身を投げて心中を図るが、自分だけが生き残る。十年来の友人の「飛騨」は、「葉蔵」を「異国人あつかひ」する。

「列車」「魚服記」「猿ケ島」「地球図」「道化の華」の主人公らは、「よそから来た者」として、周囲から疎外され、隔離され、排除される。このことには、作者がこの時期、周囲と齟齬をきたし、疎外感を抱いていたことが反映しているに違いない。

「魚服記」はこの時期の代表作のひとつである。主人公の父親と娘(スワ十五歳)は、本州の北端のぼんじゅ山脈にある、馬禿山の炭焼小屋にふたりきりで寝起きしている。馬禿山の麓の村は戸数二、三〇の寒村で、山には炭焼小屋が十いくつある。父親と娘の小屋は、父親と娘が「ちがふ土地のもの」だったため、他の小屋とよほど離れて、滝の傍にひとつだけ建てられている。

馬禿山の炭焼小屋(十いくつ)は、馬禿山の麓の村(戸数二、三〇)から孤立している。主人公の父親と娘の炭焼小屋は、その炭焼小屋(十いくつ)からも孤立している。父親と娘は「ちがふ土地のもの」であったため、「よそから来た者」として、周囲の社会から孤立しているのである。

■父親と娘の炭焼小屋(1つ)<炭焼小屋(10いくつ)<麓の村(2,30戸)

秋が終わり、日が暮れかけたある日のこと。娘のスワは突然父親に、「おめえ、なにしに生きでるば。」と問いかける。分からないと答える父親に対し、スワは「くたばつた方あ、いいんだに。」と言う。父親は十五歳になるスワが、一人前の女になったから、気が立っているのだと考える。父親と娘はこのように、愛憎の感情をぶつけあうようになっていた。

木枯らしで、朝から山が荒れていた日だった。父親は早暁から、炭を売りに村へ下りて行った。娘のスワは一日中小屋にこもり、めずらしく髪をゆって、父親の帰りを待っていた。髪の根には、父親の土産の飾りを結んでいた。このときのスワの様子は、無意識のうちに父親を誘っているようにみえる。

その夜、父親と娘との間に、近親相姦という出来事が起きる。スワはその衝撃で滝に飛び込むが、いつの間にか、水の底で小さな鮒に変身している。そして、「うれしいな、もう小屋へ帰れないのだ」とひとりごとを言って、あちこちと泳ぎ回る。一人前の女になったスワは、父親(家族)から離脱(親離れ)したことによる解放感を味わっているのである。鮒に変身したスワは、そのうちじっと動かなくなり、やがてみずから滝壺に吸い込まれていく。

周囲から孤立していた父親と娘にとって、父親と娘という閉じられた関係は、愛憎相半ばするものだった。娘のスワは近親相姦によって、父親と娘という関係の中においても、「よそから来た者」という意識を持つようになったのではないか。スワは周囲の社会からだけではなく、家(家族)からも孤立する。

■娘(1人)<父親と娘の炭焼小屋(2人)<炭焼小屋(10いくつ)<麓の村(2,30戸)

スワは滝に飛び込んで鮒に変身した後、みずからの意志で滝壺に吸い込まれて死ぬことになる。鮒に変身することは、人間世界の束縛から解放されることであるには違いない。しかし、それは同時に、人間として存在する根拠を喪失することでもあった。そのことによる孤独感が、スワに死を決意させたのではないか。

娘のスワが「鮒→死」という過程をたどるのは、スワの孤独感の深さを示している。鮒に変身したスワの死を、作者は作品の結びで次のように描いている。

《それから鮒はじつとうごかなくなつた。時折、胸鰭をこまかくそよがせるだけである。なにか考へてゐるらしかつた。しばらくさうしてゐた。
 やがてからだをくねらせながらまつすぐに滝壺へむかつて行つた。たちまち、くるくると木の葉のやうに吸ひこまれた。》

鮒に変身することは、人間であることをやめることを意味していた。そのことによって、スワは自分という存在が、無限に縮小していくのを感じていたはずである。スワは、「いまここに自分はいる」という現存性を否定して、「いまここに自分はいない」という志向性をもつようになる。何かを考えてじっと動かないスワが、まっすぐに滝壺に向かって吸い込まれて行くのは、その志向性を表わす行為のように思える。

スワの「鮒→死」という過程は、自己の存在に対する「縮小→消滅」という否定的な志向性を示している。それは作者自身の志向性にほかならなかった。


3 「思ひ出」(母の不在)
「思ひ出」(昭和7年)は太宰治の自伝的な作品である。「よそから来た者」として、周囲から孤立してしまう、作者みずからの出自を問うている作品である。

幼い子どもは、自分の親(主に母親)を世界の全部と感じている。そのため、自分の親(主に母親)以外から、心の安堵感を得ることはできない。そして、自分の親(主に母親)を喪うことは、世界の全部を喪うことを意味していた。そのため、幼い子どもが自分の親(主に母親)を喪うことは、幼い子どもに、自分の親以外の誰かに(あるいは誰にでも)、安堵感を求めざるをえないようにさせる。

作者と等身大の、「思ひ出」の主人公の「私」は、そのような子どもとして、「叔母」に心の拠りどころを求めて安堵感を得ようとする。この作品は、「私」が「叔母」と並んで、門口に立っているところから始まり、「私」が「叔母」の写真を見ているところで終わる、「私」と「叔母」の物語であるといえる。「私」は自分の両親について、次のように語っている。

・父母……「叔母についての追想はいろいろとあるが、その頃の父母の思ひ出は生憎と一つも持ち合せない。」(4歳(数え年、以下同じ)頃のこと)「父母はその頃東京にすまつてゐたらしく、私は叔母に連れられて上京した。私は余程ながく東京に居たのださうであるが、あまり記憶に残つてゐない。」(6、7歳頃のこと)

・父……「私は此の父を恐れてゐた。」(小学校2、3年頃のこと)

・母……「母に対しても私は親しめなかつた。乳母の乳で育つて叔母の懐で大きくなつた私は、小学校の二三年のときまで母を知らなかつたのである。」(小学校2、3年頃のこと)「母への追憶はわびしいものが多い。」(同)

主人公の「私」には、父母の記憶が、背景に小さくぼんやりとしか映っていない。「私」には自分の外の現実世界が、最初から希薄にしか感じられていないといえる。なぜなら、自分の親を、自分の外の現実世界として感知することからしか、現実世界を把握する方法はないからである。

また、後に『津軽』(昭和19年)で、自己の存在の拠りどころとして見出すことになる、女中の「たけ」もこの作品ではまだ背景に退いている。「いつの間にかゐなくなつてゐた。」と、あっさり書かれているだけである。前景に登場するのは「叔母」である。作者はこの作品で、「叔母」を自己の存在の拠りどころとして、つぎのように描いている。

《またある夜、叔母が私を捨てて家を出て行く夢を見た。叔母の胸は玄関のくぐり戸いつぱいにふさがつてゐた。その赤くふくれた大きい胸から、つぶつぶの汗がしたたつてゐた。叔母は、お前がいやになつた、とあらあらしく呟くのである。私は叔母のその乳房に頬をよせて、さうしないでけんせ、と願ひつつしきりに涙を流した。叔母が私を揺り起した時は、私は床の中で叔母の胸に顔を押しつけて泣いてゐた。眼が覚めてからも、私はまだまだ悲しくて永いことすすり泣いた。けれども、その夢のことは叔母にも誰にも話さなかつた。》(4歳頃のこと)

「私」は、自分の親から得られない安堵感を、「叔母」から得ようとしている。作者の個人的な乳幼児期の体験とは別に、ここには作者の意識の中の、「父母」と「叔母」の位置関係が示されている。背景に小さくぼんやりとしか映っていない、「父母」のイメージに対し、「叔母」は前景に大きくはっきりと焦点を結んでいる。

主人公の「私」は、「家(家族)の内」にいても、「魚服記」のスワと同じように、「よそから来た者」として孤立感に捉えられている。この「思ひ出」という作品は、「母の不在」という場所において、母の代わりに安堵感を得られる対象を見出そうとする物語である。その空白の場所に「叔母」が発見される。

「私」はやがて、県で第一の町にある中学校(旧制)に入学し、遠い親戚に当る呉服店から学校に通うことになる。三年生になって、夏休みに故郷に帰ると、「みよ」という新しい小間使いがいて、「私」は「みよ」に思いを寄せるようになる。ところが、四年生の冬休みに帰郷すると、「みよ」がいなくなっている。「みよ」はある下男に、たった一度汚されたのを、ほかの女中に知られていたたまれなくなり、里へ戻ったと知らされる。

そして、正月が過ぎて、冬休みも終わりに近づいた頃のこと。文庫蔵で一緒に遊んでいた「弟」が、「みよ」の写っている一枚の新しい写真を見つける。「私」はその写真を見て、次のような感想を述べている。

《見ると、みよが最近私の母の供をして、叔母の家へでも行つたらしく、そのとき、叔母と三人してうつした写真のやうであつた。母がひとり低いソフアに座つて、そのうしろに叔母とみよが同じ背たけぐらゐで並んで立つてゐた。背景は薔薇の咲き乱れた花園であつた。私たちは、お互ひの頭をよせつつ、なほ鳥渡の間その写真に眼をそそいだ。私は、こころの中でとつくに弟と和解をしてゐたのだし、みよのあのことも、ぐづぐづして弟にはまだ知らせてなかつたし、わりにおちつきを装うてその写真を眺めることが出来たのである。みよは、動いたらしく顔から胸にかけての輪郭がぼつとしてゐた。叔母は両手を帯の上に組んでまぶしさうにしてゐた。私は、似てゐると思つた。》(傍線・引用者)

この作品の最後の場面である。主人公は、「私は、似てゐると思つた。」と語っているが、誰と誰が似ていると思ったのかは明らかにしない。この言葉の直前に、写真を見ている主人公の視線は、「母」には注意を向けず、「みよ」→「叔母」と移行するように描かれている。そのことからみても、主人公が「みよ」と「叔母」が似ていると思ったと、考えることが自然かもしれない。

しかし、主人公の「私」は、「みよは、動いたらしく顔から胸にかけての輪郭がぼつとしてゐた。」と語っており、主人公が、「みよ」と「叔母」が似ていると思うことは困難であるような気がする。また、主人公は「みよ」とのことは終わったと考えているし、主人公が「みよ」にそれほど気があったとも感じられない。主人公が写真の「みよ」に、強い関心を示す理由は見当たらないといっていい。

何よりもこの作品が、主人公の「私」と「叔母」の物語であることを考えると、「みよ」→「叔母」と視線を動かしてきた「私」が、最後に視線がとまった「叔母」を見て、自分と似ていると感じたと考えるのが自然ではないだろうか。「まぶしさうにしてゐた」と書いている、「叔母」の表情が、「私」と似ていると感じているのではないだろうか。

『津軽』では、「たけ」に「母」を発見した主人公が、自分は「たけ」に似ていると考える。同じように、「思ひ出」の主人公も、「叔母」に「母」を発見し、自分は「叔母」に似ていると考えているのではないか。作者が、誰と誰が似ているとはっきり書かなかったのは、「叔母」に心の拠りどころを発見したことによる安堵感を、一人でひそかに感じていたかったからかもしれない。「叔母」が主人公の「私」を捨てて家を出て行く夢を、「私」が誰にも話さなかったように、である。作者はそれでも、「私」(作者)と「叔母」が似ていることを、示唆したかったに違いない。


4 作者の生い立ち(よそから来た者として)
太宰治は子どものころ、「家(家族)の内」にいても、「魚服記」のスワや「思ひ出」の主人公のように、「よそから来た者」として孤立感に捉えられていた。「母の不在」という場所において、安堵感を得られないまま成長したためである。

幼い子どもは、自分の親(主に母親)を世界の全部と感じている。そのため、自分の親(主に母親)を喪うことは、自己の生存の根拠を喪うことを意味していた。そのことは、「魚服記」のスワのように、現実の自己の存在に対する、「縮小→消滅」という否定的な志向性を持つようになるか。あるいは、「思ひ出」の主人公のように、自己の存在の拠りどころを、自分の親(主に母親)以外の誰かに発見しようとするようになるか、のいずれかに帰着するように思える。

太宰も現実に、自己の存在に対する「縮小→消滅」という否定的な志向性を、自殺未遂や薬物中毒などをたびたび引き起こすという形で示していた。また、作品の中で、「不在の母」の代わりに、安堵感を得られる「母」(「思ひ出」の「叔母」、『津軽』の「たけ」)を発見しようとした。

作者の自伝的な作品である「思ひ出」には、主人公の「私」の、四歳から中学(旧制)四年までの出来事が描かれている。同じ時期の太宰の個人的な出来事を、山内祥史氏作成の年譜(前掲書)から抜き出してみる。

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【1909年/明治42年】1歳(数え年、以下同じ)
・青森県北津軽郡金木村で、父源右衛門(39歳)、母タ子(たね、37歳)の第十子六男(長男、次男は夭逝)として生まれる(6月19日)。戸籍名・津島修治。母が病弱だったため、生まれて間もなく、乳母に預けられた。
※17人の親族に帳場、乳母などを加えると、30数名の大家族だった。父源右衛門は明治34年の補欠選挙で県会議員に当選、明治36年に再選されている。明治37年には県内多額納税者番付の四位に進出、当時、津島家の小作人は300人近くいたという。源右衛門は明治40年に、254坪の邸宅(現在の斜陽館)を新築した。
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【1910年/明治43年】2歳
・乳母が一年たらずで去ったのち、同居していた叔母(母の妹)キヱに育てられた。叔母の一家と、生活のすべてをともにして成長した。
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【1912年/明治45年・大正元年】4歳
・津島家の小作人の娘近村タケ(15歳)が、女中として住み込んだ(5月3日)。主な仕事は太宰治の子守だったという。夜は叔母と寝所をともにしたが、昼はいつもタケと一緒に過ごすようになった。
・父源右衛門が衆議院議員に当選(5月15日)。父が家に帰るのは、一カ月か二カ月に一回で、一週間ほど滞在すると東京などに出かけた。
・父母は東京に一家を構え(秋頃)、そこで過ごすことが多くなった。
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【1916年/大正5年】8歳
・叔母キヱの一家が五所川原に分家(1月18日)。小学校入学直前までの二カ月余を、叔母の家で過ごした。
・金木第一尋常小学校に入学(4月)。
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【1917年/大正6年】9歳
・タケが叔母の家の女中となって、金木を去って行った。タケは翌大正7年7月、北津軽郡最北端の小泊村に嫁いで行った。
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【1922年/大正11年】14歳
・金木第一尋常小学校を卒業(3月)。
・明治高等小学校に入学(4月)、一年間通学した。
・父源右衛門が、青森県多額納税議員補欠選挙に当選、貴族院議員となる(12月11日)。
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【1923年/大正12年】15歳
・父源右衛門が病死(享年53歳)(3月4日)。
・青森県立青森中学校に入学(4月)、遠縁にあたる青森市の豊田方から通学した。
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【1925年/大正14年】17歳
・級友四、五人と、同人雑誌「星座」を創刊(8月)。
・長兄文治が金木町長に就任(10月10日)。
・同人雑誌「蜃気楼」を創刊(11月6日付)。
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【1926年/大正15年・昭和元年】18歳
・三兄圭治と同人雑誌「青んぼ」を創刊(9月1日付)。
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【1927年/昭和2年】19歳
・官立弘前高等学校に入学(4月)、遠縁にあたる弘前市の藤田方から通学した。
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「思ひ出」の中で、主人公の「私」は母について、「母に対しても私は親しめなかつた。乳母の乳で育つて叔母の懐で大きくなつた私は、小学校の二三年のときまで母を知らなかつたのである。」「母への追憶はわびしいものが多い。」と語っている。父についても、「私は此の父を恐れてゐた。」と語っている。

「思ひ出」の主人公が語る母や父の記憶は、太宰の成育歴に関する事実と一致しているかどうかとは別に、作者の両親に対する意識のあり方を示している。太宰には 、「母の不在」という場所で安堵感を得られないまま、子ども時代を過ごしたという思いがあったのではないか。

そのことは年譜からも窺える。17人の親族に帳場・乳母などを加えると、30数名の大家族だったという津島家では、「家(家族)の内」が、「家(家族)の外」の社会に侵食されている状態だったような気がする。それは、「家(家族)の内」という濃密な空間が希薄になることで、家族の一体感が薄れ、「家(家族)の内」が「家(家族)の外」の社会と似てくることでもあった。

子ども時代の太宰には、母親の姿や声が自分から遠ざかり、背景にぼんやりとしか感じられなくなっていたのではないか。太宰はそのため、「家(家族)の内」にあっても安堵感を得ることができず、「よそから来た者」として、孤立感に捉えられていたように思える。


5 「道化の華」など(作品の言葉に注釈)
幼い子どもにとって、「母の不在」という場所で成長することは、どんなことを意味するのだろうか。それは母親の肯定的な眼差しを、得られないまま成長することを意味していた。自分は親(主に母親)の眼中にはない、自分は親(主に母親)から否定的に見られているという、不安感の中で生存することを強いられる。

そのことによって、人は自己を否定的に見るイメージを、自分の中に抱え込むようになり、自分は誰の眼中にもない、誰からも肯定的に見られていないという、不安な思いに捉えられるようになる。そして、自分の心的および身体的な行動がすべて、誰からも無視され否定されているように感じる。その結果、他者の眼差しをいつも意識し、自分の行動を自分が不安な眼差しで見つめているほかなくなる。

太宰治は作品「思ひ出」において、「不在の母」の代わりに「叔母」を「母」として発見し、安堵感を得ようとした。しかし太宰は、「母の不在」という成育歴による不安感を、潜在的に抱え込んでいた。そのことは、「誰か見てゐる」不安として、「思ひ出」の中で次のように描出されている。

《私が三年生(旧制中学・注)になつて、春のあるあさ、登校の道すがらに朱で染めた橋のまるい欄干へもたれかかつて、私はしばらくぼんやりしてゐた。橋の下には隅田川に似た広い川がゆるゆると流れてゐた。全くぼんやりしてゐる経験など、それまでの私にはなかつたのである。 うしろで誰か見てゐるやうな気がして、私はいつでも何かの態度をつくつてゐたのである。私のいちいちのこまかい仕草にも、彼は当惑して掌を眺めた、彼は耳の裏を掻きながら呟いた、などと傍から傍から説明句をつけてゐたのであるから、私にとつて、ふと、とか、われしらず、とかいふ動作はあり得なかつたのである。》(15、6歳頃のこと)(傍線・引用者)

「思ひ出」の主人公の「私」は、現実の自分の行動をいつでも不安な眼差しで見つめていた。そのため、「誰か見てゐるやうな気がして」と、他者の眼差しをいつも、間近に意識しないではいられなかった。その結果、「掌を眺める」「耳の裏を掻く」といった、自分の「いちいちのこまかい仕草」にも不安な眼差しを向け、「彼は当惑して掌を眺めた」「彼は耳の裏を掻きながら呟いた」というように、自分の行動に対してその直後に、「傍から傍から説明句をつけてゐた」のだった。

この時期の作品においても、「傍から傍から説明句をつけてゐた」ということは、作品の言葉に自己注釈をくり返すという形で行われる。自分の心身の行動(仕草、書くことなど)は、自分の姿を映す鏡である。その行動に不安な眼差しを向けるということは、そこ(仕草、書いた作品など)に映った自分の姿に、不安な眼差しを向けることにほかならなかった。

さらに、その鏡(作品)に映った自分の姿は、「現実の自己」の姿として、自分だけではなく、他者に対する存在にもなる。作品を見る他者は、「現実の自己」を見る他者と意識されるため、「誰か見てゐるやうな気がして」というように、他者に対する不安となる。その結果、作品の言葉の「いちいちのこまかい仕草」にも、自己注釈の言葉をくり返すということが行われる。

それは「掌を眺める」「耳の裏を掻く」といった仕草に対して、その仕草の直後に「説明句」をつけていたことと同様な心的な振る舞いだといえる。作者はそのことを「玩具」(昭和9年)の中で、「一こと理屈を言ひだしたら最後、あとからあとから、まだまだと前言を追ひかけていつて、たうたう千万言の注釈。」と書いている。

この「千万言の注釈」の代表作である「道化の華」(昭和8年)では、その注釈が次のように表現されている(「数字」「・」「『 』」は引用者が記入。1に対する注釈が2、2に対する注釈が3、3に対する注釈が4)。

《1・『その日のひるすぎ、葉藏の兄が青松園についた。兄は、葉藏に似てないで、立派にふとつてゐた。袴をはいてゐた。
 院長に案内され、葉藏の病室のまへまで來たとき、部屋のなかの陽気な笑ひ声を聞いた。兄は知らぬふりをしてゐた。
(中略)
 兄は、にはかに饒舌になつた。
「飛騨さん。院長先生のお供をして、これからみんなでひるめしたべに出ませうよ。私は、まだ江の島を見たことがないのですよ。先生に案内していただかうと思つて。すぐ、出掛けませう。自動車を待たせてあるのです。よいお天気だ。」』
 2・『僕は後悔してゐる。二人のおとなを登場させたばかりに、すつかり滅茶滅茶である。葉藏と小菅と飛騨と、それから僕と四人かかつてせつかくよい工合ひにもりあげた、いつぷう変つた雰囲気も、この二人のおとなのために、見るかげもなく萎えしなびた。僕はこの小説を雰囲気のロマンスにしたかつたのである。はじめの数頁でぐるぐる渦を巻いた雰囲気をつくつて置いて、それを少しづつのどかに解きほぐして行きたいと祈つてゐたのであつた。不手際をかこちつつ、どうやらここまでは筆をすすめて來た。しかし、土崩瓦解である。』
 3・『許して呉れ! 嘘だ。とぼけたのだ。みんな僕のわざとしたことなのだ。書いてゐるうちに、その、雰囲気のロマンスなぞといふことが氣はづかしくなつて來て、僕がわざとぶちこはしたまでのことなのである。もしほんたうに土崩瓦解に成功してゐるのなら、それはかへつて僕の思ふ壺だ。悪趣味。いまになつて僕の心をくるしめてゐるのはこの一言である。ひとをわけもなく威圧しようとするしつつこい好みをさう呼ぶのなら、或ひは僕のこんな態度も悪趣味であらう。僕は負けたくないのだ。腹のなかを見すかされたくなかつたのだ。しかし、それは、はかない努力であらう。あ! 作家はみんなかういふものであらうか。告白するのにも言葉を飾る。僕はひとでなしでなからうか。ほんたうの人間らしい生活が、僕にできるかしら。』4・『かう書きつつも僕は僕の文章を気にしてゐる。』》

作者は「道化の華」の中で、「僕はこの小説の一齣一齣の描写の間に、僕といふ男の顔を出させて、言はでものことをひとくさり述べさせた」と書いている。この作品では、作中の「僕」が、作品の言葉に注釈を加え、さらに「僕の注釈」に「僕」が注釈を加えるという、注釈のくり返しが行なわれる。作者はそのことを「僕」に、「注釈だらけのうるさい駄作」と言わせている。

「玩具」(昭和9年)では、物語として叙述されるはずの、あるひとりの男の三歳二歳一歳の思い出はもはや、作品の片隅に追いやられてしまっている。「前言を追ひかけていつて、たうたう千万言の注釈」(「玩具」)が、注釈に対する注釈のくり返しという形で、作品の前面にあらわれている。

「猿面冠者」(昭和9年)でも、「風の便り」という物語は背景に退いてしまっている。その物語を書こうとしている、「男」に対する「千万言の注釈」が作品の主題になっている。

作品の言葉に自己注釈をくり返すということは、「うしろで誰か見てゐるやうな気がして、私はいつでも何かの態度をつくつてゐたのである。」(「思ひ出」)と述べられているように、自分が感じている他者の「否定的な眼差し」を否定しようとして、「何かの態度」をつくろうとすることである。さらに、その「態度」に対する「否定的な眼差し」を意識し、その「否定的な眼差し」を否定しようとして、さらに別の「何かの態度」をつくろうとすることである。その悪循環が、自分の行動に対する説明句、作品の言葉に対する自己注釈のくり返しとなったと考えられる。

「誰か見てゐるやうな気がして」と書いているように、作者は他者の存在をいつでも間近に、ひりひりと感じないではいられなかった。他者の眼差しを意識し、自分の行動を自分が、不安な眼差しで見つめている状態であるといえる。この時期の作品は、作品の言葉に自己注釈をくり返すという形で、作品の解体自体が作品となっている。それは、足ぶみをして停滞している、作者の内面の状態を象徴していた。

そのことは作者によって、「私は、すべてに就いて満足し切れなかつたから、いつも空虚なあがきをしてゐた。」(「思ひ出」)と、正確に捉えられている。作者は心の安堵感を、幼い子どものように他者(幼い子どもの場合は主に母親)から得ようとしているため、独力で自分自身に「満足」を与えることができないのである。自分の行動に対して、納得感が得られていない状態であるといえる。

作者は、作品の言葉に注釈をくり返すことで、自己のイメージを作っては壊し、作っては壊しという行為をくり返して、肯定的な自己のイメージを探し出そうと試みているようにみえる。そのことは、「不在の母」の代わりに、「叔母」を「母」として見出しても、限定的にしか、太宰の心に安堵感を与えるものではなかったことを示している。

太宰には、自分に向けられる不安な眼差しが、いつまでも・どこまでも自分の影のようについてくると、感じられていたのではないだろうか。自分が自分を不安な眼差しで見つめている限り、その眼差しは自分と一緒に、どこまでもついてくるのだった。


6 「ロマネスク」「彼は昔の彼ならず」(自己と他者への過大な評価・期待)
太宰治は「母の不在」という場所で、自己を肯定する眼差しを、自己の内部に獲得することができないまま成長したに違いない。そのため、あるがままの自分を無条件に受け容れる存在は、自分しかいないと無意識のうちに考えるようになっていたのではないか。自分が自分に肯定的な眼差しを向けることで、肯定的な自己のイメージを獲得し、安堵感を得ようとしていたのではないか。

そのことは、「よそから来た者」としての自分を、周囲より高い位置にいるために孤立していると考える、「自己に対する過大な評価・期待」につながっていったように思える。なぜなら、「母の不在」によって、自分の外の現実世界が希薄にしか感じられないと、人は、「現実の自己」より、内心の「自己のイメージ」の方が価値が高いとみなすようになるからである。

太宰は一方で、自分と他者は一体化していると考えようとしていた。そのため、他者は作者の気持ちを、作者自身が直接感じ取っているように察知して、作者と同じように受け容れてほしい・受け容れるべきだと考えていたのではないか。そのことは、「自己に対する過大な評価・期待」を、相手も同じように受け容れてほしいと考える、「他者に対する過大な評価・期待」につながっていったように思える。

「自己に対する過大な評価・期待」も、「他者に対する過大な評価・期待」も、自分だけの欲望・願望にもとづいて潤色した、自己と他者に対する恣意的なイメージでしかないため、現実の世界では挫折するしかなかった。自分の存在を、「現実の自己」と「恣意的な自己のイメージ」に二重化し、「現実の自己」より「恣意的な自己のイメージ」に比重をおいて、現実の世界で振舞おうとするからである。

そのことは「ロマネスク」(昭和9年)で、「仙術太郎」「喧嘩次郎兵衛」「嘘の三郎」の行動として、次のように描かれている。

「仙術太郎」の場合、太郎は一年ほど修行して体得した仙術で、「津軽いちばんのよい男になりたい」と念じる。ところが、仙術の本が古すぎたため、太郎の顔は天平時代の仏像の顔に変わってしまう。落胆した太郎は、やり直そうとするが駄目だった。その理由を作品には、「おのれひとりの欲望から好き勝手な法を行つた場合には、よかれあしかれ身体にくつついてしまつて、どうしやうもなくなるものだ。」と書かれている。太郎は村にいられなくなり、旅に出ることになる。

「おのれひとりの欲望」(「津軽いちばんのよい男になりたい」)によってイメージされた自分の姿とは、恣意的なイメージ(「好き勝手な法」)でしかなかった。しかもそれは、「欲望」という身体生理に根拠をおいているため、「身体にくつついてしまつて、どうしやうもなくなる」のだった。このような恣意的な自己のイメージは、自己と一体化してしまう(「身体にくつついてしまつて」)ために修正できず、現実の世界では挫折するしかなかったのである。

「喧嘩次郎兵衛」の場合も、次郎兵衛は「喧嘩の上手になりたい」という、「おのれひとりの欲望」から、喧嘩の修行を三年積んで、「何かしら大物」のようになる。しかし、喧嘩の機会は訪れてこない。次郎兵衛は結婚して二月目の晩に、「おれは喧嘩が強いのだよ」と花嫁にじゃれて、喧嘩の真似事をやってみせる。すると花嫁は、ころりところんで死んでしまう。次郎兵衛は重い罪に問われ、牢屋に入れられる。自己の欲望にもとづいてつくった、自己の恣意的なイメージはやはり、現実の世界では挫折するしかなかったのである。

「嘘の三郎」の場合も同様である。三郎は八歳のころ、「ピストルを自分の耳にぶつ放したい発作とよく似た発作」(「おのれひとりの欲望」)から、友人を殺してしまう。三郎はその犯罪を消そうとして、嘘をつくうちに、「嘘のかたまり」のようになる。嘘は酒と同じように、だんだんと適量が増えてきて、「人間万事嘘は誠」という言葉が、「皮膚にべつとりくつついて」しまう。嘘をつくという自己のイメージが、自分の身体の一部になってしまっているのである。三郎はある日、朝から出かけていった居酒屋で、仙術太郎と喧嘩次郎兵衛に出会う。そこで二人に向かって、「いまにきつと私たちの天下が来るのだ。」と、大嘘を吐く。

このように、自分だけの欲望・願望にもとづいて潤色した、自己についての恣意的なイメージは、自己と一体化して自分の一部になってしまう。その恣意的なイメージを保持したまま、現実とかかわろうとすると、周囲と齟齬をきたさざるをえない。本人が「恣意的な自己のイメージ」を他者に差し出そうとしても、他者はその本人を「現実の相手」としてしか受け取らないからである。

しかし、本人は、「現実の自己」より、「恣意的な自己のイメージ」の方が価値が高いと考えているから、「恣意的な自己のイメージ」 の挫折を、他者の責任とみなそうとする。その結果、他者のさりげない仕草を、自分に向けられた好意や敵意として、恣意的に意味づけて受け取るようになる。そのことによって、本人は自分の影のようについてくる、自分に向けられる不安な眼差しを感じないではいられなくなる。

作者はこうしたことが、自分に対する自分の意識の問題であることを、「彼は昔の彼ならず」(昭和9年)で、自覚的に取り出してみせた。作品の語り手である「僕」の貸家には、「木下青扇」が住んでいる。この作品は、主人公の「僕」が、借家人の「青扇」について語るという構成になっている。

「青扇と僕との体臭がからまり、反射し合つてゐる」と、「僕」が語るように、「青扇」とは「僕」の投影された姿にすぎない。「青扇」と「僕」の関係は、「僕」に対する「僕」の関係であるといえる。そのことは、作者と作者の投影された姿である他者との関係、つまり、作者の自分自身との関係の問題として置き換えることができる。

「青扇」は、「僕」と逢うたびに変化している。1年の間に、同居している女性が3回変わる。職業もそのつど、書道教授、無線電灯の発明、小説家などと、いずれも出任せの返答を「僕」にする。「僕」はその「豹変ぶり」に、「青扇」が「天才」である所以を感じ取ろうとする。「僕」は「青扇」に対して、次のように過剰な関心を示す。

《訪れるたびごとに何か驚異と感慨をあらたにしてくれる青扇と、この文法の作例として記されてゐた一句(「He is not what he was.」・注)とを思ひ合せ、僕は青扇に対してある異状な期待を持ちはじめたのである。》(傍線・引用者)

「僕」が「青扇」に示す「異状な期待」とは、「僕」の「自己に対する過大な評価・期待」が、「他者に対する過大な評価・期待」となって投影されたものである。「僕」の「自己に対する過大な評価・期待」が、「僕」の影である「青扇」の振る舞いの意味を、過剰に受け取っているのである。そのことを作者は次のように書いている。

《僕が彼(青扇のこと・注)の豹変ぶりを期待して訪れる気持ちを彼が察して、その僕の期待が彼をしばりつけ、ことさらに彼は変化 をして行かなければいけないやうに努めてゐるのであるまいか。あれこれと考へれば考へるほど青扇と僕との体臭がからまり、反射し合つてゐるやうで、加速度的に僕は彼にこだはりはじめたのであつた。》 (傍線・引用者)

「僕」の期待を「青扇」が察して、「青扇」は変化に努めていると、「僕」に理解されている。それは「青扇」と「僕」が、体臭がからまるほど一体化していて、お互いの姿を反射し合っている結果だと考えられている。「僕」の自分自身との関係が、「僕」と「青扇」の関係に投影されているのである。

「僕」には、「自己に対する過大な評価・期待」があるため、「彼(青扇・注)の豹変ぶりを期待して訪れる(僕の・注)気持ち」を、「青扇」は察してほしい・察するべきだという、「他者に対する過大な評価・期待」が生じている。「青扇」の「豹変ぶり」「変化」とは、「僕」が自身の願望によって「青扇」を自由に操り、「青扇」のイメージを恣意的に潤色して思い浮かべた結果にすぎない。

「僕」と「青扇」の関係の問題は、「僕」の自分自身との関係の問題であり、「青扇」のイメージは「僕」によって、恣意的に意味づけられたものでしかなかった。作者はそのことを、作者自身の問題であると意識しつつ、「僕」に次のように語らせている。

《ふつうの凡夫(青扇のこと・注)を、なにかと意味づけて夢にかたどり眺めて暮して来ただけではなかつたのか。竜駿はゐないか。麒麟児はゐないか。もうはや、そのやうな期待には全くほとほと御免 である。みんなみんな昔ながらの彼であつて、その日その日の風の工合ひで少しばかり色あひが変つて見えるだけのことだ。》 (傍線・引用者)

「僕」は「自己に対する過大な評価・期待」によって、「僕」の影でしかない「青扇」の振る舞いの意味を過剰に受け取り、「青扇」に「異状な期待」を示していた。しかしそれは、「僕」の自分に対する「異状な期待」(過大な自己評価・期待)が投影したものでしかなかった。「僕」はそのことに気がついて、「そのやうな期待には全くほとほと御免である」と語っている。

「自己に対する過大な評価・期待」をなくしてしまえば、他者は「みんなみんな昔ながらの彼」で、「その日その日の風の工合ひで少しばかり色あひが変つて見えるだけ」だと、作者に気づかれているのではないだろうか。そのことは作者が、自己と対象(他者)との距離感に、意識的であろうとしていることを証しているような気がする。作者はそれまで、対象(他者)との関係を性的な関係のような、距離のない一体化した関係と考えていたのである。

作品の語り手である「僕」は、「ふつうの凡夫を、なにかと意味づけて夢にかたどり眺めて暮して来ただけではなかつたのか。」と語っている。この言葉は、作者の内心から聞こえてくる声であるように思える。その声とは、自分のこれまでの人生は、「自己に対する過大な評価・期待」によって、他者のさりげない仕草を好意や敵意として恣意的に意味づけ、過剰に受け取ってきただけなのではないかという、作者の内奥から聞こえてくる声である。


7 「ダス・ゲマイネ」「狂言の神」など(縮小→消滅を志向)
前期・後半の作品(昭和10年〜12年)が書かれたのは、太宰治が東京帝国大学落第と入社試験の失敗、自殺未遂、薬物(パビナール)中毒、芥川賞をめぐる騒動、借銭、精神病院入院、初代との心中未遂、初代との離別などの問題をひき起こした時期に当っている。

こうした問題をひき起こすたびに、太宰は社会からも家族からも疎外され、「よそから来た者」として、孤立感を深めていったと考えられる。この時期の作品は、「魚服記」の主人公のスワのように、現実の自己の存在に対する「縮小→消滅」という否定的な志向性を示している。それは作者自身の志向性でもあった。

作者は作品「思ひ出」において、「不在の母」の代わりに、「叔母」を「母」として発見した。しかし作者は、「母の不在」に由来する不安感を、潜在的に抱え込んでいた。この時期の孤立感の深化は、この潜在的な不安感を、自己の存在に対する「縮小→消滅」という否定的な志向性として浮上させたといえる。

それは、作者が自己の資質をあぶり出すようにして描いた、「思ひ出」の言葉でいえば、「私は散りかけてゐる花弁であつた。すこしの風にもふるへをののいた。人からどんな些細なさげすみを受けても死なん哉と悶えた。」ということになるかもしれない。自己の存在に対する縮小感(少しの風にも震えおののいている、散りかけている花弁)に、身を縮めている意識が、自己の存在の消滅(死なん哉と悶えた)を志向している姿であるといっていい。

それは自分の気持ちが、相手の顔色に左右されて、揺れ動くような心の状態である。「いまここに自分はいる」という手応えを、得られない状態であるといえる。そのことはまた、「恣意的な自己のイメージ」が現実の中で挫折することによって、希薄に感じていた「現実の自己」が浮上してくることでもあった。

「ダス・ゲマイネ」(昭和10年)は前期・後半の作品である。作品の語り手である「私」(佐野次郎)は、電車にはね飛ばされて死ぬことになるが、その直前の様子を次のように語っている。

《私はひとりでふらふら外へ出た。雨が降つてゐた。ちまたに雨が降る。ああ、これは先刻、太宰(作中人物の「太宰治」のこと・注)が呟いた言葉ぢやないか。さうだ、私は疲れてゐるんだ。かんにんしてお呉れ。あ! 佐竹の口真似をした。ちえつ! あああ、舌打ちの音まで馬場に似て来たやうだ。そのうちに、私は荒涼たる疑念にとらはれはじめたのである。私はいつたい誰だらう、と考へて、慄然とした。私は私の影を盗まれた。何が、フレキシビリテイの極致だ! 私は、まつすぐに走りだした。歯医者。小鳥屋。甘栗屋。ベエカリイ。花屋。街路樹。古本屋。洋館。走りながら私は自分が何やらぶつぶつ低く呟いてゐるのに気づいた。――走れ、電車。走れ、佐野次郎。走れ、電車。走れ、佐野次郎。出鱈目な調子をつけて繰り返し繰り返し歌つてゐたのだ。あ、これが私の創作だ。私の創つた唯一の詩だ。なんといふだらしなさ! 頭がわるいから駄目なんだ。だらしがないから駄目なんだ。ライト。爆音。星。葉。信号。風。あつ!》 (傍線・引用者)

「私」(佐野次郎)には、自分から口に出した言葉が、他人(作中人物の太宰、佐竹、馬場)の言葉にしか聞こえていない。自分の言葉を、自分の言葉のように感じることができず、「私はいつたい誰だらう」と考えて慄然とし、「私は私の影を盗まれた」と考える。「私」(佐野次郎)は、自分自身に不安な眼差しを向けているため、自分の存在を他者に依存してしか確認できなくなっているのである。

「私」(佐野次郎)は、自分の心(言葉)が他人に盗まれてしまっているという、「現実の自己」の存在に対する縮小感に身を縮めているようにみえる。その縮小感の行き着いたところに、予定されていたように死がやってくる。「私」(佐野次郎)の死に関して、作中人物の馬場は作品の最後で、「人は誰でもみんな死ぬさ。」と佐竹に言う。この作品には作者自身の、自己の存在に対する「縮小→消滅」という、否定的な志向性が示されているような気がする。

また、作品の言葉に自己注釈をくり返すことによって、作品の解体自体を作品とする試みについても、この時期の作品はその解体が深化している。

「狂言の神」(昭和11年)は作者自身の、前年の鎌倉での縊死未遂を題材にした作品である。作品の冒頭には、縊死したという笠井一なる人物による履歴書の下書きが示され、それに対して「この数行の文章は……」と、作中の「私」の注釈が書きつけられる。さらに、「今は亡き、畏友、笠井一もへつたくれもなし。ことごとく、私、太宰治ひとりの身のうへである。」と、作者の自己注釈(種明かし)がつけ加えられ、鎌倉における「私、太宰治」の縊死未遂が語られる。

そして、「自己喪失症とやらの私には、他人の口を借りなければ、われに就いて、一言半句も語れなかつた。」と、自己縮小感(他者依存)が明らかにされる。さらに、現実の自己の存在を消滅したいという、「私、太宰治」の縊死未遂が述べられている。最後に再び、「ああ、思ひもかけず、このお仕合せの結末。」と注釈がつけ加えられ、「なあんだ。」という注釈(自嘲)で終わっている。

「虚構の春」(昭和11年)は、作中人物の「太宰治」に宛てられた、書簡(注釈)だけで構成されている作品である。「ダス・ゲマイネ」の「私」(佐野次郎)には、自分から口に出した言葉が、他人の言葉にしか聞こえていなかった。「虚構の春」の作中人物の「太宰治」も、現実の自己の存在に対する縮小感に身を縮めているため、自分の言葉を自分の言葉のように感じることができない。「私は私の影を盗まれた」と語る「佐野次郎」と同じように、自分の心(言葉)が他人に盗まれてしまっている。そのため、自分宛の他人の言葉(書簡)を、自分の言葉であるかのように考えることによってしか、自分の存在を確かめることができない。

「創生記」(昭和11年)「二十世紀旗手」(同)では、作品の言葉に自己注釈を加えるという方法が、次のように極点に達している。作品の解体自体を作品とする方法自体が、解体しているといえる。

《与へるに、ものなき時は、安(とだけ書いてふと他のこと考へて、六十秒もかからなかつた筈なれども、放心の夢さめてはつと原稿用紙に立ちかへり書きつづけようとしてはたと停とん、安といふこの一字、いつたい何を書かうとしてゐたのか、三つになつたばかりの早春死んだ女児の、みめ麗はしく心もやさしく、釣糸噛み切つて逃げたなまずは呑舟の魚くらゐにも見えるとか、忘却の淵に引きずり込まれた五、六行の言葉、たいへん重大のキイノオト。惜しくてならぬ。浮いて来い! 浮いて来い! 真実ならば浮いて来い! だめだ。)》(「創生記」) (傍線・引用者)

「創生記」では、「安」という一字をめぐって、「安といふこの一字、いつたい何を書かうとしてゐたのか」と、自問自答がくり返される。作品を書くという行為が、60秒ほどの「放心の夢」で中断され、「はたと停とん」してしまうからである。書くという現実の行為より、「他のこと考へて」という「放心の夢」の方が、作者の心の内では優先されている状態であるといえる。そのため、作品の言葉に自己注釈を加えるという方法が、ここではその言葉の意味にではなく、書くという作者の行為自体に向けられている。

このことは、作者が作中の人物に、「私はいまかうしてゐます、ああしてゐますと、いちいち説明をつけなければ指一本うごかせず咳ばらひ一つできない。」(「ダズ・ゲマイネ」)と語らせずにはいられないほど、作者が現実の自分の行為に、不安な眼差しを向けていたことを物語っている。作者の心の内は、「安」という一字をめぐる自問自答にみられるように、「放心の夢」に占有されている。作品を書くという行為自体が、足ぶみ状態におかれていると感じさせる。

《壱唱 ふくろふの啼く夜かたはの子うまれけり/さいさきよいぞ。いま、壱唱、としたためて、まさしく、奇跡あらはれました。ニツケル小型五銭だまくらゐの豆スポツト。朝日が、いまだあけ放たぬ雨戸の、釘穴をくぐつて、ちやうど、この「壱唱」の壱の字へ、さつと光を投入したのだ。奇跡だ、奇跡だ、握手、ばんざい。》(「二十世紀旗手」) (傍線・引用者)

「二十世紀旗手」では、「壱唱」と書いた原稿用紙の「壱」の字に、朝日が当っていることに対して自己注釈が行われる。自分が書いている文字にも、書くという行為にも意識は向けられていない。「壱」の字の意味にでも、「壱」の字自体にでもなく、「壱」の字に朝日が当っていることが注釈の対象とされる。作品(作者)は身動きのとれない状態に陥っていると感じさせる。

作者にはすでに、現実の自己の存在に対する「縮小→消滅」という否定的な志向性が、麻薬中毒治療のための、東京武蔵野病院入院(昭和11年10月13日)という形でしか残されていなかった。(了)
                                      (2012.11.15)  (2013.4.18改訂)

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