落語ネタの不思議なお話「後生鰻」

 

三遊亭円窓師匠の紹介文から」引用いたします。噺の骨子は以下のようなものです。

オチに違和感があるかもしれませんが。読んでみて下さい。

 

隠居の毎日の楽しみは神社仏閣をお詣りして歩くこと。その道すがら生き物が殺されようとしていると、

どんなことをしても助けていた。
 浅草の観音さまの帰りがけ、鰻屋の前を通ると、親方が鰻をまな板の上へ乗せて包丁を入れようとしているところ。
 慌ててこれを言い値で買って「これ、鰻よ。これから先は決して人につかまるところで泳ぐんじゃないよ。

わかったかな。南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ」と言って前の川へボチャーンと放り込み、

「ああ、いい後生をした」と晴々とした気持ちで帰った。
 翌日もお参りの帰り、鰻屋の前を通り、同じように鰻を買って放してやる。次の日も同じ。何日も続いた。
 その度に鰻屋は隠居の足元を見て値段を吊り上げるから、隠居も「金が掛かりすぎるわ」と悩んで、

ここしばらく、鰻屋の前を通らずに帰るようにした。
 そんなある日、鰻が切れて鰻屋は商売を休んでいるところに、隠居がやってきた。
 鰻屋は一儲けしようとするが、肝心の鰻がない。生き物ならなんでもいいだろうと、
 発作的に赤ん坊をまな板の上に乗せて、頭の上で出刃包丁を振り回した。
 これを見た隠居は店へ飛び込んできた。
 金を払って赤ん坊を引き取り「これ、赤ん坊や。こういう家に再び生まれてくるんじゃないぞ、わかったな。

南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ」てんで、前の川へドボーン!


(圓窓のひとこと備考)
 タイトルにある"後生"とは、死んでから極楽に行くために、この世で人助けなどのいいことをすることだそうだ。
 この噺は考えようによっては残酷な話である。
 廃業して落語協会の事務員になった三遊亭市馬が「これでは赤ん坊が可哀想だ」と、猫にして演ったが

ほとんどうけなかった。
 確かに実際に赤ん坊を買い取って川に投げ込むような人がいたら、誰だって許さないだろう。

だが、落語の世界でこれを演じると、聞き手は隠居のなしたことを許すわけではないが、

「馬鹿なやつがいるもんだ」と笑って、どこかで優越感を味わっているのかもしれない。
 猫ではそこまでいかないのであろう。やはり、残酷のようだが、赤ん坊でなければいけないのだ。
 残酷であって、残酷でないという妙な噺でもある。

 

 

円窓師匠はこのように解説されております。

 残酷であって、残酷でないという妙な噺」であると。

たしか、先代の遊三師匠が高座によくかけていたと記憶しております。

確かにそうですね。場面を想像すると凄惨なことになるので、何で落語がこんな話ということなのでしょうが。

市馬さんの気持ちもわからないではないですね。

「鼠穴」という落語も途中には凄惨なストーリになっていて、円生師匠の表現力の余りにリアルなもので、

嫌な噺だったころがあります。特に人情噺にはけして愉快ではない筋が入っていることが多いようなきがしています。

「塩原多助一代記」でも多助の身代わりに殺されてしまう円次郎という人物がいますが、凄惨な死に方をしております。

正蔵師匠の怪談話には、凄惨な場面の塊でした。

「後生鰻」も終盤は何か無理があるようなつくりになっているようなのですが、この噺が残っているということは、聞き手に

残酷なものを感じさせない噺家の話術があるからなのでしょうか。



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