「江戸はエコ都市」

 

「地球の温暖化」や「CO2削減」、「スローライフへの回帰」などが話題になっていますが、落語の世界の江戸では

どのような都市生活や社会インフラの整備がなされていたのでしょうか。

江戸は人口100万人の当時全世界でも有数の都市でした。

江戸は徳川により「計画都市」として築かれています。

江戸城を中心に武士と住民の明確な住み分け、庶民の町は職業によって住み分けされており。それが町名として

残っています。これは尾張、紀州などにもいえますが、例えばこんな町名があるようです。

「大工町」「紺屋町」「塩町」「河岸町」「魚町」「干物町」「照り降り町」「寺町」など・・・・・・・・

江戸は面積の80%が武士の住む地区で、残りに庶民が住んでいました。武士は江戸城の周辺で、庶民は

下町地区です。

新宿や目黒あたりは農村で、田園風景が続いています。品川を出ると先は江戸ではなくなります。高輪に大木戸があってここまでが江戸市内ですね。これが五街道それぞれにあるので、江戸は今よりもかなり縮小された範囲にあった

のです。

今の新橋演舞場あたりは一面が藪で覆われていて治安が悪いところです。

 

では市街地においてはどうだったのでしょう。

水利は良くなかったようで、井戸を掘ってはいるのですが清潔な水は得られませんので、水屋という商売があって

水を売りにきたのです。この商売は辛いものでした。なにしろ水を供給するわけですから休むわけにはいかないの

です。天秤に担いでの商売ですから肩にとってはきついものです。

野菜の供給はといいますと。近郊の農家が供給します。冷蔵庫はないので保存が利きませんし、トラックで運ぶわけ

にもいきませんから、日持ちの悪い野菜は近場で作ります。小松菜などはそうなりますし、大根はちょっと離れて

目黒、練馬あたりで作られます。さつまいもなどは日持ちしますので、もっと離れてもいいわけで、川越くらいまで

いいわけです。そうやって農産物は近郊から供給されてきます。野菜を天秤で担いで、農家の人が江戸の街で

売り歩くので、八百屋などは必要が無かった。

下水は、生活廃水は排水溝がめぐらされているのでそこを流れていきます。便所は水洗ではありませんが、農家が

くみにきますので、長屋の大家さんはこれが収入源になっていた。農家はこれを肥料にして野菜を作って江戸に

供給するという循環型の仕組みになっていました。

魚介類は日本橋の河岸に水揚げされます。何故日本橋なのかというと江戸城に近いためです。江戸城は大消費地

ですからなるべく近いところがよかったわけです。

河岸で仕入れた魚屋が天秤担いで売り歩く。商家や長屋を回って歩くわけです。

生活用品は小間物屋の店に行くか「担ぎ」といって売りに来ます。

いろいろな商人が売り歩きます。

江戸は家事が多かったので、家財道具などをそろえていても焼けてしまっては仕方が無いので、質屋が重宝でした。

鍋や釜、着物などは質に入れておく。質屋には蔵があって保管しておきますから、火事でも大丈夫でした。

必要なときには受け出すか、「入れ替え」といって代わりの物をもっていっていくわけです。

リサイクルショップの原型みたいなもので、引っ越すときも家財道具は質屋に入れて、引越しさきでは別の質屋から

調達をするというわけです。ここでも循環型の仕組みになっています。

物価が安定していますし資産価値が目減りしないので、資産と金の循環を質屋が仲介したわけです。

銀行はなかったけれど、「頼母子講」という共済制度のようなものがありました。

 

環境ですが、市街をコンクリート覆っていないので、ヒートアイランド現象なんてありません。

エアコンは無いので自然の力で冷却する。地面を石畳で覆うこともできましたが、そうすると地熱が逃げないので

暑いのです。土のままにしておけば打ち水などをするし、夕立がくれば涼しくなります。

緑が多かったのも冷却効果がありました。

冬はかなり寒かったはずです。暖房システムがないし、長屋ではすきま風も入ってくる。炬燵は普及していない。

炭は暖房用に使用するのですが、部屋全体を温めることはできないわけで、江戸の人々は冬は寒さに耐えていた。

一年を通じてCO2の排出量は現代と比較すれば限りなく0%に近いでしょう。

資源の循環と自然に合わせた生活方法は江戸がエコ都市であったということでしょう。