5. 追憶


「ほんとに塩ばっかりなのね」
 しゃがみこんで地面に触れながら、メリルはつぶやいた。
 塩で固められてしまった広大な大地。風が吹く度に、その表面を無数の白い粉が舞っていく。

 ビリーは彼女から少し離れて馬を引いていた。今2人は集落から程近い塩の原野に立っていた。
 侵食異世界から解放されてから、昼間はこの死の大地にもめったに魔物も出なくなったとジェイクは言って、メリルに塩の原野を見せてやるようにビリーに勧めた。
 『ブラッドさんは僕らが見てますから』と、彼はなぜか嬉しそうに馬を2人のために用意してくれた。 まさかカノンの『婚前旅行』発言を間に受けたんじゃないだろうなと思いながらビリーは嘆息した。 ジェイクの気遣い―悪く言えばおせっかい―は、昔から変わらない。加えてお人好しな性格である彼を、アシュレーに似ているなとビリーは時々思う。

「ビリーさんはどの辺に住んでいたの?」
 立ち上がって、スカートの裾の塩を払いながらメリルはビリーに尋ねた。ビリーは西の方に目を向けた。
「この北西にアークハイムという大きな街がある。俺が住んでたのはその街から少し離れた小さな集落だ」
「ブラッドさんも?」
「いや‥あいつはアークハイム出身だ」
 ビリーの側に歩み寄って、メリルは彼の視線を追った。
「幼馴染みとか、そんなんじゃないんだね」
「この国には徴兵制度があった。あいつと知り合ったのは18の時、軍隊で‥」
 不意に言葉を切り、ビリーは静かに笑った。メリルは不思議そうに彼を覗き込んだ。
「‥あいつは実は、資産家の息子なんだよ。そうは見えんだろうが」
「そうなの?へえ〜、なんか意外ね」
 メリルは目を丸くした。

 他愛のない会話。
 過去の思い出話をしたところで、今この白い大地には何も残されてはいない。
 自分が生まれ育った場所も今では塩に埋もれ、もう本人にさえわからないかもしれない。

 風になびく亜麻色の髪を押さえメリルは少し言い淀んでいたが、やがて思いきってビリーに尋ねた。
「‥シンシアさんって、どんな人だったの‥?」
 彼女の口から出たその名前に、ビリーは一瞬だが表情を固くした。
 少しの間、2人の間に沈黙が流れた。乾いた風がさらさらと音を立てて塩の大地を撫でていく。
「‥‥そうだな‥いつも明るくて、前向きな奴だったよ」
 ビリーはメリルを見ずに、風の渡る塩の原野を眺めながら呟いた。
「気が強くて、言い出したら聞かなかった‥言葉を変えれば『頑固者』だな」
 口元に少しだけ笑みを浮かべて、ビリーはメリルを見た。メリルも少し微笑んだ。
「きれいな人だった‥?」
「‥ああ」
「‥‥そっか‥」
 2人はまた黙り込んで、 ゆっくりと馬を引きながら、風に撫でられさざ波のような音を立てる塩の大地を歩き出した。



 シンシアはブラッドの腹違いの妹である。そのためかあまり似ていない兄妹であった。栗色の髪と、深い碧色の瞳だけは同じだったが。
 ブラッドは代々有力な軍人を輩出している資産家の息子であったが、母を早くに亡くし、厳格な軍人気質で冷徹な父親に反発して次第に家には寄り付かなくなっていった。いわゆる放蕩息子である。
 シンシアは父親と妾の間に生まれた子供で、その母親は彼女を産んで間もなくこの世を去っている。
 家庭を顧みない身勝手な父親が妾の子供に愛情を注ぐはずもなく、他に身寄りのないシンシアは辛く孤独な少女時代を送っていた。そんな境遇の中、兄のブラッドだけは2つ年下の妹を可愛がっていた。 親の愛情に飢えた生活であったにもかかわらず彼女が前向きな性格であったのは、兄の存在があったからと言っても過言ではない。
 ブラッドが徴兵制度に従い軍へ入隊する時、彼の父親はシンシアを家から追い出そうとした。これが原因でブラッドは父親と大喧嘩となり、殆ど絶縁状態となった。
 当時まだ若年だった彼だが 、行き場を無くした妹のためにできる限りの資金をかき集め、何とか彼女をシエルジェの学校へ留学させることに漕ぎ着けたのである。
 ビリーは軍隊でブラッドと出会った。
 資産家出身者であるはずなのに、何故かいつも金欠の彼を不思議に思っていた。人なつっこいブラッドはといえば、寡黙で頼れる男ビリーに『なついて』いた。
 ビリーはブラッドにとって実に頼りになる男であると同時に、無骨で生真面目なその人柄のため、茶化して遊ぶ格好の標的となっていた。 もちろん彼を気に入ってのことなのだが、ビリーはそんな彼を時折持て余していた。
 一見優男風のブラッドではあったが、その飄々としたとぼけた様子とは裏腹に、内面には確固たる信念を持ち合わせており、仲間達の面倒見も良く、人望も厚かった。
 当時の支配階級は、過剰な軍事政策に反発する民衆への武力行使の気配を見せ始めていたが、それに対するブラッドの憤りは、父親に対するそれと近いものがあったのだと気付いたのは随分後の話だ。
 ビリーはブラッドに共感を覚えることは多々あったし、自分をやたらと頼ってくるのも悪い気はしなかったので、自然と彼と共に行動することが多くなった。 そうするうちに親友―くされ縁とも言う―と呼べるほどに親しくなっていた。

 彼に妹がいると初めて知ったのは、彼女が留学を終えて帰国する時だった。
 ブラッドは妹を迎え入れるため、ビリーにどこかの空家を用意できないか頼み込んでいた。妹の帰る場所がない理由をブラッドは簡潔にビリーに伝えた。 ビリーはそれ以上深く追求せず、自分の家の近所の空家を集落の村長に頼んで2人のために提供してもらった。
 シンシアは初めはビリーを少し敬遠していた。近寄りがたい風貌のせいだったかもしれないが、いつも兄を持て余している様子が妙に可笑しくて、気にはなっていた。
 ビリーもシンシアにはどう接するか困っていた。 彼女が自分を怖がっているように見えたのでいつも少し距離を置くように心掛けていたが、私生活がだらしない兄のブラッドを叱り飛ばしている彼女の姿が何となく微笑ましく彼の目に映っていた。

 ある日、ブラッドの父親が死んだ。
 ブラッドは無言だった。軍から慶弔休暇―当時は軍もその程度の融通は効いた―を与えられたが実家に戻ろうともせず、その休暇をぼんやりとビリーの村で過ごしていた。
 ブラッドの休暇中に、ビリーも休暇が与えられたので村へと戻った。彼にはブラッドとシンシアが放心しているように見えた。
 ブラッドは生い立ちを多く語らない。シンシアも同じだ。そのことが彼等の育った家庭の複雑さを物語っていた。早くに両親を亡くしているビリーには伺い知れない事情なのであろう。 その休暇中、ビリーはブラッドと殆ど言葉を交わすことはなかった。
 そんなある日、集落から少し離れた丘にシンシアがいるのをビリーは見つけた。もう夕暮れも近く魔物が出没し始める時間だったので、ビリーは彼女に声をかけた。
 シンシアは泣いていた。声も上げずに。ただ大粒の涙がとめどなく彼女の目からこぼれ落ちていた。
 自分を少しも愛してくれなかった父親の死に、なぜこれほど涙が溢れるのか彼女にはわからなかった。
 ビリーはどうしたものかと思ったが、かといって彼女を1人ここへ残すのは心配だったので、随分長い時間黙って彼女に付き合ってそこにいた。
 何も聞かない―それが彼にできる唯一の心遣い、そして優しさだった。
 夕刻の空が茜色に彩られるまでシンシアは長い間泣いていたが、その間ずっと黙って自分に付き合ってくれているビリーの思いやりに心が安らいでいくのを感じていた。
 『一緒にいてくれてありがとう』
 やがて泣き止んだシンシアは、ビリーに優しく微笑んだ。

 いつしか2人は惹かれあい、深く愛しあうようになる。ブラッドは、ようやく妹が見せた幸せな笑顔を嬉しく思った。あの男なら妹を幸せにしてくれる。そう確信していた。
 同じ頃、スレイハイムは行き過ぎた軍事化への道を歩もうとしていた。
 月日が流れ、やがて民衆は祖国の為に決起する。解放戦争は2人に安らかな日々を許さなかった―。



 この塩の原野の下にどれだけの哀しい思いが眠っているのだろう―。
 メリルはふと足を止めた。一面に広がる塩の大地を見つめ、そっと頭を垂れて目を伏せる。

 神様。この大地に眠る人達の魂をどうかお守り下さい。
 こんな哀しい過ちが2度と繰り返されないように見守っていて下さい―。

 ビリーは祈りを捧げるメリルを眺め、自分も胸の内でそっと祈ってみた。
 戦火の中、命を落とした数多くの民衆。共に戦った仲間達。そしてシンシア。
 祈りを捧げることで彼等の魂が救われるなら、何度でも祈りを捧げたい。心からそう思った。

「‥そろそろ戻ろう」
 ビリーは顔を上げたメリルに告げて、馬を引き寄せた。
 メリルはセボックで馬の放牧を手伝うこともあるので、1人で馬に乗ることぐらい簡単にこなせた。 しかしビリーは、メリルと馬に乗る時は必ず彼女を軽々と抱き上げて先に馬に乗せてやるのだ。
 女性に対する最低限のマナーと思っているのだろうか。そうすることがどれだけ彼女を動揺させるのか、彼は気付いていないのだろう。 メリルの心臓はその度に激しく脈打つ。鼓動がビリーに伝わってしまうのではないかと思うくらいに。
 メリルを乗せて自分も馬にまたがると、ビリーは集落の方向へ手綱を引いた。
 その時、遥か彼方から響いてくる地鳴りを2人は感じ取った。2人は音のする方へ目を向けた。
「ジェイクが言ってるのは、これか‥」
 ビリーは音のする方へ目を凝らした。その彼方には、廃墟となったスレイハイム城があるはずだ。
「ほんとにただの地震じゃないのかな?」
 メリルはビリーを見上げた。
「‥だといいが」
 ぽつりと呟き、ビリーは集落へ向かって馬を走らせた。
 メリルは胸の鼓動を押さえつつビリーにつかまり、地鳴りの響いてきた方向に不安げな視線を向けた。

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