7. 予兆


 彼は柔らかな闇の中にいた。
 随分長い間、彼はたった独りでそこにいる。
 闇の中ではあるが、ちゃんと目も見えるし音も聞こえる。 しかしその目に映るのは、彼にとってまるで他人事のような世界でしかない。

 ここ数日周りの風景が随分変わったが、彼はそれを結構楽しんでいた。
 不安に感じることもあったが、側にはいつもと同じ人物がいてくれたので『大丈夫』と思った。

 いつもと違う空気、いつもと違う風景―。彼にとってそれは初めてではない気がした。
 この土地に来てから、いつもの柔らかな闇の中に揺らめきたつ『光』が見えるようになった。
 『光』の中に女性がいる。何か語りかけているようだが、彼の耳には届かない。
 その女性はいつももどかしそうに、『光』の中で彼を見つめている。
 彼と同じ栗色の髪。彼と同じ深い碧色の瞳―。


 ガタン、という物音にビリーは目を覚ました。
 夜明けが近いようだがあたりはまだ薄暗い。部屋の窓から紫色に染まった夜明け前の原野が見える。 ビリーはジェイクの家の1室で眠っていたのだが、物音がしたので体を起こし、あたりを見回した。
「‥‥‥ブラッド!?」
 薄暗い室内の床にブラッドが倒れていた。ビリーは飛び起きてブラッドに駆け寄った。
「どうした?‥‥大丈夫か?」
 ビリーに助け起こされて、ブラッドは力なくその場に座り込んだ。 ビリーはその時初めてブラッドが、眠っていた場所からかなり離れているところに這いつくばっていたことに気がついた。 不自由な足を引きずって、彼は自力でここまで這い出してきたのだ。
 ビリーはブラッドの顔を覗き込んだ。ブラッドは薄暗い闇の中、視線を泳がせていた。

「―夢でも見たのか?」
 ビリーはブラッドに静かに尋ねた。ブラッドは特に反応を見せず、今はとても眠そうにしていた。
 ふああ、とあくびをするブラッドにビリーは苦笑して、彼を抱えて寝床へと戻してやる。 体を横たえると、ブラッドはすぐに眠ってしまった。そんな彼の様子にビリーは嘆息した。

 単に寝ぼけただけのようにも見えるが、ビリーは違うような気がしていた。 なぜそう思うのかは説明できないが、不思議な確信が彼の中にあった。
 長い年月を共に過ごしてきた親友である。彼のことはビリーが一番わかっている。 ブラッドの心には次第に光が差しているのかもしれない。


 夜明けまでまだ時間があるので、ビリーはもう一眠りしようかと思った。 しかし夜明け前の原野から無気味に響いてきた地鳴りに、彼は小さな窓から外をうかがった。
 原野を渡る冷たい風の音に混じって、魔物の咆哮のような無気味な地鳴りは響いてきた。 ビリーは未だ薄闇に沈む塩の原野に目を凝らした。
 動くものは何も見えない。しかしビリーは胸騒ぎがした。
 何も見えないが、何かがいる。ビリーが手をかけていた窓枠とそのガラスが小刻みに振動する。

 近い―。
 そう感じ取ったビリーは、素早く枕元に置いてあったマイトグローブを手に取り、眠っているブラッドを残して部屋を飛び出した。
「ビリーさん!」
 家を出ようとした時ジェイクと鉢合わせになった。 彼もこの異変にいち早く気付いたのだろう、右手に小銃を持って険しい顔をしていた。2人は無言のまま外へ飛び出した。

 東の地平線が茜色に染まりつつあった。夜が去ろうとしている薄闇の空には、星達が残り僅かな光を懸命に瞬かせている。 夜明けを待つ広大な塩の原野は幻想的な色に彩られ、絵画のような不思議な美しさであった。 しかし残念ながら、今は日の出をのんびり待っている場合ではない。
 住人達が不安そうに家から出てきていた。いつもの地鳴りとは明らかに異なっている。 彼方から響いてくるわけではなく、まるで自分の足下から響いているような―。

「見ろ」
 突然ビリーの頭上から声がした。ビリーは顔を上げ、いつのまにか屋根に上っていたカノンを見つけた。 カノンは無言で、集落の北の外壁あたりを顎で指した。
 地面が裂けていた。さらに目を凝らすと、その地割れは塩の原野から一直線に集落へと走っていた。
 地鳴りは止んでいた。しかし今この場を支配する耳の痛くなるような静寂に、人々は恐怖を感じずにはいられなかった。

「ビリーさん‥」
 いつのまにかメリルが側に来ていた。ビリーは肩ごしにメリルをちらと見た。
「中に入っていろ」
 ビリーは手早くマイトグローブを装備しメリルに告げた。メリルはこわばった表情で黙って頷き、家へ戻ろうとした。
「ブラッドさん?!」
 メリルの声に、ビリーは驚いて振り返った。家の入り口付近まで、ブラッドが懸命に這い出してきていたのである。 メリルはあわてて彼に駆け寄った。
「どうしたんですか?さあ、危ないから中に‥」
 メリルが言い終わらないうちに、集落の北の外壁が轟音と共に崩れ落ちた。住人達から悲鳴が上がった。
「みんな中へ入れ!早く!!」
 ジェイクは小銃を構えながら、背後の仲間達に叫んだ。ほぼ同時にビリーと屋根の上にいたカノンは戦闘体制に入っていた。 ただの地震では考えられない外壁の崩れ方に、地中から何かが現れることを今彼等は確信していた。
 メリルは未だ前進しようとするブラッドを押しとどめていた。 ブラッドは住人達の悲鳴にあふれたこの恐怖の空間にいるにもかかわらず、不思議と静かな落ち着いた表情を浮かべていた。
「だめです、ブラッドさん!早く中へ!」
 メリルは彼女の細腕で懸命にブラッドの体を抱え込み、とりあえず彼を家の中まで引き込んだ。

 崩れた外壁の最後の丸太がゆっくりと倒れた後に、それは地中から身をよじって這い出してきた。
 辺りは未だ薄闇に包まれてはいたが、それはビリー達の目にしっかりと焼き付いた。
 土塊をばらまきながらのろのろと這い出すそれは、無数の棘に巨体を覆われた醜い蟲のように見える。 以前からこの塩の原野に出没するアンデッドとは明らかに異なる醜悪な化け物に、ビリー達は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 低い咆哮とともに、それは一気に彼等へ突っ込んできた。その巨体とは裏腹に意外と動きが素早い。
 ビリーは咄嗟にその化け物の鼻先に数発発射した。反対側に飛び退いていたジェイクも同時に小銃を発射する。 被弾したその蟲は怒りの咆哮を上げ、その巨体を大きくよじらせた。棘に覆われた太い胴体を、家の壁に勢い良く打ちつける。
「きゃあッ!!」
 蟲の動きから身を翻したビリーの耳に、メリルの悲鳴が飛び込んできた。 メリルは家の入り口付近でブラッドをかばうようにしていたが、いきなり蟲の巨体がぶつかってきたので、彼女はブラッドに覆いかぶさって彼を守ろうとしていた。
「メリル!」
 ビリーは叫び、家の壁を突き崩そうとする蟲に弾丸を浴びせた。その体の棘が弾き跳び、蟲は苦悶の咆哮を上げてわずかに壁から離れた。 すかさずビリーはメリルとブラッドの側に駆け寄った。
 カノンはそれを見逃さず、自分の左手のギミックを外した。彼女の体の殆どは義体と呼ばれる人造のものである。彼女の体そのものが敵を倒すための、自分を守るための武器となっていた。
 小さな機械音と共に彼女の左手首はヒュン、と風を切って、ビリーの先程の攻撃によって棘の失われた蟲の首―おそらくそう思われる部分―に、目にも止まらぬ早さでからみついた。
 カノンの攻撃に身をよじり腹を見せた蟲に、ジェイクはありったけの弾丸を見舞った。 小銃を持って飛び出してきた彼の仲間達も一斉に発砲した。化け物は口から腐臭のする粘液をまき散らし、今一度その巨体をよじらせて咆哮を上げた。
 蟲を締め上げていたカノンはその反動を利用して、屋根から勢い良く跳んだ。並外れた跳躍力も彼女の義体の成せる技である。 カノンは素早く右手の内蔵式ブレードを構え、蟲の真上から一気に振り下ろした。
 一瞬の内に勝負はついた。
 蟲は断末魔の咆哮と共にカノンによって一刀両断にされ、真っ二つに裂かれた巨体をずしん、と地面に横たえた。 それはしばらくの間ひくひくと無気味に痙攣していたが、やがて動かなくなり、その体はぼろぼろと土塊のように崩れ落ちた。

 ビリーはメリル達をかばいながら醜悪な蟲の化け物が動きを止めたのを確かめ、彼女に向き直った。
「大丈夫か?」
 尋ねながら、ビリーはメリルの肩口が切れて血を滲ませているのに気付いた。あの蟲の棘がかすめたのだろう。 ビリーは彼女の腕を取り、傷口をうかがった。
「‥大丈夫よ、かすっただけだから‥」
 メリルは未だ恐怖に震える声で、ひきつった笑みを浮かべながらビリーに答えた。ビリーはブラッドに視線を移した。 彼は動かなくなった蟲の化け物を、身じろぎもせずに凝視している。
 未だにブラッドは何か夢を見ているのだろうか。足が不自由であるにもかかわらず、何故彼がここまで懸命に這い出してきたのかビリーにはわからなかった。

 不意にメリルがビリーに倒れかかった。 ブラッドに気を取られていたビリーはハッとして彼女を見た。
「メリル‥?」
 声をかけるが彼女は答えない。その顔は血の気を失い、ぐったりと体をビリーに預けていた。
 ビリーは焦り、彼女の傷口をもう一度確かめた。血の滲む傷口に濃い緑色の粘液が僅かに付着している。
 毒だ。そう確信したビリーは意識の朦朧としたメリルを抱き上げ、背後のジェイクに振り返った。
「アンチドーテはあるか?」
「え?あ‥毒消しですね。あるはずだけど?」
「用意してくれ。毒に犯されてる」
 珍しく焦りを見せているビリーにジェイクはあわてて、彼の妻アネットの元へ走っていった。
 家に隠れていた住人達が、恐る恐る外へと集まってきている。カノンは今しがた倒した化け物を眺め、彼等に忠告した。
「触れるな。棘に猛毒を含んでいるぞ」

 ビリーが傷の手当てをする間にメリルは完全に意識を失い、顔面は蒼白となっていた。 相当の猛毒であったのか、唇までが血の気を失いつつある。
 ジェイクとアネットが煎じたアンチドーテを持って部屋に駆け込んできた。
「毒消しです。飲ませてあげて‥」
 アネットは急いでビリーにそのカップを手渡した。 ビリーはメリルを腕に抱えカップの飲み口を彼女の唇に添えたが、彼女は全く口を開こうとしない。
 ビリーは一瞬迷った。が、躊躇している場合でもなかった。
 彼はすぐにアンチドーテを自分の口に含み、腕に抱いたメリルにそのまま口付けた。その光景にジェイクはドキン、とした。
 メリルがそれを飲み込むのを確かめて、 ビリーはそっと彼女から唇を離した。 メリルはわずかに眉をひそめたが、すぐにまた眠りに落ちる。ビリーはゆっくりと彼女の体を横たえた。

「‥‥もう心配ないですよ」
 しばらくの間黙って様子を見守っていたアネットが、ビリーの背中に向かって囁いた。 ビリーはメリルの乱れた前髪をそっと撫で、ふう、と息をついた。
 蒼白だった肌にわずかに赤みが差したメリルの寝顔をしばらく眺めていたが、やがて立ち上がりアネットを振り返った。
「‥すまなかった。悪いが、しばらくついててやってくれないか?」
 最初からそのつもりだったらしく、アネットは黙って頷きメリルの側へ腰掛けた。それを見届けてから、ビリーはジェイクに尋ねた。
「ブラッドは?」
「あ‥今、カノンさんが見てます。あの化け物の死体の側から離れないもんだから」
 ジェイクはなぜか顔を赤らめていた。ビリーはそれに気付き、気まずそうに彼から視線をそらした。
「‥‥メリルには黙っててやってくれ」
 ジェイクの側を通り過ぎる時に、ビリーは小さな声で彼に告げて部屋を出ていった。

「‥黙ってろって‥別に言うつもりはないけど、何でだろう?」
 ジェイクは首を傾げてアネットに尋ねた。アネットはメリルに毛布をかけ直してやりながらジェイクに振り返った。
「何でって‥メリルさんは女の子だからじゃないの」
「え‥‥うん、そうだけど‥あれ?この2人は‥」
「‥ジェイク」
 アネットはため息混じりにジェイクを見た。
「人の事、あまり詮索しないの‥」
 妻にたしなめられ、ジェイクはうっ、と口をつぐんだ。
 ジェイクはてっきり2人が『そういう関係』なのだと思い込んでいたのだが、ビリーはメリルの想いに応えていないのだ。 その理由はジェイクにも思い当たった。
 あの戦争で命を落とした彼の恋人が、未だに彼を迷わせているのだ―。 ジェイクには今深い眠りに落ちているメリルがとても不憫に思えた。


 ジェイクの言った通り、ブラッドは先程倒した蟲の化け物の側に座り込んでいた。 猛毒の棘に彼が触れないように、カノンが見張るような形で彼の側に立っていた。

 いつのまにか朝日が東の地平線から顔を出し、その眩しい光が集落に長い影を落としていた。
 ブラッドの栗色の髪は日に照らすと金色に見える。その髪をブラッドはくしゃくしゃと掻いていた。
 ビリーはその姿を過去に何度も見ている。彼の癖だ。考え事をする時、彼は必ずと言っていいほど髪を掻きむしる。 今、彼は『考え事』をしているのだ―。
 ビリーはゆっくりとブラッドの側にしゃがみこんだ。

「―スレイハイム‥」
 ブラッドは口の中でそう呟いていた。先程の戦闘の硝煙の匂いが、まだ微かに辺りに漂っていた。
「‥‥スレイハイム‥スレイハイム‥」
 祈るような、呪文を唱えるような、そんな調子でブラッドは呟いていた。視線はおぼつかない。 しかし何かを『考え』ながら、彼はその言葉を口にしていた。
 ビリーは何も言わず、ただじっとその様子を見守っていた。今何か話し掛けるとかえって混乱してしまうかもしれないので、彼に黙って付き合っていた。 ブラッドがこういう状態になってから、ビリーは自分がとても気の長い人間になったと感じている。

 朝日に照らされた白く輝く塩の原野から、再び地鳴りが響いてきた。今度は遥か彼方、北東の方角であった。 今は廃墟となったスレイハイム城のある方向だ。

「‥こいつは雑魚にすぎない。これから厄介だぞ」
 不意にカノンが口を開き、ビリーを手招きした。ビリーは立ち上がり彼女に歩み寄った。カノンは蟲の死体を睨み付け、顔をしかめた。
「いろんな『凶祓』をしてきたが、こんなのは初めてだ」
 彼女の言葉に、ビリーは無言のまま蟲の死体を見た。
 カノンの刃に切断されて崩れ落ちた体の残骸が今、眩しい朝日に照らされてその信じがたい『物』をビリーとカノンの前に曝していた。

「‥‥‥ッ!!」
 ビリーは絶句した。
 蟲の体を形成していた組織と思われるそれは、無数の骨の欠片だった。
 殆どがただの白い欠片のようにしか見えないが、中には明らかに人間の手足と思われる物、頭蓋骨までもが混在していた。

 そして何よりビリーが動揺を隠せずにはいられなかった物―。
 無数の骨に埋もれた、スレイハイム解放軍の紋章の刻まれた錆び付いたプレートであった。

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