コラム 「言いたい放題」 NO196
「子供」か「子ども」か
                 2003.1.20           INDEXへ戻る


 「運動会種目ベスト70」という学校五日制下の運動会種目の本を編集した。執筆者には編集ニュースを送付し、お互いに原稿を見せ合いながら、仕事をすすめた。
 その執筆者の一人、岐阜の畑顕先生が、それらの原稿を読んで「コドモ」の表記について一石を投じられた。
 以下、ニュース紙面上のそのやりとりである。


 岐阜の畑先生から下記のメールをいただきました。

★岐阜の畑です★

 この連休で、先生から送っていただいた「運動会種目ベスト70」のすべての原稿を、目次順に並べたりして、見ていました。それで、ちょっと気になったことがありました。
表記についてなのですが、「子ども」を示す表記に、いくつかあります。
「子ども」が一番多いのですが、「子供」「児童」「生徒」が使われています。
 「子ども」に関わる表記についてはぜひ、「子ども」で統一し、「子供」「児童」「生
徒」の表記は変更していただけたらと思います。

 ワープロ普及以前は、ほとんどすべての本が「子ども」と表記してあったのが、最近「子供」と漢字で使われることが多くなっているのが気になっています。また「児童」「生徒」も私自身は、極力使わないようにしているので、気になりました。ご検討ください。


★家本です★

 畑先生のご意見、みなさんはどう思われますか。 むろん、表記は統一しますが、少し考えてみましょう。
 「子供」はわたしも使いませんね。「供」という言葉には「従者」という意味があるからです。封建時代の子ども観をあらわす表記のように思えるからです。本書の表記は「子ども」で統一します。
 では、「児童・生徒」はどうですか。「児童会・生徒会」という言葉もあるので、時により使いますが、みなさんはどう思いますか。


★みなさんからの主な意見★

 畑先生の意見にいろいろな「意見」が寄せられました。いくつか紹介します。 

 ☆Aさん☆
 
 「子供と子ども」ですが,西日本(とりわけ同和地区のあるといわれる地区)では,子供…「子を神々に供える。すなわち,生け贄的要素を含む。呪術的」と学んで
きました。
だから,「子供はだめ」と言われ続けて来ました。児童は,書き手が教師なので,自分を称するときに使う言葉なのでだめなのでしょう。それも,親が絡んでいるので,児童はまずいかなと思いました。したがって,私の「児童」用語は,「子ども」への変更をお願いします。 ただし,字数制限はどうなるのでしょうか。
 ところで,家本先生へお尋ねですが,「父兄」は,ジェンダ−問題でだめ。「保護者」は,子どもの人権が批准されてより,「子どもは,保護対象ではない」といわれてきて,断念。そして,「父母」は,父母代わりも含む(里親など)と捉えると解るのですが,でも,現実としてとらえると,「祖父母」は,「父母」ではないではないか,と言われます。
私たち教職員が,特定の子どもを通して見た大人を何と呼びますか? 「養育者」というべきなのでしょうか。そうなると,学校の教職員も含まれそうですが。ぜひ,教えてください。5年前くらいから悩んでいます。

 ☆Bさん☆
 「子ども」は、小学生はいいですが、中3男子の、みあげるような背丈の親父のような生徒には合いません。おかみさんのような女子にも、子どもという実感は…。子ども扱いされると怒る微妙な年頃です。
 畑先生の提案についてですが、なるほどと思う点もありますが、私の論稿の「生徒」は特に意識しないで書いた結果です。つまり、中学校の学校現場では、一般に会議でも、日常実践の場においても、「子ども」とは言わず「生徒」で会話が通じているからです。ですから、中学校ということを意識して書いたので、「生徒」を使ったわけです。「子ども」については、子どもの権利条約、民主主義の立場から「子供」は使うべきではないと私も思います。統一すべきなら「子ども」を使えばよいかと思いますが、小学生が「子ども」中学生が「生徒」でもおかしくないと思います。私は、敢えて中学生は「生徒」にしていますが。 父母・保護者・親も、難しいですね。


★家本です★

 ということで、いろいろな意見がありますが、次のようにしたいと思います。原則として「子ども」ただし、文脈の中で「児童」「生徒」の使用も可。 一般的には「保護者」を用いるが、文脈の中では「両親」「父母」「父」「母」「祖父母」「祖母」「祖父」の使用は可。ただし、「保護者会」を指して「父兄会」とは言わないことにします。


★岐阜の畑です★

 私が、なぜ「子ども」の表記にこだわるのか少し説明したいと思います。

 1.「子供」と「子ども」
 これについては、家本先生が 述べたことと全く同様のことを思っています。「供」という言葉を調べてみるとはっきりします。
  寄せられたご意見の中で、 Aさんの意見はこれもなるほどなと思いました。

 2.「児童」「生徒」と「子ども」

 中学校の先生からのご意見だと思いますが、Bさんへのご意見に対しては私の考えを述
べた方が良いかなと思いました。

 私は、現在は小学校の教員ですが、この19年間(講師も含めると21年)の半分は中学校に勤めてきました。前任校では特別活動主任や生徒会顧問をしており、職員会でも提案をする立場にいました。しかし、その間提案文書にはすべて「子ども」で表記してきました。
「生徒」と表記したことはありません。それは、なぜなか・・・・説明すると少し長くな
りますがお許しください。

 「子ども」という表記が公にされた最初が何かということからになります。
 これは大学時代に恩師の先生から教えていただいたことですが、法律(裁判)の世界では、ずっと「子ども」や「子供」ではなく「子女」が使われてきたそうです。
 しかし、はじめて判決の文で「子ども」が使われたのが、家永教科書裁判の1970年7月の「杉本判決」なのだそうです。
 先生は「杉本判決は家永勝訴ということで大きな意味があるが、『子ども』という表記が初めて使われたことにも大きな意味がある」と言われました。
 私には、それがものすごく印象深く残っています。そして、この杉本判決以降、民間教育団体の出版物はすべて「子ども」表記になっていったのではないかと私は思っています。
  杉本判決を少し引用します。

 引用  <学習権と教育の自由の保障、国家教育権の否定>
    ところで、憲法がこのように国民ことに子どもに教育を受ける権利を
    保障するゆえんのものは、民主主義国家が一人一人の自覚的な国民の
    存在を前提とするものであり、また、教育が次代をになう新しい世代
    を育成するという国民全体の関心事であることにもよるが、同時に、
    教育が何よりも子ども自らの要求する権利であるからだと考えられる。

 杉本判決の中にも「児童」「生徒」という表記はなされています。引用します。

 引用 <小・中・高等学校教師の教育の自由の保障 >
    けだし、教育は、すでに述べたように、発達可能態としての児童、生
    徒に対し、主としてその学習する権利(教育を受ける権利)を充足する
    ことによって、子どもの全面的な発達を促す精神活動であり、それを
    通じて健全な次の世代を育成し、また、文化を次代に継承するいとな
    みであるが、児童、生徒の学び、知ろうとする権利を正しく充足する
    ためには、必然的に何よりも真理教育が要請される。

 ここでは、「児童」は小学校段階、「生徒」は中学・高校段階の子どもを指し示すと
いうことで使い分けられているにすぎないと思います。そして、すべての段階を総括するものとして「子ども」が使われているのです。「子どもの権利条約」での「子ども」も同じです。18歳までの年齢の者を「子ども」としているのです。
 ところが、政府訳では「子ども」ではなく、小学校段階を示す「児童」が使われ「児童の権利条約」とされています。なぜ、「子ども」ではなく「児童」なのでしょうか。Bさんが言われている「小学生が子ども、中学生が生徒」であるならば「子どもの権利条約」とされていると思えます。
 政府が「児童」にこだわったのは、「杉本判決のような子ども観」を否定するため(少なくとも肯定しないため)と思えるのです。なぜなら、杉本判決での「子ども」は小・中・高すべてを総括するものであり、発達可能態・権利主体としての存在としての考えだからです。
 「子ども」ではなく「児童」を使うことによって、このことを否定し、さらに、「児童
の権利条約」とすることによって、タイトルを見た者に「12歳までの未熟な者のためのものなのだ」という印象を与えようとしている・・・・それがゆえに、訳も本来の意味から弱めてあるところがあると私には思えるのです。(例えば意見表明権)

 私が「児童」や「生徒」を使わず「子ども」を使うのは、単に小学校段階・中学や高校段階ということではなく、あくまでも「権利主体としての存在である」ということにこだわりたいということなのです。それを表現するのにもっともふさわしい表記が「子ども」であると考えるからです。
 もちろん、内容そのものが問われることは明らかですが、少なくとも自分の考え方として、そうした前提をもっていきたいという思いです。そうした、私の考え方からはすると、
お二人の先生の言われる「子どもが小学生、中学生は生徒」ということは、少し「権利主体としての存在としてとらえる」という立場からずれているように思えてしまいます。
(お二人の先生は決してそんなふうには考えてみえず、「普段使っているから中学生は生徒でいいのではないか」ということなのだと思いますが。)

 以上のことから、私は「子供」「児童」「生徒」ではなく「子ども」を使っていますし、
今回の「運動会種目ベスト70」の本も「子ども」に表記を統一した方が良いのではないかと考えました。
 最初のニュースで紹介されるとは思いませんでしたので説明抜きになったのですが、以上のような理由からです。
 中学校の先生には失礼な物言いになったかもしれませんがご容赦ください。


★家本です★

 「子ども」の表記について畑先生から問題提起があって面白かったが、そのことにかかわる参考資料がふたつある。そのひとつを紹介しよう。

 「学校歳時記」(青木信雄/三省堂)という本がある。そのなかに、学校というわくのなかで、「教えられるもの」はどう呼ばれてきたのだろうか紹介されていた。
 一番古い言葉は「生徒」であったという。以下、青木信雄氏の論考を紹介する。
 
 「生徒」は中国の後漢の時代「教えられるもの」を呼ぶ言葉として使われ、広まった。
日本では「続日本紀」に養老6年4月庚寅「帰朝乃後伝授生徒」とあるという。
 日本で学制が発布された明治初期、学校で教わるものはみんな「生徒」だった。 ところが、明治14年、東京大学で本科の生徒に限り「学生」と呼び、また、明治33年の「小学校令」で、小学校については「児童」と称し、以来、小学生は「児童」と呼ぶようになった。
 「生徒」は、上は「学生」下は「児童」となって、現在、小学生は「児童」中学生・高
校生は「生徒」大学生は「学生」その上の大学院生は「院生」と呼び、「児童」の下の幼稚園の子どもは「園児」と呼ぶようになった。
 もう一度、上からおさらいすると、院生―学生―生徒―児童―園児(幼児)となる。
 ところで、「学徒」という言葉がある。これは戦時中に天皇が「青少年学徒に賜りたる勅語」を発布して、一般化した言葉である。
「学徒」とは、「学生」と「生徒」のことで、両者を足して2で割って造語したように思
えるが、これは古い言葉のようである。
 戦時中は大いにこの言葉が流行り、学生・生徒を戦場や工場に送るに「学徒動員」といった。ちなみに、わたしもその学徒動員によって、工場で働かされたことがある。

 以上「学校歳時記」によるが、本書は薀蓄を傾けた著作である。


★家本です★

 もうひとつ資料がある。前にマガジンで紹介した「日本子ども史」(中江・森山著・平凡社 2600円+税)に「子どもの呼び名」という序章がある。
 幼いものの呼び方が総覧されている。いろいろあることに驚いた。

 コ ミドリゴ ワクゴ チゴ アゲマキ ガキ ワラワ コゾウ ショウネン ショウ
ジョ ジドウ セイト 

 これらについて逐一解説してある。このなかで コ が子になり、子の複数を表すとき、「子共」とか「子供」と表記され、やがて「子供」が主流になったという。
 以下、引用する。

 ちなみにいえば「子供」と書き表すと、これはお供をするこどもの意で「貴人に召し使われるコドモの意味になる」という説があるが、そうではない。貴人、つまり身分の高い人にお仕えするコドモはたしかに存在したが、それは「わらわ」といって「コドモ」とはあきらかに区別されたものである。「侍童(じどう)」という言葉が残っていることからもわかる。……………「子供」の「供」は接尾語であるから生徒達の「達」と同じで格別の意味はない。「供」には「お供をする」あるいは「供える」という用例があるために、貴人のお供をする子ども、あるいは貴人に供えられた子ども=召し使われる子ども、という誤解が生まれたのだろう。しかし、「供物」や「供花」という用例はあっても「供子」という言葉はない。だから、お供や召し使われる子どもというのは、字面からくる連想による誤解である。接尾語であるから今は「生徒たち」とする表記があるように、「子供」も「子ども」も意味するところは同じであって格別の違いはない。

 こう述べてある。
 日本語の歴史からはそうであろう。しかし、言葉は時代の中で、人々の思いを託されて生きていくのだから、「子供」は連想による誤解であったとしても、誤解が成立する言葉をわざわざ用いることはないと思う。
「コドモ」はやはり「子ども」と表記したい。字面からも、子どもらしさが浮かびあがっ
てくるように思うのは、わたし一人ではないだろう。


 なお、この問題については http://homepage3.nifty.com/harebuta/に詳しい。


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