今日はなんの日?お芝居の日
 カンドゥーコ                   杉山モナミ
 ★一九九九年十月
    カンドゥーコ ダンス・カンパニー日本公演
    於 世田谷パブリックシアター

 これはまさしく神無月、晴れた空を見てそんなふうに思えるただの土曜日である。例によって、私は芝居好きの友人と待ち合わせている。待ち合わせは、いつも劇場の入り口ではなく、直接客席でときまっている。だいたい二度に一度は私が開演ギリギリに客席に駆け込む。客席はいつも、小さく唐突な暗闇。軽い命の盲点に迷い込んだように瞬きをすると、ぐるっと劇場モードの眼圧をかけて客席を見渡す。ひらひらと手を振っているクリオネみたいな友人はすぐに見つかる。
 「そういえば、客席がいつもとなにか違う感じ。」
 「そうかなあ?……そうだね。」「こちゃ。」
 友人がなにやら鈍い音をたてる。さては飴玉でも口にふくんでいるのだろうか。まだ公演ははじまらない。
 「カンドゥーコ」とは、ロンドンでワークショップから活動をはじめたコンテンポラリー・ダンス系の新しいグループの略称。Can+do+companyでカンドゥーコ。身体に障害をもつ者ともたない者が、共に一つの舞台を創りあげる。だから客席も、椅子の列と列との間隔がいつもより少し広くとられている。通路の幅もかなりたっぷりとしている。車椅子の観客も通りやすいように一部の座席が取り払われたのだ。
 幕が上がる。「おや!」めずらしく私は身をのり出す。実は、正直なところダンスという分野に対して私はどこか冷めた気持ちをもっていた。舞台といえば、台詞のやりとりの妙の冴えわたる芝居が断然私を魅了した。「物語る身体」と「それ以前」という二つの軸が、現代のダンスの世界を縦横にくっきりと分割して支えている――それが少々窮屈だった。「物語る身体」はむしろ「言葉」より強く「暗黙のことば」を押しつけてくる。そして「それ以前」つまり伝統芸能や民族舞踏の類いは矛盾の濃度が低いところが私にはいささか退屈にも思えた。ところが、この舞台には、私が思う「ダンスの抑圧」というようなものが不思議なほど感じられない。
 ここには感情が流れている。いわゆる日本語でとらえられる「情」というのとはまた違う、ドライな感覚のものが心地よい気流にのってやってくる。二本の脚で床を踏む人体と、車椅子に座る人体。ダンサーの身体ははじめから日常/非日常などという区別とは別の次元にあって、自分たちの言葉で生き生きと語り出そうとしている。「知性」の名の背後に冷たく身をひそめている「暗黙のことば」ではなく、あたたかな光の下で交わされる自分たちの言葉である。舞台の二人は踊りはじめる。あふれるように流れ出す音楽のなかのある一つのポイントで、互いにいつもしっかり結びついているというような踊り方で。離れては重なる二人のあいだの空気が、透明なクッションのように次々とかたちを変えてゆくのが見える。視界に薄くワセリンを塗ったみたいな照明の効果もあいまって、私の頭の回路が静かに切り替わる。見る回路から探す回路へーー切り替わる。光や音や振動に導かれて生まれる言葉の体系を探してゆくのだ。
 「こちゃ。」
 友人が、また例の鈍い音をたてる。それは何故に出る音なのか、何なのか。わからないけれど、気になんかせず音楽といっしょに聴いていよう。
 車椅子のダンサーの右肩に、身体に障害のないダンサーが脊椎を押し当てるような体勢を組む。ゆっくりとバランスをとりながら背中から斜めに身をくねらせ、車椅子のダンサーの右太ももの上まで上半身をつたわせる。車椅子の銀色の車輪が鋭く発光して回り出す。その瞬間、もうひとりのダンサーはバネ仕掛けの物体よろしく跳びのいて優雅にプリエする。だが跳びのくときすら、左腕の先は車椅子のダンサーの首筋あたりをなでるように最後まで残る。想いが牽き合う。たとえば、私たちがふだん「やあ」と軽く挨拶を交わすとき、おもむろに自分の右上腕部を相手の左体側にやさしくあてがうというような動作はしない。それは、不自然で「?」な行為になってしまう。ところが、この「カンドゥーコ」の舞台上では、それは呼吸とおなじくらい自然な動きであり、だからこそ確かな意味をもつ。私もそんなふうに動いてみたい。語ってみたい。暗い客席で私は思う。途方もなく大きな生命の連関のなかで、私たちの身体は伝えあうものであるならば。
 「カンドゥーコ」では、身体に障害があってもなくても、それぞれに異なる背景をもつ者同志が出会い創作を続けてゆく。このためには、総合的なトレーニングの機会を生み出す必要がある。この総合的トレーニングは、これまではダンスの世界の外側にいたはずの社会人一般にも広く参加を促すかたちで行われている。おのずと多様な言語感覚の軸が立ち上がってくる。そして、このようなダンスの手法は、人々が理にかないつつ交ざりあうためのコミュニケーションの手法を「考えること」へと繋がっていく。異なる在り方とは、あるひとつの共同体における既存の型に、将来は当てはめられるべき異質な未完成体のことではない。お互いそのままで現在を共有すべき、大切で当たり前の存在なのだ。(この事を、現代の日本語の感性はなかなかとらえにくいみたい。なんだかんだ言っても異文化=宇宙人になっちゃう。)マルチ・カルチュアリズムと伝統の再編成――この二つの潮流のあとに、彼らのダンスはどのように深く広く繋がっていくのだろうか。
 「こちゃ。」
 短い休憩に入る。よく見ると、友人は何食わぬ顔をしながらやっぱり口の中で何かをしきりにつぶやいているようなのだ。
 「さっきから何をこちゃこちゃ言ってるの?」
 「やあ、聞こえた?イギリス風の発音、ちょっと練習してみてるんだぁ。」
 「イギリス風の発音?……ああ、カンドゥーコのカン、ね。」
「can」は、ふつうのアメリカ風のフラットな「キヤーン」ではなく、鼻にぬけるツンとした英国風の「カ〜ン」。舞台のフィナーレでは、一同が色とりどりのアーティスティックなテザインの帽子を頭にいただき客席に向かって静かなほほえみを投げる。車椅子なしでも踊る上半身のみのダンサー、デヴィッド・トゥールは、ノーブルでシャープな感じの帽子の下からどこかやんちゃな深みをもつ眼をのぞかせている。そんな視線の音も、私たちは音楽といっしょに確かに耳で聴いたのだ。カ〜ンドゥーコ、カ〜ンドゥーコ、あなたはわたしにカ〜ンドゥーコ、わたしはあなたにカ〜ンドゥーコ、耳をすませばカ〜ンドゥーコとぬけるような秋空に……このクリオネ友人も私の身体のなかで歌う…かな。

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