スケッチ
スケッチ
 五月闇
            大月晶子

トヴェルスカヤは日本で言うと銀座みたいな感じだろうか。モスクワ最大の繁華街のひとつで、一流ホテルや高級品店が大通りの両側に立ち並んでいる。
夜中にリューシャとこの通りを歩いた。もう十一時半近くで、大通りはさすがに人通りは少なくなっていた。ここはね、モスクワでいちばんきれいな娼婦が集まるところなんだ、でも、もうあらかた客がついちゃったんだろう、姿が見えないな、と言う。
ちょっとこっちに入ろう、と言って、彼はひとつ裏道へとわたしを引っ張っていった。すこし行くと、車が止まっていて人影がちらついている。何だか妙だね、早く抜けよう、と言いながら、彼は足早にわたしの手を引いて進んでいった。黒塗りの乗用車がずらりと車道の端に停まり、女が二、三十人ばかり壁際に並んでこちらを向いて立っている。女たちのまわりを男たちが取り囲んでいる。どちらも無言である。危ないからあんまり見ない方がいいよ、と言いながらそこを抜け出ると、リューシャは、面白いものを見ちゃったね、売春市場だ、新宿なんかにもあるけどな、と言った。

北国では、夏と冬で日の入りの時間が極端に違う。今は、夜の十時ちかくまで日が残っている。まだ明るいうちに待ち合わせてバーに行き、もうひとつはしごしようか、と言って出てきたところだった。東京にもあるのかどうか知らないが、モスクワにはB52だとかKGBだとかいう名前の濃厚なカクテルがあって、B52は火のついた状態で運ばれてくる。市内にアイリッシュ・バーは何軒かあるが、店内で聞こえてくるのは主に英語である。
濃紺の地に大きな花柄の中国製の絹のロングドレスを着たわたしを、リューシャは、すごく奇麗だ、人魚姫みたい、と言った。モスクワの洋服市場で買ったこのドレスは、生地も格好もセンスもいいのだが、おそろしく縫製がわるい。中国人は粗悪品を高額でロシア人に売りつけているといって、ロシアでは嫌われている。たしかに値段はそれほど安くはなかった。

夜中過ぎに、ディスコに入った。黒人のバンドが演奏し、客は東洋系も含めてやはり外国人が主だった。ビールの値段もべらぼうに高く、日本でもこんなにぶったくる店はあるまいというほどだった。止まり木にはロシア人の女が数人座って、喋ったりたばこをふかしたりしている。あれは全員売春婦だよ、とリューシャが言った。

リューシャとは、友人を介して知り合った。彼女が、リューシャに会話を習いたいけど、一対一はなんだか気詰まりなので、一緒に付き合ってくれないか、と言ったのが始まりである。初対面のとき、醜い男だ、と思った。あとになって、切れ長のあかるい灰色の眼が、とても個性的でうつくしいことに気づいたけれど。三人でカフェにはいっておしゃべりをした。言葉づかいはぞんざいで態度もいいとは言えなかったが、はなしは面白かったし、一緒にいるのは楽しかった。頭のいい男だと思った。ところが、彼女はだんだん不機嫌になって、そのうちぷいと席を蹴ってひとりで帰ってしまった。仕方ないので二人ではなしを続け、帰りは家まで送ってもらった。その後数日して、リューシャから電話があり、次はどうするの、彼女のところには電話がないから連絡つかなくて、というので、それからはわたしがひとりで彼につきあうことになった。彼女はひどく機嫌を損ねていて、彼とはもう二度と会いたくない、あなたがたは勝手にふたりで会えばいいだろう、実に不愉快だ、とわたしに言った。リューシャの態度があまりにも非礼であると言うのだが、わたしには彼女がなにをそんなに激怒しているのかまるで理解できず、なんとなく納得の行かないままに放置していた。

リューシャはわたしに、ほんとは彼女のことがちょっと好きだった、でも今は君の方が気に入ってる、と冗談めかして言った。僕のことで君と彼女が嫉妬したら面白いな、と言ったこともある。しかしながら彼女は、二度と彼と会おうとはせず、彼の悪口をさんざんあちこちで言いまくった挙げ句、わたしとの交際まで絶ってしまった。彼がわたしと結婚すると触れ歩いているので注意するようにと再三彼女から電話があったけれど、そんな申し出を当人から受けたこともなければ別に実害もなかったので聞き流していたら、わたしの名前を出してうわさを流していたのは、なんと彼女自身だったということが、彼女と話しているうちに判明した。彼女に詰問すると、たしかに私が悪かったのかもしれない、でも、名前は出さなくてもほんとに彼はそう言いふらしてるんです、みんなリューシャのせいなんです、と言い募った。わたしは、多少の意地悪心と好奇心もあって、そんなに彼女が好きなら教えてあげる、だけど、わたしが教えたってぜったい彼女には言わないでよ、と言って、彼女の実家の電話番号を彼に教えた。彼は複雑な表情をしつつ、それでも手帳に書き取っていた。

彼女はわたしに、彼は自分が好きなんじゃないとおもう、利用しようとしてるだけなんじゃないのかしら、と、ぼやいていたことがあった。わたしも、たしかにそれもあったと感じている。なんでもいい、とにかく日本人と親しくなろうとしてなりふり構わず接近してくるロシア人は多い。直接的な利益を引き出そうとする者もいれば、間接的にもっと日本人脈を広げようとする者もいる。リューシャのケースは、そのなかでは特に悪質な方とは言えないと感じている。

その後リューシャは、なにを思ったか突然、僕は君のことが好きになりたくないんだ、と言って猛烈に不愉快な態度を示した。なんのことかさっぱりわからないままこちらも腹を立てて、半年ほど音信不通だったが、ある晩突然彼から電話があって、このあいだ偶然君を見かけた、会いたい、と言ってきた。そんな調子で、たまに電話してきては、どうして連絡くれないの、心配するじゃない、と言って、外で食事をごちそうしてくれたりしている。

ロシアでは、大学に現役で入学できないと兵役に取られ、大学で軍事教練を受ければ自動的に中尉となり、大学院に入れば兵役免除は延長されるが、二十七才まではつねに徴兵される可能性はあるとのことである。最近、徴兵の上限年齢が引き上げられて、年配者であっても兵役経験者は再徴兵されてチェチェンの前線に送られるといううわさが飛んでいると聞いた。よく知られているように、ロシアは先進国中唯一男性の平均寿命が縮まりつづけている国である。今では五十代半ばくらいになっているだろう。異常な飲酒習慣とそれに伴う不健康な食生活が指摘されているが、原因はそれだけではないように思う。あらゆる年齢層で、男の数は圧倒的に不足しているとも聞いた。ソ連崩壊後、乳幼児死亡率も急増した。男児が女児に比較して死に易いのは万国共通である。地下道、教会前、いたるところで腰から下を切断された男性が、淡々と物乞いをしている。この国の男は、誰でもこういう境遇に陥る可能性があることを考えさせられる。この国で、男がまっとうに稼いで女性を食わせていくのは至難の業である。外国から招聘を受けるほどの才能ある人間ならともかく、常人が国外に出て長期滞在ビザを取るためには、外国人と結婚するのがもっとも手っ取り早い。ソビエト時代は、女性は外人と結婚して国外に出ることができたが、男性は不可能だった。男性は兵役があって、軍事機密を知っているからだといわれていた。いまでは男性も出国自体は自由であるが、たとえ日本人女性と結婚したとしても、ロシア人男性が日本で長期ビザを取ることは容易ではない。また、以前はロシア人女性が日本人男性と結婚した場合は比較的容易に長期滞在ビザが取得できていたが、最近では女性の場合でも長期滞在ビザの取得は困難になってきていると聞いた。便宜的に結婚してビザだけ取得し、日本国内で風俗営業などの職に就く外国人女性が急増しているせいだろう。

ラテン語のことわざに、ひとはひとにとってオオカミであるというのがあるが、そんなことばかり考えることがおおくなった。

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