火星クラブの部外活動(2)
小平麻衣子・講義録





小平麻衣子 講義録・梨木香歩『裏庭』



 *この文章は、「くにたちブッククラブ 文学講座 現代文学を読む」の一環として行われた講義(2009年6月11日、国立市公民館)の 講義録です。
 *テキストは、新潮文庫『裏庭』を使用しています。



 長編ファンタジーである『裏庭』は、主人公照美が、今は人の住んでいないバーンズ屋敷に忍び込み、大鏡を通って、現実から〈裏庭〉という異界へ行き、帰還する物語です。バーンズ屋敷にはうっそうと木が茂り、長年子どもたちの秘密の遊び場所になっていますが、戦前は、レイチェルとレベッカの姉妹を含むイギリス人家族が住んでいました。レベッカは〈裏庭〉に自在に出入りできる特殊な能力を持った女の子でした。

 照美の冒険は、自分でも予期しなかった形で始まりますが、鏡の向こうの〈裏庭〉の世界は、〈現実〉の部分とは異なった字体で書かれていて、不思議なことや理不尽なことも起こってしまう、パラレル・ワールドです。現実の側には、照美の父や母をはじめ、友だちのおじいちゃん・丈次や、イギリスに戻って年を重ねたレイチェル、彼女と長年の親交を温める夏夜子などがおり、〈裏庭〉には、冒険の先導者スナッフ、世界を予言する音読みの婆、失った手を取り戻すべく同行する「テナシ」など、多くの登場人物がいます。出来事が進むにつれ、イギリスと日本、過去と現在、生と死、など、さまざまなものが結びあわされていく、壮大な物語です。

 不思議で複雑であるだけに、この世界に簡単に入り込める人にはいいのですが、そうでない人には消化不良になりますね。そんな方のために、無粋であるかもしれませんが、解釈を試みてみましょう。結末にも触れてしまいますので、まだ読んでいなくて、自分で展開を読みたい方は、要注意です。



死者を悼むということ

 〈裏庭〉はどういうところか、まず整理しておきましょう。第一に、レベッカや、後で明らかになりますが、マーチン、妙子などのいる〈死〉の世界であり、生きているもののうち限られた人だけが出入りできるところです。しかし、単純に死んだ人が行くところと言えるかは微妙なので、この点は後で考えてみることにします。

 次に、野戦病院にいるマーチンやマラリア患者が垣間見ることのできた〈夢〉の世界です(P.107)。そして、〈お話〉の世界でもあります。たとえば、照美は現実で、友人のおじいちゃん・丈次から、手を切り落とされた嫁の昔話を聞きますが、〈裏庭〉では、この設定に似た、手を失った「テナシ」が活躍します。現実では〈お話〉の中にしかいない者たちが〈裏庭〉では実在します。〈裏庭〉は、複数の意味が集まっているところなのです。

 ただ、いったんこのように整理しても、〈裏庭〉には三つの藩があり、さらに「根の国」やクォーツァスなど、異界の中にまた異界があったりして、なかなか複雑です。照美の旅は、いったいどんな冒険なのでしょうか。


 照美は、〈裏庭〉に行くと新しい名前「テルミィ」を名乗りますが、混乱するので、とりあえず照美に統一して話しましょう。彼女が〈裏庭〉で成し遂げなければならない仕事は、ばらばらにされた一つ目の竜の化石を元通りにすることです。この竜とは、ある時から暴れだし、〈裏庭〉に行ったレベッカは、それを鎮めるために根の国に行き、結晶化してしまった、ということが徐々に明らかになってきます。これは現実におけるレベッカの死を意味すると同時に、一方ではこれが引き金となって、〈裏庭〉にはさまざまな異変が起こっており、崩壊への予兆すら見えています。

 さて、レベッカにとって〈裏庭〉は、戦争に行った夫・マーチンに会う手段でした。人を思う気持ちの強さは切なくなりますが、その行為によって〈裏庭〉に取り込まれ=死んでしまったことは、「バランスを崩した」(P.107、256)と言われており、何かの失敗という位置づけです。このとき、現実では、マーチンの消息は伝えられておらず、生きているのか亡くなったのかもわかりません。つまり、レベッカが抱えていたのは、消化しきれない不安だと言えるでしょう。

 もちろん仮に、大切な誰かが亡くなったと知らされたとしたら、ショックははかり知れませんが、少なくとも、死者を悼むこと――時間がどれだけかかるかはわかりませんが、残されたものが気持に整理をつけ、回復に向かう行為――はできるでしょう。ここでのレベッカは、それすらできない宙ぶらりんの状態です。こうした消化できない不安が増大し、それに振り回されると、手入れされた〈裏庭〉は荒れ、自身も死に引きずられるのだと言えるでしょう。


 照美は、こうした世界の中に入っていくのですが、照美にとっての消化しきれない不安とは何でしょうか。言うまでもなく、第一に、幼くしてなくなった双子の弟・純、その死をうまく悲しめていないことです。第二に、それと関連する、自分自身の存在意義への疑問、自分は大事な人に愛されていないのではないかという不安です。確かに、純が生きていたときには、父も母も、照美を褒め、愛してくれていたのです。照美の旅は、こうした心の傷を修復する旅であると言えるでしょう。

 もちろん、これが偽の癒しであってはなりません。〈裏庭〉にある三つの藩の一つ、チェルミュラで何が起こっているかを見ればわかります。このあたりは書いてある通りなので、省略することにしますが、チェルミュラでは、傷を癒すことが消費されていて、「魅せる傷加工」「新しいアクセサリーとしての傷お直し」という看板まであるくらいです。本当の癒しとは、傷に向かい合うこと、むしろ傷つくことを恐れない態度によって得られるのだと、照美は少しずつ学んでいくことになります。


 また、照美の行動は、自分一人の傷の回復ではなく、他の人の回復ももたらしていきます。照美の父・徹夫も、母・幸江も、出来事があまりのショックだったのと、押し寄せてくる現実によって、純の死への感情をうまく表出することができないまま、今日に至っています(P.283)。

 〈裏庭〉でのさまざまな異変は、こうした、まだ癒えない人の心の傷と関わっているわけなのですが、異変の一つに、川や湖から水がなくなったというのがありました。〈裏庭〉での照美の格闘が激しさを増すころ、現実の世界では、ようやく照美の行方不明に気付いた父や母が、捜索のためにバーンズ屋敷を訪れます。
そして、思い出にふれる中で、純の死に向き合い、初めてたっぷり涙を流すことができます(P.296)。これを経て、〈裏庭〉では竜の修復が完了し、水が流れ出しています(P.371)。文庫本の河合隼雄による解説にもありますが、現実における悼みとしての涙が、〈裏庭〉の水の噴出と対応していることがわかります。



祖母から母へ、そして娘へ

   照美の傷の回復が、他の人の回復にもなるというのは、どうしてなのでしょうか。特に、母親との関係についてみてみましょう。

 幸江は照美の母ですが、この物語では、幸江ではなく、わざわざ「さっちゃん」という呼び方が選ばれています(P.27)。
このことからもわかるように、さっちゃんは母であるだけでなく、妙子の「娘」として、いわば照美と同じ位置にもいるのです。

 さっちゃんは、自分も母に愛されなかった、すなわち自分の存在意義がわからない子どもで、今でも、その傷をうまく直せていません(P.277)。照美が周囲に影響を及ぼすというだけではなく、照美とさっちゃんが重ねあわされている構造のために、照美が傷から回復すればさっちゃんも回復し、さっちゃんが回復すれば照美も回復する、という仕組みにもなっているのです。

 照美が自分の傷にきちんと向かい合うためには、純を殺したとされるスナッフに対し、剣を抜いて怒りの感情をぶちまけることが必要でした(P.258)。
 スナッフは、現実ではマーチンに当たる人物ですが、〈裏庭〉に行ってしまったレベッカを追って、自殺したのではないかと推測されます。ただし、死んだ人間にはレベッカの結晶化や〈裏庭〉の荒廃を元に戻せないと知り、その仕事を純に負わせるべく、たまたま通りかかった純を〈裏庭〉に引きずり込んだとされています。

 このスナッフ殺しのとき、照美が着ている服(何にでも変化する服)は、鎧になっていますが、並行して現実では、さっちゃんが、店に来た夏夜子とレイチェルと、ずっと心にしまったままだった母・妙子についての話をし、心にまとっていた鎧を外すヒントを得ます(P.279)。二人の軌跡は対応しているのです。


 さらに、このスナッフ殺しの際に凶器となった剣なのですが、「おかっぱの女の子」のマボロシが残していった、石化した傷跡である切片(P.237)が変形したものです(P.258)。
 このおかっぱの女の子のマボロシは、〈裏庭〉で照美の行く先々に現れ、翻弄しているようにも、先導しているようにも見えるのですが、彼女がさっちゃんの母親であり、レイチェルや夏夜子とも親交のあった妙子であった、とのちに判明します。

 だとすれば、照美は、祖母である妙子の傷も引き継いでいます。さっちゃんが母であると同時に娘でもあったように、さっちゃんにとっては加害者である妙子にも、娘としての傷があったということでしょう。
 レイチェルは「遺産」と呼んでいますが、傷ついた人が、今度は自分の子どもを傷つけていく、負の遺産が続いているのです。照美の旅は、その元凶を断つ旅だともいえるでしょう。

 妙子は、実はレベッカと仲良しで、〈裏庭〉に近い子どもだったようなのですが、戦争で家族を亡くし、望まれない妊娠をした後は、大変苦労しました。
 子どもができたころに、〈裏庭〉と自ら決別したのだ、と夏夜子は伝えています(P.274)。さっちゃんも、妙子を「無駄を嫌う、現実的なタイプだった」と回想しています(P.28)。
 「裏庭」をあきらめたことは、空想や、お話の世界から遠ざかることでもあります。それは、現実で生きていくための選択ですが、そのまま亡くなった妙子は、〈裏庭〉でどうなっていたのでしょうか?

 おかっぱの女の子としているわけですが、長い間、マボロシとしてしか現れませんでした。つまり、存在はしていないのです。先ほど、〈裏庭〉は、単純に死んだ人が行く場所ではない、と言いましたが、死ねば自動的に〈裏庭〉で〈生きられる〉わけではないのです。
 純の場合と同様に、妙子も、生きている人が、きちんとその死に向き合い、思い出してあげることが必要なようです。

 さっちゃんは、バーンズ屋敷を訪れた時、大鏡に映った自分を見て、「ああ、これはおかあさんだ。」と思い、声をあげて泣きました。
 母の死をうまく悲しめたその時、さっちゃんの顔は、「びっくりするぐらい照美の小さい頃に似ていた」(P.382)とあります。
 さっちゃんが娘であることも、またその傷が照美のそれと同質であることも示していると言えるでしょう。



〈ある〉と〈ない〉

 さて、照美の不安は、第一に純の死をうまく悼めないこと、第二に、それに関連する自分の存在意義への不安、と言っておきました。
 それでは、照美のような不安は、不慮の事故や戦争などで、不当に大切な人を奪われた人にだけあるものなのでしょうか?

 ここでは立ち戻って、純の存在がどのような意味を持つのか、もう一度考えてみたいと思います。
 照美が、怒りや憎しみの感情をぶちまけてスナッフを殺してしまったのは、いうまでもなく、彼が純を〈裏庭〉に引きずり込んだと言ったからです。
 しかし、一方で照美は、純が死んでしまったのは、自分が目を離したすきに純が池に落ち、それが肺炎のきっかけになったのだと自分を責めてもいました(P.41)。スナッフにぶつけた感情は、実は、自分自身への罰が、はけ口を見出したものかもしれないのです。
 この激しい感情が自分自身への罰であるならば、純に関するわだかまりは、なぜ純ではなく自分が生きているのか、という問だと言い換えることもできるでしょう。

 双子である純とは、自分にそっくりな、いわば自分のもう一つの可能性を見せてくれる分身で、それは〈死んでいる〉わけです。
 つまり、これらは、なぜ自分は死なずに生きているのかという問い、自分が生きていること自体の罪、という根源的な問題に置きかえられるのではないかと思います。

 そう考えれば、純の問題とは、不当な死といった事件を経験していない人でも、だれでも一度は持つであろう、〈生〉の根源的問題としてとらえられるのではないかと思います。


 ところで、〈裏庭〉では、双子は重要な形象です。特に、コロウプと呼ばれるものたちですが、キリスゲとビャクシンのように、双子であるのが〈普通〉の形態だ、ということになっています。
 双子から逸脱した形態に三つ子と片子があります。三つ子は、音読みの婆たちですが、彼女たちは目が見えません。片子は、双子の片割れが何らかの形で失われてしまったものですが、片子である「テナシ」は、その名の通り手を失っています。
 つまり、双子以外は、何らかの欠損を徴として身にまとっているのです。

 しかし、ここで少し考えてみましょう。片子は一人なのですが、この物語を離れて、一般的に考えた時、われわれは〈一人〉いる人間を、欠損としてとらえるでしょうか。
 そんなことは決してなく、一人で独立し、自足した状態と捉えるのではないでしょうか。〈裏庭〉では、〈一人〉ではなく〈片子〉です。
 つまり、片子とは、そのままで自足しているものを、欠けていると認識することなのだと言えるでしょう。

 片子とは、何かが〈ない〉状態だと言えますが、このような〈ない〉という認識は、少し特殊だと言えるでしょう。
 これは、〈あるはず〉とか〈あるべき〉を前提としている〈ない〉で、いわば半分〈ある〉を引きずった〈ない〉だと言えます。これと対置して考えうるのは、〈ない〉ことで完結し、自足している〈ない〉です。

 こんな風にイメージしてはどうでしょうか。前者の〈ない〉が、〈ある〉ことの反対としてマイナスに価値づけられる〈ない〉だとすると、後者はプラスでもマイナスでもない、ゼロとしての〈ない〉です。〈ない〉には二種類あるのです。

 たとえば、照美は、テナシに会ったとき、手がないことを示すその名前を、気の毒で呼べません。気の毒なのは、〈あるべき〉なのに〈ない〉、と思うからです。
 しかし、テナシの方は、照美の憐みをものともせず、自分の行動を自分でどんどん進めています。それだけで自足している〈ない〉だと言えましょう。
 テナシは「名がない、という名前より、はっきりここの部分がない、というテナシという名前の方がわしにははるかにありがたい」(P.138)と言っていますが、照美は、自分の考え方とテナシの違いに気がついたとき、「テナシ」と名前を呼べるようになるのです。
〈ある〉の影のような中途半端な〈ない〉から、はっきりと〈ない〉が顕在化した瞬間です。〈ない〉ことが顕れる、とは少し矛盾したような言い回しですけれど。

 このような〈ない〉の二種の捉え方は、この物語で一貫したテーマとなっている、人の欲望とも関連するでしょう。
 それだけで完結しているものを、もっと〈あるはず〉と考えてしまうことは、終わりのない欲望を引き出してしまうからです。物やお金に対してもしかり、愛情もしかりです。
照美は根の国で餓鬼に出会いますが、それをも鎮めることができました。〈あるはず〉〈あるべき〉について、そういう捉え方こそ、本当は〈ありえない〉のじゃないかと考えてみることは、私たちにとっても、重要だと思います。



一人であることの回復

 さて、照美の話題に戻りましょう。二つの不安を解消する旅なのですが、実は、純の存在が現れるのは、最後の方、冒険の果てに竜が再生するときです(P.367)。
 この、案外最後に出てくることに注目したいと思います。つまり、ここまでは、〈それ〉が純だったかどうかすらよくわからない、ということです。

 結論からいえば、照美にとっての〈それ〉は、〈裏庭〉=〈死の世界〉にいる自分自身だったのではないでしょうか。
 〈裏庭〉とは鏡の向こうの世界でもあるのですが、鏡には、自分自身が、反転して映ります。向こう側には、双子のような自分の似姿でありながら、現実の生を反転させた〈死〉、そして、女の子である私の否定としての〈男の子〉が見える、というわけです。

 むろん、〈死の世界〉にいると言っても、照美は本当に死んだわけではありません。生きる意義を見いだせない自分、完全な死というよりは、幽霊みたいな生き方、と言い換えられるでしょうか。
 先ほど、〈ない〉に二種類あることを確認しておきましたが、これは〈あるはず〉をひきずった〈ない〉、の方です。

 このなんだかわからない曖昧なものを、最後に純と名づけることは、死んでいる純の存在を明らかにすること、つまり、完全に〈ない〉のだと認識を変えることになるでしょう。
 純の死を認識することは、純のためだけでなく、照美自身を、幽霊のような生き方から解き放つことにもなっているのです。


 〈裏庭〉では、双子の絆の強さは、橋を形成しています。ハシヒメがそれです(P.140,197,205)。しかもこれは、ハシヒメが藩の中と外をつないで交通可能にしているように、二つの異なる領域をつなぐ橋です。

 最後に姿を現した純と照美の抱擁は、橋を形成します(P.377)。
 死んだように生きている照美ではなく、生きた照美と、死の世界に確固とした存在を持った純が、はっきりと対になり、相抱いてできたこの橋は、現実と〈裏庭〉との通路を、正式に開通したものだったと言えるでしょう。
 ここで、照美は戻ることが可能になり、あるいは、他の人が〈裏庭〉を訪れることも可能になるのです。

 竜もまた、これらと関わっています。照美が竜の目を手に入れ、ばらばらだった竜が一つにまとまって再生したときは、純が現れたときでした。
 また、ばらばらになった竜の化石は、三つの藩の親王樹の根元、藩と根の国をつなぐ通路の、それぞれ向こう側とこちら側に配置されていました。つまり、竜もまた、異なった世界をつなぐ橋のような役割をしているのです。
 竜の化石は解体されたとき、まず頭が外され、胴の部分は6つに解体されて、全部で7つのピースに分けられていました(P.49)。
 双子(2)や三つ子(3)や片子(1)の数を、掛けたり、足したりしたような、数字遊び的な数ですね。

 しかも、〈一つ目〉の竜です。もうおわかりでしょう。目が二つ〈あるはず〉なのに〈ない〉という意味での隻眼の竜、なのではなくて、初めから〈一つ目〉の竜なのです。
 この〈一つ目〉という象徴や、〈ない〉の意味を合わせてみると、結末は、照美と純との対関係が回復されたとは言っても、〈一人は一人であること〉も同時に回復されていると考えることができます。

 もちろん、これは、初めはなんでも人に頼っていた照美が、自分一人の判断で行為を選びとるようになった、冒険の果実と見合うものでしょう。
 現実に戻ってきた照美とさっちゃんの再会は、ややそっけないようにも見えますが、母と娘もまた、いびつなペアであることを解消し、もっと〈あるはず〉という、お互いの過剰な期待から解放され、それぞれが独立した人格として生きていくことになるのです。



物語の種

 最後に、〈裏庭〉の世界は、誰かの庭でありながら、人々に共有されるものでもあったという点を考えてみたいと思います。
 もともとレベッカの造りだした〈裏庭〉が、照美自身の冒険によって、いまや照美のものになりました。先人の庭を「使えるところは使い、使えないところは新しくしていく」作業、それはまた、「別の人の庭」であることも始めているというのです(P.343)。

 〈裏庭〉は〈お話〉の世界でもあると最初に言いましたが、これらは、物語が重ね書きされるのと似ているでしょう。
 レイチェルや夏夜子、丈次おじいちゃんが子どもだったころ、彼女たちの憧れの対象で、さまざまな影響を受けた、水島先生を思い出してください。

 水島先生は、民話や昔話を採集していました(P.22)。これらは口承なので、聞き手が次は語り手になり、しかも、一字一句正確に伝えられていくというよりは、意識しているかは別として、話し手の創意が加わって伝わっていくものでしょう。
 だから、だいたい同じ物語と認定できるものでも、さまざまなバージョンが存在するのです。

 丈次おじいちゃんは、水島先生から聞いた話を、今度は照美に話してあげました。照美は、この時は聞き役だったのですが、〈裏庭〉に入った時、自分から物語を語り始めます(P.128)。
 それは、別のバージョンの物語があったとしても、自分が考えた展開を、この方がよい、として選んでいくものです。なんでも自分で選んでいくことを学んだ、〈裏庭〉での照美の冒険と重なるでしょう。

 昔話は、このように、語り伝えられるうちに、それぞれの話し手の解釈によって、変わっていきます。
 それは、前の物語の死でもありますが、新しい物語の誕生でもあり、それこそが、先人たちが残してきた物語をつないでいくことにもなるのです。
 照美は、それを人に語るのかどうかはわかりませんが、自分自身の物語(=解釈)を手に入れました。そして、そうした物語の種が、読んだ人の心に蒔かれるのを、この物語は望んでいると言えるでしょう。

 最後は、レイチェルと丈次おじいちゃんが、〈裏庭〉に入っていくことになります。この二人も、現実的、あるいはかつて〈裏庭〉を拒否した人たちです。
 そんな彼らにも、〈裏庭〉は扉を開く。実は、誰の心にも〈裏庭〉はあるのです。
 ここで二人には、テナシ=「銀の手」が、二人の共通の思い出である水島先生のように見えています。照美の物語ではなく、もう、二人の物語が始まりだしているのかもしれません。


 他にも、ふれられなかったことはたくさんありますが、とりあえず、一番大きなテーマのところだけ、お話ししました。あとは、みなさんがそれぞれの〈裏庭〉を作っていただければいいと思います。






◆トップページに戻る◆