1998年 現1999年 最新版


「8月7日、晴れ」
1999年のkaz8のつれづれなるままの日記ダイジェスト

1999年1月1日正午ごろ

 明けましておめでとうございます。ノストラダムスの予言だと、秋ごろには地球が破滅するのでは?と言われている、らしい(実は私はノストラダムスのこともノストラダム子のこともよく知らない。後者はちょっと別物だけど(^_^;;;)1999年がやってきてしまいました。
 ところが、こんな気持ちの悪い1999年に、kaz8は幸先の良いスタートを切りました。
 まず、年末ジャンボ宝くじが当たった、ようです。当たった、当たった、と大騒ぎしたはいいが、実は新聞に掲載された数字が間違っていました、なんてことになるとちょっと恥ずかしいので5日に第一勧業銀行に行くまでは安心できませんが、間違いがなければ、5日には3等賞金100万円が私の手元に転がってくる予定です(^^)v 
 すでに家族からは「この前50万円当たったばっかりなのにどうして・・・」という嫉妬混じりのお祝いをいただいております。今朝から、妹に10万、両親にも10万、親戚に少々、会社には2万円相当のビールを現物で、コンサドーレ札幌には20万円寄付、コンサライブにも5万円カンパ、いつも飲みに連れていってくれるなどお世話になっている、Fさん、Iさん、Mの3人(名前の公表は控えさせていただきます)にも一回私のおごりで焼き肉なんぞにでも(予算3万円)・・・などと金額の割り付けがはじまっています。ここまでやっておいて「実は違いました」、となるとしゃれにならないぞ(^_^;;;
 あと、これを機会にこのパソコンの増強計画も果たせそうです。ほかにもカメオ記念日も盛大に、コンサがキャンプをはる高知へ旅行などなど・・・合計金額が300万円をゆうに超えてますが(ォ

 なぜこういうことをわざわざこの場で公言するか? 黙って100万円使ってしまえばいいじゃん、と疑問をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。でも、これが私のやり方なんです。
 100万円を全て自分の自由に使える。一般的な人にとっては結構魅力的なことでしょう。僕だって欲しいものを全部買おうと思ったら100万円ぐらいじゃ全然足りません。でも、だからと言って、当たったことを誰にも内緒にしておくと、もう2度と幸運の女神が振り向いてくれなくなるのではないか? そうなることを最も恐れているんですよ。それで、当選金額の20パーセントまでは、みんなでわいわいやって幸を分けることで、次の当選のチャンスを得ようというわけなのです。別に科学的な根拠など何もありませんが、前回、平成7年3月にインスタントくじで50万円をあてたときも、妹に5万円の祝儀を出し、お寿司をとって家族で祝い、親戚にも寸志を出すなどして10万円をお祝いにかけていたおかげで、今回また当たりました。しかも前回より金額はアップ。この調子でグレードアップしていけば、4年後には1000万円、8年後には1億5000万円の当選も夢ではない(コラコラ
 今回は半分くらいは寄付だ、何だで飛びそうですが、まあ、コンサへの寄付は私の欲しいものを買うのと同じようなことですから、それを除けばお祝い費用は30万円くらい。適正なレベルでしょう。パソコン周りの補強に10万円使い、3月14日のJ2開幕戦観戦ツアーに10万円使い、残りのお金は借金体質が長引く私の財布をバックアップするために使おうと思います。

 さらにつきは続きます。太平山三吉神社に初詣(私は朝5時に初詣に行くことに決めている。一番すいている時間だからだ)したときにひいたおみくじは大吉(3年ぶりの快挙かな?)。「やることなすこと幸いに転じる」と書いてありました。いやー、もう今年は暴れまくってやるぞ(待てぃ!)
 さらにさらに、いつもはぱらぱらとしかこない(ひどい年だと2枚、ということもあった(;_;) )年賀状が今年は元旦だけでも23枚も来ている。これは自己新記録。去年の5割増し。こりゃ、年始から幸先よすぎるねえ。
 ただし、この中に私が年賀状を送っていない相手が8人もいた。残っている手持ちの年賀はがきはたったの1枚(^_^;;;
 ・・・これが終わったらコンビニで買い足してきます (((((((((((((((((((^_^ダッシュ。

 さて、予告していたとおり、今回は元旦スペシャルとして「98年 kaz8の10大ニュース」をお送りします。別に正月期間限定公開にするつもりはありませんが、3が日(の次の更新の日まで)は、ここから直接入って行けるようになってます。これも、kaz8という人物を探るカギとなるとおもいますので、まあ見てやってくださいな。
 本日は日記の更新は今回限りですが、体力の続く限り、他のページの更新も随時行っていくつもりです。それでは(^^)/

1999年1月2日昼

 昨日の天皇杯決勝は、近年まれに見る緊張感のある試合だった。清水vs横浜F。かたや、チーム消滅寸前という危機的状況から、市民の熱烈なバックアップで息を吹き替えしたチーム。こなた、全日空の理論だけで、サポーター・ファンにチームを救うための活動の機会さえ与えられずに潰されてしまうことになりそうなチーム。そういえば、J最終戦の横浜Fの相手も、市民の熱烈なバックアップに支えられ、半死状態(年収を超える累積赤字を抱えているんですから、いつ潰れてもおかしくはない)で突っ走る我らがコンサドーレ札幌だった。何とも皮肉なことだ。そして、フリェは、鉄壁の守りを誇っていたエスパルスから2点をもぎとり、奇跡を完成させてしまった。まさに「優勝の美」
 一般的に、カップ戦で優勝したチームにはスポンサーになりたいと手をあげる企業が出てきて、球団がうるおうはずなのに、Vを最後に消滅してしまうチームなんて世界に例はないだろう、というNHKのアナウンサーの言葉がいまだに耳から離れない。
 私はフリェのサポーターではないが、それでも、寂しさとやるせなさと、全日空に対する怒りは隠すことができない。
 経営が苦しくて球団運営から手を引くことだけなら誰も責めたりはしない。従業員にも家族があり、生活がかかっているのだから、そのために共倒れになる必要はない。(だから、佐藤工業には、今までのサポートに感謝こそすれ、叱責したりはしない)
 でも、なぜ一言、全日空が「もう私たちでは支え切れません。ファンの助けがなければこのチームは解散せざるを得ません」と言えなかったのか。経営が立ち行かないときにプライドがどうこう言っている場合じゃないでしょ?
 このあたりに、全日空の「一応、社会的に貢献してますよ」という自慰的なものが透けて見えてくる。撤退するなら下手な小細工をするな。マリノスにも投資するな(そもそも、そんな余裕あるのか?)
 マリノスファンだって、球団名にFの字なんて入れられると気分が悪かろう。だいたい、名称変更のためにまた何千万というコストがかかるのだし・・・馬鹿馬鹿しい。全日空のわがままのためだけにJリーグ全体がかき回される。川淵チェアマンも、今回のことにストップをかけられなかったことで評判を落としてしまうことになってしまった。気の毒だ(もちろん、今回のことは、明らかに川淵氏の判断ミス。責められてもしかたがないのではあるが)
 でも、川淵チェアマンのファンに対する信用を失墜させてしまったことに対しても、サポーターに対する背信行為に対しても、全日空には反省の色がまったく見られない。自分たちはできる範囲で良いことをしました、という顔をしている。これは絶対に許せない。
 もともと、高校の修学旅行で、全日空のスッチーに凌辱を受けて以来、頑なにANA便に乗ることを拒否してきた私。今回、もし、サポーターの必死の懇願にたいして、何らかのアクションを見せるようであれば、これを契機に搭乗拒否を解除しようか、とまで思ったものの、全日空はやっぱり全日空。金もうけ第一、顧客は2の次(フリェ応援のためにANA便で全国を飛び回っているサポーターの恩義を何も感じていないらしい)ケッ凸(-_-#
 とはいえ、まだすべてが終わったわけではない。本当に地域リーグからやり直しができるのか。JFL、J2というステップを経てフリェがJに戻ってくる日がくるかのどうか。バスケットの所沢ブロンコスのように市民球団として再生できるのか(サポーターとしては、本当はバレーボールのオレンジアタッカーズのような形を望んでいたに違いないが・・・) サポーターとしての真価が問われるのはこれからだ。
 札幌という貧乏球団を支える私も、その大変さ、痛みはわかっているつもりだ。できる範囲でフリェ再生の応援もする。がんばれ!全国のフリェサポーター
1999年1月3日昼

 このページを読んで下さる方の中には、会社の人、それも部長クラスを含め、上司が結構いるため、今まで会社の話は極力避けてきた、つもりだ。(某ページでは「職業を秘匿しているのに、日記を読んだら職業がバレバレ」と書かれていたが、業界人ならいざ知らず、一般人にはわかるまい、と思って書いているつもりだが・・・いかがなものでしょうか?)
 とはいえ、新年にあたり、一つ気になっている仕事上のことを一言。

 私の直接の上司としては一番位が上にあたる人であろう(どこまでが自分の上司かが境目がはっきりしないんだよなあ。少なくとも、社長とはあいさつこそすれど話をすることはないので、直接の上司には当たらないと考えている私。役員クラスでも常務、専務クラスはみんなそう)取締役○○局長(○○を公開すると職業がバレバレなので割愛(^_^;;;)。結構服装のことについてうるさい方なのである。
 まあ、かたや外勤の人はウィークデーはスーツ、ネクタイ着用で仕事をしているのに、私のように内勤だからといってGパンにアイロンもかけていない普通のシャツ、ノーネクタイどころか、下手をすれば「Power To The People」と大きくかかれているTシャツなんかを着用して仕事をしている私の姿はそりゃ、奇異に映るだろう。会社にやってくる他の人の目もある(うちの会社は、小学生からお年寄りまでみんなこぞって見学にやってくる。最新の設備なんかは確かに見ていて楽しいし、そのために、2階は作業が見学できるようにと工夫されている。会社紹介ビデオも関連会社に頼んで作らせてあり、予約さえ入れれば、誰でも無料で見学できることになっている)
 最近は私も少し反省して必ず襟付きのシャツを着ていくようになったが、それでも、この仕事をやるのにスーツ、ネクタイで、という気にはなれない。
 なにせこの仕事、人に話をすれば、クリエーティブで高度な頭脳労働のように聞こえるらしいのだが、実態は、時間に追われてあくせくする激しい肉体労働なのだ。いや、本当に。冗談抜きで(^_^;;;
 最後には「間にあわねぇ」とか絶叫しながら社内を走り回るし(まあ、私の性格がそうさせているという点は否定しないが(^_^;;;)消しゴムのカスが舞い上がり(1日1個は使い潰す私が異常だという話もあるが・・・)鉛筆や赤ペンで袖口が汚れるのでスーツを着ていくのがもったいないのだ。クリーニング代も馬鹿にならないし。というわけで、私は、この部に入って以来、スーツ着用で仕事をしたことはたったの2回しかない。両方とも、仕事後に歓送迎会がある日だけだ。

 さて、くだんの局長。普段私に面と向かって服装のことにケチをつけることはほとんどない(一度「どたばた走り回るなら、サンダルはやめろ。うるさい」と言われたくらいかなあ)が、それでも私の服装のことはずいぶん気に入らないらしい。私がスーツを来て出社するときまって「いつもそうやってきちんとした服装で仕事すればいいだろう」と言ってくる。いつ会社をやめると言い出しかねない新人類を目の前に、言いたいことがいえなくてかなりイライラしているようにも見える。

 私は、そういう局長の心理をくみ取ってごまをするように自主的にスーツで仕事をする人間ではない。まあ、上司の命令には服従すべきなのだろうから、注意されれば、泣く泣くスーツ着用をすることになるだろうが。(もう、金が無くなるぅ、という愚痴はしばらく発することができなくなってしまった私。そんなこと言ったら刺される)

 ただ、明日はどうしよう、と思いあぐねている。明日は年始にあたり、社長からの訓示がある日なのだ。過去2年は、偶然非番の日に当り、避けて通ってこれたのだが、今年は朝8時出勤。場合によっては、社長の前に出向いて直接訓示を聞かなければならないかもしれない。(私としては、8時出勤の日はあんまり余計なことで時間をとられたくないので、仕事をしながら社内放送で聞き流したいところ。それが許されるかどうかはわからない)そうなると、スーツの中にGパン一人、というとーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっても恥ずかしいメにあいかねないわけで・・・。一方、現在の部署に来てから体重も増加。スーツを着るときつくて息苦しい。仕事の効率も落ちる。
 できればスーツ着用は避けて通りたい。また局長に何か言われるのもちょっと憂鬱だし。さりとて、高校入学の時に味わったあの思いはゴメンだ。(合格後、入学式前に改めて開かれた説明会の時の話。特に注意書きはなかったので私服で行ったら、周りはみんな、高校か中学の制服をちゃんと着ていて、赤っ恥をかいてしまった。98年10月2日に紹介したゆーこちゃん=高1、高3と同級生。同じ中学校出身の6人中、唯一一緒のクラスになった組み合わせだった=もちゃーんとおろしたての高校の制服を着ていた。真面目だねぇ。しばらく周りには「彼女と同じ学校から来たものです」とは名乗れなかった(;_;) )
 さあ、どうするどうする。やることなすこと幸いとなすという99年(おみくじによる)だが、この選択、表に出るか、裏に出るか。(結果報告は早ければ4日夕にも・・・)

1999年1月4日深夜

 3日の日記に書いたスーツの件は、結局「スーツの中にぃ〜」と思い悩みながら仕事をするのは精神衛生上よくない、という理由から着用して会社に出向いた。局長からは何も言われなかったが(というか、局長に話しかけられないように、近くを通らなかった。でも、「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」という一言を庶務のおばちゃんには言っても、局長、局次長には言わない私。結構失礼な奴だな(^_^;;;
 周りからは「違和感がある」「いったい何ゆえに?」などと言われたが、結局心配していた社長訓示を目の前で受けるという話は強制はされなかった。だいたい、11時半には仕事を完璧に終わらせなければならない状況で、10時に仕事を中断しなければならないのは辛すぎる。誰にも何も言われなかった。というか、同じ仕事をしている人は誰も聞きには行かなかった。社内放送で社長の声が流れることもなかったが・・・(このあたりは、知事の訓示が庁舎内に放送された県庁とはちと違うらしい)
 ※後日談:会社の先輩の話だと「部長クラスの人ならいざ知らず、普通の人はほどんど聞いた
      ことがないんじゃないか」とのこと。無駄に心配しすぎましたね(^_^;;;

 さて、スーツ着用だが、確かに落ち着けないのではあるが、思っていたほど辛くはなかった。1回だけでクリーニングに出すのももったいない(さりとて、1カ月も着ないなら、クリーニングに出さないのも考えもの)。そして、内ポケットがあるというのがなかなかあんばいがよいのだ。いつも尻ポケットからはみだしている分厚いサイフ(中身はレンタルCDの会員証などが多く、実弾は少ない)にたいしてあれこれ言われる上、トイレで落としそうになるのが怖いのだが、内ポケットがあればそれは気にしなくていい。いよいよ明日は宝くじ持参で第一勧業銀行に出向く運命の日。そのことを考えると、明日もスーツ出社の方がいいかな、とも思っていた私であった。
 だが、しかし、そう簡単に結論は下せない。なんと夕方から、史上最大級の鼻血地獄が私を襲った。両方の鼻の穴からどぼどぼ血が流れ落ち、口からも血を吐き出すといういまだかつて経験したことがないほどの惨事だ。私のTシャツに今も残る生々しい返り血が・・・。(2回着替えたが、しまいにはもうどうでもよくなってしまった(^_^;;; )。ボックスティッシュ1箱まるまる使い切り、止まるまでに要した時間は約2時間半。
 なぜここまで鼻血が止まらなかったのか、理由はよくわからない(小さいときに鼻くそをほじるくせがあったため、粘膜に傷がついているのだろう。鼻血が出やすい体質だ)が、運命の第一勧業銀行デーを前に興奮したためかもしれない。こんな流血戦が明日も続くのであれば、スーツなんてとんでもない。金太郎のベロかけが必要だ(ォ
 というわけで、明日の服装は体調次第と言うわけだ。でもなあ、内ポケット欲しい(;_;)

1999年1月6日未明

 4日の日記に書いたスーツの件は、結局、今朝になって鼻血が小康状態に戻り、無事着用の運びとなった。
 それにしても、昨日の午前中は、仕事をしているのが精神的にめちゃめちゃ辛かった。たった5日だが、周りに、宝くじが当たったことを隠しているのが、こんなに精神衛生上悪いものだとは思わなかった。高額当選したからといって黙って隠れて全額を使い切れる人はすごいずぶとい神経の持ち主だと実感。別に隠し通そうなんて思ってはいなかったが、ちゃんと第一勧銀で確認するまでは心配だったしね・・・。
 仕事ももう上の空(待てぃ!) 仕事が終わって昼休みに入るや否や、要件もあやふやに言いながら(「やんごとなき用事で」と言ったら、会社では「何がやんごとなきだ」と言われていたとか。とりあえず用字用語を間違えたとは思えませんが(^_^;;; )会社を飛び出していきました。

 で、第一勧銀についてからですが、まずは、本当に当たっているかどうか心配だったこともあり、支店横の直営売り場(←だということは、今日はじめて知った)で、300円の当たりくじとまぜて機械で調べてもらう。やっぱり間違いない。ヤッターp(^-^)q。
 ところが、窓口のおばちゃんが落ち着き払って(←さすがに場慣れしてますねえ)言った「免許証か保険証をもって窓口の方へ提出してください」との言葉に凍りつく。・・・あ゛、しまった。免許証、アパートに置き忘れてきた(^_^;;; いつもは肌身離さず持ち歩いているが、スーツなんか着るからこういくことに・・・

 あわててアパートに引き返す。道中、とりあえず、実家に無事当選したとの一報を入れる。興奮からか、タクシーの中で、またしても鼻血が吹き出す。たかが100万くらいでこれだけ動揺している自分が情けない。こんな調子じゃ、1億5000万円当たった時が思いやられる(←もう当たった気でいる自分も横柄だ(^_^;;;)

 さて出直し後。銀行では結構いろいろ書かなければならない書類も多く、中には、どこで買ったか、いつもどのくらい買うのか、保存方法は・・・などいろいろと書かなければならないアンケートもあった。フロア担当の人(も、さすがに慣れている。当然1億5000万円当選の人に会ったこともあるのだろう)に手伝ってもらいながら何とか書き終える。
 これが、1等になると、応接室に通されるという噂だ。(というか、その噂によると、1等が当たった人間は、とんでもない興奮状態で銀行に来てしまうので、いったん落ち着かせてあげないと、くじの裏の住所欄に名前を書くことすらできなくなっているんだとか。でも、100万円で鼻血ブーな私。一体どうなる?)
 前回は目の前で50万円を広げて見せてもらったが(なかなか感動モノだった)今回は、それでは手元に何も残らないし(当たりくじは当然回収される。レプリカが欲しい・・・)、遊んでいる時間はないので、一旦、そっくり100万円、自分の勧銀口座にぶち込んでもらった。これで100万円を受け取ったという証が永遠に刻まれたわけだ(ちなみに、この口座を作ったのは平成7年3月。50万円を受け取りに行った日のことだった)

 そこから、すぐ、CDでお金を下ろし(手間ひまかけさせて申し訳ありませんm(_ _)m)、実家、妹、親戚に送る分は近くの郵便局で発送。その時点で時間切れ(2時には職場に戻らないといけないので・・・)になり、近くのコンビニで昼ご飯を購入して社に戻る。

 ようやく、会社でも堂々と当選の事実を公表できた。これまでは本当に辛かった(;_;)。
 反響は自分が想像していたよりもはるかに上だった。瞬く間に、同じ階にあるすべての部署の人に噂は広まった。
 で、今のところは、それほどタカリにはあっていない(今後のことはわからない(^_^;;;)が、一番言われたのは「3000円やるからオレの分も買ってきてくれ」「握手させてくれ」の2つ。後者はいいが、もう数年は当たりそうもない私にとって、当たることを期待された上でのくじ購入は結構辛い。(ちなみに今日はインスタントくじを10枚購入したが、当たったのは100円ぽっきり。まあ、こんなもんです)もちろん、私も当たりたいからこそ毎回購入してはいるが、絶対にこの回に当たらないといやだ、とまでは思っていないので、私が買えば必ず当たる、という風に期待されるとちょっとねえ・・・
 それとは関係ないが、某先輩の「100万円当てて昼ご飯がコンビニ弁当はないだろう」との突っ込みはさすがに鋭い(^_^;;; 時間がなかっただけで他意はないのだが・・・。
 
 ただ、世の中には上には上がいるもので、会社のOB(故人だが)には、10万円なら数え切れ無いほど、100万円も数回あてているという人がいるらしく、その人いわく「潮の流れを読んで買うと当たる」。大潮の日の満潮の時間に買うとよく当たるという話らしいのだ。さすがに、毎回毎回、その時間に合わせてくじを買えるほど私も暇ではないのだが、いかんせん、当たった数がすごいし、妙に説得力もある。今度買うときは狙ってみようかな(゚ー゚)ニヤリ

 その後、コンサドーレへの募金、コンサライブへのカンパも無事済ませ、気がつけば1日で50万円が吹っ飛ぶ(予定どおりとはいえ、さすがに冷や汗が・・・)

 さてさて、ある人から、「宝くじをあてるこつを・・・」という話を聞かれたので、私が思っていることをまとめてメールで送ってみたら、そちらのホームページで原文がほぼそのままの形で公開されていた。公開されることに不満はないが、そちらのページで公開されているのに、こっちでは何もないというのも私のページの読者に失礼かな? ということで、参考になるかどうかわからないが(ならないかも(^_^;;;)自己紹介拡張企画第2弾として、そのメールを焼き直したものを公開します。題して「kaz8流 宝くじ購入時の約束事」
 いずれにせよ、買わないことには当たらない宝くじ。パチンコとか刹那的なギャンブルはほどほどにして、みなさんも、宝くじで夢を買ってみませんか?(まあ、何事もほどほど、ですよ)

※「8月7日、晴れ」では宝くじに関するコンテンツも開設しておりました。そのサイトより、上記の約束事のほか、「kaz8のギャンブル哲学」もこちらに移しておきます

1999年1月9日午後

 トイレの水が全然流れない。というか、タンクに全く水がたまらないのだ。さすがに下の方は大丈夫で、ぶじウ○コは出ていってくれるのだが・・・。(お食事中の方、どうもすいません)
 一瞬「凍結か?」と思った私は、水道管に熱湯をかけまくってみたが、うんともすんともいわない。だいたい、元栓を共有している風呂場など、他のところは全く問題がないのだ。これは変だなあ、と思い大家さんに連絡するも留守中。ひょっとして秋田市内で水道凍結起こりまくりなのか?(ちなみに、私のアパートの大家さん、本業は水道工事屋。こういう時はタダで直してもらえるので便利、だったはずなのだが・・・)
 で、今はどうしているかというと、いちいち鍋でタンクに水を補給し、急場をしのいでいるわけだ。我ながら情けない。

1999年1月13日未明

 秋田で発行されている新聞に

「Jリーグの某監督、地元県知事を表敬訪問」
「Jリーグの某監督、某選手と同じ飛行機に乗る」
「Jリーグの某監督、各地で講演会&市民集会を開く」

 といった類の記事が掲載されることは普通考えられない。ただし、これが秋田にあるJリーグチームなら話は別だが・・・もちろん、他都府県においても、地元チーム以外の動向など、ここまで細かく知らせてくれることなど考えられない。

 このように、今までだったらこんなことが全国ニュースになるはずもないことが、こと、コンサドーレ札幌に関するものに限り、秋田でもじゃんじゃん入ってくるというのは面白いし、ありがたい。それは単に岡田武史氏という、日本で初めてサッカー代表チームをW杯に送り込んだ男、の注目度のなせる技に過ぎないのではあろうが。

 秋田に来てはじめてわかった、地元での事件の、地元以外での冷淡な反応。特に、サッカー不毛の地、47都道府県で最もJリーグに理解を示してくれない地(←私のひがみまじりの推測です。反論はメールでどうぞ。でも、100年たっても秋田にはJリーグのチームなどできっこない。せいぜい作れてプロバスケットボールチームぐらいだ)の秋田においてでさえ、元全日本代表監督、いやいや、初のW杯伝導者は注目に値する男らしい。そして、今後、これほどの注目を集めるJリーグの監督がいるかどうかはちょっとわからない。いない可能性が高い気がする。ラモス、三浦カズ、中田などが将来チームの指揮をとることになればそれなりに注目は集めるだろうが、果たしてここまで報道が過熱するだろうか・・・コンサを愛する私としてはうれしいことではあるものの、何とも不思議な気分である。

1999年1月16日夜

 せっかくの4連休だというのに、だらだらと過ごしてしまってもう残り1日となってしまった。特に計画を立てずに休みに入るとこれだからなあ・・・

 1日目はまだよかった。それなりに新聞を読み、それなりにメール書きをし、夜は荒木さんのいつでも「いいひと。」ページで初めてチャットに参加。インターネット上でのチャットというものにはいろいろと抵抗もあったものの、とても楽しかったです。新発見も続々?! 2月の帰省が楽しみになってきました。

 ところが、2日目がいけなかった。起きたのが夕方4時。これだけでもとんでもなかったのだが、おまけにメールチェックをしている途中に強烈な吐き気に襲われる。結局、出たのは胃液だけだったが(夜7時を最後に何も食べていないのに何ゆえに?!)、食欲を失い、その後は、悪寒と頭痛と吐き気で寝込んでしまう。こんな状態なので、かぜ薬も頭痛薬も飲めるはずもなく、しばらくふとんでもがき苦しむ。
 ようやく夜10時半になって気分が落ち着いたので、歩いて5分で行けるコンビニに行くためにタクシーを予約する。が、その直後から全身にしびれがはしり、どっと冷や汗が・・・これはまずい。救急病院行きか? とも思ったが、風邪くらいで夜間病院に行くのも恥ずかしい、と思っていたら容体が落ち着いてきた。結局、来てもらったタクシーでコンビニを往復し、食料を購入して戻る。その後は何とか小康状態を保ち、薬を飲んで眠りにつく

 3日目。最初は病院に行くつもりだったが、ことのほか体調はよく、馬鹿馬鹿しくなってきたので、そのまま家でだらだら過ごす。メール書きやページ更新に時間を費やし、いまに至る

 本当はこの連休中にたまりにたまった古新聞を読み終えるつもりだったのだが、それは厳しい状況に追い込まれた。今月中には何とかしたいが、果たしてどうなる?

1999年1月20日未明

 このページをご覧の音楽通の方、そこまでではなくても、音楽鑑賞が趣味という方全てにお願いがあります。
 「君にもできるすべて」「幸せになろうね」「WHO CAN SAY」「Brand-new Heaven」というタイトルの曲をご存知でないでしょうか。もし、ご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひ、kaz8までメールなり掲示板なりでご一報下さい。何とぞよろしくお願いいたします。なぜか?ということについてはこのページをご参照下さい。とりあえず、今月いっぱいまでは毎回、日記の冒頭でこの呼び掛けを続けていくつもりです。よろしくおねがいしますm(_ _)m
 私の会社には、24時間わかしっぱなしの大きめのお風呂が備え付けられている。もともとは、汚れ仕事をする人が多い部署のために用意されているものらしいのだが、別に誰が入ってもおとがめはないようなので、最近はよく利用している。何といっても、温かくて助かる。アパートの風呂には追い焚き機能がない上に、冬だとガス瞬間湯沸かし器をパワーアップして使ってみても、ぬるま湯しか出てこないので寒くて仕方ないのだ。
 そんな私に対して、一部の先輩から、私に「100万円もっているんだから、会社の風呂じゃなくて高級公衆欲情浴場に行ってこい」とからかう声が出ている。「俺の分をおごってくれるなら連れていってやる」と言う人までいる。
 しかし、例え1億5000万円が当たったとしても、私はそっち方面の世界には足を踏み入る気になれないのだ。理由はまあいろいろあるが、何より、彼女イナイ歴27年半を超えた男が、自分を慰めるためにそういう世界に“現実逃避”を求めるということがたまらなく嫌なのだ。
 もちろん、27にもなって「何にも知らない」ということの弊害は理解しているつもりだ。いや、将来、めでたく彼女を作ることができた時、その先に待つ「地獄の日々」におびえながら生きているといっても過言ではない。ABC3点セット全て未経験(←本当です)な私。冗談抜きで今後のことを考えると胸がしめつけられる想いがする。問題はモテないことだけではないのだ。当然、このことは相手に隠していても仕方がない。いずれバレることだ。全て理解してもらった上で、「おつきあい」をお願いするしかない。まるで青函トンネルを一輪車で走破しようとしているかのような、先の見えない孤独な戦いは今日も続く・・・

1999年1月23日夕方

 以前、好きな人の誕生日を忘れない私(98年10月2日の日記参照)、について書いたことがあったが、実は、それだけではなくて、嫌な奴の誕生日なのに忘れられない。そんな日もある。今日、1月23日が奴の誕生日だ。覚えていることにそれほど大きな意味などない。単に1・2・3と語呂がいいから忘れたくても忘れられないだけの話だが・・・。
 その男は、私が初めて勤めたコンビニエンスストアでいつも一緒に組んでいた奴だった。年は同い年だったが、キャリアはもちろん向こうの方が上。彼には、学歴に対するコンプレックスもあったのだろう(私は某国立大生、相手は専門学校にさえ認可されていないコンピュータースクールの生徒)、私はその店で徹底していじめられた。おかしなことをすれば蹴る、殴るは当たり前。ことあるごとに嫌味をいわれ、ちょっとへまをすればけちょんけちょんにけなされ、毎日恐怖におびえながら仕事をしていた。店に通うのが苦痛でたまらなかった。同じ系列のコンビニ(別の店)で働いていた友人にも、そのことをさんざん愚痴っていた。
 とはいえ、ひと月まじめに働けば給料は10万円。この店で採用されるまで面接試験を落ちまくった私は、今の根性無しの自分と同一人物とは思えないほど、耐えて耐えて仕事を続けていた。
 その男にはおまけに、誕生日プレゼントまで要求された。私もこの店を続けていくために、と泣く泣く要求された品(ちなみに、それはレッドツェッペリンのスコアだった)を貢いだ記憶がある。そこまでしてまでこの店に1年半も働き続けたのはなぜか。いまだに自分でもよくわからない。
 そんなこんなしているうちに、働いて1年くらいたったときであろうか。彼が店を辞めていった(学校を卒業するのでそりゃ、辞めるのは当然)。自分が上に立つ人間になってはじめて気がついたことがある。「あの男、ああ見えても実はできる男だったんだ」
 確かに頭は悪そうな男だったが、客受けはよかった。彼がいるからと言って、深夜にコーヒー(当時は150円で飲めるカートリッジ式の一杯取りコーヒーメーカーがあった。今でもあるかどうかは不明)を飲みに来るタクシーの運ちゃんがごまんといた。彼が店を去ると、その客はほとんど店に訪れなくなった。私は、型通りの接客しかできない情けない男だったこともあり、彼らの眼鏡にかなわなかったのだろう。悔しいけど、嫌な奴だけど、店員として、私は彼に勝ることはできなかった。

 その後のことは、ちゃんと話すと長くなるので、今度の機会にするが、私は別のコンビニでもバイトをしている。その店では、すでに経験があるということもあり、入ってからすぐに主力メンバーとして扱われた。賞品の発注も引き受けるなど(おでん、ジュース、アイスクリーム担当。時々弁当も発注)バイトの店員としてはかなり出過ぎたことまでやっていたような気もするが、それなりに認めてもらえていたのだろうと前向きに解釈している。「就職先がなかったら、うちで働かないか?」と「いいひと。」の妙子みたいなこともいわれていた。幸い、就職先があったこともあり、無事平成8年2月に円満退職することとはなったが、ここまで働き通せたのも、最初のアルバイト先で、その嫌だと思っていた奴に鍛え上げられたおかげだといわざるをえない。悔しいが、その男のことを認めざるをえない。あんな男に対して「尊敬」という言葉は使いたくはない。それでも、感謝はしなければなるまい。何とも複雑な心境だ。

 私がその店を辞めてから4年。昨年5月にそこを訪れてみると、店はすでに潰れていた。もともと表通りからちょっとひっこんでいて、駐車場もない立地。ローソンまで100メートル、同系列店まで200メートル。300メートル歩けばサンクスもあるコンビニ激戦区だったうえに、2年前から「マルイストア」というスーパーが向かいに立ち、客は一気に激減。開業から17年。同系列店でも老舗の部類に入っていたその店は、当時の面影をやや残しつつ、参院戦の立候補者とおぼしき人の選挙事務所として使われていた。その店、セブン・イレブン北一条店。今ではもう私が立ち入ることが許されないであろうその場所は、まぎれもなく、私の青春の1ステージであった。

1999年1月25日未明

 来年から、祝日法が改正になって、「○月の第×月曜日」の祝日が誕生することになるらしい。まあ、そのこと自体はまあ、いいことではないかと思っている。そうやって、3連休をあっちこっちに作ってもらえれば、何もゴールデンウィークや年末年始、お盆ではなくても帰省するチャンスを作れる。年に5回もそういうポイントがあれば、比較的ゆっくり帰省する場所が出来るだろう。個人的には9月半ばにそういう機会を作ってもらって、遅い夏休みを取りたいと思っているのだが、いかがなものだろうか。
 ところが、この方式、肝心の祝日の選定がよろしくない。以下、「この祝日は異動すべきか否か」という持論を一つひとつ述べていきたい

・成人の日(移動には賛成)
 基本的に、成人の日が1月15日にある必要などないだろう。そもそも、成人式自体が、お盆や年末年始など「若者が帰省できる時期」にシフトしている町村など全国にごまんとある。若者あっての成人の日。帰省しやすい日程を組めばいいのだ。
 ただ、気に入らないのが「1月の第2月曜日」という設定だ。これでは下手をすると1月8日になってしまう。6、7、8日と、正月休みに限りなく近い、というか、くっつけてしまいたくなるほど近くに3連休など設定しても意味がない。せめてもう1週間後にすべきだった。

・建国記念の日(固定には賛成)
・春分の日(固定には賛成)
 こういう休日を動かしてもしかたない(^_^;;;
アメリカではワシントン初代大統領の誕生日を記念した祝日まで移動するらしいがそれはやり過ぎだ

・みどりの日(固定には賛成)
・メーデー(祝日化熱望)
・憲法記念日(固定には賛成)
・こどもの日(固定には賛成)
 ゴールデンウィークの存在意義は認める。だから、どうせなら5月1日も祝日にして、日本はこの時期、必ず1週間完全に機能停止にすればいい。連休の中休みの5月1、2日に仕事をするというのは苦痛な話。やめようではないか。

・kaz8誕生記念日(祝日化熱望O(゚o℃=バキィ… )
 半分本気です。だってねえ、1年間で祝日がない月は6月と8月だけなんだよ。8月は盆があるからべつにいいけど、梅雨があって、4月からの疲れがピークに達してくる6月って、本当に辛い。世間では「5月病」とよく言うけど、5月まではテンションを保てても、6月になると緊張感続かなくなる。1年で一番過酷な月だと言っても過言ではない。そんな6月の中に1つでも「儲け休み」があると気分的にずいぶん救われる。
 というわけで、雅子様にはがんばって男児を6月7日に生んでもらうことを熱望しております。日本の平和のためです。頑張れp(^-^)q

・海の日(廃止すべき)
 夏休み間近にこんな半端な祝日いらねえよ。趣旨も何だか右翼チックですごく嫌。青森県民にとってはそれなりに意味のある祝日なのかもしれないが、北海道生まれ、秋田在住のkaz8にとってはどうでもいい話だ

・敬老の日(移動を断固希望)
 わからない。どうしてもわからない。本当は敬老の日は移動候補に入っていたはずなのだが、老人からの反発で移動を断念したというのだ。
 そもそも、敬老の日が9月15日にあることに意味があるのだろうか。自分が将来年をとったときのことを考えれば、「敬老」というものは、1年365日24時間いつでも考えなければならないこと。年に1度、「敬老」について考える日があることの意義は否定しないが、それが、年によっては9月17日になってみたり9月20日になってみたりすることのどこが悪いというのだろう。
 むしろ、3連休を作り、そのうち2日はレジャーを楽しんで、最後の1日はまあ、お年寄りのためのボランティアの日にしよう、という感じの方が、頑なに15日に固定するよりずっといいと思うのだ。それに、ここに3連休が出来るなら、私はこの時期に帰省することになるだろう。帰省とは親孝行でもあり、15年後には、私にとって、親孝行と敬老はイコールになる。
 敬老の日は9月第2月曜日に移動するのがベストだ。再考を求める

・秋分の日(固定には賛成)
 理由は春分の日などと同じ。

・体育の日(移動には反対)
 東京オリンピックの開幕日を記念して作られた祝日。別にスポーツを楽しむ日が年によって9日になろうと13日になろうと関係ないだろう、という発想なのだろうがちょっと待ってくれ。なぜ10月10日が東京オリンピックの開幕日に選ばれた理由を振り返って欲しい。
 答えは「過去の気象データから見れば、10日は、10月で最も晴れることの多い日(特異日)だから」だ。スポーツを楽しむなら、天気がいい方がいいに決まっている。月曜日に移動したらその後は毎年雨降りでした・・・じゃ何のための体育の日だよ。もっとも、その気象データも最近はあてにならないのかも・・・

・文化の日(移動してもいいのでは・・・)
 別にどっちでもいい。ただ、11月3日も雨がめったに降らないという特異日。イベントをやるには晴れの方が都合がいいかもしれない。文化的なイベントなら別に雨降りでもいいような気はするけどね。

・勤労感謝の日(移動を断固希望)
 勤労に感謝するなら連休よこせ

・天皇誕生日(固定には賛成)
 30年後にはカメオ記念日(2月23日)に移動しているであろうこの祝日。そのまま、未来永劫、カメオ記念日を祝日化してほしいと願うのは、たぶん私と、将来できるであろう私の妻だけだろうが、まあそれはそれでいい祝日ではないか(何が?)
 もし私に彼女ができたら、結婚のプロポーズは2月23日にすることと、すでに決めている。台詞の中に「来年の今日、結婚しよう」という一言も加えることになっている。でも、それは何年先の話だかわからない。少なくとも今年も来年も無理。何かの間違いで明日にでも彼女ができることがあったとしても(ないだろうが(^_^;;;)交際してからプロポーズまで最低1年2カ月はインタバルを置くと決めている私。じゃないと、マンネリ化してだめになってしまう関係かどうかを見極められない。2年目に入り、年中行事が一段落すれば、一生一緒に暮らしていける伴侶なのかどうか、ある程度の傾向はつかめるだろう。
 というわけで、絶対に私が今年中に結婚に踏み切ることなどありえない。まあ、そんな心配する前に、まずは話し下手を何とかせねば・・・。

1999年1月27日未明

 いよいよ、25日から我らがコンサドーレ札幌が始動した。
 思えば、実に短いオフだった。始動が25日というのは、コンサとしてはむしろ遅いぐらいなのだが(昨年はすでにメキシコに向けて22日に札幌を発っていた)、昨シーズンは、リーグ戦終了が11月14日。しかも、J1参入決定戦で最後の最後の12月5日まで引きずられ、おまけに痛恨の陥落。横浜F問題や岡田監督就任などで、話題に事欠くなくここまで来てしまったという感じがある。私自身は、岡田監督就任をもろ手をあげて喜んでいる、というわけではないものの(いまだにフェルナンデス氏に未練あり)岡田氏が就任して、いろいろと話題を振りまいてくれたおかげで、J2陥落ショックが大いに和らいでいることは間違いない。選手補強でも、田坂など、札幌の財政力では本来獲得できないはずの人間まで確保でき、かなり安心感も出てきた。あとはバルデスと、新外国人の2人次第だよなあ。バルデスに関しては、J2で戦うモチベーションに欠けるということで、J1チームへのレンタル移籍も検討されたと聞くが、どうなっているのであろう?
 今季は札幌がJ2の優勝候補筆頭であることは間違いない。それだけの実力を持っているチームであることも疑ってはいない。ただし、それだけに、他9チームは、札幌を倒そうと、死に物狂いで挑んでくるだろう。決してなめてかかれる相手など1チームもない。 そういえば、今年のコンサはいきなり札幌で始動した。私はてっきり、秋田県の某高校野球チームのように、雪上で基礎体力作りでもやるのかと予想していた(田沢湖合宿に対抗して阿寒湖合宿・・・そりゃあかんか(ォ )が、別にそういう様子は見られず、結構ゆっくりと練習しているようだ。おそらく、昨年のメキシコで行ったキャンプと、開幕までの調整キャンプの間にはさんでいた公開練習(やっぱ見たいっしょ!)を前倒しして実施。その後、地獄のキャンプを展開する気なのだろう。
 昨年札幌がJ2に陥落した最大の理由(というか、参入戦に回らざるをえなかった理由)は、基礎体力が他の17チームにかなわなかったという点にある。スタミナ切れで逆転負けを食らった試合、競り負けた試合も少なくなかった。つまりはキャンプは失敗だったと言えよう。技術的に他のチームに大きくひけをとっていたとは思えない。精神力という意味では課題は多いが、決して札幌の選手のハートは悪くはない。じゃなければ、これほど多くのサポーターの心はつかめない。
 開幕まであと2カ月を切っている。今年はおそらく開幕戦以外には観戦する機会がないであろう。それだけに開幕戦は大分だろうが鳥栖だろうが絶対に見に行くつもりだ。頼むぞ!コンサイレブン&岡田監督
 さて、このサイトにも「コンサドーレ札幌万歳」というコンサ応援ページがあるのではあるが、まるで更新が進んでいない。ましてや、今年は去年、私が構想していたような更新は不可能。善後策を検討中だが、調べてみると、コンサ関連サイトは想像以上に多い。開幕までにもっともっとリンク集だけでも充実させたいと思っているところである。

1999年2月6日昼過ぎ

 私は普段、インターネットというものを「郵便と留守番電話を足して2で割ったような道具」という程度の軽い認識で楽しんでいる。
 ハガキや手紙を書いて、切手を貼って、ポストに入れるという一連の行為はなかなか手間がかかる。しかも、「拝啓 暦の上では立春が過ぎたとはいえ、まだまだ寒さ厳しい今日この頃ですが、○○様におきましてはご健勝のことかと思います」という時候のあいさつにはじまり「敬具」などという、子どものころは(というか、今も(^_^;;;)どういう意味なのかもわからない言葉を尻に付けなければならないなど、難しい決まり事も多い。まあ、それはそれでいいとしても(面倒くさいからやめちまえ、なんていったら、世の中味もそっけもなくなる)Eメールなら、そういう格式ばったことは省いてもいい(つけてもいいだろうが(^_^;;; )というのは楽ちん。比較的せっせとメールを出すようになった。
 一方、メールではなく、電話でやりとりした方が手っ取り早いことは間違いない。ただし、電話で話をする以上は、同じ時間に同時に受話器を取る必要がある。秋田に着た頃は、人恋しくて、友人とかにじゃんじゃん電話しまくっていたが、料金も馬鹿にならないし、大抵はつながらないで留守電にメッセージを残すことになる。ひとたび話し出せば3時間とかは平気で話をしているし(^_^;;;・・・Eメールなら、別に好きな時間に書いて出しても相手には迷惑もかけないし、受け取る側も暇なときに読めばいいのだから気が楽。普段このシステムを使っていて、「私は世界中の人を相手に弁舌をふるっているんだ」なんて大それたことは考えていない。まあ、気が向いた人がたまに見にきてくれればいいかなあ、というその程度のことを綴ったページを作っている、そんなつもりだ。
 そういうわけで、ここで書かれたことを、全然予期もしていない人が読むことがある、なんてことは実はあまり考えていなかった。でも、時々、とんでもないところから反響があったりすると「やっぱりインターネットってすごい・・・」と再認識してしまうことになる。

 ちょうど去年の今ごろだろうか。BBSで知り合った人たちと、インターネット上などで「Gメン'75」について話をしていたことがある。その頃は、秋田朝日放送で、“再放送”していたころだった。秋田にはTBS系列局はないのだから、正確には再放送でも何でもない・・・とにツッコまれたり「オープニングがかっこいいんだよなあ」などとしょーもないことで盛り上がっていた。詳しいことは省略するが、知り合いのうちのだれかが、ホームページに「HIMEM'75」とかいう板垣ギャグ(ォ を書き込んでいたのもそのころだった。え?HIMEMって何って? 私もよく知らない。DOSオンチなんで(^_^;;;

 ところが、この「HIMEM'75」がその後、思わぬところに波及した。何と、そのページのところに、鹿児島在住の公務員さんからメールがやってきたのだ

「私にとってGメン'75は青春そのものでした。
ぜひ、再放送されているGメン'75を録画して送っていただけないでしょうか」

 なんで、そんな書き込みのことが鹿児島の人にまで伝わるんだろう(^_^;;・・・そう思いつつも、せっかくの申し出だし、そんなに手間がかかることでもないので、私がかわりに(そのページの管理人は秋田県出身だが、福島県の大学に通っていた)20回分ほどをダビングして送ってあげていた。(もうちょっと早く気づけばよかったのだが、放送は3月で終わってしまった)。
 おかげで、その方からはわざわざ焼酎をいただくなど色々お世話になった。「縁は異なもの味なもの」とはいいますが、こんなところでこんな形で知り合いができるとは、インターネット恐るべしってところですね。(え? 語句の使用法が違っているって? まあそういう細かいツッコミは勘弁して下さいな(^_^;;; )

 それともう一つ。「くたばれ! 日本のダメ銀行」の番外編。これもインターネットの威力を思い知らされるきっかけとなった。
 とある損害保険会社の秋田支店から受けた不快な対応について綴ったものを掲載していたのだが、それが何と、その損保会社の本社で見つかり、大騒ぎになったらしい。おかげで、うちの会社の別の部署にまで事実確認の電話が行くわ(仕事で縁があることもあるのでしょうが、私が趣味でやっているページのことで会社にまで迷惑が及ぶとはさすがに思っていなかった)こんな若僧のところに、自分の父親ほどの年の課長さんが2人で平謝りに来るわ・・・自分が想像していた以上の騒ぎになった
 私としては、「どうせこんなところで遠ぼえしていても、向こうは何も思っちゃいないだろう」という軽い気持ちで怒りをそのままに書きなぐっていただけで、別にそれで金品を要求しようとかそういうつもりは無く(あ、ただし、私の名誉のために一言書いておくと、虚偽の記述は一切無かった)目的を十二分に果たしたそのページは現在はそっくり消去されている。
 以前、「あれはちょっとやり過ぎじゃない?」と指摘してくれた会社の同僚もいたが、その時にもう少し冷静に文章を書き直しておいた方がよかったのかなぁ、といまさらながら反省している。
 それにしても、どうやってこのページのことを知ったのかと不思議に思い、infoseekでその会社名をキーワードに検索してみたら・・・わりと上位に出て来た。これは驚きだ。ちなみに私のページより上位にあるのは全てその会社が作っているホームページ。こりゃ見つかるし、支店に苦情電話が行くのもわかる。まあ、何はともあれ、その会社の顧客が二度とこういう嫌な思いをすることがないよう祈るばかりである

1999年2月14日未明

 いよいよ今年も2月14日という痛恨の日がやってきた。
そう、2月14日は酒井法子の誕生日・・・ではなくて(それも2月14日となると苦々しい思いをしてしまう理由の一つではあるが・・・)、言わずとしれたバレンタインデーである。

 こうやってバレンタインデーを「痛恨の日」と表現すると、モテない男のひがみだろう、とまゆをひそめる人もいるだろう。
 もちろん、私も男だし、人間だから、チョコレートで愛を告白をしてくれる女性がいるというのなら、うれしいに決まっている。またご丁寧に義理チョコを私なんぞにくれる人がいるというのなら、それはそれでとてもうれしいものだ。だが、彼女イナイ歴27年半を超えるキャリアを持つ私。もらったチョコが0個だったくらいで、いちいち落ち込むほどヤワではない。毎年のことだ。いいかげん慣れっこになっている。

 なぜ2月14日が痛恨の日になったのかは、1986(昭和61)年のバレンタインデーにまでさかのぼらなければならない。当時私はまだ14歳、中学2年生だった。その時に犯した過ちを、未だに引きずっているのである・・・

 当時、私は吹奏楽部に入っていた。学校によって差はあるであろうが、中学校の吹奏楽部では男子部員は貴重な人材であることが多い。男子部員が2桁いる中学校なんて(男子校ならいざしらず)ほとんどない。全員女子部員という学校さえ、コンクールで散見するほどだ。私の中学校の場合、部員約40人のうち、男子は2年生4人、1年生3人だけであった。
 というわけで、まるでモテない、バレンタインデーの本命チョコなどとは縁のない私の元にも、同学年の女子から義理チョコを大量にいただいた。その数6個。6個という数字に皆さんがどういう反応を示すかはわからないが、これが私の生涯における最高記録である。おそらく、この記録は未来永劫、破られることはないであろう。ちなみに6個のうち1つは3人による共同購入のものであり、義理人情にあつい女子部員は全部で8人だった。

 喜び勇んで家に帰り、史上最多となった義理チョコにご満悦の私(と、妹(^_^;;; )。大げさな言い方だが、自分の人生でベスト10には入るほど喜ばしい事件であった。それから9年後、1995(平成7)年、宝くじで50万円をGETした時もここまでは興奮していなかったような気がする。

 だが、その喜びはほどなく地獄の苦しみと転化した。

 せっかくこれだけ気をつかって義理立ててくれた8人のためにも、ホワイトデーにはきちんとお返しをしなくてはならない。ところが、3月に入った時点で、私の所持金はわずか900円であった。本当は月に1500円のお小遣いをもらっているのだから、もっとあったはずなのだが・・・いつの間にかお金に羽根が生えて飛んでいってしまったようだった。
 この所持金では1個100円のものを探すしかない。いったい100円で何が買えるというだろう・・・街をさまよい、めぼしいものを探し回る私。しかし、1人あたり200円以上ははかけないとろくなものが買えない。さあ、どうするどうする・・・自問自答をしているうちに、無情にも3月14日はやってきた。

 結局、私は何も買えなかった。その日の練習後、ほかの男子部員は女子たちに義理チョコのお礼の品を配っていたが、私はその脇を素知らぬ降りで逃げ去るように帰って来る羽目にあってしまった。

 なぜ、あの時「買いたいものがあるからお金を貸してくれ」と母親に相談できなかったのだろう。義理チョコのお返しを買う金が無いということが、母親にも言えないほど恥ずかしいことだったのであろうか・・・いや、母親がだめなら父親がいる。男同士のことなのだから、きっと母親や妹に言いふらすこともなく、黙って3000円くらい貸してくれたに違いなかったというのに、つまらない見栄をはってしまったおかげで、せっかく義理を立ててくれた8人に申し訳ないことをしてしまった。
 結局、その後、いまに至るまでそのことを気に病みながら生きていかなければならなくなってしまった私。こんな苦しい思いをするなら、なぜあの時に・・・2月14日という日が巡ってくる度に、その苦々しい思いが胸にこみあげてくる。

 当時、私にチョコをくれた8人のうち、7人とはすでに音信不通となっている。唯一年賀状のやりとりが続いている残りの1人から、7人のうち、すでに3人は結婚していることを知らされている。うち1人は・・・(字は違うが彼女も「のりこ」ちゃん。酒井−と比較しては失礼に当たるほど可愛い娘だった)
今年の夏ごろに出産予定だとか。おそらくほかの4人も結婚してしまったのではなかろうか。私ももうそんな歳になった。もはや、私が彼女たち全員に13年前のお礼とおわびを兼ねた品をを直接手渡す機会などなさそうだ。せめて音信がある1人にだけでも・・・とは思っているが、これはこれでまたかなり難しい。あらぬ誤解(実は私は、ずっとあなたのことを・・・ということね)を与えて、彼女の学業(彼女はまだ大学院で戦っている最中である)に差し障りが出ては困るし、そもそも、今年は何ももらっていないのにいきなりこちらから一方的に、というのも変な話だ。まあ、ちょっと考え過ぎかもしれないが・・・。

 そんな思いをしたにもかかわらず、私の義理チョコに対する不義理はその後も続く。この際、母親と妹に対する不義理は目をつぶってもらうことにして(本当はそれもまずいのだが、ほかの部分で借りは返している。この前も10万円ずつ送ったしね・・・)それ以外の不義理についても振り返っておきたい。せめて、2度とこういう過ちを犯さないために、という反省の意味をこめて・・・

■1993(平成5)年−大学2年(の1年目)

 大学の吹奏楽部のパート練習の後、パートで紅一点のNちゃんから全員にミルフィーユが配られた。Nちゃんにとってはただの義理チョコなのだろうが、私は当時、Nちゃんに対して特別の感情を持っており、飛び上がるほど喜んでいたのであった。
 さて、これはちゃんとお返しをしてあげないと・・・と色々構想を練り出した。7年前の雪辱を、と気合は入りまくっていた。
 ところが、悲しいかな、忙しさ(当時私はコンビニ2店で掛け持ちでアルバイトをやっていた。ひどい時だと週8〜9日勤務することもあり、その忙しさはハンパではなかった)に流されているうちに、3月14日などあっという間に過ぎていたのであった。
 7年前の自分と違い、金ならあった。当時は月平均で現在の月給の手取り(16万円ちょい)を稼いでいた。自宅通いで食費、家賃、光熱費に困らない身としては十分過ぎるほどの収入だ。敗因は「せっかくだからいいものを・・・」と力み過ぎてしまったことにあった。
 このままではいけない。何とかせねば・・・そうこうするうちに、Nちゃんは教育実習で練習を長期間休むことになった。一方、私も色々事情があって、6月末で退部する(この点については、書き出すと100行くらい必要なので割愛(^_^;;; )ことに。もう時間がない・・・ならば、何もお返しをしないよりは・・・ということで、無礼を承知で、Nちゃんの自宅宛にクッキーを宅配便で送ることにした。なぜクッキーかというと、私が当時、人に安心しておすすめできるおいしいお菓子というものは「ヨックモック」というブランドのクッキー以外には何も知らなかったからだ。宅配便で送っても腐らないし・・・
 ミルフィーユにどれくらい原価がかかっているかははっきりとはわからないが、まあせいぜい1個あたりでは数百円というところだろう。その数百円のお礼にと自宅に突然届いた5000円のクッキーセット。Nちゃんもずいぶん戸惑っていたようだ。そりゃそうだよな。このヨックモックには、私が7年前にお礼が出来なかった、8人分の思いもまとめて詰めてあるんだもん。ごめんなさい。私の過去の贖罪のための生贄にしてしまって。
 え? なんで好きな女の人に対してそういうことをするかって?・・・ごめんなさい。その点に関しては重々反省しています・・・こうやって私はまた一つ罪を重ねてしまったのであった。

■1996(平成8)年 大学4年

 秋田に就職が決まり、研修がはじまるということでいよいよ引っ越しをする直前のことであった。この日が3年半勤めたコンビニでの最後の勤務の日だった(14日にしたことには他意はない。単に店の締日が15日だっただけの話だ)
 いよいよ最後の勤務が終わり、帰ろうとしたその時、一緒に働いていたアルバイトのYさんから声がかかった。
 「長い間ご苦労さまでした。kaz8さんには色々お世話になりました。バレンタインデーということもありますし、今までのお礼の気持ちにとチョコを持ってきました。どうか食べて下さい」。

 いやー、うれしかったねえ。別にYさんに対して私が直接何をしたというわけでもなく、ほかの店員と同じように接してきたつもりだったので、そんなものがもらえるなどとは夢にも思っていなかった。まるでジョルトカウンターを食らったような激しい衝撃を受けた。ここで、当時、私がYさんに対してどのような感情を持っていたかを書き出すと20行以上は費やしそうなのでそれも省略するが・・・

 3月14日。すでに私は秋田に引っ越していた。会社ではすでに新人研修が始まっており、当然、お礼を直接手渡すことなど出来ない。私は彼女の住所を知らない。まさか、彼女に対してだけに、お礼の品を店に送り付けるわけにもいくまい。チョコをくれたのは彼女だけだが、お世話になったのは何も彼女だけではない。
 後日(といっても8月下旬だが)、店には、上小阿仁村名物の山吹まんじゅうをお土産に持っていった。Yさん、あのときは本当にありがとうございました。私としてはまことに不本意なのではありますが、山吹まんじゅうに免じてあの日の不義理を許していただければ幸いです。

 さてさて、今年の2月14日は日曜日。内心ほっとしている。
 曜日がどうあれ、13年前のあの苦い思いが消えるわけではない。しかし、今年はさすがに私に義理をたててくれる女性などどこにもいないであろう。寂しくないといえば嘘にはなるが、これ以上、あのような苦い思いをさせられてしまう相手が増えるくらいならば・・・

 ・・・そうそう。そんな私にも、今年は一人だけ、チョコをあげる、と言ってくれた女性がいた。

 「チョコレート、あげましょうか? はいあーげた(^^)/~

 ・・・意味がわからない人は、「はじめの一歩」第18巻9ページの鷹村を参照(爆)

※後日談 そんな私にもチョコをくれた人が一人だけいた。JASのスチュワーデスさんだ。もっとも彼女たちは、老若男女を問わず、乗客全員に同じチョコを配っていたが・・・これならお礼の心配は無用だろう(^_^;;;

1999年2月22日朝

「田舎者ほど軟弱である」

 この乱暴なものの言い方に過疎地域に住む人間はどういう反応を示すだろう?
「厳しい風雪に耐えてきたこの体のどこが軟弱だと言うんだ」と怒り狂うだろうか。
「環境ホルモンやダイオキシンにおかされた都会人よりも、田舎でいい空気を吸って生きている俺たちの方が健康的だよ」と反論するだろうか。

 ただ、今回、「いいひと。が住んだ街」の取材などのために札幌市内をかけずりまわって身をもって感じさせられたことがあった。それは「田舎者ほど、足腰が軟弱だ」ということである。

 秋田市は田舎、というほどではないが、地下鉄も市電もない公共交通機関が極めて脆弱な町である。人口30万人を超える中核市としては何ともお粗末。せめて市電くらいあってしかるべきだろう。あるのは定刻通りになんて運転されることなどほとんどないバス(それも、市営と秋田中央交通の2つだけ。ただでさえ競争がないのに、市営交通はバス事業からの撤退さえ考えているという)と1時間に○本、などという規則正しい走り方などしてはくれないJRだけ。車無しで生きていくのは非常につらい。そのせいか、私も、ちょっとした用事でもついつい車に頼ってしまう。歩けば15分で着く会社はおろか、5分しかかからないコンビニでさえ、車で行き来することもしばしばだ。

 一方、札幌市は、首都圏、関西圏と比べるとまだまだだが、地下鉄は3路線。市営バスも地下鉄とリンクしており、1路線あたりの距離も比較的短いため、秋田市のそれと比べれば定時運行にかなり近い。市電だってある(延伸の計画さえあると聞く)。JRは私個人としては本数にちょっと物足りなさを感じるが、それでも、平均すると20分に1本は走っている。
 車はないよりあった方がいいに決まっているが、車がなくても、まあ、何とか市内を移動することは可能だ。(秋田市では1日1往復しか運行していないバス路線も少なからずある)ダウンタウンなどは駐車場を探すのが大変だし、渋滞も激しいので、車で出かけるよりも公共交通機関を利用した方が楽である。ライド&パークも、私が札幌にいたころに比べるとずいぶん普及したらしい。

 公共交通機関を利用するとなると、自分で思っていた以上に歩く機会が増えることになる。階段の上り下り、長いコンコースの通過がある。また、バス停まで、地下鉄駅まで歩いて10分くらいなら普通はタクシーは使わない(普通ではない疲れ方をしている人、普通ではない方向音痴の人は使うかもしれないが・・・)
 そんな調子で札幌市内を飛び回っているうちに、14日夜あたりから徐々に足が痛み出してきた。札幌に住んでいたころにはこんなことはなかった。快調に進んでいた「いいひと。が住んだ街」の取材は、15日午後からはほとんどストップ。最後には、地下鉄駅から15分かけて歩いてきた道を引き返すのがイヤになって、近くのバス停からバスで駅まで引き返すという情けないことをする羽目に。せっかく地下鉄専用1日乗車券を買ったというのに、歩くのがイヤで他社のバスに乗ってしまったわけだ。

 車がなければいられない生活の中で、歩くという機会が極端に減っているせいだろう。たった3年でずいぶん足腰がひ弱になったものである。

1999年2月25日夕方

 2月というのは過ぎ去るのがあまりにも早い。もうあと数日で終わりだ(^_^;;;
 コンサドーレ札幌の開幕戦は待ち遠しいと言えば待ち遠しいけれど、もうすこし待たせてくれよー、練習させてやれよ、ホームページ更新の時間もくれよ(←やれよ(^_^;;; )っていう状況です。
 さて、その開幕戦。相手はよりによって、大分トリニータ・・・札幌からも秋田からも飛行機の直行便がないんですけど(^_^;;;・・・仕方がないので、13日は休みをもらいました。(14日は会社ビルの保守点検などが理由で作業はみんなお休み)
 大分はおろか九州にさえ行ったことがない私。いくらなんでもこんな遠くまで行ってサッカー見てすぐ帰ってくるのはもったいない。日帰りができるというのなら話は別だが・・・(前日夜に勤務が終わったら高速道路で羽田空港までぶっとばして行って、朝1番の飛行機で大分に向かえば、何とか日帰りは可能。ただ、車で羽田空港まで行くのには大いに抵抗あり。冬道怖い。それに東京まで7時間で走り切るということは・・・(^_^;;; )
 本当はこのページももっと一生懸命更新しなければならないのだが、遅れている。このままだと色々な意味でちょっとやばい(^_^;;; 明日の休みで少なくとも「いいひと。が住んだ街」第2弾の更新は完了させなければ・・・その次は「道の駅ムーディーズ」
 新しいCPUはすでに購入済なのだが、おっかなくて取り替えられない。こんな状況で本体壊したらもうしゃれになんないもん。引っ越しのついでに(があれば、の話だが)試してみることにしますね(^_^;;;

1999年2月27日未明

 本当は今朝は11時ごろから仕事だというのに、もう朝5時。とうとう「いいひと。が住んだ街」の更新完了は3月にずれ込みそうだ。もう説明文もそこそこで写真だけの掲載に切り替えているというのに何でこんなに時間がかかる・・・というわけで、本当はこの日記を書くために調べたかったことを割愛して書くので、詳細部分がメタメタです。ごめんなさいm(_ _)m
 最近生意気な発言でやたらと目立っている厚化粧の某チャイドル。どうもわたしゃ、あやつが好きになれんのだ。(後日、名前などをチェックしました。吉野紗香ですね。「踊るさんま御殿」でよく見かける)
 あのくそ生意気な言動は本人の地か売るための事務所の方針なのかは分かりかねるが、いずれにせよモノには限度というものがある。あそこまでひどいと笑う気にもなれない。16歳でパイでも顔につけられたんかいな? というほどごってりとした厚化粧と言うのも気になるし、別にそれほど可愛いとも思えない。大体、山田まりやが16歳の時はもっと胸、でかかったぞ(←関係ないって(^_^;;;)
 こんなくそ生意気な奴のグラビア雑誌なんか絶対買ってやるもんか。(よく雑誌で見かける)それくらいなら、わたしゃ、安達祐実(当日は漢字を間違えて書いてました。失礼しましたm(_ _)m)の水着写真のグラビアの方が見たいぞ・・・と、半分冗談で思っていた。(当然、そんなものは出ることはないだろう、という認識の元での話である)

 ・・・まさか、本当に出ていたとは(^_^;;;<安達祐実ビキニグラビア

 もう「具が大きい」というCMで小林稔持と共演していたのは遠い昔の話になってしまったのだなあ、といまさらながら実感。私もずいぶん年をとったもんだ。
 その安達祐実水着が掲載されている「週刊プレーボーイ」を買うか買わないかまだ迷っている。17歳で水着になるアイドルなんてそこらへんにゴロゴロ転がっているというのに、ここまで買うのを躊躇させられてしまうのは、何だか妙な気がする。(後日談:結局買いました。そして・・・以下省略(^_^;;;)
 もっとも、立ち読みしてわかったことだが、彼女の3サイズはまだ雑誌には標記されていなかった。やっぱりまだ体型はグラビアを飾るに至らない未完成な部分が多いのね(身長が低い分、数値に迫力がないのであろう。kaz8推定で74-50-70ぐらいか・・・)
 本当は、こんなしょうもない話ではなく、華々しく「kaz8、別府温泉ツアーのチケット購入」とか書いた方が面白いのだろうが・・・もう眠いからパス(^_^;;;

1999年3月1日未明

 うちの父親は以前、リストラで会社をクビになって半年ほど浪人をしていたことがあった。以前勤めていた会社は、首都圏に住んでいる人なら誰もがその存在を知っているであろうほど有名な、業界トップクラスのマンション販売会社であった。バブル崩壊後真っ先に経営に行き詰まり、私が大学2年生(の、一年目(^_^;;; )の秋に父親は会社を去った。(ちなみにその会社はいまだに潰れていない。ある意味スゴイかも。もっとも、この会社がコケるようだと、この会社のメーンバンクの都市銀行も大きな傷を負うことになるので潰せないのかも)
 幸い、うちの父親は休職中、パチンコや酒や女におぼれて荒れ狂うこともなく、無事半年後に嘱託ながら再就職を果たした。今度はガス会社。どんなに不況がひどくなろうと、まず潰れることはないであろう。一安心、といったところだ。

 では、休職中、父親は何をやっていたか、というと、ひたすら自動車学校に通っていたのだ。(あ、もちろん職安には通っていましたケド(^_^;;; )
 実はうちの父親、普通免許も持たずに、車を乗り回している漢である(^_^;;;
 といっても法を犯しているわけではない。父親が高校生の頃は、二輪免許(原動機付き、とか250CC以下限定とか、そんなものも無かったらしい)を持っていれば、18歳でいきなり大型免許を取ることができたらしいのだ。今は普通免許を持ってないとその資格がないだろうが・・・。
 父親は本当はトラック野郎になりたかったらしい。普通免許を取らずにいきなり大型免許を取りに走ったのも、単に、大型さえ持っていれば普通免許はなくてもいいから、という理由だけではないようだ。さすがにその後法律が変わったらしく、免許証では、普通免許も持っていることにされていた。ついでに言うと、「トラック野郎」の件は親に反対されて断念したとか。そのせいか、父親は私がどんな職業を選ぼうと、反対はしなかった。内心、札幌の企業からの内定を吹っ飛ばして秋田に就職する決断をしたことを苦々しく思っているに違いないが・・・
 そんな父親がわざわざ自動車学校に通って取ったのは「大型特殊」「ブルトーザー作業免許」「大型2種免許」「クレーン作業免許」の4種類。もともと前の会社での仕事は「支店長のおかかえ運転手」だった、ということもあり、運転はうまい。実技試験ではそれほど苦労はしなかったようだ。大型2種でこそ、実技試験で6回落ちたものの、これは10回やっても20回やっても受からない人は絶対に受からないシビアな試験(3回目ではあと一歩のところで、最後の停止線の30センチ前で止まってしまって、検定中止にされてしまったとか。キツすぎる)なので、50歳直前の人間としては上出来だと思う。私は到底取れそうもない。普通免許だけでもしこたま苦労したんだから(^_^;;;

 ところが、クレーンの作業免許だけはさすがに勝手が違ったようだ。○×クイズに毛が生えた程度の他の免許とは違い、クレーンの場合、「玉掛け」など専門的な知識も必要なため、ペーパー試験がなかなか難しい。高校卒業以来、そういう勉強をほとんどやっていなかった父親はこの点でえらく苦労していたようだった。実技なら、体が覚えていることで何とかごまかしがきくが、50近くにもなって新しいことを頭にたたき込むというのは私の想像以上に大変なことのようだった。私も色々手伝った。もっとも、私が鮮明に覚えていることというと「円の面積を求める公式は直径×直径×0.8だよな」と聞かれて5分くらいハトが豆鉄砲を食らったようになってしまったことぐらいだが(^_^;;;(理由:直径の2乗×0.8=半径の2乗×3.2、と気づくのに5分かかったから)

 何でこんなことを話そうと思ったかというと、今、うちの部署でも50代にして新しいことを覚えなければならずに苦労している人がいて、ついつい父親の姿がダブって見えていたからである。
 パンチの効いたヤングでフレッシュな私(爆)の目からは、その50代の人の作業を見ていると「なんでこんな簡単なことがこんなに時間がかかるかなあ・・・」と思わされることが少なくない。例えば、18+24+19+23+31=115、とかいう簡単な(・・・ですよね? みなさん)計算を暗算できずにいちいち電卓をたたいた上に、ボタンを押し間違えて何度もやり直したら結局2分くらいかかり、さらに「これを5で割って」と指示するともう一度18+24+・・・と計算を始めてしまう、などなど。慣れていないせいもあるだろうが、もどかしいほど要領が悪い。
 でも、自分が40代、50代になったときに、今のような感覚で仕事ができるかと言うと不安は少なくない。年々物忘れも激しくなってきている。固有名詞なんて全然ちゃんと思い出せなくなってきている。前回も安達祐実の漢字を間違えていた上に、今、これを書くときもバックナンバー見ないと漢字が思い出せなかったほどだ。普段から脳を鍛えておかないとどんどん貧弱になっていく。いつまでも若くない、というのは肉体だけの話ではなさそうだ。

1999年3月10日未明

 ここ最近、カウンターの調子がおもわしくない。ほとんどの場合、表示されずに×マークが出てきてしまう。そんな状況の中、3月9日までにのべ来場者数が3000人を突破したことが確認できた。98年8月7日の開設以来、7カ月でほぼ私が目標にしていた数字を達成。本当は今月いっぱいかけて・・・と思っていたのではあるが思った以上に早く達成できた。
 友人、知人だけではなく、多くの方に見にきていただける(中にはこちらが想定していないお客様や、会社の上司の方に至るまで(^_^;;; )ようなWebサイトに成長できたことを誇りに思う。みなさん。御愛好ありがとうございました。

 さて、このようにサイト作りにようやく慣れ、いよいよこれからが油の乗り切ったいい味を出せるというところに来て、私に重大な転機が訪れた。
 4月から、私は秋田から南東に50kmほど離れた大曲市で勤務することになった。昨日、正式に内示が出た。転勤にともない、現在のように、3日働いて1日休むという比較的自分の時間が取れる勤務状況から3カ月働いて1日休むという超多忙な(←ちと大げさか(^_^;;; 3と1を逆にして、「超」を削除すればちょうどいいぐらいかも)日々を送ることが予想されている。さらには、引っ越しによる部屋の中のごたごた、新しい仕事を覚えるための勉強の時間などで、現在のような頻度でのページの更新は困難になるのは確実だ。ただでさえ、ページ更新は遅れがちなのだが、4月以降、その遅さに輪がかかることは避けて通れない。
 4月中については正直なところ何とも言えないが(最悪、更新なしという事態も・・・)ゴールデンウィーク明けからは「1カ月に1度の更新」を努力目標としていこうと思っている。できれば「道の駅ムーディーズ」「はじめの一歩普及委員会」「いいひと。風評被害復旧対策委員会」「コンサドーレ札幌万歳」の各コンテンツとそれ以外のいずれかのコンテンツをそれぞれ月に1度は更新したいと思っているが、最悪の場合、このうちいずれかのコンテンツが月に1度しか更新されない、という場合もありえる。そうなったとしても、週に1度くらいは、日記だけのアップをしていこうと考えてはいるのであるが・・・
 というわけで、4月以降(いや、引っ越し期間を考えるとそれ以前から)ページの更新が極端に遅くなる。毎日ちょくちょくここに覗きに来ていただいている方には大変申し訳ありませんが、何とぞご理解のほどよろしくお願いしますm(_ _)m

 しかし、どんなに忙しくなってもこのページは続けていくつもりだ。今後もkaz8と「8月7日、晴れ」をよろしくお願いします。それと、自宅のパソコンが使用不能の間も、掲示板はちょくちょく覗くよう努力する。何かございましたら、ぜひ書き込みして下さいね(^^)/

1999年3月11日午前

 うちの妹が働いている会社は、北広島市大曲というところにある。
 北広島市というのは、もともと広島県から移住、開拓をはじめた住民が作った村で、市政施行にともない現在の名称となった。それまでは広島町という名前だったが、“本家”から「広島市」と名乗らないようにくぎをさされていたらしい。まあ、そりゃそうだ(^_^;;; 「南札幌市」という案もあったらしいのだが、すでにJRで「北広島駅」という名称を採用していたり、妹の母校の名前も「北広島西高校」だったりして、すでに北広島という名前があまねく定着していたために、この名前になったそうだ。
 それはさておき、この「大曲」という地名。ひょっとして、私の転勤先の大曲市にも関係があるのではなかろうか。前々から興味があった話ではあるが、仕事の合間に、このあたりのつながりというものをちょろっと調べてみたいと思っている。でも、そんな暇あるかなぁ(^_^;;;

 私は秋田県には縁もゆかりもない。少なくとも自分ではそういうつもりでいた。しかし、私の姓、全国的にはそれほどメジャーな姓ではないのだが(全国ベスト200にも入れないらしい)秋田県内では堂々ベスト20に入るほどメジャーな姓らしい。従業員300人ちょろっとの会社の中にも同姓さんが3人もいるくらいだ。
 自分では縁がないと思っていたのが、実は曾祖父の代までさかのぼると秋田との縁も出てくるのかもしれない。(ただし、そういうことを書いて残そうと思った人間は実家にはいなかったらしい)私の中に眠るDNAが、無意識のうちに「秋田に就職せよ」との命令を出していたのかもしれない。そのあたりも、いつかは調べてみたいとは思っているのだが・・・それはいつのことになるのやら。

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