|
|
Chapman |
|
GRAY Images |
|
■略年譜
1941年1月8日 イングランド中部のミッドランド州レスターに生まれる。父は警察官。母は警察官ではない。兄が一人(ジョン・チャップマン)。
第二次世界大戦中 母親に連れられて、飛行機の墜落現場で仕事中の父(警察官なので)を訪ねた際、散乱した死体を目の当たりにする。後に医学を志すきっかけの一つ?
1953-59 Melton Nowbray Grammar Schoolに在学。少年時代はラジオのお笑い番組に熱中。またテレビでケンブリッジ大学の学生劇団フットライツ・クラブの公演を見て、ケンブリッジ進学を志すようになる。医学を選んだのは4つ違いの兄ジョン・チャップマンが医学へ進んだ影響にもよる。
1959-62 ケンブリッジ大学のエマニュエル・カレッジ(コレッジ)で医学を学ぶ。60年からケンブリッジ・フットライツ・クラブに入会。ジョン・クリーズと知り合い、スケッチ執筆のパートナーを組むようになる。
1962 ロンドンの聖バーソロミュー病院で医学研修。
1963 フットライツの学外公演に参加(海外公演も)。
1966 ジョン・クリーズと組んでテレビ番組"The Frost Report"のための脚本執筆。この番組にはエリック・アイドル、テリー・ジョーンズ、マイケル・ペイリンも参加していた。医師国家資格を取得。デビッド・シャーロックと知り合う。
1967 ゲイであることをカムアウトする。カムアウト・パーティにはクリーズらも招かれた。テレビ番組"At Last the 1948 Show"のための執筆と出演。ジョン・クリーズを中心に、グレアム、マーティ・フェルドマン、ティム・ブルック・テイラーら、若手コメディアンがメインなったスケッチ番組。
1968 映画「マジック・クリスチャン」にネタ提供と出演。出演についてはクレジットされていないが、オックスフォードのボート部員役で主演のピーター・セラーズ、リンゴ・スターらにもてあそばれる。
テレビ番組"Doctor In the House"の第一シリーズの脚本執筆。医学の知識をお笑いに生かすことになる。この"Doctor"シリーズには70年代半ばまで断続的に関わっている。
1969 BBC2の遅い時間の番組"Monty Python's Flying Circus"(空飛ぶモンティ・パイソン)がスタート。1974年まで4シーズン、全45話が作られた。
1972 「ゲイ・ニューズ」の発起人に名を連ねる。
1970年代はじめ リバプールからの17才の家出少年ジョン・トミチェックとロンドンのレストランで出会う。トミチェックはパイソンのファンでグレアムにサインを求めたのだそう。トミチェックが熱を出して倒れたので、医者であるグレアムが自宅へ連れ帰り治療し滞在させた。病気が治った後もトミチェックはたびたび家出してグレアムのところへ来るので、彼の親の許可を得てグレアムとデビッド・シャーロックはトミチェックを正式に養子にした。トミチェックはグレアムのマネージャー的な仕事をするようになるが、後にはアメリカ人女性と結婚してアメリカへ引っ越した。この人は90年代はじめに若くしてこの世を去っている。
1973 パイソンのライブ公演の英国ツアー、およびカナダ・ツアー。
1974 モンティ・パイソンの第4シリーズ。ジョン・クリーズが抜けたため、シンプルにMonty Python"という番組名で6話放送。ジョン・クリーズとのライティング・パートナー関係が終わる。以後は私生活のパートナーでもあるデビッド・シャーロック(この人も脚本家)や、ダグラス・アダムスなどとコンビを組むが、大成功を納めたとはいいがたい。
「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」で主役のアーサー王を演じる。この頃がアルコール依存が最も激しかった時期で、撮影に大きな影響をきたしたという。登山家で本来スポーツマンのグレアムが「死の橋」を渡る場面の撮影を出来なかった(なのでスタントが演じている)。
1978 親友だった大酒のみのキース・ムーン(THE WHOのドラマー)が早逝する。グレアムもアルコールと縁を切る。以後はインタビューなどで自身のアルコール依存の体験をすすんで話すようになったという。
1978 映画「モンティ・パイソン・ライフ・オブ・ブライアン」。ブライアン役で主演をつとめる。チュニジアのロケ現場では、撮影クルーのために医療行為もした。
1978 映画"The Odd Job"(日本未公開、未ビデオ化)。ブライアンのような巻き込まれ型の不運な男の役。共同脚本も。
1980 自伝"A Liar 's Autobiography"を出版。
1981 アメリカの大学でコメディについての講義ツアー。この模様は一部"Six Packed Lies"というCDで聴ける。
1982 アメリカのテレビ番組"Saturday Night Live"に上半身は陸軍大佐、下半身はバレリーナのチュチュという出で立ちでゲスト出演。
1983 映画「チーチ&チョン イエロー・パイレーツ」で主演。脚本も共同執筆。共演にピーター・クック、マーティ・フェルドマン、ジョン・クリーズ、エリック・アイドルと旧友で固めた。
1983 ロサンゼルスのハリウッドボウルでパイソンのライブ公演。後に映画「ライブ・アット・ザ・ハリウッドボウル」にまとめられる。
1983 映画「モンティ・パイソン・人生狂騒曲」(…ビデオのタイトル/日本未公開)。この映画はカンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞。
1986 アメリカのテレビドラマ"Still Crazy Like a Fox"にゲスト出演。
1986 自宅が泥棒にあい、執筆中だった"Liar's Autobiography 2"の原稿のデータの入ったワープロが盗まれる。出版が幻となった。
1988 アメリカの大学の講義ツアー。
1988(12月) 歯医者の診療で扁桃腺にガンが発見される。ガン治療を開始する。
1989 "Liar's Autobiography"の朗読カセットを吹き込む。このカセットを聴くと声がパイソンの時と比べて弱々しいです。ガンのせい?
ガン治療続く。病院から自宅に戻って家族との時間を過ごすようにする。結婚してアメリカで暮らしていた養子のジョン・トミチェックもかけつけ、シャーロックとともに献身的に介護したとか。
(9月) パイソンの20周年記念番組"Parrot Sketch Not Included"(ベスト・オブ・モンティ・パイソン)へのカメオ出演のためにパイソンズが再びスタジオに集まる。この映像がグレアムの最後の公式映像となる。
(10月) ガンによる痛みが急にぶり返す。
(10月4日) ガンのためロンドンで死亡。享年48才。奇しくもパイソン誕生20周年の前日だった。テリー・ジョーンズによれば"The worst case of party-pooping I've ever seen"
注射をされるときに言った感嘆詞が彼の辞世の句に。(看護婦に対して)"Sorry
about saying,'FUCK' "
記事
(10月某日) 家族よる葬儀が行われる。パイソンズが贈った「足」の形をした花輪には「グレアム、もし私たちがまた馬鹿なことをしそうになったら(陸軍大佐のように)止めておくれ」という言葉が添えられていた。ローリング・ストーンズからも花が届いたという。
(12月) ロンドンの聖バーソロミュー教会で芸能関係者らが集まって追悼式が執り行われる。ジョン・クリーズが追悼スピーチで"Fuck!"と言い、フレッド・トムリンソン・シンガーズ(オカマの木こりの歌の合唱隊役などをした人たち)がグレアムのお気に入りだった「エルサレム」日本人ヴァージョン(または中国人ヴァージョン。LとRを入れ替えて歌う)を歌った。エリック・アイドルのリードで列席者が"Always Look on the Bright Side of Life"を歌う。
チャップマンの追悼式でのクリーズのスピーチ:「私たちは皆、深い悲しみの中にいます。これほどの才能、将来性、優しさを備えた人物が、これほど稀な知性を備えた人物が、彼が成し得るはずだった多くのことをやり遂げる前に、彼自身が人生を充分楽しむ前に、わずか48才という若さでこの世を去ったのですから。いや、私は自分にこう言い聞かせるべきでしょう。『馬鹿な。彼にとって死はいい厄介払いだったのさ。彼は重荷から解放されたんだ』と。さて、私がこれからこんな発言をするのには理由があります。もし私がこれを言わなかったとしたら、もし私が彼に代わって皆さんを憤慨させるチャンスを逃したとしたら、彼は決して私を許さないだろうからです。上品ではありませんが、全て彼のためです。彼の最期の夜、彼が私の耳にささやくのが聞こえました。ここに書いてきてあります。『いいか、クリーズ。君はTVで初めてsh*tと言った尊敬すべき男だ。もし俺の追悼式を本当に俺のためのものにしたいなら、まず手始めに、君にイギリスの追悼式で初めてfu*kと言った男になってほしいんだ』」。(GEORGE PERRY 著 "LIFE OF PYTHON -THE HISTORY OF SOMETHING COMPLETELY DIFFERENT"より)
1990(1月) 米国ハリウッド、サンセットブルーバード、セント・ジェームズ・クラブで追悼集会が行われる。デビッド・シャーロックが追悼スピーチを行う。
2000(1月1日) ウェールズ地方の山の頂上より、Dangerous Sport Clubの手によってグレアムの遺灰が散灰される。
ON THE DANGRE LIST
THE NEWS that the ashes of the late Monty Python great Graham Chapman are to be launched from the summit of a Welsh mountain on the first day of the new millennium has sent the Dangerous Sport Club into paroxysms of excitement.The club are hoping to contact Chapman's partner David Sherlock so that they can accompany the ashes on their final flight in a variety of gliders,microlights and parachutes. 'Graham was a great friend of the club and like an older brother to all of us, ' explains the club's chairman David Kirke. 'Like us he was committed to finding ways to avoid growing up.He came climbing with the club and did one of our ski races at St.Moritz in a Venetian gondola. He fell out,ハ but seemed to enjoy it. We were working on a film script together when he died.I think Graham would enjoy sucha send off.'(1999年12月30日イブニング・スタンダード紙より。情報:うたまるさん)
参考文献:"Graham Crackers"(by Graham Chapman and Jim Yoakum)、"Life
Before and After Monty Python"(by Kim Howard
Johnson)、「モンティ・パイソン大全」(by須田泰成)他。