人を怒らせるモノカキたち

井沢元彦、近藤誠、*堺屋太一の3人は、私がいつも注目しているモノカキである。ジャンルも立場も本業も随分違うが、この3人はいろいろ共通点がある。

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井沢元彦は本業は推理物や伝奇物を中心に書く作家であるが、本業よりエッセイが全然面白い。エッセイは歴史物と日本人論を中心に書く。日本人論は、言霊とか穢れ(けがれ)とかそういうキーワードで日本人の隠された深層心理をあぶり出していて、面白い。たまたま今日知ったことだが、小渕内閣で2000年問題対策の委員会を作ったが、その名前が情報通信なんたら委員会で「2000年問題」という言葉がない。なぜそうなるかということが、この井沢理論を使うときっちり説明できる。

この日本人論もいずれ紹介したいが、ここで取り上げるのは歴史物の方である。この人は素人のくせに、日本史でこれまで通説となっていたことに逆らう説を発表して、本職の歴史学者をさんざん怒らせているらしい。私は井沢の著作しか読んでいないので、どこまで本当なのかわからないが、彼はちゃんと一次資料を丹念にあたって、非常にロジカルな主張をしている。そして、通説と自分の説がどこが違うのかをわかりやすく説明している。

私には細かい論点にはとてもついていけないが、非常に面白いと思ったのは、彼が物議をかもす原因を「怨霊」の扱いの違いにあげていることだ。彼自身は「怨霊」を信じていないが、「怨霊」という考え方が古代の日本人に非常に大きな影響を及ぼしたと考えている。これに対して、正統な歴史学者は「怨霊」の影響をできるだけ軽くみようとする。どうもそこが根本の違いであるようだ。

そして、正統な歴史学者は「怨霊」の影響を考えることと、自分が「怨霊」を信じることの区別がつかないらしい。つまり、昔の人が「怨霊」の影響を受けて行動したと考えると、自分が「怨霊」を信じていると思われると見ている、あるいは、井沢が「怨霊」の影響を主張すると、彼が「非科学的」だと言って非難する。井沢の主張を誇張していうとこうなる。

私にとっては非常に興味深い説で、論敵の主張と突き合わせてどこまで正しいのか検証したいと思ったのだが、井沢の著作に引用されている相手側の文章があまりのもわかりにくくて、面白くないのでそういう作業はあきらめてしまった。

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近藤誠はガンの専門医である。この人は、今の日本のガン治療に異議をとなえて話題になった。そう聞くと、気功とか漢方とか東洋医学の関係かと思うが、そうではない。この人は放射線治療の専門家で、完全に西洋医学の立場から問題を提起している。

その主張を私なりに要約すると「日本のガン治療は科学的でない」ということだ。つまり、統計的に見て効果がないというデータが出ているのに、ある種のガンを無理に手術をさせるケースが多いとか、意味のないガン検診をしているというのだ。

統計データを元にして科学的な主張をしているのだから、簡単に決着のつく問題だと思うが、なかなか議論がすれ違っている。医学は科学といっても人間を扱うので、物理学の実験のようにはスッキリとはいかないだろうが、それはそれなりに統計の取り方などには、定着した方法論が確立されているようだ。ある治療の効果を確認するには、サンプル(実験台になるボランティア)をくじ引きで2つに分けて、片方にその治療をして、片方にはしない。くじ引きで決めることがポイントで、これでいろいろなバイアスを排除してデータを取るのだ。

近藤は、そういうきちっとしたデータを元に主張しているのだから、相手方はその元データの信頼性を否定するしかないように思える。それとも、主張の中のロジックをどこかで論理的に否定すればいいのだ。それができなければ、近藤の主張が正しいことになる。

実に単純な話だと思うのだが、これがどうもそうはいかないのである。信念と信念のぶつかりあい、*宗教*論争みたいなやりとりがえんえんと続いてなかなか決着がつかない。これも自分で検証しようとすると、相手方の文章が面白くなくて眠くなるので、どうしてもよくわからない。

この場合も、相手方にとっては「科学的」というのが、現在の権威というかこれまでの定説をさしているようで、論理的にデータを元に考えるということが科学的とは思わないように見える。

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堺屋太一は紹介するまでもないと思うが、この人は大臣になる前は、前の2人と比較して人を怒らせることは少なかった。結構目新しいことを言っているし、本はどれも売れているのだが、そのわりには敵の少ない人だった。

しかし大臣になってから、ある事件で随分顰蹙を買ってしまった。去年の秋くらいに「これから景気は良くなる」と言い出した時だ。これは、いろいろなデータにはまだ現れていないが「私のカンによると」景気は今が底だという発言である。

普通に考えると、これは内閣の一員として政治的意図のある発言であり、私も、大臣になるとそういうことを言うのかなあと思った。しかし、この発言に怒る人の言葉を聞いているうちに、「堺屋さんは本気で言ってるし、これは当たるんじゃないかな」と考え出した。

相手の怒り方が、どうも前の2つと通じるものがあるのだ。全員がこの発言を真剣にとらえたわけではないし、怒るよりはあきれたり冷やかしたりする論調が多かったが、ある種の人たちは非常に怒っていた。そして、怒っている理由というか主張がよくわからない。データを元にしていないことを非科学的と言って非難する。その雰囲気がどうも前の2人の論敵と非常によく似ていた。

堺屋がカンを元に発言するのは、ただカンだけで言っているわけではない。経済学の根本にはひとつの仮定がある。簡単に言うと「人は高い給料をもらいたがって安いものを買いたがる」という仮定である。堺屋はこの仮定を全面的に否定しているわけではないが、ある種の状況ではなりたたない、そして人は主観にもとずいて動き出すと考えている。

つまり、人々の主観の動きを読む手段として、カンを使っているのだ。論理的な考察を重ねた上で、自分の主観を使っているのである。大臣として、そういう細かい根拠を説明している暇はないが、彼の著作を2〜3冊読めばすぐにわかることである。

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他にも、大前研一とか坂村健とかが似たようなパターンで人を怒らせる。ただ、この2人の場合は相手がやや冷静で、もうひとつ怒り方が普通で前の3人と比べると論争がちょっと面白くないというか迫力がない。怒らせ方が足らないのは、本人の論理にもうひとつ切れ味がたりないのかもしれない。しかし、パターンは前の3人とすごく似ているのである。

どうも、ここまで来るとこれは何かの普遍的な構造であるように思われる。日本人にとっては、科学というのは論理的な思考とは別物であるらしい。何か上から与えられたひとつの権威として、科学的な学説があるのである。そういう権威に異議をとなえるのは、たとえ論理的な主張であっても科学的とは見なされないらしい。

もちろん、定説というのは膨大なデータと論理のつみかさねだから、論理的にその根拠を調べることはできるのだが、そういう根拠をたどることはなしに、ひとつのラベルとして「科学的」になろうとする。だから、定説を否定されると、自分の足場がなくなってしまうのだ。論理的に根拠を検証しながら、相手の主張と突き合わせれば、どちらが正しいか容易に検証できるのに、それをしようとしないで感情的な反応をしてしまう。感情的になるのは自分の立場が何か脅かされているからだ。

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