「約束された場所で」 村上春樹

*村上春樹*のエッセイを読んでいて一番不思議だったのが、「走る」話だ。この人は、結構本格的なランナーで、毎日のように相当な距離を走る。ギリシャに住んでいる時に、朝、走ったら現地の人にすごく不思議な目で見られたとか、ホノルルマラソンに参加したとか、「走る」話が何度も出てくる。 およそ、小説家とジョギングというのはなかなか不思議な取り合わせだと思うけど、この人の小説を繰り返し読んだ者としては、この本の作者がフルマラソンを完走するというのがどうしても腑に落ちなかった。

ところが、ある日、この人のする仕事というのはそれだけの体力を使う仕事なのではないか、ということにふと気がついた。机に向かってペンを動かすというだけの作業のどこがそれだけのエネルギーを消費するのか不思議に思う人もいるだろうが、彼の小説の世界の深さ、重さ、というのはハンパな体力じゃささえられないよ。もちろん、彼は楽しみのために走っているのだとは思うけど、そして、その重さを支えるのは筋肉や肺活量の問題だけじゃないけど、フルマラソンを平気で走るくらいの力がないと、なし得ない仕事をしていると思う。

このことは、長い間、自分にとってひそかな仮説だった。しかし、「アンダーグラウンド」と「約束された場所」を読んで、確信に変わった。やはり、これは途方もない度量を必要とする仕事で、彼の他には誰もこんなことはできないだろう。その度量の大きさというのは90%以上が他人には見えないものである。わずかの部分が、作家にあるまじき体力、持久力として、氷山の一角のように目に見えるかたちとしてあらわれているのだと思う。

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この2冊の本は、地下鉄サリン事件とオウム真理教を巡るインタビュー集である。前者が、地下鉄サリン事件の被害者の人、後者がオウム真理教の一般信者に対して、事件や教団との直接的なかかわりだけでなく、その人の生い立ちからはじまってサリン(オウム)に至るまで、そして、その後の人生や今教団に対して感じていることなど、さまざまな話題を村上春樹自身が行った、インタビューを集めた本である。

「アンダーグラウンド」で印象に残ったのは、ストイックに事実の聞き役に徹していることで、村上春樹自身の感想や意見はほとんど出てこない。あくまで、被害者の人がどのような人生を歩んできて、ある日突然ふってわいた災難にどのように巡り会い、どのような傷を受けたか、それをたんたんと記録しているだけである。もちろん、作家として話の運びや文章に「読みやすさ」を加えるための筆は入れている。その筆の入れ方の鮮やかさ以外に、村上春樹を思わされるものは何もない。そのような趣旨で出来ている本だということは、前書きに書いてあったと思ったけど、そこまで徹底しているとは思わなかったので、私はちょっと肩すかしを食った気がした。「これではわざわざ村上春樹が書く意味がないじゃないか」とも思った。

しかし、このことの重さがわかってきたのは、続編の「約束された場所で」を読んでからだった。こちらは、オウム真理教の信者に対するインタビューだから、作者の意見や話題の誘導が多く見られ、インタビューの中に村上春樹が顔を出している。また、前書き等にも前作よりさらに意図を明確に話しているし、*河合隼雄*との対談が2本(「アンダーグラウンド」直後と「約束された場所で」直後)ついていて、この対談が解説の役割をしていて、普通に読んでもいろいろ説明されていることは多い。

しかし、私にとっては、この2冊の本を読む間に経験したことも大きいと思う。詳しくは書かないが、「アンダーグランド」を読んでから「約束された場所」を聞く間に、私は「人の話を黙って共感して聞く」という作業を随分行った。「行った」というより「挑戦して挫折しその困難さを知った」と書く方が正確だと思う。聞くのがつらいような話を聞くのはつらい作業だ。どうしても「全くXXXですよねえ」という合いの手を入れたくなる。しかし、このXXXが相手の気持ちにそっていないと、話の腰を折ってしまうことになる。話すのがつらい話をしている人は、こういうちょっとした腰折りで、もう続きが話せなくなってしまう。それで黙っていようと思うと、今度は自分の気持ちが相手の話から離れてしまう。機械的に相づちをうってるだけになったり、眠くなったり、他のことを考えたりしてしまう。

これはやってみないとわからないと思うけど、本当に難しい。どうしてもつっこみを入れるか、寝るかどちらかに傾いてしまう。この困難さを河合隼雄は「それは、自分のこころにおさまりがつかないからだ」と言っていた。職場などで、有名人のスキャンダルや凶悪な犯罪事件などの話をすることが誰でもよくあるが、あれは「おさまりがつかない」ことを「おさまりをつける」ために話すのだという話だ。そして、職業的カウンセラーがクライアントのことを一切話してはいけないのは、道徳的な問題ではなくて、実際的なカウンセリングの技術だと言っていた。つまり、他人に話をすると、クライアントの抱えた問題がカウンセラーの心から抜け落ちてしまうのだ。「おさまりが悪い」ことを一生懸命抱え込むことで、クライアントに共感する力が生まれるのだと言うのだ。

そういう体験と視点があったので、「アンダーグラウンド」の続編がオウム信者へのインタビューだと知った時、読む前から「これはまた凄いことをやったもんだ」と思った。「アンダーグラウンド」の村上春樹の姿勢は、日常の中に突然毒ガスが現れて毎日の生活に大きな亀裂をもたらした体験を、(事実でなく)あるがままの体験として、解釈なしに集めようというものだ。「現代人のこころの不安が若者をあやしげな*宗教*に走らせた」とかなんとか解釈してしまえば、その言葉を口に出した瞬間にそのことは忘れてしまえる。それは楽なことだ。村上春樹のように、体験を体験のままのみこむのは、おそらくその人の恐怖、怒り、無念さ、不安、その他ありとあらゆる感情を、ずっと後を引くように抱え込むことだと思う。彼は、少なくとも、この本を書き続ける間、解釈や意見をいうことを保留したわけで、それだけでも大変なことだ。

しかし、その体験を抱えた上に、オウム信者と向き合うというのは、もっと凄いことだと思う。「アンダーグラウンド」を読んだ人なら、誰でもあの事件に対する静かな怒りを感じたと思う。決して燃えあがることはない炭火のような怒り。それは、被害者が感じたことでもあるし、村上春樹自身が感じたことでもある。もちろん、一方的にオウムを断罪したり、逆に現代社会の問題を追求しようという、方向性の明確な、アニメに配色するようなわかりやすい怒りではないけど、何か底の方に何かがじんわりと残るのを感じたことだと思う。そして、その怒りを感じたまま、オウムの人と話をできるものだろうか。

しかも、村上春樹は基本的にはオウムの信者にも同じスタンスで接しようとしている。つまり、彼らがオウムに入信するまで、そしてオウムの中で、何を感じどのように生きたのか、それをあるがまま聞き出そうとしている。例えば、こんな話が出てくる。「『金曜日の妻たちへ』というドラマです。それを見てほんとうにがっかりしてしまったんです」これは、ある信者が子供の頃感じていたことなのだが、このような具体的な名前がついて出てくる具体的な経験が山ほどある。ちなみに、この人はこの時感じた絶望感が高じてオウムに至るのだが、そこまでの道は曲がりくねっていて長い。それにじっくり付き合っている。

「いくらなんでも、このようなことは体に悪いのではないか」と私はまず思った。ここまで判断を止めていろんなことを飲み込まなくてもいいのではないか。しかし、基本的には彼の小説はこういう作業の積み重ねなのだ。特に「ねじまき鳥クロニクル」はそういう格闘の記録だと思う。そう気がつけば、この2冊が何か特別なことをしているのではなく、彼の創作のごく自然な延長線上にあることなのだ。

ここまで考えて、マラソンの必要な理由がちょっとわかった気がしたのである。

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さてここからは、河合隼雄との対談から印象に残ったことを拾っていくことにする。

河合「でもこれは村上さんが聞いている態度によって、これだけのもんが出てきたんだと思います。僕は内容を見ていると、それがすごくよくわかります」

河合「日本人というのは異質なものを排除する傾向がすごく強いですからね。もっとつっこんで言えばオウム真理教に対する世間の敵意が、被害者に向かうんです。(中略)オウムがけしからんという敵意が「なにをまだぶつぶつ言っているんだ」と被害者の方に向かってしまうんです」

河合「これまで、死に関するストーリーというものが世間になさすぎたんです。だから、麻原のようなあんな単純な物語でもすごい力をもつことができたんです」

村上「社会そのものにはあの事件を防ぐだけの抑止的ワクチンはそなわっていなかったけど、人々の一人ひとりの語る物語の中には、やはりたしかな力を感じるんです」

村上「こんなことを言うといささかまずかもしれないけれど、取材して肌身に感じたことがひとつあります。それは地下鉄サリン事件で人が受けた個々の被害の質というのは、その人が以前から自分の中に持っていたある種の個人的な被害のパターンと呼応したところがあるんじゃないかということです」

村上「この本を書くために僕がやったことは、僕にとってきわめて有意義なことではあったけれど、同時にぞっとするほど恐いことでもあったと思うんです」

村上「話をしていても、宗教的な話になると彼ら(オウム信者)の言葉には広がりというものがないんです」

河合「世間を騒がすのはだいたい『いいやつ』なんですよ。悪いやつっって、そんなに大したことはできないですよ(中略)だいたい善意の人が無茶苦茶人を殺したりするんです(中略)そういう人はある種の、なんと言えばいいのかな、正直さとか誠実さとかをみな持っているはずです。そうでなかったらオウムみたいなところにはまず入りませんから」
村上「たしかに一般社会で『善き動機』で会社に入る人はまずいないですよね」

河合「だからこのあたりに出てくる(オウムの)人は、煩悩を抱きしめていく力がちょっと少ないんです。残念ながら。まあ違うほうから光を当てれば、我々凡人よりは純粋だとか、ものをよく考えているとかいうふうには言えます。言えるんですが、それはやっぱりすごく危険なことなんです」

村上「でも中には『この人は世間でうまくやっていけないだろうな』という人は明らかにいますよ(中略)そういう人たちを引き受ける受け皿みあたいなものがあっていいんじゃないかと僕は思いますが」
河合「それは村上さんの言っておられることの中で僕がいちばん賛成するところです。つまり社会が健全に生きているということは、そういう人たちのいるポジションがあるということなんです。それをね、みんな間違って考えて、そういう人たちを排除すれば社会は健全になると思っている。これは大間違いなんです。そういう場所が今の社会にはなさすぎます」

河合「僕はだんだんわからんようになる修行をしてきたみたいです。もっと若いときは、もっとわかったようなことを思ていました。ほんとに。人間『冴えてる』という時期はたしかにあるんですが、それを喜んだ人は全部駄目になりますよ。

河合「だからね、本物の組織というのは、悪を自分の中に抱えていないと駄目なんです。組織内に。これは家庭でもそうですよ。家でも、その家の中にある程度の悪を抱えていないと駄目になります」

村上「僕はオウム真理教の一連の事件にしても、あるいは神戸の少年Aの事件にしても、社会がそれに対して見せたある種の怒りの中に、なにか異常なものを感じないわけにはいかないんです」

河合「少年Aの事件が起こったときに、子供たちが陰に隠れて悪いことをしたらいかんからということで、そのへんの樹木を全部切ってしまったんです。僕は_それを聞いてものすごく腹が立ちました」

村上「ほんとの良い音楽というのはいろんな陰がありますよね。哀しみや喜びの陰みたいなのが。ところがオウムの音楽にはそれがまったく感じとれないんです。ただ小さな箱の中で鳴っているみたいです」

河合「そういうもの(オウムのようなカルト)を出さないためには、これから一人ひとりをもっと強くしなくてはいけないと思いますね。(中略)学校に行かない子供が十万もおるなんて、やっぱりこれはずいぶん進歩してきたんです」

河合「小さいときから、自由というのはどれほど素晴らしいことでどれほど恐いことかというのを教育することが、教育の根本なんですよ」

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印象に残る言葉が多くて、思ったより長くなってしまった。これを書いていてあらためて感じたのだが、この2人は人間に対する見方が共通していると思う。写していてどちらがどちらなのかわからなくなってくるくらいだ。上の引用は、全て何か重要なたったひとつの事実を違う言い方で何度も言い替えたことのように、私は感じる。

しかし、いくら一致していてもお互いの傷をなめ合うような緊張感のない関係には決してならない。そこがこの2人の凄い所で、次の2人のやりとりを見て私はどきっとした。

村上「それで多くの被害者の個人的な話を聞いたわけなんですが、正確なビジョンはまだなかなかつかめません。それはその人たち個々の中でもやはり、それぞれに分裂が起こっているからじゃないかというふうに感じるわけですが」

河合「その答えはやはり村上さんが自分で出すしかないですね。村上さんがこのような被害のそれぞれの生々しさを自分で引き受けて、そこから答えを出すしかないんです」

ここに限っては、河合隼雄は村上春樹を突き放している。これに対する村上の答えはあえて引用しないが、私には、彼は一瞬ビビったんじゃないかなと思える。しかし、村上春樹の抱えてしまった問題はすごく大きなもので、他人が(たとえどれほどその問題を理解していても)手を出せることではないのだ。 彼の小説の主人公は、いつも理解者には巡りあうのだが、最終的にすごく孤独な戦いを強いられることになる。あるいは、好んでそこへおもむく。やはり、村上春樹の小説は彼自身の苦闘の記録なのだ。

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