「仏陀L」筋肉少女帯

およそ、芸術とは狂気とか恋愛とかあの世とか、自我、つまり日常的意識にないものを表現しようとする。そう考えると、詩人や小説家などの言葉を使う芸術家はすごくハンデをしょってるように思えることがある。

音楽であれば素材は音、絵画であれば素材は色である。音も色も素材の中にオリジナリティを持ち込むことはできる。見たこともないような鮮やかな色とか、聞いたこともないような不思議な和音という素材は可能性としてはまだまだ残っているような気がする。そういう、素材レベルで驚かしておける上に、組み合わせの自由が残されている。

それに対して、言葉ではパーツは限られている。なんていったって言葉というのは日常使っているものであり、辞書にのっているものの中から選択するしかない。小説家ならば、物語というツールを併用することで、まだ可能性は広がっているが、詩ではそうはいかない。極めて限られた言葉を数個組み合わせて表現しなくてはいけない。

大槻ケンヂはこの制限の多いツールでもの凄い仕事をやりとげたと思う。(同じ大槻でももう一人の大槻と大違いだ)


    
福耳の子供が いつも私を誘う 福耳の子供) ぼくたちは犬の世界観で生きている だれを好きだとか愛しているとか そんなことで忙しいし 日曜日には「サザエさん」だって見たい (ペテン師、新月の夜に死す!) 恋の夏が終わり 君の家から 届いた手紙には 黒いふちどりがあった (イタコLOVE) 空気女と小人を連れて 街にサーカスが来る前に ぼくら終わろう (サンフランシスコ) ラッシャー木村はエライ (オレンヂ・エビス)

どの言葉も辞書にのっている誰でも聞いたことがある言葉だ。それを2〜3個組み合わせるだけで、これだけの違和感をかもしだし、日常意識の底を刺激する。それも単に奇をてらうのではなく、死と狂気という一番遠い所に届く物語を組み立てる。

それをもりたてるバンドのサウンドが厚い。すごくテクニックがあり、ビートや音程が完璧なまでに正確である。しかもその正確さはプログレッシブロックの伝統をちゃんと継承した正確さである。そういうロックらしくうまいギターとドラムとベースに対し、キーボードはあきらかにクラシックの素養を感じさせる品の良さがある。 これだけうまいバンドが、一心同体となって大槻ケンヂの世界を支えている。奇跡的なコラボレーションだと思う。

残念なことに、このファーストアルバムをリリース後まもなく、筋肉少女帯はメンバーチェンジをしてしまい、大槻ひとりの存在感だけが浮き上がってしまい、凝縮力をなくしてしまった。

しかし、この「仏陀L」、歴史に残る名盤だと思う。

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