<<1999年5月 の日記>>

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1999/5/5

最近、「ローマ人の物語*」という長編連作を読みかえしている。1巻から5巻まで出ていて、ひととおり読んでまた最初から読み出して2巻目を本日読了。私は結構、勉強の好きな高校生だったが歴史だけは大嫌いで、大学を選ぶ時に歴史が受験科目に無い大学というのを第一の絶対的な基準として選んだくらい。それが、司馬遼太郎**堺屋太一*の歴史小説はほとんど読んだし、「項羽と劉邦」は3回か4回読んだし、今こうして古代ローマまで手を広げている。人生わからないもんだ。

でも、本当にびっくりしたけど、古代ローマってすごくクールな時代です。現代の感覚から見て、当時の人の考えたことがすごくわかりやすい。わかりやすいけど、今よりずっと理性的で合理的な政治をしているように見えます。キリスト教がなくて古代ローマの感覚がそのまま残っていたら、今の世界はもっと平和だったのではないだろうか。

1999/5/11

村上春樹*が新作を発表した。しかし、私は当分読まない。ひょっとしたら次の作品の発売まで待つかもしれない。なぜかというと、読んでしまうと「自分のまだ読んでない村上春樹作品」がこの世から消滅してしまうからだ。

しかし書評は読む。ネタバレになってもかまわない。どうせ彼の作品を正しく紹介できる者などそうはいない。他人が書く「あらすじ」や「テーマ」と、彼自身の文章で彼の小説の中に現れてくるものは、全くの別物、違う次元のものだ。だから、これまで書評を読むことで、そういう私の辛抱に支障が出ることはなかった。

ところが、なんとも私の食欲をそそるうまい書評に(うっかり)巡り合ってしまった。 MYCOM PC WEBというメールマガジンの5月11日号にある、布施英利氏の書評だ。

この小説を読んだぼくの妻は、地下鉄サリン事件をめぐるノンフィクションを書いた村上春樹が、そういう取材体験を経て、どんな小説を書くのか、と期待していたという。 しかし、そういう意味での社会性のかけらもない、女の子の恋と失踪を書いた小説だ

そうなることは私も予想していた。しかし「ストーリーの要約」でなくこの小説の本質は何かというと「誰もいない宇宙をさまよう人工衛星のような」「絶対的な孤独感」であり、

村上春樹が、宇宙をさまよう「スプートニクの恋人」などという小説を書くのも、人間にとって根源的なある感覚を探り当てようという試みに他ならない。 たしかに「オウム」を超えようという志のある小説なのだ。

だそうだ。せっかくのやせがまんを打ち破るうまい紹介だ。どうしてくれる!

1999/5/12

私は、*オープンソース*とは単なるソフトウエアの開発手法でなく、もっと普遍的な革新だと思っている。音楽や小説などの芸術的表現や自動車などの工業製品も同じしくみで作れるはずだ、と考えている。同じようなことを考えている人もいるようで、 「プリウス」のソースコードを公開せよ!という記事があった。

我が意を得たりという感じだが、ひとつだけ補足したい。もし、この人の言うようにハンドルやアクセルを制御するパラメータ、あるいは制御ソフトが公開されて、取り替え可能になっていても、それを自分の望むように変更できるユーザは限られているだろう。だから、非現実的な主張と思う人のほうが多いかもしれない。

しかし、自分でパラメータを設定しなくても、他人の作ったパラメータをもらうことができれば、話は違ってくる。誰か自動車にめちゃくちゃ詳しい人の作ったパラメータをもらって、ちょっと直せばいい。または、直してもらうように作者に依頼すればいいのだ。フリーソフトの経験で考えれば、こういうパラメータを作って公開する人も、そういうユーザからの反応や提案を楽しむし、自分の成果物の向上に役立てる可能性は高い。ソフトと同じように、人気のあるパラメータがいくつもうまれ、それを囲むコミュニティがそれを育てるような状況が実現する可能性は高い。

問題は自動車メーカーのほうがそれに気がつくかどうかだが、おそらくこれは市場原理で解決がつく。こういう調整(パラメータの入れ替え)ができる車とできない車が競争したら、前者が勝つに決まっていて、それでどのメーカーもやることになるだろう。カスタマイズと安全性の両立という問題も同じことだ。調整を許しながら、いざという場面では絶対安全な動作をする仕組みは技術的には難しいかもしれない。例えば、ブレーキを一定以上踏み込んだらユーザのパラメータと関係なしに、無条件でメーカーの設定した動作をするとか。しかし、いくら難しくても不可能でないならば、市場原理に押されて、やりとげるメーカーが出てくるはずである。

1999/5/15

久しぶりにビデオで見た「こどものおもちゃ」というアニメがおもしろかった。

1999/5/16

ローマの共和制という政治システムはすごくよくできていて、これのおかげでローマは建国以来500年間、着実に発展して、地中海全体を支配する大国となった。しかし、よくできた分だけ変革が遅れる。ユリウス・カエサルはその時代に現れ、重要な変革を成し遂げた。

このカエサルの改革にとって、「*元老院*」という旧指導者層のしがらみをどううちくだくか、というのが一番のテーマだったのだが、その最初の一歩は、元老院の議事録を翌日に壁新聞に張り出すことと、元老院階級が管理していた納税者名簿を公開のものにすることだったそうだ。要するに情報公開である。塩野七生は「CNNテレビが元老院会議場に持ち込まれた」と表現している。

いつの時代にも、既得権を持ち変革に反対する者に一番きく薬は、情報公開であるようだ。

「ローマ人の物語」はますます面白くいよいよカエサル編に突入。基本的には年代順に淡々と事実を語るというスタイルなのだが、ごく稀に上のような現代人向けの解説があったり、女性らしく「なぜカエサルはたくさんの女にモテたのに、誰からもうらみをかわなかったのか」という考察があったりする。こういうアクセントがきいていて、逆に大半を占める抑制の効いた文体が引き立っている。とにかく飽きさせない小説です。

1999/5/17

老人ホームの嘱託医をしている人からこんな話を聞いた。 「60過ぎまで全く問題がなくて何かに悩んだことのない人が、老人ホームに入ってから何か悩み出すと大変です。経験がないから悩み方がわからないんです。愚痴を言うだけで、問題に取り組む糸口も見えない」 毎日そういうお年寄りの相手をしているだけに、なかなか説得力のある言葉だった。 何も問題がない人生だからといって、最後までそれでうまくいくとは限らないということか。

話は変わって新聞に「人間は、天使でも獣でもない。そして不幸なことに、天使のまねをしようとすると獣になってしまう」というパスカルの言葉が出ていた。

イタリアというのは、昔はユーゴなんかよりはるかにいろいろな民族がいた。ローマはそういう周辺民族を全部戦争で負かした。イタリア半島を統一してからも、地中海のあちこちでたくさんの戦争をしている。しかも、支配した地域の中には、ユダヤ教なんていう、当時の感覚からするとカルト教団に近い宗教*もあったりして、くせものがそろってる。でも、戦争の後始末も過激な宗教の扱いも上手で、怨恨は残さないで「パックスロマーナ」と呼ばれる平和な大帝国をうちたてた。(毎日、この話ばかりだが・・・)

「天使でも獣でもない」人間というものをよく理解して、無理をしなかったからだと思う。 ローマ人の考えでは、戦争には勝者と敗者は存在するが、勝者=正義でもないし、敗者は単に敗者であるだけで悪者ではない。 賠償金を払い、軍隊を縮小し、政治面でははローマのチェックを受けるが、それ以上のツグナイをさせようとはしなかった。 決して「天使のまね」はしなかったわけだ。

自戒をこめて言うのだが、家庭の中でも子供が繰り返し問題を起こすようなら、親が「天使のまね」をしていないか、チェックした方がいいと思う。

1999/5/26

村上龍*のサッカーについてのエッセイ集を読んだ。内容はまぎれもなくサッカーについてのエッセイなのだが、同時に日本文化論になっていて、日本の閉鎖性をあぶりだす、さらにワールドカップ間戦記の合間にイタリアについて書くと、人生とは快楽とは・・・・雑多なエッセイ集なのではなくて、ひとつひとつのエッセイでそういう多くのテーマを同時に多層的に論じてしまうのだ。

日本的な文脈での質問は、結果がすべてという世界で仕事をする人をひどく疲れさせる。 中田と現地の日本人記者やカメラマンとの対立は深刻で、象徴的だ。 日本人が日本の内部でしか通用しない文脈からどのようにして脱皮するのか。 それは世界基準という要求を突き付けられた日本文化の課題であるのだが、 ここペルージャの日本人記者やカメラマンはまるで太平洋戦争の日本兵士のようだった。

しかし村上龍は筋金入りのサッカーファンで、そういう人と私はいくつかの感覚を共有できていたのは驚いたしうれしかった。というのは、「バルデラマが好き」「中盤は個性的な人が多い」「サッカーはイマジネーションのスポーツ」というテーマが繰り返し現れるが、3つとも前から私も同じように感じていたことだ。

1999/5/31

吉本ばなな*が読売新聞で「スプートニクの恋人」のことを書いている。 私はまだこれを読まずにがんばっているのだが、これにもそそられることが書いてあった。 「やるせない物語だけど健康的」「健康的と言っても薄っぺらいものではない」という表現。 これがすごくよくわかる。

私の父は、薄っぺらく健康的な人だった。 都合の悪いことにはみんな目をつぶって、健康的に生きた。 死ぬ前の3ヶ月を除くと、71年間の生涯で入院したことはなかった。 しかし、彼にはいろいろなコンプレックスや恐怖があって、一生そういうものから完全に目をそむけて生きてしまった。

自分の中の闇に目をむけるのはしんどい。 まして闇をかかえたまま、健康的に生きるのは不可能に思える。 *村上春樹*はそういう奇跡を成し遂げた人に見える。 いや、「成し遂げた」という過去形はおかしい。 そういう生き方は終わらない格闘になるのだろう。

その苦しさを抱えた苦闘の記録が「健康的」であることが、もうひとつの奇跡だ。 彼の小説はそういう二重の奇跡の産物だ。 だから、私は読まないうちから感動してしまうのだ。


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